表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

淑女の仮面を被った私の手を、次期公爵の婚約者が離してくれない 。

作者: にゃみ3
掲載日:2025/02/07


 かわいい、カワイイ、可愛い。

 その言葉はきっと、私のために出来ていると思うの。

 だって私は、こんなにもかわいらしいのだから。


 私の名前は、レティシア・フォンディア。

 アスタリア帝国の中でも名高い伯爵家の一人娘として私は生まれた。その上私はとても可愛らしく、美しい容姿にだって恵まれたわ。


 ドレスの柔らかな生地が肌に馴染み、ふんわりとしたクリーム色の髪にぴったり合っていた。肌は雪のように白く、瞳はブルートパーズのように透き通る水色。

 


「…大丈夫、今日も私はとってもかわいい」



 鏡の中の自分を見つめ、美しい水色の瞳にささやかな誓いを込めるかのように呟いた。

 それは子供がするおまじないのようなもので、特に効果があるわけでもない。ただ毎日の日課となっている習慣のようなものだった。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





 私のお父様は伯爵家の一人息子、お母様は地方の成金貴族の娘。

 身分の差がある二人がどうして結ばれたか? それは、私のお母様はお顔がとても綺麗だったから。ただ、それだけの話。


 でもね、ただそれだけのことで人生は上手くいくの。

 美しいお母様と同じ環境で育った、アンリエット叔母様は、中の下の顔をしていた。

 別に特別不細工というわけでもない、かといって飛び切りの美人でもない、本当に普通の顔。だから叔母様は同じく地方貴族の男と普通の結婚をさせられたの。

 姉妹ですら、美しいか美しくないか。その差で人生は大きく変わる。


 私のお父様は美しいお母様と違い、はっきり言ってぶ男。

 そんなお父様がどうして美しいお母様と結婚できたか、理由はとても簡単。

 富と名声を持ち合わせていたからよ。伯爵家当主という、明確な権力を。


 それでも、お父様とお母様は愛し合っているわ。二人は、心からお互いを想い合っていて、お互いへの尊敬を持っている。

 お互いに足りない部分を求めて結婚した二人はパズルのように欠けた部分を合わせて、結ばれた。


 私のお母様は、本当に美しい。

 だけど、若さという武器を持った私には到底太刀打ちできない。

 そのことを賢いお母様は理解していた。だからこそ、自分の生き写しのような私を自分自身のように見ていたのだろう。自分にそっくりな私を、自分のように完璧にするために。


 お母様は、私が物心が付く前から、「私のように美しく生きなさい。」とか、「賢く自分の武器を使って愛される女になれ」とか、とにかく自分の強い思想が偏った教育を私に施してきた。

 自分の知恵と美貌で勝ち上がってきた自分の術を、私に与えようとしたのだろう。


 私は、お母様がとってもだいすき。⋯⋯でも、ごめんなさい。


 私はお母様にその言葉をかけられた時、笑顔で頷く裏で、本当はうんざりしていたの。

 お母様は非常に美しく、そして賢い女性。美しさだけで世の中を渡っていった人。


 私は、お母様のようにはならない。そう心に決めていたわ。


 だって私は、こんっなにもかわいい伯爵令嬢なのよ? 私はそれだけじゃ満足しない。もっと上を狙うのよ。


 私は、お母様に似て美しく強欲で、お父様に似て知的な戦略家なので。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴






「レティシア、今日は父上の誕生パーティーへ来てくれてありがとう」



 アナスタシス・ティアルジ公爵令息。

 彼は私の婚約者であり、ティアルジ公爵家の次期公爵。聡明で何事にも優れており、完璧という言葉がこれほど似合う人間は他にいない。彼は、帝国一の結婚相手とも呼ばれている。



「もちろんですよ。公爵様の大切な祝いの日にお祝いすることができるなんて、私はとても幸せ者ですわ」



 そう、私はとっても幸せ。


 私は幸せを噛み締めるようにして目を細める。今、私の中にある承認欲求が満たされていて、とても心地がいい。

 目の前に立つアナスタシスは、相変わらず完璧な笑顔を浮かべている。あなたな本当にいつも変わらないわね。彼の存在こそが、私にとっての最高傑作の証。



「さぁ、行こうレティシア」



 アナスタシスは優雅に微笑み、私に手を差し出す。その仕草さえも、まるで王子様のようだ。



「お手をどうぞ」



 その言葉に、私は迷わず彼の手を取った。

 彼に手を引かれて、会場にいる全員からの視線を浴びながら歩く。


 ねぇ、アナスタシス。私はね、この瞬間のあなたが一番素敵に見えるの。


 周囲の令嬢から、冷ややかな目線が私に向けられている。既に婚約済みだと言っても、アナスタシスを狙っている令嬢はけして少なくない。みんな、私の婚約者が欲しいと思っているのよ。少し隙も見逃さないように、あなたを狙っている。


 あぁ最高、私はこの瞬間が1番好きなの。この感覚はなに? 優越感ってやつなのかしら?


