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第五話 とある少年少女の告白(三)

 思い出せる一番古い記憶には、白い棺桶がある。

 あまり広くない部屋の中央、色とりどりの花に囲まれた遺影がある。そのすぐ下に、窓の開いた白い棺桶があった。喪服を纏った葬儀屋が部屋の隅に立ち、継海と父を見守っている。目が合うと、その男の人は悲しそうに微笑んだ。父が継海を抱き上げ、「ちゃんとお別れを言おう」と、顔を覗きこめる場所まで連れて行ってくれた。


 棺の中には、母親の寝顔がある。いつもと違うところと言えば、眠っているのに化粧をしていたことだった。継海はまだ死を知らなかった。仕事に疲れ、化粧をしたままうっかり寝落ちてしまったのだとばかり考えた。手を伸ばし、起こそうとしたのを父が止める。継海を抱きかかえる腕が揺れていた。


 三歳のころだった。

 両親が大喧嘩をした夜。喧嘩の内容は継海のことだった。


「幼稚園の先生は変わったんだから、良いじゃない! 育休から開けたばかりでまた休暇なんて、もう取れないわよ。仕事に復帰できなくなっちゃう」

「でも、身体をまさぐるような先生を放置していたんだぞ。もう一度信用なんて出来るか? せめて代わりの幼稚園を見つけるまで、もう一回さ」

「そんなこと言うなら、あなたが探して、あなたが遠くの幼稚園まで送り迎えしてよ! これ以上、私の人生を犠牲にしたくない! 本当なら、産休が終わったらすぐに、私だって働きたかったのに! ううん、違う。本当は、産みたくだってなかったの!」


 母はそう言って、部屋に籠ってしまった。

 継海はどうして喧嘩しているのかさえ分からず、泣いていた。父がため息をつきながら宥めてくれた。しかし寝る時間になっても母が継海を呼びに来ない。不思議に思った父が部屋を覗くと、母は足を宙に投げ出し、ロープの動きに合わせてクルクルと回っていた。父が継海を抱きかかえる腕は、そのときも揺れていた。


 葬儀が終わったとき、父は母方の祖父母に怒鳴られ、平手打ちをされた。祖母が取り乱し、泣いている姿は母にそっくりだ。「もう私たちには二度と関わるな」――継海はそう告げた彼らの背中を見送った。何があったか、大体理解できたのは幼稚園の年長になったときだった。母親は死んだ。帰ってこない。祭りで取ってきた金魚が水槽の中で息絶えていたとき、それを土に返したとき、芽が出てきてからその土を掘り返し、何も残っていないことを知ったとき。継海は母がどうなったのか知った。


 年長になるころ、父は毎晩夕方まで会社で働き、幼稚園に迎えに来て、また会社に戻って働くという生活をくり返していた。継海はほとんど誰も居なくなったオフィスで父の隣に腰かけ、仕事が終わるのを待った。家で母の話題を出すことが少なくなり、継海がお母さんと口にしただけでも、嫌そうな顔をした。だから継海もしゃべらない。そうしているうちに、鮮明に残ったのは母の最後の記憶だけになった。


 しばらくして、ある女性が家に出入りするようになった。少し派手な化粧をした、綺麗な女性だ。会社の上司に付き合って通っていた、キャバクラで出会った人で、源氏名で「はるか」と呼ばれていた。ギラギラと光る壁一面の人工灯やミラーボールの散らばる光の粒が迫ってくるようで、店にいるとき、継海はいつも気分がすぐれなかった。はるかはそのことを察し、継海の面倒を見ると申し出てくれた人だった。週に四度は幼稚園に迎えに来てくれて、夜まで世話をしてくれた。


 当時継海の周りにいた他の大人たちと違い、はるかはあまり、手を繋ごうとしなかった。幼稚園からの帰り道でも家の中でも、継海が道を間違えそうになったり物にぶつかりそうになったりしたときだけ腕を引っ張った。触りたくないと言うよりは、人に触れるのを恐れているような雰囲気があった。あまり心の内をさらけ出さない人でもあった。何故継海の面倒を見る気になったのか、世話を続けてくれているのか、多くは語らない。心地の良い人だった。


