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第四話 窮鼠夢を見る(一)

《朝澄くん》


 頬を触って通り過ぎていく風がもうずいぶんと冷たい。朝、吐く息で視界が白く覆われる。夕方、並木道で枯れ枝や紅葉を踏む。どんなときも、珠緒のローファーは汚れや毛羽立ちでくすんでいて、太陽の光を照り返さなかった。

 比較的浅い川の土手を歩く。

 ランニングをしている少年たちとすれ違う以外に、人影はない。


 冬が、迫っていた。


《この間、君が言っていた『毛並みのきれいなネズミ』が死んだよ。群れから一人外れ、あの白い個体(私はカグヤと呼んでいた)は自分の武器だったはずの美しさも、欠けていった。栄養状態が悪いから当然なんだが》


 訃報が届いたのは、十一月の中頃だ。休日の朝だった。肌寒く、母親のこともあるので一日中家にでもいようかと考えていた矢先だ。永霧の定期連絡はいつもよりも長い。珠緒は画面をスクロールしている内に激しい悪寒に襲われ、すぐに家を出た。

 慌てて出てきたせいで、擦り切れたローファーを履いていた。


《興味深かったのは、カグヤが死の数週間前から攻撃的になったことだよ。それまではどちらかと言うと“ふさぎこむ”ように身を隠していたにも関わらず、突然群れの前に飛び出して、彼らが持っている餌を奪おうとしたんだ。狂ったように鳴きながら暴れ回って、餌を盗めないと分かると、ケージの中にあるおもちゃにひたすら体当たりした》


 珠緒はネズミが半狂乱になりながら、小さな身体で必死にもがいている姿を想像した。

 惰性で土手を歩いていた足が、止まる。少し喉が痛むのも構わず、冷たい外気を思い切り吸い込んだ。あたりを見回し、自分が住んでいる場所から遠くまで歩いてきたことに気が付く。誰もいない。人が、遠い。

 吹きすさぶ風に縮こまる身体が、とても小さく思えた。反対に、世界は絶望的なほどに広いと感じた。


《不思議だと思わないかい、朝澄くん。

 カグヤはまるで、追いつめられた人間のように振舞ったんだよ。人間のような社会的成功の欲求はないのに、最後に群れ社会に復讐するみたいに暴れたんだ》


 永霧との連絡用チャットアプリを閉じ、珠緒は川べりに座り込んだ。胡坐をかき、項垂れる。少し目を閉じれば、冷えた川のせせらぎが耳に染みわたる。


《人間も、追いつめられると自傷に走ったり、攻撃に転じたりするけれど(数年に一度、ひどい事件が起きるだろう?)、あれを僕は今までもっと承認欲求的な――欲求の段階的に言えば三大欲求すべてが満たされた次に来るような、二次的なものだと思っていた。

 しかし一般的なネズミのように、単純な社会性しか持たない個体にも同じことが起きる。

 僕たち人間が追いつめられたときに見せる加害性(対象の自他に関わらず)とは意外と、本能に直結した行動なのかも知れない。

 朝澄くん、君はどう考える?》


 珠緒はまた、おかしな記憶の濁流に呑まれる感覚があった。

 今年の夏、いま珠緒が一人項垂れている河原で、遊んでいた沢山の親子連れの光景が浮かぶ。子供同士で遊ぶ間、ニコニコと笑いながらその子らを見ている複数の家族。一人会話に入らずに微笑んでいるだけの女性と、その子どもらしき小学生の男の子がゲームをして遊んでいる。誰かに川で遊べと促されても暗い顔をしてふさぎ込んでいる。女性は肩身が狭いのか、曖昧に微笑む。

 それから二人は大勢の集団から外れ、土手を登ってどこかへ消えた。そのあと戻って来たのか、珠緒は知らない。残された集団は一層声を大きくして笑いあっていた。少し離れていたため、声は途切れ途切れにしか聞こえない。


「……あい悪い……た、ちゃんと……」


 女性の夫らしき人が、冗談交じりに小言を言われていたようだ。頭を掻きながら頼りなく笑う彼の姿が、とても印象に残った。


 その姿にオーバーラップするように、珠緒は父のことを思い出す。近所づきあいが多いわけではなかったが、会社の集まりか何かで幼い珠緒を伴ったことがあった。母親はいない。まだ話しかけられても何を言われているのか分からず、珠緒は居心地の悪い思いをした。