 アナスタシスが贈ってくれたドレスには、ピンクダイヤモンドがふんだんに散りばめられている。

 会場の中でこのドレス以上に美しく上等なものを見つけることはできないだろう。



「今日のレティシアは一段と美しいね」


「本当ですか? 嬉しい⋯あなたもとっても素敵ですよ、公子♡」


「君に褒められるのが一番嬉しいよ」


「ふふ、私もです。私たち、何だか似ていますね」


「そうかな? 僕はそうは思わないよ。僕は、君のように愛らしくはないからね」


「えへへ」



 愛らしい少女を演じて、いつまでも完璧に。

 私はこのまま、彼と結婚して、公爵夫人になって、最高に幸せに暮らすのよ。

 この帝国の誰よりも、私は幸せになるの。


 私は公爵令息であるアナスタシス公子のことを、心から尊敬している。ただ、それだけでいい。


 この結婚に愛はいらない。

 私の人生に、私情は必要無い。






∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





「やはり、ティアルジ公爵家のお屋敷はとても素敵ですね。何度来てもこの素晴らしさに圧倒されてしまいますわ」


「レティシア、君に気に入ってもらえたなら嬉しいよ。よければ後で一緒に庭園に行かないか? 風に当たりながら散歩でもしよう」


「まぁ嬉しいです、公子様がよろしいのでしたら是非♡」



 笑顔を浮かべ、あえて少し照れたように言ってみせる。

 彼の気を引くためならこれくらいは当然のこと。

 愛想良く、相手に気に入られるように。笑顔を振りまいていれば、相手は必然的に自分に好意を向けてくれるのだから。



「僕は皇子と話があるから少し待っていてくれるかい?」


「もちろんです、それではあちらのあたりにいるので終わり次第来てくださいね」


「分かったよ、すぐに君の元へ行くと約束するさ。何せ、僕は心配なんだ」


「心配? あら、どうしてですか?」


「アスタリア帝国の天使様は、人を虜にするのがとても得意なようなので」



 アナスタシスは話しながら、視線を横へずらした。

 私もそのまま、同じ方向を見るとそこに居たのは数名の令息たちの姿が。


 あぁ、そう言えば何度か言い寄られたことがあったような。鬱陶しいのよね、ほんと。まぁ、美しい私に惚れるなという方が無茶な話かしら。


 でも、今回ばかりは貴方たちモブ男さんたちに感謝してあげるわ。

 だって、彼の関心を引けたのだから。



「あら、それは私だって同じ思いですよ公子」



 アナスタシスに好意を持つ令嬢たちの目が、敵意として私に向けられている。

 それだけで、私の存在が一層輝いているように感じるの。


 アナスタシスから向けられる好意は、何とも心地が良い。

 だって、令嬢たちがアナスタシスに向ける好意が、そのまま私にも来ているような感覚になるから。

 価値のある存在が、私を想っている。それって、最高。


 アナスタシスは権力だけじゃなくて、容姿にだって優れている。

 『花よりも美しい花公子』なんてダッサイ呼び名がつくほど美しい容姿の持ち主。

 白がかった黄金の髪に、青い瞳を持つ、とても魅力的な人。私と並んでも、何ら引け目を取らない。


 かわいい私と、かっこいい次期公爵。どう? みんな私が羨ましいでしょ? もっともっと、羨んでちょうだい。その嫉妬が、私の心を満たしてくれるから。


 私は、この世に生まれたその時から百戦錬磨。

 美しい容姿に、絶対的権力。私の人生、イージーモード。


 それを証明してくれる、薬指にはめられた光り輝く婚約指輪。

 容姿が整っていないと、スタートラインにも立てない。そんな人生、ありえないよね? 私なら、首を吊って死んでやる。

 

 愛されない人生なんて、絶対に嫌よ。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





「最低っ!!」



 その一言が、まるで鋭い矢のように会場を貫いた。

 私が目を見開く間もなく、リアナ嬢が手に持っていたシャンパングラスを振りかけてきた。冷たい液体が私のドレスに浴びせられ、ひんやりとした感触が一気に広がる。


 …完璧な私が、この小生意気な男爵の娘にシャンパンをぶっかけられなきゃいけないの?



「私のオリバー様を返してちょうだい!!」



 必死な叫びが耳に残り、キーンと耳障りな声が頭に残る。



「⋯どうか落ち着いてください、リアナ嬢。突然どうされたのですか? みなさん驚いていらっしゃるじゃないですか」



 心を必死に落ち着かせて、私は冷静に声をかけた。それでも、リアナ嬢の怒りは収まらないようで、その目はさらに鋭く私を激しく睨みつける。



「しらばっくれたって無駄よ!!」


「そう言われましても…」



 あぁもう、うるさい。私が質問しているのだから、ちゃんと答えなさいよ。


 リアナ嬢の叫びに、会場の雰囲気が一気に凍りつく。

 周囲を軽く見渡し、公爵やお父様、アナスタシスの姿が見当たらないことを確認して、少しだけ安心した。年に一度の大事なパーティーで騒ぎを起こしてしまったとなれば、ティアルジ公爵に合わせる顔がないわ。


 それに、アナスタシスにはシャンパンで濡れた不細工な私を見せたくない。


 シャンパンで濡れたドレスを見て、また少し怒りが湧き上がる。アナスタシスが贈ってくれたドレスは、目も当てられないほど悲惨な状態になっていた。


 あぁ、本当に最悪。



「貴女のせいでオリバー様が私と婚約を解消すると言ってきたのよ!」



 はい? それが私になんの関係があるっていうのよ。



「あら、それはまた大変なことになりましたね」



『レティシア嬢がオリバー子爵を?』

『まさか! レティシア様にはアナスタシス様がいるじゃないか』

『いえ、でもわたくし聞いたことがありますわ。』


『レティシア様は、悪女のようなお方だって!!』



 周りにいる貴族たちからの陰口が聞こえてくる。


 悪女⋯⋯確かに、一部の令嬢たちからはそう呼ばれていると聞いたことがあるわ。

 こそこそと憎たらしい、不満があるなら直接言いなさいよ。隠れてこそこそ話すなんて情けない。



「なに他人事言ってるのよ、貴女がオリバー様をたぶらかしたせいでしょ?!」


「はて、何のことを言っているのか私には全く…」



 顎に手を添えて、こてん。と、首をかしげてみると。

 ひそひそと噂をしていた人々の中の男性たちは『なんてかわいらしいんだ⋯』と、情けない声を漏らした。

 

 そうです、私かわいいの。

 だから、さっさとみんな私の前から消えなさいよ。いつもの都合の良い人間に戻ってちょうだい。



「貴女の笑顔はいつも作り物! 男に媚びてばっかり! その角度も、自分がかわいいと思ってやってるんでしょう?!」


「そんなことはけして⋯」



 まぁ、正解だけど。

 うーん、でも百点はあげれないわね。半分正解、半分不正解。リアナ嬢、あんたは精々五十点くらいよ。

 笑顔が作り物なのはホント、でも、それ以外は違う。だって私はわざわざ意識しなくってもかわいいもの。



「ですがリアナ嬢を不快にさせてしまったのなら謝罪いたしますわ。⋯⋯あぁ、ごめんなさい。嫌だ私ったら、皆様の前で涙を流してしまうなんて」



『レティシア嬢が泣いているぞ!』

『やっぱりリアナ嬢の言っていることは嘘だったんだ』

『なんて可哀想なお方だ』


 …同情を誘うのは簡単。


 少し涙を見せて、反省したふりを見せれば良い。


 昔から、私が涙を見せて怯まなかった人はいないわ。


 真実を覗けば、どちらが悪いかなんて一目瞭然な出来事だったとしても、大抵の事は真実かどうかなんて関係ないのよ。

 後々正したところで、一度人の記憶に残ったものは中々書き換えることはできない。


 それは小綺麗な容姿をした人間が、初対面で好印象を持たれることと同じこと。

 大切なのは第一印象、そのあとはどうにでもできてしまう。


 その点は、私は問題ない。


 全部計算、計算、計算。

 私はいつだってかわいく、完璧な淑女を演じて見せる。自分の持っている武器を使って、戦うの。


 この社交界では、自分の持つ才能をうまく使いこなせる人が勝つのよ。


 貴女はそれを理解できていなかった。

 理性を失って、感情のままに行動してしまった。その時点でリアナ嬢、貴女は私に負けているの。



「ごめんなさい、失礼いたしますわ」



 目に大粒の涙を溜めて、口元に手を添える。

 顔を隠すように見せて、肝心なところは周囲に見えるように。



「ちょっ、待ちなさいよ!」



 はい、謝ってあげたんだからもうこれでいいでしょ。

 涙を流してこの場を去る、これが私にできる一番の対処。


 令息たちからは同情が買えるし、よっぽど馬鹿じゃない令嬢たちからは少しくらい同情してもらえるでしょ。


 はいはい、おしまいおしまい! さっさと家に帰ろう、美味しいご飯食べて甘いお菓子食べてゆっくり寝る!

