第五話 とある少年少女の告白(四)
永霧哲は語る。
支配の構造、技術の発達と共に、美の在り方は変遷したと。平安時代、貴族社会が作りあげた美。戦乱の世が過ぎ去り、二百年以上にわたる徳川幕府のもたらした泰安、そこで育まれた、庶民文化に基づく美。文明開化と共に訪れた、西洋の美。近代になって追及されるようになった、日本独自の美。
美の変遷は、社会の構造が大きく変わったとき、そして技術――化粧、美容整形、ソーシャルメディアの発達など――変革が起きたとき、移り変わっていく傾向があるという。生存戦略という本能的な話と結びつけるならば、“生存に必要な美しさ”が、社会構造の変化と共に移り変わっていくために、美しさの基準もまた変わるというわけだ。
「つまり放っておいても――何百年というスパンだろうが――今の美しさの基準は、新しいものに取って変わられる。生き残るために必要な条件が変わるだけで、人間という動物は別の何かに美しさを求めるわけだからね」
「……それと、犯罪が、どう結びつく?」
継海が問うと、永霧は相好を崩した。
先ほどからエンドレスにくり返されるニュース映像では、しきりにルッキズムの在り方について議論がなされている。「私たちの報道姿勢も問われています」「世間の皆さまからのご指摘を受け――」「大河継海さんに関する報道について、不適切な――」「朝澄珠緒くんの投げかけた問いを、自分事のように考えなければならない」
そこに、継海の生死を懸念する声はない。
永霧はテレビの縁をなぞり、嘲るように息を漏らした。
「憐れだろう? 一人の生き死により、彼らは注目を集めることに興味があるんだ。朝澄くんが自身の生死を明かし、居場所まで晒す覚悟で私と君に呼びかけたあの発言だけが、大河くん、君個人に向けられたメッセージだ。さらに憐れなのは、議論の放映がほとんど意味をなしていないことだ」
継海は入り口のちょうど対面にある、窓を見た。カーテンで閉ざされており外は見えないが、光は漏れていない。
――外はもう夜なのか。
「やはり、逃げ出したいかい?」
「話が、長いので」
「ははは、さっきまであんなに怯え切っていたのに、言うじゃないか。……朝澄くんのスピーチのおかげかな? ――嫌いじゃないよ、そういうのは」
永霧はそう言ってソファに近づいてくると、右手首を引っ張って継海を立たせる。強引で、遠慮がない。
「私の目的は、本能に縛られる憐れな人間たちを、美しさという囚われから解放することだ。もちろん、私自身も含めてだ。それは大河くんたちのためにもなることだと考えている」
継海はまた、窓を見た。
固く閉ざされたカーテンの向こう側が、無性に見たくなる。本物の星空の広さを、もうずいぶん長い間、知らずにいた気がする。テレビからまた、珠緒の呼びかける声が聞こえた。
――珠緒は“向こう”に居るのか。
《羨ましかった》
継海が他人の目など気にせず、自由にふるまう姿が羨ましかったと、珠緒は言う。聞こえるたびに、やせ衰えた両手を握りしめた。
――違うんだ。私は。
継海はずっと、邪魔をされたくないだけだった。
ともすれば忘れそうになる夕空の景色に固執し、はるかとの日々以外はすべて醜くて汚らわしいと思っていた。「この世界にはもっときれいなものがたくさんある」と言って、自分を引っ張り出した珠緒の言葉も、初めは信じていなかった。
生きるということは、他人と折り合いをつけ、大事な自我を少しずつすり減らしていくことだと信じていた。約束を交わしたときの声も、匂いも、手触りも、時間を重ねるごとにすべて忘れていく。金魚を埋めたときの冷たさも、母親の遺体の冷たさも。すべてが遠いものになっていき、継海の大切な一部は消えていく。新しく綺麗な景色を見つけても、それは継海の根幹をなすものではない。意味のある思い出が、今ある声に、匂いに、手触りに、味に、すべて塗りつぶされて上書きされてしまう。
それが、恐ろしかった。
「余計なことは考えなくても良い」
永霧が首元に手を伸ばし、継海が逸らしていた顔を強引に引き寄せる。
誰もが持っている体温――血の巡りが嫌いだ。
「何を考えているんだい?」
「私が、恐れているもののことです」
永霧は何を思ったか、微笑んで力を緩める。狂気的な犯罪者でありながら、彼はときどき、ひどく穏やかで慈愛に満ちた顔をする。
「取り除こうじゃないか。君の恐れを」
思わず懺悔をしてしまいそうな雰囲気だ。
口を噤み、唾を飲み込む。
――ときどき、母が死を選んだ理由を考える。