「照れてるのかな、可愛い」

「きっと将来はお父さんに似るわね。二十歳を超えたら、結局育ち方次第って言うし」


 父はこのとき、偉そうな年配の人と話していた。

 珠緒は女性社員たちを見回した。色んな顔があって覚えきれなかったが、「二十歳を超えたら」と言った中年の女性だけは、今でも鮮明に思い出せる。その人の顔を、ジッとみたからだ。


「あ、珠緒くん。今の、お父さんたちには内緒ね」

「もう、……さん(珠緒は名前を覚えていない)失言ですよ」

「ごめんごめん、でもうちの子どもとあまりにも違ったから」


 別なところから視線を感じ、珠緒は父がいた方を見た。彼は頭を掻きながら、悲しそうに、口惜しそうに、無理やり笑っていた。眼鏡の奥の瞳が、少し潤んでいた。

その顔が、鮮やかによみがえる。珠緒は忘れていたはずの父親の顔を、はっきりと思いだした。



 珠緒は目を開け、川の対岸を見た。

 一瞬、息をのむ。父親がそこに立っている気がした。だがそれは幻だ。いるはずがない。もう一度目を凝らし、人影を見ると、そこには、永霧が立っている。


「やあ」

「何で居るんですか」

「はるばるやって来たのに随分な言いぐさだね。顔を合わせるのは実に二カ月ぶりくらいかな」


 珠緒は冷たい草原から腰を上げ、永霧を見据える。


「僕は毎日報告書を作っています。連絡だけならメッセージのやり取りで良いでしょう?」

「文字のやり取りは様々な情報をそぎ落とすのが一般的だ。顔を合わせなければ分からないことはある。どうかな、これから少し、一緒に廃墟へ行かないか」

「廃墟?」


 永霧はカフェにでも誘うような軽快さで言った。見たことのない機種の端末をコートの胸ポケットから取り出し、廃墟の写真を見せてくる。画面が遠すぎて、古い木造の建物ということしか分からない。


「そう遠くはない」

「……何をしに行くんですか」

「今朝言っただろう。カグヤが死んだんだ」


 一陣の冷風が通りぬけ、永霧の足元で何かが揺れた。小さな段ボールの蓋が風に煽られている。中からビニール袋が覗く。

 珠緒はその中身を想像して寒気を覚えた。


「ここは寒い、早く移動しよう」


 永霧の有無を言わさぬ圧力に負け、珠緒は黙って後をついていった。


 道中は二人とも口を利かなかった。

 写真を見せられた廃墟に近づくにつれ繫華街からも住宅街からもどんどん離れていく。たまにすれ違うのは郊外に住んでいる老齢の人々が多くなった。今どき珍しく挨拶をしてくる人たちに、永霧は軽く会釈をしてすれ違う。珠緒はどうして良いか分からず、目を伏せてすれ違う。そうしているうちに林の緑が深くなり、廃墟へと抜けた。


 想像していたよりも背が低く、草が伸びてしな垂れているものに、建物の壁が隠れてしまっている。木は長い年月風雨にさらされたことで黒ずみや腐敗が目立った。珠緒にはどこが入り口かも分からないほど荒れていた。

 永霧は伸びた草木を迷いのない足取りで踏み分け、比較的背の低い(日当たりの悪い)草場にダンボール箱を置いた。


「さて、朝澄くんも少し手伝ってくれ」


 彼はダンボールの中から小さなスコップと軍手を取り出し、珠緒に手渡す。ビニール袋がカサカサと音を立てる。その音をできるだけ聞かないように、珠緒はしゃがみこんでスコップを地面に突き立てる。永霧も同じように姿勢を低くし、二人で少し大きめの穴を掘った。

 大きめと言っても半径約三十センチ。深さは二十センチほどだ。黙々と掘り進め、地盤が少し硬く感じられるようになったところでやめた。


「触ってやってくれるかな」


 永霧がダンボールの蓋を開き、ビニール袋の口を持つ。正直嫌だったが、珠緒は中身を見ないようにして、軍手ごしに触った。少し柔らかくて軽い、小さなものがある。力を込めないように両手でそれを掬い上げ、穴の中に納める。