 けれど、継海が彼女についてよく覚えているのは、夕空の公園で話したことだけだ。幼稚園からの帰り道、珍しく、「少し遊んでいこうか」と誘われた。遊具がキィキィと鳴り、風が時折砂埃を運ぶ、寂しい場所だった。継海は遊具で遊んだことが無かったので、どれも使い方が分からず途方に暮れていた。はるかは特に助けるでもなく、滑り台と一体化したドーム型の空間に入っていく。継海は何となく、彼女のあとにつづいた。


「何でついてきてんの」

「わかんない」

「別に、遊び方なんて自由だよ。継海ちゃんが楽しいと思うやり方で、適当に遊んでみなって。私はちょっと考えることあるからさ」

「でも、わかんないから」


 はるかはため息をついて、結局、そのまましばらく上を見上げていた。遊具の中には夜になると光る蛍光塗料があり、夕陽が弱くなるごとに星座がチカチカと浮かび上がった。こっちの光は、不思議と平気だった。


「……継海ちゃんには、楽しいことがないの? 幼稚園では、どんな風に過ごしているの?」

「ピアノにすわって、みんながはしりまわってるのを、みてる」

「一緒に遊ばないの?」

「かんがえたこと、なかった」

「ふーん」


 少し間を置いて、はるかは星座を指でなぞりはじめた。

 継海は黙ってそれを見ていた。


「継海ちゃん、本当に何にも興味ないんだね。“ふつう”とかあんまり言いたくないけど、大人がよく分からないことしてたら、真似してみたくなるもんじゃないの?」

「……でも、これからどんなことがあっても、なにものこらないんだもん」

「どういう意味?」

「しんじゃったら、ぜんぶなくなるよ」


 はるかは言葉に詰まった。

 継海は母と一匹の金魚の死を通し、彼女らがこの世界からゆっくりと存在を消していくのを実感していた。数日に一度、少しこまめすぎるくらいに水槽の水を変えた。やるたびに面倒だと思いながらも、金魚は確かに、継海の人生の一部だった。だが水を変えることが無くなった。死体は土の中で分解された。水槽はもう古くて使わないからと捨てた。継海はもう、金魚の色さえ鮮やかに思い出すことができない。


 母も似ていた。亡くなるまでは間違いなく継海を抱きかかえ、触れれば温もりがあった。少し調べてみると、会社ではファッションデザイナーの仕事をしていた。彼女がデザインした服が店頭に並んだことが何度もある。しかし、店頭から服が消えて困ることはなかったし、流行りが終わったり服が汚れたりすれば捨てられ、母の仕事の証も消える。家にあったキッチン用品や服は、父が祖父母に離縁を言い渡されてすぐ、彼らが持って行ってしまった。継海の周りに、もう母の存在を裏付けるものはあまり残っていない。


 それでも、世界に穴が開くことはない。まるで初めからその人やモノがどこにも存在しなかったかのように、世界はほとんど姿を変えることなく、上書きされていく。

 幼いころ、無意識にあるこの実感が、継海の行動を支配していた。何をしていても、瞳の中にこの無意識の膜があった。いわばフィルターの加工を通した世界を見るようなものだ。


 しかしはるかは、その薄い膜を、デコピンひとつで弾いた。

 頭に突然降ってわいた小さな衝撃に、継海は思わず後ずさり、星座の壁に後頭部を軽くぶつけた。


「ガキのくせに諦めが早すぎ。というか、やっぱり浅はかだよね。死んだら全部なくなるから何もしない? そりゃあ、人生なんてもんは、外からみたらみんな哀れに見えるよ」

「いたいよ」

「私が接客するおじさんたち、みんな私のことをどこかで見下してるか、可哀想って思ってるんだけどさ、私、一度もそんな風に自分を思ったことねぇから。継海ちゃんもあれでしょ? 周りから可哀想、て見られてる気がするから、自分は可哀想なのかもって思いこんでるだけでしょ。それ、洗脳だから」

「そんなことないとおもう」

「いいやあるね。だって、体調悪くて倒れた日、会社のおじさんたちが何て言ってた? 『やっぱりお母さんがいないと可哀想だね。ここで沢山愛情もらいな』だよ? 思ってても普通言わないでしょ? 継海ちゃんのお父さんも何も言わないし、あれ、本当に腹立ったんだから」