父が語らないので、継海には断片的な記憶しかない。アルバムはほとんど残っていない。借り家の衣装棚の奥に、くしゃくしゃになった雑誌の切れ端が見つかることがあった。それが、今となっては母の唯一の名残だ。ファッション誌の、可愛らしいモデルが身に着けている服。デザイナーだった母が見え隠れするたびに、継海は胸に嫌な突っかかりを覚えた。
おぼろげな記憶の中に、ファッションデザイナーの母はいない。いつも、継海の世話をしていた。朝、自分を起こす優しい手つきと笑顔、朝ご飯をつくる背中、幼稚園に送り迎えするとき運転席にある横顔、夕飯をつくり、眠るまで側にいて見守っていた、暗闇の中の温かい瞳。母は継海を産んだあと、一度仕事をやめたのだ。デザイナーだった自分を脱ぎ捨て、“母親”という役割を被った。大事にしまっておいた自分のアイデンティティは、棚の奥でくしゃくしゃになるまで潰したに違いない。
継海には、母の痛みや絶望が分かった気がした。
絵を描くことでどうにか保っている自我だ。もしも筆を置いてしまったなら、継海はすぐにでもはるかを忘れ、自分を見失う。たった一週間と少しの監禁生活が、それを証明している。
「……私は、まだ、死にたくない」
継海は両肩を抱え、その場にしゃがみこむ。監禁生活で、一度も出てこなかった台詞が零れる。自分が吐いた言葉に、違和感を覚える。
――死にたくないんじゃない。心が死ぬっていうなら、私はもう、とっくに死んでる。
「大丈夫、殺さないさ」
永霧の甘い囁きが、上から降ってくる。天井のライトに頭上を照らされ、彼の全身は影に覆われている。その腰元に、また何かが光る。ズボンと身体のすき間――わき腹辺りに、金属製のものを差し込んでいるらしい。
《――継海が帰って来たとき、たくさん話がしたい。だから、どんなことをしても良い。無事でいてほしい》
テレビから、また声が聞こえる。
――珠緒はいつも、継海の心を明らかにしてくれた。
初めて絵を見せたとき、彼はこんな風に褒めた。
「僕とおなじものを見ているのに、継海の目を通すと全然ちがう場所みたいだ。
ほら、これとか。この前海に行ったときの絵だけど、波を描くのに、こんなに沢山の色を使うなんて、僕は想像してなかった。写真とは違うのかもしれないけど、綺麗だよ。
小さなガラス玉を瓶の中に大切にしまってるみたいな絵で、……なんか、継海が海をみたときの感動が、そのまま絵に収まってる感じがする。……あ、し、素人のくせに、変なこと言ってごめん」
珠緒はいつも、継海の心を掬い上げるようなことを言う。
継海が心の中で名前を付けられなかった感情――胸にあったおかしな挙動――は、すべて絵にぶつけていた。しかし珠緒が“感動”と言えば、継海はそのときの気持ちを“感動”として受け止めることができるようになった。
語彙を豊富に使い、技法や着想をほめたたえてもらえるよりもずっと、自分を理解されたようだった。だから継海は、珠緒の話す言葉が好きだ。
金魚や母親の絵を見せたこともあった。
「……こういうグロいのは、人に見せるものじゃないよ。酷いことを、酷いままに描いてるのは、……えっと、苦しい?かな。ちょっとくらい、美化してもいいんじゃないかなって」
珠緒はやはり、率直に告げた。
継海は思わず笑った。“死”を直視することの残酷さに無自覚だった自分が、急に憐れになった。
――苦しい。
こんな単純な心にさえ気づくことなく、自分がどんな大人たちに囲まれ育って来たのか疑問に思うこともなく過ごしてきた日々が、波のように頭の中に押し寄せた。
――そうか、私は、苦しいのか。
笑いながら、涙があふれてきた。はるかを衝動的に追いかけたときの悲しみや寂しさとは違う。珠緒の心配そうに肩先に触れる手に、継海は心地よさを感じていた。はるかと違ってどこかに消えたりしない、初めて得た友人だった。
だが珠緒は、高校に上がってからあまり顔を合わせなくなってしまった。「絵を見てほしい」と言っても暗い顔で俯いているばかりで、そうでなければ話をしていてもうわの空だ。気になって珠緒の母親や高校を尋ねたとき、彼がいじめを受けていることを知った。容姿によるコンプレックスを抱えていることを知ったのも、このときだ。継海には、珠緒が「醜い」ということが、よく分からなかった。また、自分が美人だと言われたときも、似たような苛立ちを覚えた。
――また、珠緒に絵を見てもらいたいのに。
継海はただ、珠緒の興味を引くために絵を描いた。