 手が震え、冬だと言うのに背中の汗が酷かった。


 永霧はその様子に気が付くと、「もう見なくても良いよ」と言って、穴を埋める作業は一人でやった。彼はゆっくりと、やさしい手つきで土を被せた。表情は硬く、神父が赤子に洗礼を行うような丁寧な仕草だった。地面をならすときは、眠れない子供をあやすようなリズムで土を叩いた。

 永霧の雰囲気は、先ほどまで思い出していた父や、彼に重なる色々な人の憐れな感じによく似ていた。


「付き合わせてすまないね」

「いえ。今日は特にやることもなかったので」

「なら、もう少し話をしよう。中を案内するよ」


 珠緒が深く考える隙もなく、永霧はさっさと建物の中へと足を踏み入れて見えなくなってしまう。入り口は、ちゃんとした玄関というよりも壁に空いた穴で、背を屈めなければ入ることが出来ない狭さだ。永霧は細身だったのでするりと入ったが、慌てて入ったこともあり、珠緒は少し苦戦してしまった。

 中で待っていた永霧が、揶揄うように笑っている。


「すみません、助けてもらえませんか」

「ああ、悪い」


 片手を引っ張ってもらい、どうにか中に入る。

 そこでようやく、その廃墟がかつては学校として使われていた建物であったことが分かる。深緑じゃない黒板や、乱雑に置かれた学習机、壁に大きく掲げられた学級目標などが当時のまま残っている。古い字体だった。


「ここは八十年ほど前、戦後間もないころだね。あたり一帯が空襲で焼野原になってしまって校舎が無くなったときに建てられたんだ。バラック建築って言うんだよ」

「こんな、郊外に?」

「地元の有志が『子どもたちにはいち早い教育を』と急いで造ったものだったらしいから、場所は、建つならどこでも良かったんだろう」


 日焼けした上にカビの生えている白黒ポスターが、すき間風にカサリと言う。一部が黒く塗りつぶされている。

 永霧は軋む床をスイスイと歩き、『生物室』と表札のかかった部屋に入っていく。後に続き、顔をしかめる。雨の日の洗濯機から臭うような、下水の臭いが鼻をつく。部屋の地面には小動物の糞尿や死骸がたくさん落ちている。校舎のどの場所よりも木の腐食が激しい。


「私はこの部屋が好きでね、子供の頃からずっと出入りしていた。ここに集まる動物たち――大抵、ネズミやコウモリなんだが、そいつらを観察するのが好きだった。

 知っているかい? 吸血コウモリは仲間が餌を食べられなかったとき、自分が飲んだ血の一部を口写しで分け与えるんだ」


 床に沢山の小さな糞が落ちている。一口サイズのチョコレートほどの大きさだ。永霧はそれらを踏みつけて湿った床の上にすりつぶす。


「カグヤの祖父母世代も、ここにいたのを研究室に連れて行ったんだ。どんな感染症を持っているかも分からない、危険だと反対されるのを押し切って、私は白いネズミを飼うことにした。彼らはつがいだったけれど、この汚い穴倉みたいな場所の隅で、コウモリは他のネズミに怯えて暮らしていた。何だか、仲間のように思えた」

「……あなたが?」

「ああ、意外かな」

「正直」

「そうか。……まあ、そうだろう。

 あれから十五年は経った。あのときの僕と今の私とでは、全然違う人間だ。いや、今の私が、あのときに生まれたのかな」


 珠緒はそのとき、

 ――ならこの人は、僕と同い年か。いや、違うか。

などと考えた。


 きっかけを経て、全く別の人間になる一歩を踏み出すことを“誕生”と呼ぶなら、珠緒の母親は生後一カ月、珠緒は二ヶ月だ。


「何にせよ、この場所はカグヤのルーツなんだよ。

 他の身体の大きな動物に苛められることに怯えたネズミから始まり、交配を重ねて美しさを手に入れて、一時の春を謳歌して、最後は群れから逸れて一人ぼっち、やせ衰えて死んでしまう。

