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第六話 薄膜の向こうに(二)

「大阪でトラックと衝突した?」


 東京郊外に位置する埠頭へと向かう道すがら、予想だにしない報告に、夏樹は耳を疑った。助手席で報告資料を読み上げていた真司は、わざとらしく肩をすくめる。グリップを握りしめる音が、ぐにゃりと響く。


「……続けてください」


 ちょうど信号が青色に点灯し、車を周囲の動きに合わせてゆっくりと加速させる。繫華街の道路は相変わらず、人も車も多くて苛立ちが募る。どうにもならないと分かっても、無意味に車間距離を縮めたり、ハンドルを指先で何度もつついたりしてしまう。

 真司は薄ら笑いを声ににじませながら、電子メールの中身を読み上げる。


「どうも、急に飛び出してきたらしいね。衝突したあと、運転手がすぐに救急車と警察を呼んで搬送されて、その後で大河継海だと気が付いて……ええと、事故が原因じゃない、大きな刺し傷が右の手を貫くように、って、結構な大怪我してる。

 今は意識が回復してるけど、ショック状態で何も話せない。とにかく一刻も早く身の安全を確保するため、警察の付き添いありで、身柄を海路で移送。で、俺らには埠頭から都立病院まで、大河ちゃんを保護してほしいってこった」


 そう言ってスマートフォンをスーツのポケットに仕舞う。途中、ジャケットに隠れた拳銃の金属音が、カタカタと音を立てる。夏樹は微かな音にさえ一瞬身体が強ばり、自分の腰に差している拳銃の重さに意識が引かれた。それでも、偽りの顔では汗ひとつかかない。


 気が付けば車は都心から離れ、埠頭へと続く大きな道路へと差し掛かっている。背の高いビル群は遠くに臨み、周りにはせいぜい三階建てくらいの、飾り気のない建物が並ぶ。数分も走れば、赤や青のコンテナが見えてきそうな場所だ。当然、人通りもうんと少ない。

 無意識に、アクセルペダルを踏む力は強くなった。


「ねぇ、ちょっと力入り過ぎじゃない?」


 真司の声は、せせら笑うように耳を抜けていく。

 先ほどまで寛孝と話していた影響か、真司の軽薄さがいつにも増して神経を刺激する。


「当然です。大河継海の護送なんて大事な任務。一度、朝澄くんの逃走を許してしまった私たちへ与えられた、名誉挽回のチャンスでもあるんです。力が入って、当然」

「ふぅん? 夏樹ちゃんはてっきり、世間様のお目目なんて気にしないタイプだとばかり思ってたなぁ」


 夏樹は答えない。

 それからたっぷりと間があり、真司は尋ねる。


「――なぁ、さっきは白星と何を話してたの?」

「仕事に関係ありますか? それ」

「あるよ、ある。だって夏樹ちゃん、その気味の悪い光学フィルムをつけてからずっと、様子が変だもん。定期的に白星と会わなきゃいけなくなって、何かこう、変なことを吹き込まれてんじゃないかって心配なんだ、俺は」

「子供じゃあるまいし、簡単に洗脳なんてされませんよ」


 否定してから、夏樹は胸に妙な突っかかりを覚えた。魔が差して悪事を思いつくよりも先に親から釘を刺されたときのような、仄暗さに似ている。「そんなことするわけない」と口で否定しながら、数舜でもその悪巧みを考えた自分に気が付くときの、居心地の悪さだ。

 フロントガラスの中央に取りつけてある車内用ドライブレコーダーのレンズが、夏樹を暴くように見つめている。映像は廉清が見ている。車内で“何か”起きたとき用の保険だが、夏樹はそのときだけでも、カメラを切ってしまいたくなった。


