第五話 とある少年少女の告白(二)
その日の昼、夏樹と廉清は覆面パトカーで、病院近くの大きな国道を巡回していた。
病院を出入りするリネン業者の新たな証言により、珠緒の逃走があった深夜、彼の病室のちょうど真下にトラックをつけていたことが分かった。いつものように病院の守衛室前を通って駐車場に向おうとしたところ、守衛に止められ、その位置に停めるよう案内されたのだという。その際、理由としては「いつもの駐車場、ちょっと特殊なお客さんが来てるから」と説明された。守衛はその日以降無断欠勤を続けており、家族も連絡が取れない。
防犯カメラを確認したところ、深夜から朝方、検問を敷くまでに駐車場から出ていった車は一台。ナンバーの解析を行い、都内のレンタカーであることが分かった。さらに別の防犯カメラ映像には、そのレンタカーが数カ月前から複数回にわたり、同じ国道を走行していることが確認された。
夏樹たちは、微かな手がかりに縋りその車を探すことにした。
昼の報道番組を聞き流しながら、走っていく車のナンバーを確かめる。
そのときだ。
「東雲さん」
助手席に座っていた廉清が呟いた。顔が青ざめ、声が震えていた。目は、カーナビに映し出された中継映像に釘付けとなっている。夏樹も視線を落とし、彼の動揺の意味を知る。
昼の報道番組が流れている。その報道陣の前に、病院着の少年が立っている。右上に生中継の文字がクルクルと回る。か細い足で立ち、ゆらゆらと身体を左右に揺らしながらゆっくりと、報道カメラに近づいてくる。遠目で潰れていた顔の輪郭が、日のもとに晒される。
――朝澄くんだ。
傷だらけになった足から血を流し、指先は赤黒く固まった血で汚れている。瞳には、鋭い光が宿っている。ただでさえ小さな黒目がさらに小さく見えるほど、カメラと周りに集まっていた野次馬を睨みつけている。珠緒は、戦場から帰還した負傷兵に似ていた。
《彼は一体、何者なのでしょうか。警官たち、検問所の警官たちが、警戒しているようです》
現場にいる誰もが、思うように動けなかった。ある者は珠緒から視線を逸らすことができず、ある者は、野次馬どうしで見合わせた顔を珠緒へ向けることが出来なかった。警官たちは病院を背に、庇うように腕を広げていた。警棒に手をかける者もいる。カメラマンは、近づかれるたびに後退しようとして、画面が何度も揺れた。リポーターの顔に汗が滲んでいる。
珠緒の纏う異様な雰囲気に、皆圧倒されていた。
検問所まわりに集まる群衆やカメラを見渡すと、珠緒は一台の大きなカメラとマイク――ちょうど生中継を映しているテレビ局のものだ――に目を止めた。カメラごしに目が合った途端、夏樹は急いで病院へとハンドルを切った。サイレンを鳴らしながら、かなりのスピードで細い道を走り抜けていく。もちろん、その間にも中継は続いた。
珠緒はリポーターのマイクを奪い取った。小さな悲鳴が上がり、カメラがまた少しぶれた。彼は全く動じず、まっすぐにカメラを見据えている。
《僕は今日、ある人に呼び掛けるためにこの場に立っています。即興で話をすることが苦手なので、この二日間、考えてきました》
珠緒の発する声は、緊張でかすかに震えていた。ろくに水分補給が出来ていないのか、掠れてもいる。
――朝澄くん、何を考えているの?