しかし誰かに捧げるための絵は描いたことが無い。半ばスランプに陥り、ときおり描いている意味を忘れてしまうことがあった。それでも、筆は動く。頭の中にはいつも、はるかが閉ざしてしまった扉がある。珠緒がその扉を開けてしまう前に、振り向いてほしい。叶うなら、行かないでほしい。
――もう一度、私の心を教えてくれ。
その願いが叶うよりも先に、継海の日常は壊された。
元凶である永霧が目の前に立ち、継海を見下ろしている。継海は彼が肩先に触れようとする手を払いのけた。
「……どういうつもりかな」
継海は目力を込め、永霧を睨んだ。
老人は不敵に笑う。
「私が恐れているものは、お前には取り除けない。誰にも……私以外、取り除くことなんて出来ないんだ。適当なことを言って、人を操ろうとするな」
「おやおや、酷い言いようだね。しかし、この状況でその口ぶりとは、大した度胸だ――褒めたいところだが、大事な手が震えているよ」
「怖いんだ。震えるのは当然だろ」
「……良いかい、私の報酬系と視覚との繋がりを断つ施術なら、すべての人間が美醜の囚われから抜け出すことができる。君も朝澄くんも、その芸術性と勇気を正当に評価される。私なら、その世界を創りあげられる。協力者になってくれれば、君を殺さずに済むんだ。
本気で反抗しようなどと、思わないでくれ」
永霧が真面目な顔で、継海の腕を再び力強く引っ張ろうとする。それを全力で振り払い、身体を強く床に打ち付けたことで、大きな鈍い音が鳴る。ドアの外で、錠前がガチャガチャと外される音がする。永霧もすぐに気づき、「まだ入るな!」と叫ぶ。
――外に、アイツらが。
継海はよろめきながら立ち上がり、入り口の方へと走る。
「大河くん、殺されるぞ!」
「それが、なんだ」
珠緒は変わった。
けれど珠緒が、継海にとって友人であることは変わらない。ただ一人、自分に声をかけてくれた大切な人だ。
――私だって、いつまでも同じじゃなくて良い。
はるかのことも、約束も、全部忘れてしまってもいい。いつまでも、扉の“こちら側”で待つ必要なんかない。上書きされて、別の自分になることを恐れなくてもいい。
「――私も、……新しい自分を、生きたいんだ!」
客間の入り口に思い切り、体当たりをする。扉の向こう側で、錠前が外れ、フローリングに落ちる音がする。向こう側から、扉が開いていく。継海はその扉を自ら開き、待機していた男たちの元へと飛び込んでいった。皆、一斉に腰から拳銃を取り出そうとする。
追いついてきた永霧に左腕を掴まれる。
「これだから、……若者ってやつは!」
彼が忌々しげに叫んだ。
今度は、即座に永霧の胸元に飛び込む。身体に密着し、彼が驚いている隙に背中へと回り込み、腰元をまさぐった。ズボンのすき間から、ギラギラと眩しく輝くナイフを手に取る。継海は先端を永霧の心臓あたりに押し付けた。身体の密着は決して解かないよう、上手く力の入らない足で踏ん張った。
男たちの動きがやや鈍る。
「こ、この男を殺されたく無かったら、私を生きて解放しろ」
「おいおい、そんなんでこっから出られると思ってますん? そりゃ暴対法できてから力が弱くなってんのは事実やけど、その人殺さんと、女の子一人殺すくらい訳ないですよ」
関西弁の若い男は嘲笑う。心臓が、張り裂けそうなほど脈打っていた。
永霧が苦しそうに「待て」と呟く。
「大河、くん。無鉄砲はここまでだ、君に勝ち目はない。万に一つもだ。今なら、まだ彼らも銃を収められる、そうだろう?」
「まぁ、永霧さんがそう言うんなら」
「さぁ、大人しく」
継海は、細かく痙攣する手で、ナイフを手放すこともできない。むしろ手放そうとするほど、冷たい金属の感触が、肌に食い込むような感じだった。
――考え、考えないと。脱出。ここから、逃げるには。
「大河くん!」
「私に、何をさせるつもりだった? ここに連れてきて、話をして、何に協力させるつもりだった!」
人生で初めて、喉がびりびりと痺れるような大声を張り上げた。
永霧は苦々しげに意図を語る。
「始めは、朝澄くんを脅すための道具だったんだがね。……一刻も早く、彼の口を塞ぎたかったから。でも、彼は想像以上の被検体だった。美しさの支配から逃れ、コンプレックスを跳ね返し、カメラの前に立った。良い広告塔だ。殺すためではなく、もう一度、協力関係を築くために、君には説得役をしてもらいたかった」
「珠緒は、もうお前の誘いには応じない」
「……随分、自我を取り戻したじゃないか。たった数時間で、はは、大したものだ。これは煽りでも何でもない、心からの賛辞だよ、大河くん」
関西弁の男が呆れたため息をつき、トランシーバーでどこかに連絡を入れる。
――応援?