 真司はそんな心中を見抜くかのように、カメラのレンズを片手で覆う。彼のもう片方の手は、スーツの下に隠れていた拳銃に伸びている。


 ――冗談⁉


 夏樹もブレーキペダルを思い切り踏み倒す。真司が銃を構えるよりも先に自分の拳銃の安全装置を外し、さらにそのまま銃口を彼のこめかみに突きつけた。真司がカメラを覆ってからここまで、約二秒の出来事である。

 タイヤの発する悲鳴と共にハンドルを切り、車はコンテナの積まれたエリアに滑り込む。昼間のため、コンテナ周りには積荷の整理をする業者もいた。皆、奇襲を受けたように驚き、固まっている。現場監督らしき中年の男性が夏樹たちに近づきかけたが、拳銃を構えているのが目についたとたん、立ちすくむ。夏樹のポケットでは、廉清からの着信でスマートフォンが震えている。


「は、はは。良いね、そう、その感じだ」

「どういうつもりですか、西墨さん。カメラから手を離してください。両手を挙げて」

「それより、夏樹ちゃんも銃は下ろした方が良くない?」


 真司は車外にチラリと視線をやる。作業員たちがざわめきだし、どこかに連絡を入れようとしている。夏樹はすぐに有線スピーカーのマイクを手に取り「我々は警察です! 私が良いと言うまで、絶対にその場を動かないでください」と呼びかける。銃口は真司のこめかみをとらえたままだ。彼も、カメラから手を離そうとしない。


「こんなことしている場合じゃないと思うけど。大河ちゃんを迎えに行く任務はどうするのさ」

「身内に敵を抱えたままじゃ、護送なんてできないでしょう。私たちが行かなければ、別の誰かが向かいます。さぁ、カメラから手を離して」


 拳銃は、真司が動けないでいるところを夏樹が回収する。


「……やっぱり、夏樹ちゃんは変わったよ」


 真司はカメラからゆっくりと手を下ろし、両手を挙げた。最後の反抗とばかりに、口だけは達者に動く。


「少し前までなら、夏樹ちゃんは多分俺を撃ったよ。二人きりになる状況なんて作らないで、スパイ疑惑が濃くなった時点で俺を撃った。間違っていても関係ない。疑わしいなら早めに排除する。夏樹ちゃんは、そういう警察官だった」

「勝手なこと言わないでください」

「君が東京に来た夜のこと、今でも覚えてる。六年前だ。俺がまだ街のお巡りさんやってた頃だよ。夜の繫華街で『女の子が襲われているから助けてくれ』なんて通報が入って行ってみれば、夏樹ちゃんが不良たちにボコボコにされながら、暴れ回ってた。通報した女の子の方はその大立ち回りを見ながら、可哀想に、路地の隅で震えてたよ。クリスマスシーズンで、寒かったなぁ、あの日は」

「何ですか、急に」


 真司が語りだした過去を、夏樹は確かに覚えている。酔っぱらって動けなくなっている女性に不貞を働こうとしている集団がいたのを見て、後先考えずに殴りこんだのだ。三、四人の男性たちだった。地元から身一つで飛び出してきた直後で、気が立っていた。受験を控えた冬だった。


 しかし、何故そんな話をするのか意図が見えない。

 フロントガラスの真司は、寂しげに笑っている。この状況ではどこか不気味にも映る。夏樹はこめかみから銃口を離さないまま、廉清からの電話を取る。廉清はドライブレコーダーで車内の様子が見えているらしく、少し慌てた調子で「すぐに応援を向かわせます。通話はそのままに」と、一度話を切り上げる。

 誰が聞いていようと関係ないと言わんばかりに、真司はまた語った。


「俺は同類を見つけた気分だった。不条理を許せないんだ。自分より立場が弱い奴ばかり狙うくせに、いざ捕まれば始まるのは『いかに自分が不幸で、可哀想な人間か』ってことばかり。そういう奴を見ると、駄目だと分かっていても暴力を振るっちまう。抑えが利かなくなる。夏樹ちゃんもそういう奴だった、そうだろ?」