 そうしたら、このイライラも少しは落ち着くはずよ。


 とは言ったものの…



「お父様、まだかしら」



 今日のティアルジ家のパーティーにはお父様と来ている。恐らく、別室で友人たちと政治の話でもしているのだろう。

 馬車は一つしかないから帰ることはできない。かといって飛び出してきた手前、会場に戻ることもできないし。


 私はふらふらと歩き、パーティー会場の裏にある静かな庭園へと向かった。

 暗がりの中、冷たい風が私の頬をかすめる。シャンパンで濡れたドレスが体にまとわりつき、冷たさが身に沁みていく。たった数分でこれだけ冷え込むなんて。


 会場を去る際、見覚えのある令嬢たちの声がよく聞こえてきた。

 「自業自得」だとか、「やっぱりそうだったのね」とか、挙句の果てには「私はわかっていましたの」なんて言っている人も居た。


 あんた達に、私の何がわかるっていうの?


 苛立ちが抑えられない。ああ最悪、こんなことになるんだったら、仮病でも使って部屋にひきこもっているべきだったわ。


 その時。背後から、声が掛けられた。



「レティシア・フォンディア、やっと見つけたわよ!!」



 声を聞いた瞬間、身体がピクッと反応した。

 冷たい空気の中、怒気を含んだその声に、無意識に身構えてしまう。


 リアナ・アンジール――あの女の声だ。


 私は軽くため息をつき、淡々と答える。



「まだなにか、私にご用があるのですか?」



 リアナは荒々しく足音を立て、私の前に立ちふさがる。



「なによ、その言い方!」


「⋯なにか問題でも?」



 うるさい…。うるさい、うるさい。



「っ、あなたは私のオリバー様を奪ったのよ!! お願いだから、返してよ!!」  



 オリバー子爵が遊び人だということは、周知の事実だ。一人の女性に絞らず、色んな令嬢に手を出す女好き子爵...それが彼の呼び名。それを婚約者である貴女が知らないはずないでしょうに。



「まぁ、私のせいにしておけば楽になれるのでしょうけど。リアナ嬢、いい加減呆れてしまいますね」



 もう春だとは言っても、まだまだ外はまだ肌寒い。シャンパンに濡れた体は濡れた衣類で冷え切っている。

 寒空の中、数分濡れた状態で居たから、芯から冷え切ってしまっている。

 パーティー会場で恥をかかされて、罵倒されて、寒さにも苦しめられて。


 …どいつもこいつも、私が何をしたっていうのよ。


 私はかわいい女の子。

物心がついた時から、誰からにも愛されるような少女を演じてきた。

 伯爵家の令嬢として相応しいように、この綺麗な顔に似合うように。清楚で淑女らしく、優雅に振舞うの。

私はそれをしてきた。だからこそ、私は胸を張って言えるの。

 私の人生は、私自身は美しいと。

 誰にも汚い部分なんて見せない。いつだって、完璧にね。


 ・・・でも、今日はとても腹が立っていたから。



「…はあ、貴女は本当にうるさいですね」



 ついつい、本音が漏れ出てしまった。


 冷たく、はっきりとした言葉が口をついて出る。

 押さえ込んでいた感情が爆発寸前。いや、既に爆発しているかもしれない。

 普段の私なら、こんな風に感情を露わにすることなんてなかったのに。



「しょうがないでしょう? 私は何もしていませんよ、それが事実です。貴女みたいな人に、この私が嫉妬したとでも言うの? はっ、バカじゃないの?」



 長年ため込んでいたものを吐き出すように、鋭い言葉が次々と出てきた。



「レティシア・フォンディア…! あんた、ついに本性出したわね…!」


「いやだわリアナ嬢、出しただなんて人聞き悪い。隠せない貴女の方がバカなんですよ。生憎、私には他人の物なんていりません。それに、子爵の男なんて私には釣り合わないでしょ?」



 分かったら、さっさと私の前から消えなさいよ。


 この場にはリアナ嬢と私しかいない。公爵家の裏側の庭園は、滅多に人の立ち寄らない穴場だ。

 だからと言って、絶対に人が立ち寄らないかと言われればそうでもない。だから、こんな言葉遣いをするのはとてもリスキー。それは私も重々理解している。


 …それでも私は伯爵家の娘として、情けないかもしれないけど、誇りとプライドを持っているの。私は、このまま言われるだけではいられない。



「っ、貴女ねえ…!!」


「⋯本当に自分の立場を分かられていないようですね」



 その瞬間、私の口から出た声は普段の甘ったるいものではなかった。自分でも驚くほど、鋭く、冷徹に響いた。



「…どういう意味よ」



 リアナ嬢の目がぎらぎらと輝く。もしかして、今になって焦っているのかしら。


 その反応。もしかして、彼女は本当に今の状況に気づいていないのだろうか?



「だから、許してあげるって言ってるのよ。」



 私がそう言うと、リアナ嬢の表情が一瞬で固まる。まるで凍りついたかのように、顔が青ざめていった。


 何を勘違いしているのか分からないけれど、このアホな小娘はさっきから正気なのか。誰が誰に、ものを言っているのかって話よ。


 リアナ嬢が因縁を吹っかけてきた時、私は貴女をあの場で責めることも言い返すこともなく去った。

 でもそれは、周囲の目を気にしたからの話。私はリアナ嬢に対して、反省の感情など一ミリも持っていない。全ては、自分のためのこと。


 そもそもの話、私が周囲の目を気にする必要など初めから無い。

 私は伯爵家の娘であり、公爵令息の婚約者。

 公爵やお父様、アナスタシス公爵令息が居ないあの場でなら、身分の一番高い人間は私になる。

 身分が全てのこの世界で、上の者が下の者を気遣う必要なんてない。


 だから貴女を見逃してあげたのは、私の気まぐれであり、自分自身を美しく見せようと思っただけの話。

 けして貴女に恐れたわけでも、自分に非があるとも思っていない。



「っ、なんで、貴女がっ! …上からなのよ、」



 リアナ嬢の方へ足を進めると、威勢よく鳴いていた声は段々と大人しくなった。


 これじゃあ、まるで子犬じゃない。

 小さくて、プルプルと震えて、うるさい。小さい自分を守るために大声でキャンキャンと鳴くの。こういうのをなんて言うんだっけ?

 あぁそうだったそうだった、負け犬の遠吠えだ。


 まぁ、犬はかわいいけどこの子はブスね。



「ねぇ、なにか勘違いをしていないかしら? 私は上よ、貴女の何倍もね。貴女は雑魚男爵の娘で私は伯爵家の娘、レベルが違うのよ。…振られた可哀想な貴女を不憫に思って今回は許してやるって言ってるの。分かる?」



 リアナ嬢との距離はわずか三十センチほど

 百六十センチの私に比べて、リアナ嬢の身長は百五十くらいかしら。その身長差から、彼女の目の前に立つと、私は必然的に見下ろす体制になる。



「私がやろうと思えば、貴女の家なんて簡単に潰せちゃうのよ。」


「い、いや、それは辞め、……ご、ごめん、なさ」


「リアナ・アンジール。…アンジール男爵家、そういえばお父様から聞いたわよ? 最近上手くいっていないんですってね。爵位も微妙でおまけに貧乏なんて、大変お辛いでしょうに」