殺される。
頭からつま先にかけて、冷たいものが身体の中心を駆け抜けていく。一瞬、隙が生まれた。
永霧が背中から、勢いよく後ろに倒れ込んでくる。体重を支えきれず、継海は背中から身体を打ちつける。天井のライトが、チカチカと明滅する。手から、ナイフがするりと抜き取られる感覚がある。次いで、右手に鋭い痛みが突き抜ける。
収まることのない痛みが、波のようにやってくる。
――刺され、た。
動かそうとしても、釘で地面に打ち付けられているように、手のひらが床から離れてくれない。痛みから、生理的な涙が溢れる。ナイフに向って伸ばそうとした左腕は、永霧が止めた。
「もう、やめなさい。
大河くん、これが最後のチャンスだ。私に、協力しないか。生き残らなければ、何にもならないだろう。君たちのような、若者のための実験であり、暴力なんだ」
優しく語り掛ける永霧を、継海は霞む視界で捉える。その顔に、唾を吐きかけた。永霧は呆然として、自分の頬に手を当てている。
「ホラ吹き、が」
「……私は、嘘を語ったつもりはないがね」
「は、……私たちのため? そんなわけない。お前は、自分の望みのためにしか、動いていない。珠緒を広告塔だと言ったり、私を説得役だと言ったり……誰かに役割を与える、……そういう自分が好きなんだろ」
永霧の語る言葉は、すべて空々しい。
――どうせ殺されるんだ、最後に好きなだけ毒吐いてやる。
激しい痛みの中、継海は口角を上げてみせた。
「そうじゃなきゃ、自分の痛みを、世の中にぶつけたいだけだ、この、卑怯者」
「……君はやはり、優れた芸術家だ。目が冴えているよ」
永霧の手が、継海の視界を覆う。
視界の端から漏れてくる天井の光も、消える。
――あぁ、今度こそ、走馬灯かな。
だが、身体を脱力させたのとほとんど時を同じくして、耳をつんざくけたたましいベルの音が鳴り響く。「なんや」「分からん、どっかで火災報知器が鳴ってる」「停電の原因は?」「知るか! ブレーカー見にいくぞ! お前はこっち残って――」混乱した男たちの声が聞こえる。数秒と経たず、発砲音が鳴り響く。
手を貫くナイフが、ずるりと抜かれる。
「痛っ――」
暗闇の中、永霧がふくろうのように丸い目で、継海を見つめていた。驚きに、息が詰まる。
「気が変わったよ。君の洞察力も、想像以上だ。
彼らに追いつかれることなくここから脱出し、生き残ってごらん」
「は?」
「私がこれから創りあげる世界では、君のように本質を見抜き、自らの信じる美学を貫ける者こそ恩恵を受ける。……ここで生き伸び、どうかその恩恵の証明になってくれ」
胸倉を掴まれたかと思うと、次の瞬間、継海は窓ガラスを突き破る勢いで、外へ投げ出されていた。落ちていく一瞬、視界がゆっくり、スローモーションのように動き、夜空がはっきりと見えた。満天の星空がどこまでも続く、美しい光景だった。月も出ていない。
風に揺れるカーテンのすき間から、永霧が見える。
――何、だ。
懐から布のようなものを取り出し、永霧はそれを頭から被った。彼の顔がゆっくりと、別人のものになっていき、面影が少しもない美青年へと変貌を遂げた。
その光景の意味を考えるより先に、継海の身体は茂みへと沈み込んでいった。木の枝や、葉っぱを勢いよく押しのけ、ゆっくりと加速度を落としながら地面へと転がる。
息を整え、顔を上げる。
目の前には、灯り一つない暗い森が、どこまでも続いていた。
(第五話終わりということで、ここに一度あとがきを設けております)
またまた暗いお話なんですが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございます。
今更ですが、もはや一節3000字という縛りは無くなってます……。
第五話は全体を通し、物語の核心部分に迫ったお話でした。
テーマ的な観点では「美醜の問題をどうとらえるか?」に大きく触れた一章です。
ここから先は「では、私たちはどう生きるのか?」という観点でも物語を書いていけたらと考えています。
よろしければ引き続き、登場人物たちの選択を見届けてやってください。