 継海は周りの光が気持ち悪かったことしか覚えていなかった。そもそも、人との会話をいちいち記憶していない。しかしこのとき、はるかが継海のことで憤っている姿はひどく新鮮で、頭の中に染みつくようだった。


「良い? 人生はこの世界に何を残せるかじゃないの。自分が死ぬとき、心に何を抱えて死んでいくか、それが重要。分かる?」

「む、むずかしい」

「死ぬとき、人は走馬灯って言って、人生全体を振り返るらしいんだけどね。自分で眺めたとき、『ああ、あのときああしていればよかった』と思うか『悪くなかったな』って思うか。どんなに社会的に成功してても、振り返って納得できない、やり直したい! って思うなら、それって悲しいでしょ」


 はるかは手をつき、仰け反るように顔を上げた。目を大きく見開き、何かを必死に堪えているようだった。


「決めた」

「なにを?」

「私、走馬灯で絶対良い思いしてやるもん。大変だったけど、私の一生最高じゃんって、笑いながらくたばってやるから。継海ちゃんも、何が残るかじゃなくて、最期に、自分がどんな想いを抱えるか! それを軸に生きる! 分かった?」


 継海には、結局よく分からなかった。

それでも差し出された小指に、約束を交わした。蛍光塗料の星座が、キラキラと瞬いた気がした。


 はるかはその日以降、徐々にキャバクラへの出勤の頻度が減った。継海は事実として淡々と観察していたが、ある日、彼女が仕事を辞めると分かった。店のキャストたちに花束を渡され、幸せそうな笑顔を浮かべ、客たちにも一人ひとり頭を下げ、楽屋へと引っ込んでいく。まさにそのとき、継海は別れを知った。

 閉まっていく扉の向こうの、後ろ姿を見た。

 継海は訳も分からず、拍手をしている人々の間を走りぬけた。父が後ろから「待ちなさい」と声をかけるのも無視し、押しわけ、はるかのあとを追いかけた。自分の身体ではないようだった。何か大きな存在に、身体が突き動かされている。

 今までにない別れの寂しさが、胸にこみ上げていた。


「あけ、あけて、ねぇ、あけて!」


 気が付けば、慟哭していた。

 それでも、扉が開くことはない。

 赤ん坊のころから、大声を上げて泣くことの少ない子供だった。父は継海が突然感情的になったのに驚いたが、いちばん驚いていたのは継海自身だ。金属にどれだけ手を打ち付けようが、扉が開くことはないと頭では理解している。棺桶の中に入れられた人間は、どれだけ揺さぶられようと起き上がらない。土に還った命は、もう元の形を取り戻すことはない。

 ただの事実。

 はるかとの別れのとき、そこに悲しみが追いついていた。


 けれどその日以来、継海はまた心を仕舞いこんだ。母の亡き骸と、金魚の死骸を思い出して描いたとき、するすると滑った筆が、はるかの顔になったとたん、動かなくなってしまったからだ。

 母も金魚も、描きたかったわけではない。思い出せるうちに、大切なことを記録するつもりで絵を描いた。同じ意味で、本当に描きたいのははるかの方だった。自分の頭では大事なことをすべて忘れ、冷たくなって何も残らないものだけが頭にこびりついて離れない気がしたから、綺麗なものは絵に収めたい。きれいな走馬灯を見るためだ。それなのに継海は、彼女を上手く描くことが出来なかった。きれいに仕舞っておきたいものほど、心が邪魔をした。


 ――あのとき、泣かなかったら。


 継海ははるかの代わりに、公園の星座を見つめることにしたのだった。そこで、珠緒に手を引かれたのである。


     *


 暗がりで、誰かに手首を掴まれる。頭に霧がかかったように視界も思考もまとまらない。被っていた毛布から強引に引きずり出され、体格の良い二人の男たちに担がれる。辛うじて、それが父でも、珠緒でも、自分を助けに来た善意の誰かでもないことは分かる。


 灯りのついていない薄暗い部屋には、窓ひとつない。置かれているものもなく、継海は連れて来られてから一週間以上、コンクリートの冷たい床の上で眠った。食事は菓子パンばかりで、腹が満たされたことはない。トイレは部屋の隅でしろと指示され、替えの服も用意されていない。部屋は異常な臭気で満ちている。