「それは、」


「ねえ、オリバー・フランクは本当に私だけが理由なのかしら? ただ、貴女に愛想がつきただけじゃなくて?」



 私がそういうと、本当にどこか心当たりがあったのか、リアナ嬢の顔はみるみると顔が青ざめていった。


 少し、リアナ嬢が可哀想だと思った。

 でもね、可哀想って感情はね。あくまで自分の立場が相手よりも上だと理解していて出る感情なの。


『なんて惨めで、可哀想なんだろう。あぁ、私はこんな子じゃなくてよかった!』


 皆、表向きには善人ぶったって心の奥底ではそんなもんよ。



「さぁ、自分の立場が分かったのなら貴女の頼りないお父様に謝ってくることね。私が、お父様に言う前に」


「そんな⋯! も、申し訳ございませんでしたレティシア様、謝ります。謝りますから、どうか!」


「気安く名前を呼ばないでくれるかしら。……はあ、もういいわ。疲れたからさっさと目の前から消えてちょうだい」


「は、はい…!」



 さっきまでの圧はどこへ行ったのやら。

 リアナ嬢は小さく震えながら、私の前から去って行った後ろ姿は背中が小さく見えた。


 何だが、スッキリしたわね。

 異性間のトラブルで令嬢たちから嫌味を言われることは少なくない。

でも、いつもは言い返さずに我慢してばかりだったからこうして、思ったことをいえてとってもスッキリした。



 これで、明日からはいつもの私に戻るのよ。

 かわいくて、賢くて、淑女な私として演じるの。


そして、私の人生は輝かしいものになる。

⋯⋯いいえ、するのよ。

私が私を幸せにする。自分を幸せにできるのは、自分だけ。


 まるで、童話に出てくるようなお姫様みたいに。キラキラしてて、輝かしい未来を目指して。

 だって、物語の最後に笑うのは。『かわいい』顔をした女の子だから。


 私は、幸せになるの。幸せに…



「…レティシア?」



 庭園の静寂の中、突然、私の名前を呼ぶ声が響いた。

 聞き覚えのある声。頭を使わなくとも、その声の持ち主が誰かということくらいは簡単に察しがついた。



 ・・・あぁ、今日は本当についていないみたいね。



「…あら、公子。」



 顔を上げると、予想通りそこに立っていたのは私の婚約者、アナスタシス・ティアルジだった。



「レティシア…?」



 今まで作り上げてきた、私のキャラ。

 伯爵家の一人娘、純粋無垢なお嬢様。誰に対しても親切で優しい、かわいらしい令嬢。


 アナスタシスの、公爵令息の婚約者として。恥の無いように私なりに、頑張ってきたつもりよ。

 他の令嬢から悪女だなんだと言われようが、私は徹底して自分のキャラを崩さなかった。

 

 公爵家の息子の婚約者でいるために。私が幸せになるために。

 私が、私でいるために。


 …でも、もういいかしら。

 だって、疲れたもの。

 それに、アナスタシスはとても賢い人だから、今更言い訳したって無駄。


 あぁ、私が望んでいたものは本当にこれだったのかしら。

 美しい王子様と結ばれるための美しいお姫様役が、こんなにも疲れるものだとは思ってもいなかった。



「どうしてこちらに?」


「…言ったでしょう、あとで庭園を案内すると」



 何をどう言っても、今更取り繕っても無駄だと感じさせる冷たい声色…。

 なによ、私に話しかける時はいつだって甘く優しい声色だったじゃない。



「そういえばそうでしたっけ。あはは、忘れていました、ごめんなさい。」



 私は笑顔で応じる。

 別に、笑顔を作ろうなんて意識はしていない。きっと、長年彼の前で笑顔を作り続けた名残だろう、その笑顔は意識せずとも勝手に浮かんだ。



「レティシア、君は...!」



 アナスタシスの必死な声を聞いても、私の心はピクリとも動じない。

 優しい彼のことだから、私がすべてを打ち明ければきっと彼も私を理解してくれるだろう。

 だって、彼が私を愛していたことはずっと、感じていたから。


 でも、もう全部遅いのよ。



「リアナ嬢の言っていたことは何一つ間違っていませんよ」



 アナスタシスの声を遮るようにして、話し始める。

 問いただされるくらいならば、いっそのこと自分から自白してしまおうじゃないか。

 


「公子様、私悪い女なんですよ。自分のかわいさを使って、自分の価値を証明したい惨めな女なんです。あなたと婚約をしたのも自分のため。本当はあなたのことなんて全く愛していません、ごめんなさい♡  …では、そういうわけなので、さようなら。」