「……今日は、お喋りな人とばかり一緒にいる気分です。何なんですか、一体」


 夏樹は真意の見えない状況に悪寒を感じた。拳銃を持つ手が一瞬小さく震え、呼応して銃の部品同士がぶつかり合う音が鳴る。周囲には待機を命じた一般人が大勢いる、電話とカメラごしには警官たちが様子を見ている――にも関わらず、身一つで得体の知れない化物と対峙しているようだった。


 ――寄り道をしている暇はない。


 核心さえ突けば、次なる一手は容易く決まるのだ。


「大事なのは今、西墨さんが“裏切り者”であるかどうかということです。永霧たちと情報を交換し、朝澄くんに逃走を促したのかどうか。答えてください」


 真司の顔が、おもむろに夏樹を見る。銃口はちょうど、彼の眼球のあたりに向く。顔はしっとりと汗で濡れている。


「俺の答えを信じられんの?」


 懇願するような声だった。『信じてほしい』と祈られている気分になる。大きな手のひらの上で踊らされているという夏樹の直感が、にわかに形となって表われる。


「俺は“違う”。この言葉を信じられる?」


 喜び、困惑、疑念。複雑に絡み合った思考の糸に捕らえられ、身動きを取ることができない。自分で張り巡らせた糸が、却って自らを縛りつける愚かな――それでいて、本来なら存在さえあり得ない蜘蛛のように、夏樹は引き金に指先をかけることも、手錠を取り出すこともできなかった。ただ茫然と、網にかかったように見えた獲物を眺めるばかりだ。


「どうなの?」

「何もやましいことがないなら、どうしてカメラを覆うような真似をしたんです。銃に手を伸ばしたのも見た。何故、敵意を示唆するような行動を取ったんです」


 通話が維持されたスマートフォンから、遠くの警察官たちのざわめきが聞こえる。その声が、次第に途切れていき、マイクのすぐ近くに起こった音でさえ聞き取れなくなってゆく。スクリーンに立った四本線の回線マークのほとんどが無灯だった。

 ――これは……似ている。朝澄くんのときと同じ。

 通信のための電波が別の電波によってかき消され、信号を拾えなくなっているのだ。


「俺が手を伸ばしたのは“こっち”」


 真司の手には、小型化されたチップ型の盗聴器――珠緒が取りつけられていたのと同じタイプのもの――が握られていた。電波法を無視した、完全違法な代物だ。


「安心して、誰も聞いてない。俺がやったのは、こいつを起動させるための電話番号を、巳波後輩の電話番号に設定させたことくらい。ドライブレコーダーを覆ったら、絶対に夏樹ちゃんに連絡を取ると思ったからね、ちょっと利用させてもらった。

 夏樹ちゃんとは、何の監視もないところで話がしたいと思っていたんだ」

「なら、事前に相談していただきたかったものです。スパイじゃないと言うなら出来たでしょう」

「それだと、仮にスパイじゃないですって二人で主張しても、夏樹ちゃんが“取り込まれた”って見られかねないでしょ。それじゃ駄目。二人して動きづらくなるだけだよ」


 真司は盗聴器を張りつけた手のひらで銃口を覆い、夏樹の方へと押し返す。夏樹はその瞬間、真司の掌ごとフロントガラスの方へと銃口を逸らし、躊躇なく発砲した。火薬の弾ける大きな音が車内に響き、銃弾はガラスを貫通していく。銃声とガラスの割れる音に驚き、埠頭にいた作業員たちは散るように逃げていく者、その場で腰を抜かしてしまう者など、各々が混沌と混乱とに陥っていく。

 真司の手からは、鮮血がとめどなく溢れた。


「は、痛ってぇ……ね。でも、そうだよ。それでこそ、夏樹ちゃんだ」

「さっきから、私について随分知ったようなことばかり言ってくれるじゃないですか。

拳銃は単なる脅しじゃない。『動けば撃つ、撃たれる』という暗黙の了解、契約を強制的に結ばせるための道具。動いたときは撃つのも撃たれるのもやむなし。昔、西墨さん自身が言ったことです」