夏樹は運転席から聞こえる珠緒の声に耳を傾けた。巳波は助手席で、検問所にいる同僚に電話をかけていた。焦って大きな声だったが、珠緒の声はふしぎとよく聞こえた。
《僕は朝澄、珠緒と言います。今話題になっている大河継海の誘拐事件の、原因をつくりだした男です》
車が高いブレーキ音を鳴らしながら、病院の前で止まる。
珠緒がいる検問所の前には大勢のマスコミが集まっていた。それも波が止まることなく、他の出入り口で検問をしていた警察官やマスコミも次から次へと集まっていく。通りすがりの通行人まで好奇心から、野次馬と化していた。珠緒の元へ行くには車で問答無用で突っこむか、人波をかなり掻き分けて進まなければならなかった。
ハンドルを握り、アクセルを踏もうとする足が固まる。サイレンを鳴らし、人の群れを散らすことはできる。しかし、好奇心が邪魔をする。
夏樹は知りたかった。
珠緒は、かつて永霧の支配を受け入れていた。選択肢を与えられなければ、きっとこれから先も彼は何の決断もしなかっただろう。支配されることの何が悪いのかと、開き直った末に殺されていたかも知れない。流れに身をまかせ、楽な方へ、考えなくても生きられる方へと放り出されていたかも知れない。
その珠緒が今、自ら選択肢をつくりだした。
夏樹たちが提示していない、第三の選択をしている。
珠緒が一体何を選んだのか、見届けたくなった。
《ネット上では“継海の幼馴染の少年A”と呼ばれています。
中には、僕が彼女を危ない道につれこんでしまったのではないかというコメントがあったと思いますが、それは、正しいです》
新聞記者や週刊誌のカメラマンたちは眩しいほどにフラッシュを焚いた。その間にも検問所の警官たちは珠緒を取り押さえようと動いているが、「まだ聞きたいだろうが」と叫ぶ群衆たちによって、抑え込まれていた。
《僕は以前からずっと、自分の顔にコンプレックスがありました。ほとんど毎日バケツで水をかけられ、家に帰れば、母から悪口を言われました。働けない穀潰しだと。今は、すべてが顔のせいだとは思いません。けれど僕はひとりでした。
継海の誘拐事件を主導した人は、一人の、そういう寂しさとコンプレックスを利用し、僕に近づいたんです。
『容姿による差別を無くしたい』――そう語っていました》
――永霧に呼びかけるつもりだ。
夏樹は呼吸を忘れ、カーナビに映し出された小さな口元をじっと見つめた。深呼吸をして、珠緒の胸元が膨らんで萎む。巳波は夏樹の気が付かないうちに車外へと飛び出し、人波を分けて進んでいた。
《けれど今、継海がインターネットでどんなふうに語られているか、事件に関心のある人たちなら知っているはずです。
『美人だから、人生をもっと上手く生きろ』
『可愛いから変な男に引っ掛かったんだ』
『電波すぎて可愛くても痛い』
……そんな言葉が、当たり前みたいに並んでいます。
確かに、継海は頑固で、言っていることの半分くらいは理解できないし、わがままで少しも人と仲良くできない、何で、……何で、こいつと幼馴染なんだろうって、思ったことだって、僕は何度もありました。羨ましい気持ちもありました》
マイクを持つ手が震え、珠緒の声はときどき上ずっていた。しかし声の強さは揺らがない。
《僕は羨ましかったんです。顔もそうだったけど、周囲に流されず、好きなことに没頭していた継海が。どんどん、知らない世界で活躍していくアイツといるのが、みじめで、そういう自分を認められなくて。卑屈になって、一度は突き放してしまいました。
だから、僕にはこんなことを言う資格はないのかもしれませんが……、どうか、継海を解放してください。彼女は今、あなたの誘拐によってまさに、世間で注目され、美しさによって差別を受けているんです。それは、あなたが望む『容姿による差別がない世界』から、遠ざかることではないんですか。
あなたの願いが本心なら、こんなひどい差別に継海を晒したことを後悔し、継海を解放してください》
珠緒が一度、呼吸を置いた。
はじかれたように記者たちから矢継ぎ早に質問が飛び出した。背後では、警官たちと野次馬たちの怒号が飛び交っている。
《なぜ首謀者と面識があるのでしょうか⁉》
《大河継海さんに今、伝えたいことはありますか?》
カメラのフラッシュが再び焚かれる。珠緒は眩しさに目を細め、風が吹き抜けていく寒さに身をすくめる。誰かが投げたマフラーが首元に引っ掛かり、近くにいた看護師の一人がそれをしっかりと巻き付けた。珠緒の口元が、わずかにゆるむ。
マイクを持つ手の震えが、小さくなっていく。
《ごめん、と。あと、もしもまだ僕の顔を見ても良いって、愛想をつかしてないなら……継海が帰って来たとき、たくさん話がしたい。だから、どんなことをしても良い。無事でいてほしい》