 時間の感覚はなくなった。

 することもないので、継海はほとんど一日中、床のしみを指でなぞって過ごした。勝手に瞼が重くなったときに眠り、パンにはほとんど口をつけなかった。衰弱が激しく、ときどき、考えないようにしても警官たちの死に顔がフラッシュバックする。口元を押えられ、耳のすぐ近くで鳴りひびく、火薬の破裂する音に思わず耳を塞ぐ。思い出しただけで、震えが止まらなくなった。死を覚悟した瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは母の棺桶だった。記憶にある母の安らかな死に顔は、継海とそっくりだ。


 昨日は眠る前に、注射針で腕を刺された。シリンダーには、何かの薬品が詰められているのが見えた。うたれた途端、全身が熱を帯び始め、眼球を動かすたびに視界が嫌な揺れ方をした。眠気も酷かった。身体が鉛のように重たくなり、そのあとはふつりと記憶が途切れている。

 先ほどまで見ていた夢は、覚めなければ走馬灯になったのだろうか。逆光を浴びながら手を差し伸べてくる珠緒の顔は、影でつぶれてしまって見えていない。

 地面に向って継海の両手が揺れる。霞む視界の中、右手を緩く握った。流れていく地面の色が変わる。継海は男たちに抱えられ、ほとんど七日ぶりに監禁部屋から外に出た。自分がこれから何処へ向かうのか、考える余裕はない。

 

 継海はそのまま目を覆われ、トラックか何かの荷台に寝かされた。男たちが声をひそめて話をするのが聞こえる。


「俺たちが何もしなくても死にそうだな」

「馬鹿、縁起でもねぇ。あの人に会う前に死んでみろ、組長に殺されるぞ。おい新入り、おめぇが死なねぇよう、しっかり見張ってろ」


 足音が一人分増え「はい」という若い男性の声がした。継海が横たわっているすぐ隣の床板が沈み込み、誰かの腰かける音がする。低く唸るようなエンジン音が鳴り響き、車は出発した。すぐ隣にいる若い男は、意味のない質問をしきりに投げてきた。ただ継海に意識があることを確認している。


 ――黙ったら……。


 連れ去られた当日のことが、頭をよぎる。それだけでも吐き気がする。短くとも、継海は答え続けた。若い男性はお喋りだった。


「来たときよりずいぶん素直になりましたね。良いことです。俺らに出された指示はね――ほんまは喋ったらあかんから内緒ですよ――、殺さず、逃げ出さないように見張りなさいってやつだけなんです。来たばっかりのころ、おじさんらに身体触られて気持ち悪かったでしょうけど。あれはあなたが反抗的やったからです。反抗的なのはまだ頭が働いてる、悪い兆候です。頭が働くと、色々余計なこと考えるでしょ? あれが逃げるのに使えるとか、これを使って反撃しようとか。分かります?」

「はい」

「うんうん、良いですね。喋り方もしっかり矯正されてます。じゃあ、悪いのは誰ですか?」


 夕方の公園で、はるかが怒っている顔が頭をよぎった。何か大切なことを口にしている気がする。しかし、エンジン音と聞こえるはずのない銃声に遮られ、何も聞こえない。


 ――悪い、……悪いのは。


「……私、です」

「そう、成長しましたね。自分の非を認められるのは成長の第一歩です。言っておきますけど、これから会う人は俺らと比べるのも馬鹿らしいくらい、もっとえぐい人です。俺らは身体触るくらいでしたけど、あの人なら、多分指ちょん切るくらいはします。悪いことしたなんて、微塵も思いませんよ。俺らみんな実験動物で、言うこと聞かなきゃ躾するか、処分するか。どっちかなんです。

 俺らもね、あなたは巻き込まれただけやと分かってますから、できればそんな酷い目には合わせたくないんです。だから向こうについても、お利口さんでいてくださいね?」

「はい」


 車は平坦な道を走りつづけた。しばらくしてタイヤが砂利を踏みつける音がして、エンジンが停止した。その後また、複数人で抱え上げられ、どこか、風の入らない屋内へと連れ込まれた。目隠しはまだ取れない。音がほとんど遮蔽されている。バラック小屋のような粗末なつくりではない。