 夏樹は声の震えを伝えないようにするのがやっとだった。拳銃を発砲したときの反動が、まだ自分の腕を押している錯覚さえある。フロントガラスを突き破り、光量が一時的に大きく変化したためか、夏樹の纏う光学フィルムには色ムラとなってノイズが現れる。エラーが発生したピクセルには色が現れず、光学フィルムをつくる白い素材がそのまま見える。


「はは、懐かしいな。初めての射撃訓練のあとだったっけ」


 蒼白な面に、先ほどとは比にならない量の冷や汗を浮かべているくせに、真司は減らず口を叩く。

 先ほど盗聴器を物理的に破壊したため、電話はすでに通じている。ざらついたサイレンの音がスピーカーから聞こえた。


「……そう、弾を込めた銃を抜いた瞬間から、退路は断たれる。撃たれる側だけじゃないぜ、撃つ側も、抜いたからには脅しで済ませちゃダメなんだ。どいつもこいつも、それを知らなすぎる。どんな争いも同じこと。

 この頃さ、夏樹ちゃんはそれを忘れてるだろ」

「……」

「その“クソみたいな発明”で、人の優しさに触れて絆された? 出会ったときは、この世に存在する理不尽全部に反抗してやるって、不細工な面で息巻いてたくせに。一度敵を見定めたら、誰が窘めようと止まらなかったくせに。朝澄くんと話してた……なんだっけ、……そう、『色分けの方法はひとつじゃない』、そのことにみんなが気づけばもっと住みやすい世の中になる、だっけ? そんな空想が付け入る隙がないくらい、夏樹ちゃんはいつも抜き身の銃を手にしてただろ。今更、迎合しようなんて考えるなよ!」


 真司は血まみれになった手で、再びドライブレコーダーのレンズを覆う。夏樹はしばらく逡巡したあとで、通話中のスマートフォンに向けて発砲した。次いで、赤黒く汚れたカメラに向かっても発砲。外では悲鳴の波が二回ほど起こった。

 煽られ、苛立ちから発砲したのではない。


 ――何か目的があるなら、一旦乗ってやりますよ。


 二丁の銃を所持しているのが自分である以上、体格差があったところで優位は揺るがない。

 永霧事件については何もしなければまた膠着状態が続く。珠緒と継海、二人が世間を巻き込み、永霧の行動に変容が生まれやすい今こそが好機。このまま真司を捜査からただ隔離させる以上の策の可能性があるなら、たとえ組織に反抗しようと乗るべきなのだ。六年前から続く真司との奇妙な信頼関係も、この突拍子もない判断を後押しした。


「西墨さん、良いですよ。二人きりで、話をしましょう」

「へへ、流石は若き警部補。話が分かる」


 夏樹は小さく舌打ちし、一度拳銃を下ろした。

 その後、船舶の出入りがない港口まで車を走らせ、近くにある古い倉庫の中へと足を踏み入れる。このとき、車のハンドルには真司の血をベットリとつけ、発砲した方の拳銃にも同様の細工をしておく。ドライブレコーダーには発砲直前の映像がなく、どちらの発砲音かは判別がつかない。


「私と西墨さんが死闘を演じたように思わせるわけですか。……意味、ありますか?」

「『スパイを擦り付けようとしていた男は死んだ』って、永霧側の人間が思えば良い。でも死体は海に。『本当に死んだのか?』って疑惑を植え付けるんだ。そしたら、俺の死を唯一目撃している夏樹ちゃんに接触する馬鹿の派閥が釣れるだろ」

「特定の人だけを欺くには、それ相応のリアリティが要りますよ。死を偽装するなんて、急に頼まれても対応できません」


 古い積荷が放置された広大な倉庫の一角。真司はさも争いの最中で負傷したかのように、壁際にもたれかかっていた。手のひらからの出血で、身体はふらふらと揺れ動いていた。しかし夏樹の苦言には微笑み、沈黙から意図を読み取れと訴えかけてくる。