 そういうネズミの家系なんだ、カグヤは」

「あなたは、それをどうにかしたいと言っていましたよね」

「すまない、あれは嘘だ」

「は?」

「カグヤについては、嘘だ。私は美しさに縛られる価値観をどうにかしたいと本気で考えている。

しかし、カグヤのように誰が見ても美しいと思えるネズミが堕ちていく姿を見たのは、ただの趣味だ。ケージを移したとき、ラットに何が起きるのか、本当に知らなかったわけじゃない。予想はした。

 予想は、したんだ」


 永霧の肩が、視界の端で小刻みに震えた。彼は顔を片手で覆い、静かに泣いていた。口元がいびつに笑っているのが見える。

 珠緒はひやりとした汗が身体の表面を冷やしていく感覚と、胸が熱くなる感覚の両方を同時に味わった。足もとがおぼつかず、近くの壁に手をつく。変な空気を吸い込んだせいか、目の前がチカチカと明滅し、呼吸が浅くなる。


「朝澄くん」

「何、ですか」

「君は、本当に優秀な被験者第一号だと思っているんだ。毎日報告を欠かさない。私を疑わない、従順だ。お母さんの状態について深堀することもない」


 視界の明滅に伴って現実の視界に、撮り終った写真のスライドショーを次々と映し出すように、記憶のワンシーンが挟み込まれる。記憶、永霧、記憶、永霧、記憶、永霧……。ミリ秒単位で映像を見せられたときの、人体実験に似ている。

 映し出されるのは、父親と母親の喧嘩しているところばかりだ。声は入っていない。幼い珠緒が状況を理解せず、ぼんやりと二人を見上げている。珠緒はそれを俯瞰して見ている。口論から、母親が暴力をふるうようになり、父親は頭を庇いながら我慢している。父の眼鏡が割れる。破片が、運悪く彼の眼球を傷つける。痛みに悶え、父が床に転がっている。母親が珠緒の腕を強く引っ張って、視界から父が遠ざかっていく。珠緒は一人外へ連れ出される。目の前で扉が閉まり、何が起きているのか見えなくなってしまう。

 記憶がふつりと途切れる。次のワンシーンで、珠緒は引き戸に手をかけている。その扉を恐る恐る開けようとしている。しかし誰かの「開けるな」という声が不意に響く。



 顔を上げると、泣きながら笑う永霧が立っている。

 彼の声ではない。あれは、記憶の中にいる誰かの声が再生されたものだった。


「あの、何だか気分が」

「うんそうだろう。そういう薬品をまいたんだから」

「薬、品?」

「腐臭に紛れさせている、揮発性の毒だ」


 頭が回らなくなってくる。

 視界が異様に暗くなり、ブラックアウトする。


 今度は継海つぐみの顔がいくつも浮かんでくる。幼稚園に預けられていなかった。近所の公園でたまたま出会う。すべり台の下にある大きなドーム状の遊具の中、彼女は一人で蹲っている。声をかけた。まだお互い五歳くらいだったが、継海はすでに「死」について考えていた。どうしてこんなところに居るのか聞いた。


「ソウマトウっていうのがあるんだって。

 しんじゃうまえに、いままでのことがきゅうにおもいだせるの。でもおもいだすものはえらべない。……どうせえらべないなら、わたしはきれいなものをおもいだしたいの。だから、ずっとここにいるんだよ」


 ドームの中は、誰が描いたか、暗闇の中で光る蛍光塗料が塗ってあった。珠緒もそれをみて、綺麗だと思った。落書きは《みゆきLOVE、ゆうとLOVE》という文字で、思い返せばどこかのカップルが書いたものらしかった。LOVEの意味を知らなかったから、きっと魔法使いが使うような素敵な呪文だと思った。

 でも、珠緒は継海をその遊具の中から引っ張りだした。


「きれいなものってたくさんあるよ。おかあさんがくびにぶらさげてるやつとか。テレビでやってたんだけど、うみとかもみじとか、きれいなんだ。ふじさん?、のうえはそらにちかくて、くものうえまでいけちゃうんだって」


 珠緒はたくさん喋った。「だからいっしょにでよう」と引っ張り出して、継海と遊んだ。一人でいるよりも、二人ですべり台を駆け下りたり、ブランコでどちらが遠くまで飛べるかを競争したり、そういう遊びが楽しかった。


