第1話: 主従関係の始まり
夜が深まり、静かな屋敷にひときわ明るい部屋がひとつあった。そこは、有馬家の書斎。机の上には資料が散乱しており、18歳の有馬怜司はその中に埋もれるようにして座っていた。窓の外では雨が静かに降り続き、規則的な雨音だけが部屋の静けさを切り裂いている。
高い背もたれの椅子に深く腰掛けた怜司は、どこか儚げな雰囲気を漂わせていた。整った顔立ちと肩まで流れる柔らかな黒髪が、いかにも“お坊ちゃま”らしい品の良さを感じさせるが、その琥珀色の瞳には幼さではなく、重荷を背負わされた若者特有の憂いが宿っていた。
「……こんなにも多くのものを背負わなくちゃならないのか。」
怜司は口をつぐみ、机に突っ伏した。書類を見ながらも、その視線はぼんやりと宙を彷徨っていた。家業を継ぐプレッシャー、周囲の期待——すべてが彼を圧し、息が詰まるような感覚に苛まれていた。
「怜司様。」
静かな声が背後から聞こえた。振り返ると、21歳の静馬が紅茶を手にして立っていた。長い黒髪を低い位置でまとめたポニーテールが特徴的で、その色白な肌は夜の薄暗い光の中でも一際映えていた。無表情でありながら、その藍色の瞳には微かな温かみが宿り、彼の穏やかな性格を物語っているようだった。
「もう遅い。お前、まだ起きてるのか?」
怜司は冷たく答えるが、その口調に焦りや不安が隠しきれないのを静馬は感じ取っていた。
「はい、ただいまお持ちしました。」
静馬は机の隅に紅茶を置く。怜司の視線が自分に向けられることはなかったが、彼の身体がどれほど疲れているかを一目で悟った。
「どうせお前には関係ないだろう。」
怜司はまた、書類を手に取るが、静馬の視線が気になって仕方ない。息苦しさと、心のどこかで求めているはずの「何か」が絡み合い、言葉にできないもどかしさが募っていく。
「怜司様。」
静馬は再び名を呼ぶ。その声は一切の感情を抑えていたが、長年の主従関係がそうさせるのか、どこか親しみを含んでいるようでもあった。
「もう少し休まれてはいかがでしょうか。無理をされると、身体にも心にも良くありません。」
怜司は静かに目を閉じ、何かを言いかけて、それを飲み込む。沈黙が続き、静馬が何か言うのを待つ間、彼の心は無意識に静馬を求めていた。
「……わかった。」
彼はようやく、心の中で答えを見つけたようだった。背を丸めたまま、紅茶を受け取る。
「ありがとな。」
小さな声で言ったその一言に、静馬は何かを感じ取った。しかし、言葉にすることはなかった。