 ――まさか。

 “死を偽装しない”つもりか。


 足を踏み入れたときに感じた古い倉庫特有の埃っぽさや錆びた臭いが、夏樹には分からなくなる。視界が変にチカチカと明滅する。五感が機能を失う最中、真司の声だけがくっきりと浮かび上がってくる。

ほとんど同時に、真司がスパイである疑惑が薄れていく。


「何考えてんです」

「はは……」


 夏樹の鼓動が、少し跳ねる。

 冷や汗が、背中にベットリと滲んでいく。

 真司は夏樹の手を取り、手に握った拳銃を自分の胸元に当てる。しゃがみこむ体勢になり、夏樹は彼の顔を近くから見上げる形となった。


「正気ですか」

「とうの昔に無くしてるよ、そんなもん」


 唐突に、また出会った日のことを思い出す。

 夏樹が深夜の繫華街で不良相手に喧嘩をしたあと、真司は彼女を担当の警察署へと連れて行った。てっきり補導歴が残るのだとばかり思っていたところ、彼はコーヒーを一杯淹れ、それから『警察官採用試験』の過去問集を同じテーブルに置いたのだった。彼はただ一言、「君は警察官になればいい」と言った。

 ――確かに、正気の人間ではなかったかな。


「でもそれは夏樹ちゃんだって同じだよ。自分にとって不利益しかない、義憤に駆られた喧嘩、なんて」

「あれは……そんな立派なものじゃ。ただ、気が立っていたんです。地元で、嫌なことが、あって。両親と喧嘩して、自暴自棄だったんですよ」

「でも、俺の提案に聞く耳持ったでしょ? 本当に人生を捨てた奴って、見てられないんだ」


 真司はそれから急に、らしくもない自分の身の上話を始めた。

 自意識もない赤子の頃に孤児院に預けられ、両親はいないものとして育ったこと。その後十八で施設を出るとき、「もしも会いたければ」と、施設長から十数年分の母親からの手紙を受け取ったこと。興味本位で、会いに行ったこと。彼女は精神病棟からやっと出て、毎日をアルバイトで食いつないでいるところだった。幼かった真司に手をかけようとして逮捕され、心神耗弱が認められ、社会から隔離されていたのだ。十数年分の手紙にはただひたすら、「ごめん」「すまない」そんな言葉が並んでいたらしい。


 社会からの長い隔離は、退院後も彼女を苦しめた。遠巻きに見るだけでも作業は遅く、動きが鈍い。アルバイトが終わると、一人ぼっちのアパートに戻る。その背中の小さなこと、曲がった背筋の頼りなさを、真司は数カ月、追い続けた。父親はとっくの昔に他界していた。


「俺……声、かけられなかったんだよ」


 数カ月後、女性は交通事故であっさりとこの世を去ってしまった。


 ――ずいぶん、長い遺言だ。

 夏樹は真司の胸に銃口を当てたまま、冷めていく自分の心に驚いた。


 今語られているのはおそらく、真司が暴力を抑えることができないきっかけとなった、原体験だ。『自分を殺しかけた』母親が社会から守られた末に、苦痛の日々を味わい死んでしまったのを見て、真司は拳を振るう先を失ったのだ。侘しさだけが残り、後悔が押し寄せ、もう二度と後悔はするまいと、“被害者面”をしている人間は殴らずにはいられない。

 そう理解してしまったとたん、夏樹は真司の命を奪う行為に対し、躊躇いが失われていった。一度揺らいでいた気持ちが鮮明になり、五感が回復していく。それだけにとどまらず、夏樹は初めて知る彼の弱さの吐露に、激しい憤りも覚えた。


「西墨さん」

「何?」

「良いんですか? このままじゃ、降りまわされて人生終わりますよ。自分の意志で“スパイだったと思われて死んでいく”ことを選択したつもりかもしれませんが、……私には、死ねる理由に飛びついているようにしか見えません」