カメラに向かって真っ直ぐと、その視線が向いていた。目が合い、夏樹の心臓がドクリと脈を打つ。彼は今、涙を溜めている。歯を食いしばり、顔を上げている。目の前にいない永霧に、初めて反抗の眼差しを向けている。まだ生きているなら、継海に向けて力強い、温かな眼差しを捧げている。目が合っていても虚ろだった眼の面影は、どこにもない。
《僕から言えることは、これだけです》
言い切ると、彼は突然全身から力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。看護師がすかさず身体を支えに入り、人波を分け入っていった廉清がカメラを手で覆った。無骨なマメだらけの手が大写しになったところで、映像はスタジオへと戻る。コメンテーターたちは口を開けて放心し、まだ中継映像の写っていたスクリーンを見つめていた。アナウンサーが脈絡なく、天気予報に話題を移す。動揺が見て取れた。
夏樹は一人、ため息をついた。
――これから大変になるなぁ。
車内の窓ガラスから、遠くに小さな群衆が見える。その波が割れ、病院の出入り口に向って運び出されていく珠緒も見えた。
ふと視線を逸らすと、その群衆からポツンと離れた位置に男性がいる。サングラスをかけた、恐らく四十代後半くらいの中年男性。ただの野次馬にしては周りの視線を気にし、カメラに映る位置には決して入ろうとしない。珠緒を追いかけて病院に押しかけようとするマスコミの後ろで、足踏みをしている。
夏樹は解散して車の方へ向かってくる野次馬に隠れながら、足音を立てないよう、視界に入らないよう、ゆっくりと男に近づいた。手を伸ばせば届く距離にまで詰め、一気に男の腕を捻りあげる。さらに足払いで躓かせ、背中を膝で押さえつけた。男は乾いた息を吐き、逃げようと必死にもがく。周りの群衆が諍いに気づき、夏樹たちから遠ざかろうとしたり、その場で固まったりする。
「や、やめてください、何なんだ急に!」
男が叫ぶ。
夏樹がサングラスに手をかけると、彼は一層じたばたと藻掻いた。取り上げてしまえば、諦めたように身体が弛緩する。その男は、片目に大きな切り傷があった。薄く開いている瞳は白濁している。目の周りの筋繊維が断裂してしまっているらしく、自力で瞳を閉じることはできないようだ。
「私は警察です」
夏樹は手帳を広げ、男に見せた。
――永霧の関係者ではない? 判断をミスったかな。
「警察⁉ 私が何をしたと言うんです」
「ふむ……強いて言うなら、怪しい動きを」
報道カメラマンの一人が夏樹たちを撮影している。組み伏せられた男はよほどそれが嫌なのか、「頼む、隠してくれ」と懇願する。夏樹は羽織っていたコートを彼の頭に被せ、カメラを止めるように指示した。
「あ、あぁ、ありがとうございます。しかし、何故退いてくれないのですか」
「あなたは永霧を知っていますか?」
「ナギリ?」
「知らない……では何故、カメラから逃げるのでしょうか。朝澄珠緒に接触をしようとして、ためらうような動きもしていましたよね? 何故か、この場で説明してください」
男はコートの中からくぐもった声を発した。
しばらく、喋るのを躊躇するような間があった。
「私はあなたが暴いた通り、見た目が普通ではありません。だから、カメラを無意識に避けてしまうだけです」
「なら、そもそも報道カメラに近づかなければ良い話では?」
夏樹は男の両腕を背中の後ろに拘束し、ゆっくりと立たせた。逮捕された人間のような出で立ちに、周囲の野次馬は自然と距離を取った。夏樹は心苦しさを覚え、男の手を拘束する力を少し緩める。男はそれでも逃亡する素振りは見せず、おもむろに夏樹へと振り返った。
生きている方の黒い瞳に、既視感があった。
「私は、珠緒の父親なんです」
静かに語られる言葉と、そこに滲み出る諦念が、病院のベッドに横たわっていた珠緒に重なる。病院の窓が夕陽を反射して目の奥まで貫いてきて、眩暈がする。夏樹の中に眠っていた十年前の記憶が、フラッシュバックする。
――父。
自分が病室のベッドに横たわり、夕陽を眺めていたあの日。顔も思い出せない父親が、病室の影から夏樹を見下ろしている。
「……何をしに来たんですか、今ごろ」
かつて父にかけた言葉が、そのまま零れた。
珠緒の父親を自称する男は項垂れ、ただその場に立ち尽くしていた。
今回もご拝読ありがとうございました!
実生活が多忙につき、三週間も時間が空いてしまいました(ごめんなさい)
これまで、これでもかと珠緒の苦悩を掘り下げてきましたが、ここからは群像劇的に展開していく予定です。珠緒を含め、この世界に生きる人々が進む道のりを、どうか見届けていただければ幸いです。
では、また次回の更新でお会いしましょう~




