第六話 薄膜の向こうに(三)
これ、わたくしの名刺なの。ラボで働いていたときの。……ええ、動物の肥料を開発する化学メーカーに勤めていたの。完全に研究者向けビジネス展開でね、初耳でしょ? 今度から、そこに復帰するのよ。
だからもしも辛いことがあったら、いつでも連絡をちょうだい。……ん? ええ、さすが、察しが良いわね。そう、夫側に籍を入れたときの苗字よ。読みは――
*
警察署の取り調べ室に向かうあいだ、夏樹は父のことを思い出していた。病院のベッドに横たわって、黒い微生物の集まったような天井を見たせいだ。
高校生のとき、校舎の三階から落ちて救急車で運ばれた。小さなころから丈夫な身体で、大病院とは無縁だった。そのためか、病院に微かに漂っていた薬品の香りや他人の体臭を鮮明に覚えている。そこで見た天井やシーツの手触りも、一緒に記憶にこびりついた。だから病院で暇な時間ができると、そこで交わした沢山の会話も呼び起こされる。連想ゲームのように、実家へ抱いていた想いまで溢れて止まらなくなる。
夏樹はこの暇に入り込んでくる感傷が堪らなく嫌いだった。記憶の内容が問題なのではない。たとえ良い想い出が都合よく頭の中に浮かんだとしても、「現実では何ひとつ物事が動いていない、動かしていない」ことに気が付いたとき、自身の無力を痛感する。
しかし、記憶なんてものは向こうから勝手にやってくるもので、どうしようもない。痛みや体調不良で意識が霞んでくると余計にだ。夢と現の境に、気が付けば足を踏み入れている。
だから思い出したくなくても、夏樹は父のことを思い出していた。
「夏樹、夏樹」と何度も名前を呼び、珍しく涙を見せた。夕陽の差す病室。意識を取り戻してから初めての面会人だった。まだ鼻や口にチューブが繋がれていて、夏樹は上手く喋ることができなかった。そのことに、胸をなでおろした。
――何を話せば良いのか……。
校舎の三階から落ちたのは、ものさしを取ろうとしたからだ。放課後、高校生にもなっていじめをする情けない連中が窓の外へ筆箱を投げた。幸い下に人はいなかったが、箱の蓋が開いて中身はバラバラに落ちる。窓の下にある、幅十センチほどの縁にものさしだけ落ちてしまったのである。夏樹は仕返しに、女子生徒の一人が持っていた生徒手帳を奪い取り、同じように窓の外に放り投げた。ソフトボール、遠投二十五メートル以上の肩はその日絶好調で、校舎のフェンスを越えて民家の屋根へと着地した。生徒たちがまごついているあいだに縁へと手を伸ばしたが、届かない。仕方なく縁に立つことで窓の外へ出た。
そのとき偶然、屋上から黒い猫が飛び降りてきて、驚いた拍子に足を滑らせた。間抜けな話だ。「バカなことをした」と言われれば、反論のしようもない。しかし父の嗚咽混じりの叱咤を聞いていると、どうも「いじめを苦に自殺を図った」と処理されているようだった。違うと、首を振っても伝わらない。
「いじめられているからって、命を粗末にしたらだめだ。暗い顔してたら、あいつらの思うつぼだ。笑え。そしたら、良いことがあるからよぉ、なぁ。お前、愛想があれば最強さ」
夏樹はそのとき、手が震えた。サイドボードに置かれた見舞いの袋に、懸命に手を伸ばした。夏樹たちの隣には看護師がいた。六人の大部屋には他にも患者がいる。大学生らしき若い女性が最年少で、皆夏樹よりも年上だ。本を読んだり窓の外をみたりしているが、きっと全員、父の台詞を聞いている。
――今すぐ、この人の勘違いを正さないと。
コンビニ袋には、ゼリーとスプーンが入っていた。
「お、おぉ。そうだ。食べんといかん。食べんとなぁ。最近の子は痩せよう、瘦せようって意識がなぁ。食はエネルギーの源なのに、その辺分かってない」
夏樹が手を伸ばしているのに気が付き、父はいそいそとゼリーを取り出した。コンビニ袋の音に気が付いた看護師が「すみません、ちょっと食事はまだ」と遮る。
「なんだ、駄目か。ちょっとくらい、良いんじゃないのか」
「駄目です。面会時間ももう終わりですので、申し訳ございませんが、また後日改めてお越しください」
目覚めた日の面会は、それで終わりだった。そして父が見舞いに来たのは、この日が最後だった。田舎住みゆえ、大病院から実家までは車でニ十分ほどの距離にあった。加えて、大病院の近くには寄り道できるような商業施設もない。「すまんなぁ、車のガソリン代、節約しようと思ったらなぁ。病院には何度か電話したんだが、お前は大丈夫って言ってたし」と、退院後、父は笑いながら話していた。