 真司の身体が、若干強ばる。血濡れのシャツが少し動く。


「私はこれでも、あの夜道を示してくれた西墨さんには結構感謝しているんです。今となっては、階級を追い越しちゃいましたが。

 殺してくれと頼まれたら、喜んで殺します。けど……今の話を聞いて確信しました。あなたが永霧ごときのために、命を棄てるのは馬鹿らしい」


 夏樹は掴まれた手をふり払い、拳銃も地面に捨て踏みつけ、汚れた光学フィルムまでもを脱ぎ捨てた。

溢れ出てくる冷や汗に長い前髪がべたりと張り付き、気持ち悪かった。


「この数カ月で、よく分かったんですよ。

 この世に生きている人間みんな、目に見えない膜を通して生きているんだって。周りにいた人たちの言葉や、自然環境……そういうものが、自分でも意識しない自分だけの色眼鏡をつくるんです。

 生まれたままの顔で生きていたとき、教師が冷たかったり、店員の態度が悪かったり……色々と考えましたよ。『私の性格が暗いから』『顔のせいにしちゃだめ』『声が小さかったのかも』……そうやって、自分を納得させる理由をいくつも、いくつも数えて……結局、この“クソフィルム”を被って、そういうの全部、無駄だったって分かりました。自分が納得するために用意していた理由全部は逃げだった、世の中を直視する勇気がなかった。自分でも気が付かないうちに、及び腰になっていたんだって、気が付いたんです」


 真司は夏樹が饒舌に喋り出したのに驚き、言葉を失っていた。虚ろで輝きを失っていた瞳には少しずつ生気が宿り、表情が見えるようになる。


「永霧は、人間なら誰しもが抱えているこの膜を利用して、他人の心に付け入り、使い捨てる。……神さまを気取っているんです。常人なら直視せずにいる世の中の摂理――容姿差別も、学歴差別も、貧困差別、職業差別、大っぴらには“ある”と誰も言えないような残酷な現実を突きつけ、人が悩み、自分に縋りつく姿を見てほくそ笑む。そういう奴です。

 彼を殺すためには、同じ視点に立たなくてはいけない。感傷に浸るような生き様、死に様では到底、ダメージなんて与えられないんですよ、私たちは」


 夏樹はこのとき、珠緒の顔を思い出していた。ネット上に溢れる彼への批判意見には、ただ容姿をあげつらうようなくだらないものもある。テレビに顔を晒すというのは、現代社会にとっては批判されることと同義だ。そんなことは、夏樹よりもネット文化に親しい若い世代の方が理解している。

 珠緒は未来に起きる自分への批判も恐れず、あの場に立った。差別にさらされることを承知で、永霧に呼びかけたのだ。それは、彼が自身の不幸に寄り添う限り、永遠に不可能な選択肢だった。あの公開演説がどれほど永霧の行動に影響を及ぼしたのかは分からないが、感傷に浸る権利を放棄してこそ、永霧とようやく対峙できるのだ――夏樹は、そう信じた。


 また、白星寛孝の顔も浮かぶ。社会システムの不寛容さを鋭く指摘しながらも、結局は幽閉され、行動を起こせずにいる男だ。どれだけその感傷や分析が正当性に満ちていようとも、正しさだけで状況を変えることは不可能だ。


「……何を、するつもりなわけ?」

「向こうが個人の感傷を利用するというなら、私たちもそうするんです。西墨さん、今さっき話してくれた母親のエピソード、それを利用しましょう」


 社会全体に溢れる悲しみの数々を、個人の悲劇の集合体ではなく、ただ“付け入る綻びのひとつ”だと考える。悪魔と対峙するには、ときに自分自身さえ、悪魔にならなければならない。