入り口とは別の扉を開けた途端、声の反響が大きくなった。


「身綺麗にすんぞ」


 冷たくて細いものが、頭にいくつも降ってくる。驚いて暴れそうになる継海を二人がかりで抑え込みながら、男たちは彼女の全身を洗った。制服ではなく、においのついていない別の服(ワンピースのように、頭から被ってしまうようなつくりのものだった)に着替えさせられ、ペタペタと鳴るフローリングの床の上を、裸足で歩かされた。少しでも足が止まると、男たちに背中を押される。

 長く、廊下を歩いている気分だった。


 やがてノック音が響きわたり、目隠しがあっさりと取られた。目の前には重厚なつくりの木製扉がある。男二人が扉の前に並んで立ち、継海の逃走を遮るように、後ろで手を拘束している若い男性がいる。継海と目が合うと、若い男は張りつけた笑みを浮かべ、あごを前へ突き出した。「入れ」というサインだ。男たちが観音開きの扉をゆっくりと開く。


 継海は躊躇う時間も与えられず、背中を押されて部屋の中へ押し込まれた。扉はすぐに閉まり、外から錠前の落ちる音がする。部屋には若い男と継海――それから、髪の長い老人が一人。ソファにゆったりと腰を下ろし、老人は窓の外をぼんやりと眺めていた。ソファと向かいあう位置にはテレビ台が置かれ、ニュースが流れている。

 野次馬が大勢いるなかに一人、マイクを手に喋っている少年がいる。フラッシュを焚かれ、ときどき顔をゆがめながらも、少年は語りつづけていた。


《――継海が帰って来たとき、たくさん話がしたい。だから、どんなことをしても良い。無事でいてほしい》


 その言葉を最後に、画面はスタジオへと切り替わり、以降は音を消された映像がバックグラウンドで流れている。

 継海は床に膝をつき、バランスを崩した体勢のまま、映像に釘付けになっていた。若い男は部屋の扉の前に立ち、黙っている。ソファの老人は継海をしばらく見つめたあと、またニュースに視線を映した。


「君はずいぶん、朝澄あずみくんと親しかったんだね。何故かな。家が近かったから? それとも、憐れみかい?」


 見た目相応に掠れた声が響く。老人はテーブルに置かれている週刊誌を手に取り、パラパラとページをめくる。継海はまだ、時間をかけて描いていた絵を上から塗りつぶされるような衝撃から、戻ってきていない。


「ここに書かれていることによると、変わった価値観の持ち主らしい。意外なことに、私の意見とも一致している。特にこの部分、――『本当にきれいなものは、生きることの外にある』……実に哲学的で、良い言葉だ」

「継海さん、何か言った方が良いですよ」


 若い男が口を挟む。

 老人は手を上げ、それを制した。


「私はその昔、脳科学の研究をしていたんだが。指導してくれた先生――大学教員の影響で、特に『美しさ』に興味を持った。なぜ人は美しいと感じるのか? 脳が感じる美しさの正体は何か? 人間の脳については未だに分からないことも多い。しかし往年の、世界各国の研究により、私たちは美しいものを見たときに快楽を感じることが知られている。問題はそこだ」


 手にした週刊誌を丸め、老人はこめかみのあたりをトン、トンと叩く。


「脳はどうやって、快楽物質を出すか否かを判断しているのか。老人と若者、同じ性別であっても、人は若者に魅力を感じる。私のような老人が集まってアイドルグループを結成する、そんな想像がつくかい? 少なくとも私には無理だ。お笑いのように消費されるか、あるいは歌唱力のみが評価され、“アイドル”ではなく“グループシンガー”のような扱いになるだろう」


 彼の声と息づかいが荒く、早口になる。


「同じ年齢でも、配置や形が少し変わるだけで、人は美しいと感じたり、醜いと感じたりするね。それが何故か? 私の指導教員はこう言った」


 テレビの音量が上がり、先ほどのニュースの続きが流れている。コメンテーターの一人が意見を求められ、自説を述べているところだった。目の前で喋っている老人よりももっと年老いた男性が、もごもごと口を動かしている。


《美しい……醜い……と、言いますが。それはね、環境とか、文化背景とか、そういうものはもちろん影響するとしても、いちばんは人間の“生存”に関わることなんです。

 例えば……寝不足の方や、病気の方がいる。みんながみんなそうではないとしても、一般に、“魅力が落ちる”と言われています。何故か? 人間という種を残す、という観点から見たとき……元気のない個体を選ばないよう、頭がね、プログラムされているんです。