 その言葉は、心の中でずっと抑えていたものだった。

 ずっと隠し続けていた、私の本当の気持ち。

 ようやく、全てを言葉にして放った瞬間。心の中でプツンと何かが切れた音がした。


 はいはい、これでもうおしまい。


 バイバイ、私の理想の王子様。

あなたは優しくて優秀だから、きっと私みたいな性格の悪い女よりもずっと良い人が見つかるわよ。


 恩は感じている、愛は無くても尊敬はあった。

 あなたのために、全てを捧げられる忠誠心だって。


 …でも、結局私はあなたを利用してきた。

ごめんね、あなたはずっと私を想ってくれたのに。



「待て、レティシア!!」


「…婚約破棄の件ならきちんとお受けいたしますのでご心配なく、公子様」


「婚約破棄だと? 一体何を言っているんだ、落ち着いてゆっくり話を...」



 何を言っているのか、それはこっちのセリフよ。

 私が全て悪いのよアナスタシス。あなたを騙していた、私の責任。

 だから私の方から、あなたを解放してあげるわ。



「どうかその手を離してください、迷惑です。」



 さようなら、アナスタシス。

 あなたの持ってる才能(権力)が、大好きでしたよ。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





 リアナ嬢の事件から一週間の月日が経とうとしていた。

あの日の夜、 アナスタシスに腕を掴まれた後、力いっぱいにアナスタシスの手を振り払って、お父様の元へ走った。


 賢いお父様は私を見てすぐに只ならぬ状況だと察し、私を連れて馬車に乗り込んだ。急いで伯爵家へと戻る中で、父が見せた真剣な顔つきに、私は何も言うことができなかった。


 ティアルジ公爵の誕生日の翌日早朝。アンジール男爵とリアナ嬢が、我がフォンディア伯爵家まで謝罪に来た。


「うちのバカ娘が本当に申し訳ないことをした…!!」


 そう言い、アンジール男爵が地面に額を擦りつけるような勢いで私に向かって土下座をした。その横には、怯えたように震えるリアナ嬢の姿があった。


 二人がそこまでして謝っているのは、決して私のためではない。自分たちの家の名誉のためだ。


 二人が必死に頭を下げる姿は、何とも惨めで哀れだった。

 話を聞けば、庭園で私と対峙した後、本当に父親にすべてを自白してしまったそうだ。

 私よりも先に話せば許してもらえると本気で考えたのか、それとも父親にまだ力があると信じていたのか。

 まあ、どちらでもいいけれど。あまりにも無知で、愚かすぎる。


 別に、リアナ嬢を許しているわけではない。そもそも、恨んですらいない。私の恨みは、あの日の夜に返したつもりだったから。

 でも、お父様に話して助けてあげるほど情を持っているわけでもない。かといって、人生を無茶苦茶にしてやる⋯なんて感情はサラサラない。


 だから私はいつもの完璧な笑みを二人に向けた。美しく、愛らしく、可愛らしく。「お気になさらないでください」それだけ告げ、すぐに自室に戻った。


 これはどちらでもない返事。貴女たちの謝罪なんて、受け入れてあげない。


 お父様も私と同じ対応をしたそうだ。お父様自身の恨みはあるかもしれないが、私のお父様は優秀な人。けして、仕事に私情を持ち込む人ではない。


 アンジール男爵家はあのしつこいリアナ嬢を生み出した家だ。きっと、まだまだしぶとく生き残るのだろう。

 その後、リアナ嬢は自宅謹慎を一か月言い渡されたそう。男爵や男爵夫人からはかなり叱られたそうだが、そのくらいで済んで有難いと思ってほしいくらいだ。


 だが、元はといえばオリバー・フランクがふざけた理由で婚約を破棄したのが始まりだ。リアナ嬢も、一応は被害者である。

 リアナ嬢が我を忘れてまで私に歯向かったのは、愛する婚約者に一方的に別れを告げられたことがきっかけ。


 リアナ嬢は、心からオリバー・フランクを愛していたんだろう。その感情は、人間一人の理性を壊してしまうほどのものだったと…。


 恋心とは恐ろしいものだ。自分第一主義の私には、心底理解ができない。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





「やぁレティシア、会いたかったよ」



 …私は会いたくなかったですよ。


 無遠慮で手慣れた笑顔を向けてくるアナスタシスは、まるで先日のことなんて無かったかのような雰囲気だった。それが異質で、少し気味が悪い。昔から、私はその笑顔の裏で何を考えているか全く分からなかった。



「突然訪ねてくるなんて、いくら公子様でも失礼ではありませんか?」



 私が冷たく言葉を返すと、アナスタシスは少しも驚かずに、ただ微笑んでいた。



「レティシア、チェスはお好きですか?」



 なに、今、私を無視したの…?


 まるで、私の言葉が聞こえていなかったかのようにアナスタシスは話題を変えてきた。

 その澄ました顔がいつもは素敵に見えていたのに、今は憎たらしく感じてしまう。



「公子様は耳が遠いのでしょうか? とても心配ですわ、すぐに帰ってお医者様の元へ行くべきですね」



 もちろん、これはただの皮肉だ。それに気づかないほど、彼は愚鈍な人ではないはず。

 だが、彼はまるでこちらの挑発に気づいていないかのように、柔らかな微笑みを浮かべながら答える。



「僕を心配してくださるなんて本当にお優しいですね」


「…それほどでもありません」



 言葉を交わすたびに、胸の中で苛立ちがじりじりと燃え広がる。

 この人は一体何を考えているの? 私が何を言おうと、どういう態度を取ろうと、彼の笑みはまるでガラス細工のように崩れることがない。


 なんなのよ。私の本性を知ってるくせに、どうして私に構うのよ。



「はあ…それで? 今日は一体何をしにきたんですか」



 いつもならもう少し慎重に言葉を選んでいたはず。だけど、彼の存在そのものが私の理性をじわじわと崩し、そんなことすら面倒だと感じた。


 彼の微笑みは相変わらず完璧で、穏やかなものだ。だけど、その無垢さがかえって神経に触る。


 私は少し前まで、あんなにも甘い声で彼に笑いかけていたというのに。

 人生というものは、何があるか分からないわね。



「今日は君とチェスをしようと思ってね」



 チェス?  それに一体何の意味があるというの?  本当に意味が分からない。

 忙しいはずでしょうに、わざわざ私の屋敷まで来てやることがチェスだなんて。



「それは、命令でしょうか。」


「ふふ、そう言えば君は僕の願いを聞いてくれるのか?」


「えぇ、公子様からの命令でしたら、ただの伯爵令嬢の私は従う他ありませんもの。」


「ならばそういうことにしよう」



 彼の目がどこか楽しそうに輝くのを見て、私はますます眉間に皺を寄せる。


 部屋の空気は重たく、外から聞こえる鳥のさえずりが妙に耳につく。

 窓際に置かれた机と椅子、その上には彼が準備したチェス盤と駒が整然と並べられている。



「言っておきますけど、私結構強いので」



 だらだらと先日のリアナ嬢との話をされるくらいなら、さっさとチェスを終わらせて帰ってもらおう。



「レティシア嬢のチェスをする姿は何度も社交界の場で目にしたことがありますよ」


「あれは表向きに弱いふりをして相手を喜ばせてるだけです」



 私がそういっても、アナスタシスの笑顔は崩れない。

 皮肉のつもりで返した言葉だったが、彼の表情は微塵も動かない。それどころか、何か嬉しそうにすら見える。


 普通ここはやばい女だとか、悪女だとか、言うところでしょう。

 もしかして、公爵家では感情を殺すような教育でもされているの? 相手にここまで言われて、笑顔を崩さないなんて。ここまで徹底されていた笑顔は少し気味が悪い。


 …まぁ、私が言えたことではないけれど。



「おほん、ところで公子。どうして私とチェスを?」



 そもそも、この状況自体が意味不明だ。私を試しているのかそれともただの気まぐれなのか。



「美しいゲームは美しい人とするに限るからね」


「…はぁそうですか」


「謙遜したりしないのか?」


「まぁ、事実ですし」


「やっぱり面白いね、レティシアは」



 はい…? 面白いってなによ、私が美しいことが面白いってこと? それとも、ただ私を馬鹿にしているの?


 何がそこまでツボにハマっているのか。アナスタシスは、くすくすと笑っている。

 綺麗な右手を口元に添えて笑う癖は、昔から変わらない。


 その綺麗な手が私は結構好きだった、色白で羨ましいなんて思ったこともある。だって綺麗だったから。……私は綺麗なものがとても好きなので。



「…どうして、私の本性を知っててしつこく付きまわってくるんですか?」



 いつまで経っても彼が言い出さないから、ついに私から切り出してみた。この曖昧な空気が続くくらいなら、いっそのこと自分から本題に入ってしまおうじゃないか。



「それはまた、酷い言い方をしますね。」



 酷い? 普通の感性をしていれば、誰だってそう思うはずよ。


 公爵令息のあなたにここまで酷い言葉使いをして、無礼な真似を働いている。今までの私は全て嘘だった。あなたはその事に、もう気づいているのに。

 こんな騙し討みたいな真似をされて、怒らないほうがおかしい。


 それなのに一体何故、まだ私に会いに来たのか。



「あぁそうだ、君に手土産を持ってきたんだ」



 ...また、話を逸らした。



「...そういうところだけは礼儀正しいんですね、人の話はろくに聞かないくせに。」


「それほどでもないよ」


 

 これは嫌味なんだけど。分かっていてわざとこの対応なの? それとも、本当に気づいていないド天然なの?