そのおかげで、夏樹は一カ月間、両親を含め、学校の誰とも会わずに過ごした。母は車の運転を怖がり滅多なことでは乗らない。歩いてこられる距離ではないので、彼女もまた見舞いには来なかったのである。いじめの主犯たちはもちろん、同級生の誰も病室の扉を開けることはない。正直、気楽だった。
当時は、たまたま同室になった壮年の女性と話をするのがとても楽しかった。聞けば母よりも少し年上の、五十代後半。加齢による皺はあってもシミはなく、綺麗な肌をしていた。目尻の薄い笑い皺が象徴するようによく笑い、穏やかに喋る人だった。僧侶の雰囲気に似ている。しかし見舞い客は訪れず、彼女はいつも一人で窓の外を眺めていた。悲観も憐れみもない。
「ねぇ、暇だからお喋りしませんか」
対面のベッドからの声には、声をかける躊躇いも気遣いも一切なかった。看護師でさえ、夏樹と話をするときは気を遣う素振りがある。“飛び降りをするような精神不安定な女子高生”の印象が、どうしても足かせになっていた。夏樹が否定しても聞いていないか、「分かっている、大丈夫だよ」と言って信じない。病室のその女性だけが、夏樹の「飛び降りじゃない」という言葉を信じていた。「いじめ」だと不都合なはずの学校側さえ、父が町内会に掛けあって騒ぎ立てたことでもみ消したくても、そうできなくなっていた。
「この病院にもう半年、人を観察するのにも飽きちゃってね。娯楽と言えば広間のテレビやお喋りだけれど、誰かの愚痴を聞いたり、関わり合いのない世界のニュースを見たりするのは……あまり向いていないのよ」
「私と喋っても、あまり面白くないと思いますよ」
暗くていじりづらい、というのが、当時の夏樹に対する評価だった。振り返れば確かに、話を盛り上げる能力に欠け、田舎特有の閉塞感に押しつぶされそうになっていた。だが壮年女性――南郷はどうでも良いと言う。
「会話は情報のやり取りだもの。面白いかどうかは二の次でいいの。大事なのは、言葉を受け取ることができるかどうかだけよ」
「受け取る?」
「そう。例えばあなたがずっと『飛び降りて死のうとしたんじゃない』と主張しているけれど、周りは誰も信じていないでしょう。みんな『気を遣われたくないから嘘をついている』と、あなたの言葉を勝手にねじ曲げているのよ。これは、言葉を受けとれていないということ。良い悪いではなく、情報のやりとりとして成立していないわ」
「……どうして、私の言うことを信じられるんですか? 死にたがっていないって」
南郷はそこで初めて、躊躇う間を見せた。
「本当の死にたがり屋さんを、見たことがあるから」
夏樹は口を噤んだ。さらりと紡がれた台詞のように聞こえて、彼女の人生の重たさをたしかにはらんでいる。
「ああ、ごめんなさいね、急にこんなお話。とにかく、あなたのお話が面白いかどうかは大した問題じゃないのよ。わたくしの暇つぶしに、少しお付き合いいただきたいの。良いかしら?」
夏樹は承諾した。夏樹もまた、うんざりするような同情の空気から逃れるための暇つぶしを求めていた。
お互いその場限りの関係だと知っているからか、遠慮がない。夏樹が当時聞いていたデスメタル系のバンド曲を紹介したとき、南郷は「わたくしには良さが分からないわね」とあっさり認めた。逆に、彼女が好きなクラシック音楽を教えてもらったとき、夏樹も同じように「興味がありませんね」と首を振った。お互い音楽の趣味が合わないと分かった――これらの出来事から生まれたのは、その共通認識だけだ。お互いに気を悪くしたりしない。夏樹たちの間にあったのは、南郷が言っていたようにただ情報のやり取りだけだった。
しかし、感傷的なやりとりが全くなかったわけでもない。
リハビリが順調に進み、折れた骨が徐々に正常な機能を取り戻していたころ。大部屋では、一度だけ患者の入れ替えがあった。
新しく入って来たのは中学生くらいの女の子で、交通事故で大怪我をしたらしい。短く切り揃えられたショートカットが良く似合う、爽やかな雰囲気を纏った子だ。連日クラスメイトたちがお見舞いに来るので、大部屋はにわかに賑やかになった。部活の後輩たちもやってきて「早く戻って来てください」と羨望や、期待に溢れる眼を向けられていた。