 成長するたびに、継海は綺麗になった。反比例して、笑わなくなっていった。暴れた。綺麗でも、汚くもない世界にうんざりしていた。絵の世界にのめり込み、一緒にいる時間も珠緒と目を合わせなくなった。しかし話していて、とても落ち着いた。彼女の描く絵は、いつも綺麗な景色や人の営みばかりだった。継海は気がつけば、色々な醜さで溢れる世界から、美しいものを自分で選ぶ人間に成長していた。


 だから珠緒は驚いた。少し前、彼女が「絵のモデルになってくれ」と言ってきたことがあったからだ。多分、永霧と会うよりも前。珠緒は「モチーフが悪い」と断ろうとしたが、継海は頑なに譲らなかった。時間をもらう分のお金はもちろん払うから。そう言って、結局押し切られた。


 ――『県展で受賞したから、珠緒に見に来てほしい』


 珠緒は、継海を突き放したあの日のメッセージを思い出した。住宅街に立ち去っていく後ろ姿を思い出した。無性に、その背中を追いかけたくなった。「絶対に見に行く」と言いたくなった。

 記憶は、ままならない。

 彼は現実の通り、交差点の雑踏にまぎれる。

 まぎれ、紛れて、そこで――


「さて問題です。これは何でしょう?」


 記憶にはいるはずのない、夏樹が立っている。交差点のまん中にいて、チョークを持っている。珠緒は出せないはずの声で、つぶやいた。


「走馬、灯?」

「違うよ。もしそうだとしたら、私はここにいないもの。

 ――今日まで一人にして、ごめんね?」


 夏樹がブレザーの内側をまさぐり、中から一丁の拳銃を取り出す。珠緒は一歩後ろに下がろうとして、身体が動かないことに気が付く。ポタリ、と何かが頬を落ちていく。口からも、温かいものが噴きだす。身に着けていたコートが、見たこともない赤黒い色に染まっている。土や、糞尿に汚れていく。

 忘れさっていた身体の痛みが、じわじわと侵食してくる。


「大丈夫、助けるよ」


 夏樹が拳銃を構え、何かに向けて発砲した。



 次の瞬間、交差点の景色がひび割れる。バラバラと崩れて、真っ黒な視界に戻される。何が起きているのか分からない。自分が湿った木目の上に横たわっていることだけが、鼻孔をくすぐる臭いで辛うじて分かった。頭上から、温かいものが降ってくる。鉄の味がする。


「はは、おやおや。まさか警察が来るとは」


 永霧の苦しそうな声がする。

 それに対し、どすの効いた夏樹の声が大きく響く。


「すでにこの建物は包囲している! 抵抗せず投降しろ!」

 ――東雲さん? 警察? 一体、何の話を。

「朝澄くんから足がつかないようにと思ったんだが……遅かったんだねぇ。もう少し早く手を打つべきだったか」

「両手を挙げろ!」

「嫌だね」


 発砲音が、もう一度響く。

 直後、足音が激しい振動と共にいくつもやってくる。珠緒の近くで大きな塊が倒れる音がする。それから驚きに満ちた声で、誰かが叫んだ。


「おいこいつ、死んでいるぞ!」

「何だって⁉」

「口の中に、毒薬が」

「そ、……と、とにかく、今は少年の保護を優先だ! 毒を吸っている、身体にあまり刺激を与えるな」


 珠緒の身体を、大勢の人間が慎重に持ち上げた。珠緒は相変わらず身体を動かせず、倒れたときの痛みを引きずっていた。夏樹が周囲に指示を送っている。誰ひとり、ネズミのカグヤに触れるものはいない。


 しかし身体を支えられたとき、珠緒はカグヤの小さな重みを思い出していた。珠緒に両手で掬われたあのネズミは、土に植わった。もう誰かに思い出されることはない。これから時間をかけ微生物に喰われ、身体もほとんど残らない。カグヤは死んだ。

 珠緒は、これから自分もそうなると思った。

 意識を手放すとき、彼は自分の身体がネズミになってしまったように錯覚していた。


(二)はもう少し後に上げます。

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