 一方で魅力的な個体は、生存に有利。そう無意識に判断することで、私たちはある意味では残酷に、人類を選別してきたんです。これは決して悪いことじゃなくて、人類、八十万年、その歴史が作りあげてきた、脳の仕組みです。いわば、美醜という概念は、先祖たちから私たちに受け継がれてきた、生き残るための道しるべ――贈り物なんです》


 そこで一時停止ボタンが押され、画面の中の時が止まった。

 継海は身体を起こし、ソファに座る老人を見上げた。ため息をもらし、つまらなさそうにリモコンを置く。


「――私はこの話を聞いたとき、世界の残酷さに震えたよ。人間は理性で文明を築き上げ、差別を無くすための闘争をくり返し、“国家・権力”――“社会”に対する“個人”という概念を発明した。

 それにも関わらず、五感で物事を感ずるとき、人は未だに本能に縛られているんだ。しかし社会の仕組みは依然として、すべての人々が幸福になるように……そんな、野生動物の群れ社会では決してあり得ないような設計を目指し、本能との亀裂を生み続けている」


 継海は恐る恐る、声を出した。


「なぜ、……私に、そんな話を」


 老人が、視線だけを継海へと向ける。


「朝澄くんはお世辞にも成績優秀とは言えなかったからね。かみ砕いて説明しても、多分私の言いたいことはあまり理解してもらえなかっただろう。しかし、君になら分かるはずだ。だから話している。私が何故、手段も選ばずに犯罪行為に手を染めるのか」

「……」

 ――自分を正当化する理由を話すのか。


 継海の頭の中に、銃声が響きわたる。思わず両耳を押さえ蹲る。以前なら言えたはずの言葉が、どうしても口から出てこない。

 老人は立ち上がり、扉の前に立っている若い男に部屋を出るよう指示した。それから蹲っている継海の側に来て、背中や肩に触れる。ゆっくり、落ち着くように、呼吸をさせる。


「どうやら、私の指示は上手く伝わっていないようだ。決して危害は加えないようにと言いつけたはずだが。すまないね」


 ――触るな。


 老人を今すぐにでも払いのけたい。その衝動と同じくらい、恐怖が身体を支配している。動け、動くな。二つの異なる命令が同時に脳から送られたことで、継海の腕はただ震えるだけだった。

 そのままソファに座らされ、老人の演説を聞いた。

 彼は広い客間を、一歩一歩、踏みしめるように歩きながら喋った。


「話を戻そうか。美醜の話だ。美醜は本能が決める。

 いくら社会が制度を整えようと、美しいと感じる心、醜いと忌避する行動を変えることは不可能なんだ。一部では、単純接触効果により“美しさの基準”が固定されてしまっている……そのような反省から、これまでなら登用しなかった人物もメディアに起用するなどの動きもある。しかし、焼け石に水だろう。

 仮に美しさの基準をいくつも作りあげることに成功したとして、すべての人間がその基準のどれかに当てはまる、そんなことはあり得ないんだからね」


 老人が部屋の隅に置かれた小さい本棚から、一冊のノートを取り出す。彼はそれをパラパラとめくり、またしまい込んだ。光の加減か、腰元に何かがきらりと光る。


「ところで、君はもう、歴史は勉強したかな?」

「……はい」

「平安時代の絵画を見たことは?」

「もちろん、あります」

「では、そこに描かれた美人像を見たこともあるね?」

「はい……現代とは、綺麗な人の基準が、違うと」

「よろしい」


 身体ごと振り返り、老人は継海を見つめる。たるんだ瞼の間から覗く黒い瞳が、テレビのわずかな光を反射して輝く。一つの理念に囚われた人間の顔は、造形の違いがあってもよく似ている。『毛並みのきれいなネズミみたい』だと、珠緒が意味不明なことを言っていたあのとき、彼の瞳の奥には確かに、今目の前に佇む老人が居た。珠緒は、この老人によって囚われていたのだ。

 幼い頃、継海の手を引いた珠緒は違った。

 テレビから継海へと呼びかけたときの眼差しにも、老人はいなかった。画面の中の珠緒は、はるかに似ていた。


「ようやく、本来の君らしい顔つきになってきた」


 老人は楽しそうに微笑み、また雄弁に語りだすのだった。


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