女の子の苗字は砂崎といった。砂崎はかけられる言葉に笑顔で応え、「こんなん何てことないって!」と腕まくりをしてみせる。毎日そんな調子で、年下ながら感心する。砂崎を見ていると、夏樹は自分のひ弱さを痛感した。
南郷にそんな話をしたところ、「東雲さんは、大勢に囲まれていたいの?」と穏やかに尋ねられた。そのときロビーには暇を持て余した患者たちが周りに大勢いて、皆テレビや世間話に興じている。
「え?」
「ひ弱さと言うけれど、つまり砂崎さんに憧れているということよね。心配されて、明るく元気に返事ができる子。それを見て自分のひ弱さを感じたということは、東雲さんは、同じようにできない自分を“弱い”と考えているということでしょう? 違う?」
「そうかもしれません」
「まったく、難しい世の中よね。……人と喧嘩をしてはいけません、理解し合いましょう、理解できなくても許し合いましょう……友達は大勢いた方が楽しい……上手く人に頼れる人が成功します…………人柄が何よりも大事……。こういうの、本当に実感している人ってどれくらいいるのかしら」
南郷は周りを見回し、ため息をついた。指先を適当にいじくりまわし、左手の薬指の付け根を挟んでもみほぐす。そこには何もついていないが、指輪の痕はかすかに残っている。
「仕事の効率が上がるから、より多くの人間と話ができる人が大切……偉い人たちはそう考えるのでしょうね。早く、早く、早く……一体みんな、何を生き急いでいるのかって感じだわ」
夏樹は南郷の言葉が意外だった。
――普段は、あんまり不満とか言わない人なのに。
「すみません、気弱なことを言いました」
「……東雲さんに怒っているわけではないのよ。人が一人では決して生きてゆかれないのは事実だもの。一個体としての脆弱性は間違いなく、進化の成り立ちからして私たちに備わっている。――って、ごめんなさい。少し難しい話だったかしら」
「いえ、ただ、南郷さんがこういう話をするのは珍しい気がして。と言うか、出会って間もない人と、こういう話、したことがなくて」
夏樹がしどろもどろに答えると、南郷は愉快そうに微笑んだ。
「ふふ、そうよね。でもこういう話は、出会って間もないからこそできるのよ。お友達と、社会について話そうなんて思わないでしょう」
南郷はそう言って、タブレット端末を取り出し、メモ帳アプリを開いた。黒、赤、青、緑と、四色の棒人間がたくさん描かれる。
「色は、使う言葉の違いだと考えてちょうだいね。試しに、この緑色の棒人間。一人で黒色の棒人間の中に放り込まれたらどうなると思う?」
「え……それは、言葉が違うんですから、コミュニケーションが取れなくて……」
夏樹はこのとき、不思議と教室の風景を思い出していた。緑は自分。黒はクラスメイトや先生。そんなイメージが不意に頭をよぎった。
「孤立します」
「そうね。じゃあ次、翻訳能力を持った緑色の棒人間がもう一人、ここに入ってきたら?」
「もう一人の緑色の人と仲良くできるかによりますが、孤立無援よりは、黒の棒人間と話ができるかも」
「じゃあ、緑と黒が同じ数になったら?」
「えっと……均衡状態。同じ色同士で別々のコミュニティに別れるか、混ざり合うか」
「じゃあ、緑が数で優位」
「それは……逆に、黒の棒人間たちが孤立する……でしょうか」
「じゃあ、今まで言ったこと全部、“言葉”じゃなくて“見た目”に変えたらどうなると思う? 使う言葉は同じだけど、そうね……お化粧をする人と、しない人とに分けたとするわ。さぁ、どうなると思う?」
夏樹は中学や高校生活での経験を思い浮かべてみる。南郷は言葉を濁したが、つまるところ美人と不細工の違いで人を分けたとき、どうなるかと聞いているのだと捉えた。小学校ではそれほど気にならなかったが、大人になり骨格が出来あがっていくにつれ、コンプレックスは膨れ上がった。口さがない生徒らは「アイツはブス」「何であの子とこの子が友達なんだろう」などと勝手にのたまう。社会通念が壁になり、面と向かって「ブス」と言われることは少ないが、無意識に生じる扱いの差で感じ取る。
馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、同じ痛みを抱える者たちは自然と寄りあい、各々のコミュニティを築くようになる。