 一度もぼろを出さないし、何を考えているか分からないし...。

 本性を隠さずに話せるから楽だけど、...いや、むしろ疲れるか。


 そういえば、こうして本音で話すのなんて。いつぶりだろう。

 自分のことにいつも必死で、他人の考えなんて、好意があるかないかしか考えてこなかった。

 仮面を剥がし、今私は、本当の私でいられる。…だけど、それがかえって息苦しい。



「どうぞ、召し上がってください」


「…マカロンですか?」



 彼が差し出したのは、美しい箱に丁寧に敷き詰められたマカロン。



「いりません。」


「遠慮せずにどうぞ」


「してません、いりません、どうぞお下げください」


「レティシア、朝食をとっていないだろう?顔色を見ていたら分かるさ」



 確かに最近、食事をきちんと取れていないから顔色が悪いのは事実。

 だけど、上から重ねた化粧で完璧に隠している。だから気づくはずはないのに。


 あぁもう、私はあなたのそういうところが嫌いなのよ。



「…はあ、いいですか公子。ご飯は食べたら太るんですよ」


「そりゃあ知っているとも」


「太った姿は醜い、私はそんな姿になりたくないです」


「それじゃあ体に良くないよ」



 断っても、何度もしつこく食べろと要求してくる彼に嫌気がさす。

 一体どうしてそこまで私に構うのか、善意なのか、それとも嫌がらせのつもりなのか。


 私を心配してるっていうの…?

 なによ、いい人ぶらないでちょうだい。


 あなただって本当は他の人たちと同じなんでしょ。

 私の容姿が好きで、美しい私が気に入っている。ただそれだけ。



「だったらなんですか? あなたに関係ないでしょう。」


「いいや、関係大ありさ」


「どうして!」


「だって君は、僕の大切な婚約者だから」



 まっすぐな目で私を見つめ、優しい声でそう告げたアナスタシス。



「……すぐに、婚約は解消します。そうしたら私とあなたは赤の他人です。」


「アスタリアの帝国法では、特別な理由がない限りの婚約破棄は出来ません」


「..あなたの知る私は全て偽物だったんですよ。あなただって、私の見た目が好きで話しかけてくるんでしょう? それとも、そんなことは無いと言い切るんですか?」


「その通りです」



 まっすぐな目で、即答されるとこっちが引けてしまう。


 なんで、どうして?

 子供みたいに泣きつくみたいで、悲しくなる。

 これじゃあ、私は惨めで仕方ないじゃないか。



「っ、意味が分からない! …なんなのよ、あなた。」



 私を見つめるアナスタシスの瞳は澄んでいて、その瞳に見つめられると胸が苦しくなった。



「…もういいでしょう、アナスタシス。」



 私はこの時初めて、彼のことを名前で呼んだ。

 公爵家の跡継ぎ、アナスタシス・ティアルジ公爵令息に対してではない。完璧超人の公子様に対してではない。


 アナスタシス、あなた自身に言うのよ。



「私をからかって遊びたいんですか? それとも、今まで騙していたことをお怒りで? それならばあなたの気が済むまで謝罪します、慰謝料だって払います。」



 私にだって、プライドはある。

 これ以上、あなたのペースに巻き込まれたくない。あなたと話をすると、胸が苦しくってたまらないの。

 必死に我慢しているけれど、今にでも涙が零れ落ちてしまいそうなの。


 お願い、アナスタシス。もう、終わらせてちょうだい。



「君と婚約解消は絶対にしないよ」


「お断りします。私は、幸せになりたいので」


「僕が幸せにして見せるよ」


「私は、私の本性を知らない相手と結婚したいんです」


「ははっ、それは果たして幸せなのか?」



 返す言葉が無い。あなたの言うことはいつだって正しい。

 でもね、私の人生に正しさなんて必要ないのよ。



「君が本当に望んでいるのは、それだけじゃないだろう?」



 彼の目が私を見据える。その真っ直ぐな視線が嫌だった。

 何もかも見透かされているようで、怖いの。



「私はもう、自由になりたいのです」


「自由になるために、僕を君の持ち駒から切り捨てるのか?」



 私は彼の言葉に静かに頷く。


 必死に感情を抑え込もうとする私に、アナスタシスは微笑んだ。

 嫌味でもなく、冷笑でもなく、本当に優しい笑顔だった。それが余計に私を不愉快にさせた。



「レティシア、君は僕にどうして欲しいんだ?」


「私は、あなたと一緒にいると疲れるんですよ。」



 自分でも驚くほど直球の言葉が口をついて出た。



「そうか、それは申し訳ないね」


「冗談ではありません、私は本気で言ってるんです!」


「僕も本気だよ。君が疲れているなら、それを少しでも軽くしたい。そう思っているだけさ」



 なんで怒らないの? 少しくらい怒ってくれたっていいじゃない。あなたの考えることがわからない。どうしていつもそんなに他人事のように言えるの?