 ――棄てるくらいなら、私があなたの命を拾い上げ、使う。


 夏樹は真司の胸倉を乱暴に掴み、ショックを受けて固まっている彼に思い切り頭突きをかます。真司はそれだけで一時に意識が覚醒し、壁に向って後ずさった。


「な、なに、すんの!」

「母親……怒りの矛先を失った侘しさに加え、警察署内でも“問題児”として扱われ、不当に追い出された――いかにも永霧が好みそうな悲劇じゃないですか。“使う”側のつもりでいる奴に、一泡吹かせられるかもしれない」

「つ、つまり、本当に……ス、スパイに、なるってこと?」

「どうせ疑われて死ぬくらいなら、本当にスパイになって死んだ方がお得ですよ。難易度のはねあがる“二重スパイ”ってことになりますが。

 ――そうですね、ひとまず大河継海を誘拐した反社たちと接触を図ってください。支部の場所くらい、頭に入っていますよね? 最悪、接触した時点で殺される可能性もありますが、どうせ棄てようとしていた命なら、私のために使って下さい」


 遠くにサイレンの音が鳴り響き、人のざわめきがまた起きたのが耳に届く。

 幸か不幸か、真司には夏樹が展開している訳の分からない論理を検証する余裕が残されていなかった。しかし夏樹の不敵な笑みには有無を言わせない圧力――『どうせ一度死を覚悟したんだから出来るでしょう?』という無言の問い――があり、真司は考えるよりも先に拳銃を手に取り、夏樹に向けて発砲した。

わざと急所を外された一発は左上腕に当たり、貫通する。


 夏樹はそのまま倉庫の床に崩れるように倒れ込んだ。真司は顔面蒼白になりながらも倉庫を飛び出す。そのまま外に待機させていた車のエンジン音がかかり、倉庫の裏手をまわって走り去っていく音を聞いた。


 ――上手く逃げ切ってくださいよ、西墨さん。


 大きな銃声を聞きつけた警官たちはすぐに倉庫へとやって来て、負傷した夏樹を見つけた。血にまみれた光学フィルム、腕の傷。入り口に立った廉清は一瞬、ためらい、疑うような目で夏樹を見下ろしたあと、駆け寄って来た。周りに数人いる警官たちも無線でやり取りをした後、続々と現場へと入ってくる。


「……すみ、ません。油断してしまいました。

 巳波さん……大河さんは、どうなりましたか?」

「……別の隊が保護しましたよ。

 それより、この壁の血は……いえ、とにかく、今は早く病院へ行きましょう」

 ――やっぱり、巳波さんを騙すのは難しいかな。


 廉清に横抱きに抱えられながら、夏樹は倉庫をあとにした。演技がバレないかと内心ヒヤリともしたが、結局、救急車で本当に意識を失うまでの間、誰からも問い詰められることは免れた。





 後から確認をしたところ、大河継海はマスコミにも嗅ぎつけられることなく、無事に都立病院まで移送されたらしい。

 また、西墨真司は、乗り捨てられた警察車両だけを残し、どこかへと消え去ってしまった。近くに湖があったことから、飛び込んだのではないかという見方まであった。

 死んだにせよ、生きているにせよ、事態は動いた。大事なのはそれだけだ。

 夏樹はただ一人真司と争った証人ということで、上層部から個別の取り調べを受けるようにと命令が下ったのだった。


第六話二節も読んでいただきありがとうございました!


悲しんでいる人には寄り添いたいし、自分が悲しいときには寄り添ってもらいたいのが人情。

しかし寄り添いを口実に近づき、搾取しようとする不埒な人々もいる現実。

この節は、その餌食にならないためには個人的な感傷を抑えなければ、と決意する夏樹のお話でした。個人の悲劇を利用するという永霧に似た冷徹さを備えることで、彼女は一歩、永霧への理解へと踏み出したとも言えます。


ここからのお話では、今一つ人間性の見えない永霧に、夏樹の視点から徐々に迫っていけたらと考えています。

ちまちま更新ではありますが、来週も楽しみにしていただければ嬉しいです!

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