違いが言語であろうと見た目であろうと、“違う”というだけで、また、それが少数派であればあるほど、大多数――ひいては社会との軋轢が生まれる。
「結果は同じです」
南郷は小さく頷き、夏樹の頭をゆっくりと撫でた。驚いて身を強ばらせたのも一瞬、夏樹は徐々に肩の力をゆるめる。誰かに撫でられたのは、記憶する限りそれが初めてだった。別に撫でられたいと思ったこともなかったが、悪い気もしなかった。
「あの、あんまりやられると、恥ずかしいです」
「ふふ、ごめんなさいね。うちの娘のことを思い出して。……もっとも、東雲さんの方がずいぶん聡明みたい。
……そう、結果は変わらない。言葉、見た目、考え方、生き方、趣味……もしも、たった一つの指標で人々を分類しようとすると必然、均等な人数がいない限り誰かがはじかれるわ」
「は、はぁ」
「それはただの現象。みんな忘れているようだけれど、人は生まれたから生きているだけで、“違い”を見つけては自分の世界からはじき出すというのは、古くから続く生存戦略に過ぎないの。
そうやって、誰の世界からも弾かれ、弾かれ、弾かれ……孤立する人が生まれるのは必然。リンゴが重力に従って地面に落ちるのと同じくらいに必然な、理」
夏樹はそこに至ってようやく悟った。南郷はとても遠回しに、夏樹を慰めようとしているのだと。夏樹が“ただ一人見舞いに来てくれた父親に感謝することも出来なかった”と自分の矮小さを嘆いていたので、「気にするな」と声をかけてくれているのだ。
南郷も大概、生きづらそうな性格だった。
「昔、主人が言っていたのよ。娘がいじめられて落ち込んでいるときに。もしも学校で弾かれたなら、『決してお前が悪いんじゃない。自分はそういう役だったのだ』と受け止めなさい……とね」
「結構、ドライな人なんですね」
「ええ。表面上は、わたくしなんかよりもよっぽど。
でもいじめを知ったあと、あの人、担任の先生のところに行って、『うちの娘の友人が、いじめられている最中に撮影した映像です』ってスマホの映像見せて、『対応できないのであれば警察に証拠として提出し、正式に訴訟を起こします』って直談判しに行ったのよ」
「え、えぇ?」
「中学三年生で、高校受験を控えた時期だったから、先生たちも大慌てでねー……『生徒の未来もありますから』って、どうにか訴訟も、生徒を呼び出しての面談もやめさせようと説得されたわ。
それであの人意地になっちゃって、結局いじめっ子たちを引きずり出すのに成功」
南郷はそこでピースサインをつくり、誇らしげに笑った。夏樹もつられて笑う。
「東雲さんより何倍も生きてるおじさんでも、そんな理屈だけじゃ割り切れないこともあるってことよね、これ」
「でも、格好いいです。そんな風に他人のために怒れるなんて、格好いい」
「……」
南郷はそのときぴたりと動きを止めた。「どうかしましたか?」と夏樹が尋ねると、ごまかすように顔を逸らした。
「南郷さん?」
「いえ……東雲さんは将来、何か目標はあったりするの?」
「え、急ですね……うーん」
当時、夏樹は将来のことなど考えていなかった。高校に進学してからのことは、何一つ具体的なイメージがない。ただ漠然と、田舎町から飛び出したいとだけ思っていた。娯楽が少ないうえに季節による気温の寒暖差が激しく、冬には自分の目線とおなじ高さの雪の壁ができることもある。スコップで雪かきをし、朝の数時間が過ぎる。車が無ければ出かけることも難しい。日照時間が短く、曇り空が続くときもある。とにかく閉塞している町だった。
祖父の代から住んでいる両親も、例外ではない。近所付き合いだからと言って、家に大勢客を呼び町内会の宴会を開き、母と夏樹に食事の用意をさせる。年末年始やお盆休みには夜遅くまで麻雀を打って遊んでいることもある。夏樹にプライバシーはなく、会うたびにどこの高校を受験するとか、誰のことが好きだとか、近所の子と仲たがいしたとか、身の回りのことを知り、気を遣ってくる。何よりも面倒なのは、着ている服にまで口を出されることだった。
可愛いと思って着た短めのスカートで大きな商業施設を歩いていたら、「夏樹ちゃんはもっと、スタイルの分かりにくい服を着た方が可愛いよ」と後日言ってくる。「そろそろ高校生やし、自分の見られ方も気にしたほうが良い」と、よく知らない父方の親戚に言われることもあった。
そこに夏樹の自由はなかった。