「…どうしていつも、余裕でいられるのよ」



 声が震える。そう呟いた私の言葉に、彼は目を細めた。「うーん」とわざとらしく声を出して、考える素振りまで見せて。



「君には、僕が余裕に見えているんだね。」



 「困ったな」と、笑うと。彼は、私の方に向かって手を伸ばした。

 私の顔に触れる…そう思ったが、数センチ前で彼の手は止まった。



「でも、ごめんね。……僕は君を簡単に手放せるほど、余裕は無いんだ。」



 アナスタシスはいつもの穏やかな声色ではなく、少し寂しげな声色でそう告げた。



「もう帰ってください、お願いします。婚約解消の話はまた後日お手紙をお送りしますので」


「また会いに来るよ」


「聞いていました? もうあなたとはお会いしたくありません。だからあなたもさっさと新しい相手を見つけてください」


「また来るよ、君がわかってくれるまで毎日。それじゃあまたね、レティシア」



 彼は私に向かって、キザにウィンクを軽く決めて部屋を出て行った。


 「また来るよ」という言葉が、胸の奥に波紋を広げる。

 その波紋は、どこか心地よいもののようにも思えたけれど、私はその感覚を急いで振り払った。



「……完全に、無視ね。はあ。」



 体の思うままに机に伏せる。


 どうしてアナスタシスは婚約破棄に同意してくれないのか。どうして私にチェスなんて申し込んできたのか。どうして、私を離してくれないのか。


 疑問はいくつも浮かぶが、今私が一番に考えなければいけないことは、これから先どうすればいいのかということ。


 今日の私は、到底完璧な淑女とは言えなかった。

 普段ならもっと、冷静沈着に頭を使って試行錯誤できたはずなのに。子供みたいに、なんで、どうして、嫌だ、繰り返しそう言葉を並べてしまった。


 やっぱり、私はアナスタシスの前だとどうも調子が狂ってしまう。


 チェス盤に置かれたキングとクイーンの駒を見つめ、そっとそれを手に取った。

 冷たい駒の感触が手のひらに広がるたび、心の中に湧き上がる感情が押し寄せた。



「お嬢様、失礼します。……大丈夫ですか? 公子様は帰られたようですが」



 メイドの声に顔を上げると、私は精一杯の微笑を作った。



「ええ、少しチェスをしただけよ。彼ったら、急用を思い出したそうなの。」



 あのね、本当はね、アナスタシス。

 私、本当は……



「それと、今後アナスタシス様が訪ねてきても、絶対に通さないでちょうだい」



 ずっと、あなたのそばに居たかったのよ。

 あなたと結婚して、幸せになりたかったの。


 私の、めんどくさくて、汚くて、酷い性格は。

 あなたにバレてしまったけど。


 この感情だけは絶対にあなたに暴かせない。


 だからさようなら、私の王子様。

 あなただけが私を本物のお姫様にしてくれると思ったけど。

 私みたいな人間は、やっぱりあなたのような素敵な人間には釣り合わないみたい。


 私にあなたは、あまりにも眩しすぎたから。






∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴








「お嬢様、本日も公子様が来られているのですが…」


「…悪いけど、いつものようにしてちょうだい」



 昼過ぎ、静かな午後のひととき。メイドの顔に浮かんだ、申し訳なさそうな表情を見て、心の中でため息をつく。


 もう、お願いだからそんな顔をしないでよ。私が悪いんだから気にしなくていいのに、そんな顔をされてしまったら私の方が申し訳なくなってしまうじゃない。

 何度もあの何考えてるか分からない公子の相手させてしまって本当に申し訳ないと思っているわ。



「かしこまりました、お嬢様の命令通りにさせていただきます」


「お願いね。」



 アナスタシスは言っていた通り、毎日私に会いに来た。

 公子のくせに暇なの? なんて、悪態をつく元気さえ今の私には残っていない。


 彼にはもう会いたくない。

 お互いの立場上、社交界の場で顔を合わせることはあっても、二人きりで会うことは今後二度とない。


 だから何度アナスタシスが家へ来ようとも、メイドに指示をしてアナスタシスを謁見室に通し、そのまま帰らすようにした。


 彼は毎度「また来る」とメイドに伝言を残した。

 この数日間は、アナスタシスの後ろ姿を毎日見ている。


 アナスタシスが来たと同時に、すぐに帰ってもらうようにメイドに指示をする。それから少しすると、自室の窓から彼の後ろ姿が見えていた。


 今日もまた、彼の姿が見えるだろう。


 …もうすぐ。見えるはず。


 …見えて、


 ………あれ?



「何よ、今日はちょっと遅いわね。」



 何かあったのかしら、もしかしてメイドに無理にでも私を呼ぶように言ってたりしないわよね。

 ……いや、彼はそんなことはしないはず。アナスタシスは誰に対しても優しく、決して強要するようなことはしない人だから。


 それなら、どうして。

 もしかして、彼の身に何かあったんじゃ…。


 心の中で呟いた言葉が、次第に不安へと変わる。



「きゃあぁっ!! だ、大丈夫ですか公子様!!」



 その瞬間、一階から女性の悲鳴が聞こえてきた。



「…うそ、なに?」



 な、なによ、何があったの。

 一体、誰の声? 悲鳴…もしかして、侵入者? この警備が厳重な伯爵家に?


 彼は、彼は、無事なの。

 アナスタシスは、無事なの…?


 考えるよりも先に、体が動いた。

 それは、計算をしてばかりの人生だった私の人生で初めてのことだった。


 急いで一回階の謁見室へ向かい、勢いよく扉を開ける。

 すると、そこにいたのは地面に座り込んでいるメイドの姿と、背中を向けて立っているアナスタシスの姿。



「アナスタシス!! …公子?」



 言葉が震え、口から出た。

 私の呼び声に、アナスタシスは振り返り、いつもと同じ笑顔で優しく微笑む。



「やぁレティシア。やっぱり、君は来てくれると信じていたよ!」



 こんな状況で、彼がどうしてこんなにも平然としているのか理解できなかった。私の目の前で、一体何が起こっているの?



「…どういうことですか」



 混乱の中でただ言葉を発することしかできなかった。


 まさか、メイドが私を騙した?


 目線をメイドに向けると、顔面蒼白で何が起きたのか分からないという様子のメイドが震えて座り込んでいた。これが演技だとは到底思えなかった。



「少し、怪我をしてしまったんだ」



 そういうと、アナスタシスは自身の右手を私に見せた。

 彼の右手には赤く染まった血が、少しずつ滴り落ちていた。傷口からは血がにじみ出て、鮮やかな赤が彼の手を覆っている。



「…刺したのですか、自分で。」



 震える声でそう聞くと、彼はいつものように笑顔を浮かべた。


 明るく、穏やかに笑う彼の顔は、まるで物語に出てくるヒーローのように爽やかだった。

 だけど、彼の見せた右手の甲は、その笑顔に全く似合わない真っ赤に染まった血が主張している。


 こんな時、純粋で優しくて、性格の良い、本物のヒロインならどう声をかけただろうか。

 きっと、彼の手を取って支えるのが本物のヒロインの姿だろう。

 側だけが美しく、中身が醜い私はただ、彼の血塗られた手に触れることも駆け寄ることもできず、呆然と見つめることしかできないでいる。



「少し、手が滑ってしまったんだ」



 その言葉は私をさらに混乱させた。


 手が滑った? そんなのありえない。どう手が滑ったら、そんな怪我をするのよ!


 疑問に思いながら周囲を見渡すと、無造作に置かれたナイフが目に入る。


 これで彼は刺したんだ、このナイフで、自分自身の手を。


 ………メイドを叫ばして、私を呼ぶために?



「…貴女、もう下がっていいわよ」


「ですがお嬢様、」


「いいから!!」


「か、かしこまりました…」



 いつもの能天気なお嬢様とは全く様子の違う主人を見て、メイドは驚きのあまり急いで部屋を飛び出した。



「僕を心配してくれたのか? 優しいなぁ、レティシアは」


「……なんで」


「うん?」


「なんで、どうしてこんなことをしたんですか! 傷跡が残ったら、どうするんですか⋯」



 私が必死に訴えても、アナスタシスは相変わらずの笑顔で答える。



「レティシアは僕の手を良く褒めてくれていたからね。大丈夫、こんな傷すぐに治るさ」



 どうして、どうしていつも笑顔なのよ。

 治るとか、そういう問題じゃない。あなたが今、怪我をしていることが問題なのよ。



「そうじゃなくて!! 私を呼び出したかったのなら、なんだって使えばいいじゃないですか。あなたは公爵令息で私はただの伯爵令嬢、呼び出す方法なら沢山あるのに!!」



 言葉が次々にこぼれ落ちる。彼がどうしてこんなことをしたのか、理解できなかった。

 唇が震えて、上手く声が出せない。どうしてなの、本当にどうして。



「うん、そうだね。⋯強いて言うなら、君の愛を確かめたかったからとか?」


「は、はあ? 愛って、なんですかそれ⋯」



 その言い方なんて、それじゃあまるで…。まるで…!!



「そんな言い方、まるで、あなたが私を好きみたいじゃないですか…」



 もう、勘違いするようなことは辞めていただきたい。

 リアナ嬢の件で、この私の本性があなたにバレた時、これでよかったと思ったの。

 ずっと、あなたを騙していることに対して、心のどこかで罪悪感を感じていたから。


 だから、あなたがいっそのこと、騙しやがったなこのクソ女! くらい、言い切ってくれたなら。最低だって、みんなのように、私を悪女と呼んでくれれば…。



「僕は君が好きだよ」



 …あなたを諦めることができたのに。



「…私は嫌いです、大嫌い、あなたのことなんて嫌いです」


「本当に?」



 あなたに心を読まれないように、唇を必死に噛みしめて表情を隠してみても⋯。きっと、賢いあなたのことだから、私の考えていることなんて手に取るように分かるのでしょう。


 私の顔を覗く彼の顔は、いつもと変わらない完璧な笑顔。

 作られたような笑顔、私はその笑顔が嫌いだった。


 その笑顔は、どこか私と似ていたから。

 今思うと、私と彼の共通点はそのくらいだったかもしれない。

 作られた、完璧な笑顔。相手の機嫌を伺った嘘の笑顔。いつだって、その笑顔を崩さない。私も、彼も。

 でも、先に崩してしまったのは私だ。だから、私から別れを切り出しているのに。


 どうしてあなたは、私の手を離してくれないの…?