しかし不満はあっても、どこで何をしたいか、夏樹にはまだ見えていなかった。ただここから飛び出したいという気持ちだけが、都会へと一人歩きをはじめていたのだ。
「困りました。家から出たいって気持ちばっかりです」
「ふふ、急に尋ねられても困るわよね、こんな、夢を見られない時代に。忘れてちょうだい」
夏樹はそのときの南郷の横顔を、よく覚えている。瞳が病院の照明を照り返し、キラキラとした小さな光の粒が、黒色の中に舞っていた。笑い皺が頬の皺と繋がって、あごまで落ちていくように見えた。いつもするりと言葉を編み出す口元は固く閉ざされ、しかし、笑っていた。
*
夏樹は取調室で椅子に腰かけたまさにその瞬間、南郷の横顔を思い出していた。
――あの後、南郷さんが先に退院して。
夏樹は別れのとき、名刺を貰った。「もしも助けが必要なことがあったら、電話をちょうだい」と添えられたメッセージカード付きだ。そこに書かれた住所と電話番号を頼りに二年後、東京へとやってきた。西墨真司と出会った夜、夏樹は南郷を尋ねたのである。しかし電話は不通、書かれていた住所には別のテナントが入居していた。
――懐かしいな。名刺の名前は確か“南郷”じゃなくて……。
何か、とても大事なことを、夏樹は今日まで忘れている。そんな感覚に襲われる。だが、まだ閃きは開通しない。事象と事象をむすぶ線路には、痛みによる大きな断裂が横たわっている。
右手に設置された大きなマジックミラーには、疲れ切った夏樹の顔が映りこんでいた。
「おい、何をしている」
気が付くと、対座する警察官が語気を荒げて顔を近づけてきている。夏樹はかすかな失望を胸に、十畳も無い取調室を見回した。監視カメラが上から夏樹たちを見下ろしている。書記官も警察官も、敵意をもって夏樹を見ている。マジックミラーで隠れている部屋には、おそらくスパイの疑惑を真司へ向けさせた“誰か”が見ている。対座している者たちは永霧事件の担当者ではない。ただ指示を受けて動いているだけの人間だった。
これでは、誰が夏樹に近づいたのか見えてこない。
「すみませんね、どうも視線を感じて」
「はぁ?」
「……これは、私を見ている誰かさんに言うんですが」
「おい、取調べで勝手なことを喋るな」
警察官が机を思い切り叩く。大きな音に驚き、書記官は思わず肩が跳ねる。夏樹はただマジックミラーの向こうを意識し、続ける。
「見ているのがあなただけだとは思わないことです。人間である限り、望む・望まないに関わらず、私たちは互いに観察対象」
「訳の分からぬことを!」
警察官が胸倉をつかもうとするのを、夏樹は手で弾いた。男性は意表を突かれて固まる。
「知りたがっていることを教えてさしあげますよ。西墨真司は最後まで『自分はスパイじゃない』と容疑を否認していた。しかし私を撃ったのは紛れもない事実。
私は、彼がスパイだと思います」
――あくまでも私の勘違いということで処理しないと、おかしな話になるもんね。
夏樹はそのまま立ち上がり、マジックミラーの部屋へと続くドアノブに手をかけた。当然、書記官たちは夏樹を止める。怪我人などということは一切考慮されず、思い切り冷たい床に拘束され、腕を背中側で捻りあげられる。
「東雲、いい加減にしないか!」
「……」
夏樹はそれ以降、殴られようが蹴られようが“黙秘”を貫いた。ここで調書を取る者たちはただ指示を受けただけの人間であり、永霧側の人間とは限らないならば、肝心なことは何ひとつ喋らない。永霧側のスパイだと断定できる人物が現れるまで、夏樹は口を開かない。
――本当に大事なことを聞きたいなら、直接会いにこい。
遥か頭上に構えられた防犯カメラを睨みあげ、夏樹は顔もしらぬ誰かに向かい念じた。
いつ来るとも分からない待ち人は、このとき、まだ気配すら見せていなかった。
今回のお話も読んでいただきありがとうございます。
南郷はからッとした大人の女性をイメージして書いていましたが、いかがだったでしょうか。
周囲から孤立したとき、”ああ、そういう役割だったんだな”とラベリングすることで自分を守る。
強い人なのか、寂しい人なのか。あるいは両方なのか?
各々、感じ取っていただければ嬉しいです。
そして現在、「夏樹は永霧側の人間と接触することができるのか?」というところですね。
次回に乞うご期待です。
※更新ペース:仕事の都合で、年度末まで2,3週間に一回くらいになります