「ほんと…」


「君は本当に、可哀想な人だ」



 『本当です』そう、答えようとしたとき。彼は私の言葉を遮った。


 …可哀想ですって? この、私が?



「……どういう意味ですか?」



 話し出したかと思えば、あなたは今、私が可哀想だって言ったの?


 …いや、そんなのありえないでしょ。

 私は美しい容姿を持っていて、強い権力を持っていて、それで、親はお金持ちで! あと、それから、それから……



「そのままの意味さ、レティシア。…いつまでも満たされない、可哀想な人間。」



 彼はそう言うと、ずっと上がりっぱなしだった口角を下げた。…それは、初めて見る彼の顔だった。


 その顔は、何を考えている時の顔なの。どうして、そんな顔をするの?

 私が嫌いなの? 好きだって言ってくれた言葉はやっぱり、私をからかっていたの?



「なに、やっぱり、怒ってるんでしょう?」


「怒っていないさ、愛する人と話していて怒る人間がどこにいる? 僕はただ、君に愛を伝えているんだよ」


「…愛?」



 さっきから彼は何度も愛だと繰り返している。


 愛、これのどこが愛だっていうの…?


 愛、恋愛、恋、ロマンス。

 どれも素敵な言葉。


 昔からお姫様と王子様が結ばれる物語が好きだった。

 とってもかっこいい王子様と、とってもかわいいお姫様が結ばれる物語。主人公の女の子が幸せになる、単純なハッピーエンドの『愛』の物語。

 私たちのこんな歪んだ関係は『愛』なんかじゃない。


 …いや、そもそも私は、純粋無垢な女の子ではない。

 その時点で、私の理想の人生計画は破綻していた。

 そのことは遥か昔から気づけていたはずのこと。それを今の今まで、自分の奥に隠しこんで。必死に、純粋無垢なお姫様を演じてきた。


 でももう、隠しきれない。

 私は分かっているの。自分が、物語のお姫様になれないってこと。



「愛だよ、レティシア。僕たちはお互いを知り、見せ合い、さらけ出したんだ。それこそが愛だろう?」


「な、なにを言って…」


「僕たちは初めてお互いをさらけ出して話せたんだ、こんなにも嬉しいことはあるか? はるか昔から分かっていたさ、君がひねくれた性格をしているってことは」


「……私の美しい容姿の裏には黒くて汚い本性が隠れていたのよ。それを知った上で、私を愛していたと言っているの?」



 分かっていたなんて、どういうことなの。

 それはつまり、庭園でのリアナ嬢の件の出来事よりもずっと前から、知っていたということ?

 自分の美しさが全てだと思っていたあの頃の自分、その裏に隠していた醜さを知ったうえで、彼は今も愛していると言っているのか。


 …そんなのありえないわ。

 だって、それなら、どうして私を突き放さなかったのよ。



「あぁ、そうさ。僕の顔色をいつも伺って、その甘い声で甘い言葉を囁く君は本当にかわいらしかったよ」



 アナスタシスは話しながら、一歩一歩、こちらへと足を進めていく。


 彼が歩み寄るにつれて、私の心はますます動揺を隠せなくなる。目の前の彼に、まるで全てが見透かされているように感じてしまう。

 どんどん近づく彼に、反射的に体が後ろへ下がる。だけど後ろは扉、逃げ場はもうない。


 彼との距離は、わずか数十センチ。



「だがやはり、素の君の方が素敵だ。愛されたくて、自分のそばからみんなが離れていくのが怖くて。誰かに好かれていないと意味がないと感じ、自分の自尊心が満たされない。そうだろ?」



 図星だ。ううん、それよりもずっと嫌な感情。ずっと隠していたものが、曝け出されてしまった。これは羞恥心でも、不快感でもない、初めて感じた感情。


 逆切れだと、そう思われてもいい。

 今、彼に言い返さなければ自分が自分で無くなってしまう。


 全てを知ってしまう。いや、気づいてしまう。

 それはダメよ。私はまだ純粋無垢なお姫様を演じて居たいの…



「うるさい!」



 その瞬間、私の手が空を切った。アナスタシスの顔を叩くつもりで振り上げたその腕は、目の前の彼によってあっさりと掴まれてしまった。



「っ、離してください!」



 必死に振り解こうとするが、アナスタシスの力は強く、身動きが取れなくなる。

 真昼の強い日差しが、二人を包み込んでいた。彼の顔は光の中でぼんやりとしか見えない。その顔が笑っているのか、それとも先ほどの冷徹な表情をしているのか、私には分からなかった。



「アナスタシス…?」



 今、あなたはいつものように笑っているの? それとも、さっきのように初めて見る表情をしているの?

 彼が笑っているならば、それは以前のようなあの温かい笑顔だろう。

 そうであって欲しい、そう心から願った。

 しかし、今の彼はどこか違う。もっと深く、まるで、私の全てを見透かしたかのような…。



「惨めで、可哀想な君を」



 その言葉は、私の心を突き刺すように響いた。



「愛しているよ、レティシア…」



 アナスタシスはそう告げると、私の唇にキスを落とした。


 それは、一瞬の出来事だった。

 まるで頭が回らない。彼の唇が、私の唇に触れた瞬間、世界が静止したように感じた。


 アナスタシスの腕が腰に回り、頬には右手が優しく置かれている。

 その手は傷を負った血塗られた手。彼の血の匂いと、彼が好んで使っていた馴染みのある香油の香りが混ざって鼻を突き、頭がくらくらとした。

 彼の手を伝って私の頬にも血がべっとりと付いてしまっており、湿った感覚が気持ち悪い。


 …私は、その時気づいてしまった。


 ううん、本当はもっと前から分かっていたの。自分が、物語に出てくるようなお姫様じゃないこと。

 お姫様を守るかっこいい王子様は、本当の私には居ない。

 だから、自分で自分を守ったの。自分自身を偽って、完璧なお姫様を演じた。そうしたら、かっこいい王子様のあなたが守ってくれると思っていたから。


 長年憧れ続けた王子様とのキスは、理想の甘いキスなんかじゃない。

 鉄の錆びた味がする、まっずいキス。


 でも、その苦味までもが私たちの愛なんだと、あなたは言うのかもしれない。


 アナスタシスと唇が触れ合った時、自分の中でぷつん、と。何かが切れ落ちる音がした。

 もっと分かりやすく言うならば、長年演じ続けた『純粋無垢なお姫様』を演じる役が降板になった音と言った方が正しいか。







少しでも面白いと思っていただけましたら、下にある☆マークから評価やお気に入り登録をお願いいたします。

いいね、感想、レビューもお持ちしております。とても励みになります⋈*.。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