なき王女のためのパヴァーヌを
1673年、グラーツ。エッゲンベルグ城に、クラウディアは到着していた。さすがは皇帝の国オーストリア、優美な佇まいのエッゲンベルグ城は、彼女の心に期待の気持ちを膨らませた。
「こちらが皇后陛下の居城となります。どうぞごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
「素敵なお屋敷。皇帝陛下のお心遣いに感謝いたしますわ」
何気なく伝えた言葉に、従者たちは表情を曇らせた。何せチロルでも評判の賢い皇后、クラウディアが何事かを感づかぬはずはない。すぐに従者に尋ねる。
「何かあったのですか?別段着飾ったものいいではありませんでしょう」
なにやら言いにくそうにもじもじとしている従者に対し、彼女は鼻がつきそうなほどに顔を近づける。脂汗の滲んだ鼻先をきっと睨みつけ、手荷物を御付きの者に預けると、彼女は徐に手袋を外して見せた。ついに観念した従者が、恐る恐る口を開く。
「陛下の御心がクラウディア様に向かっておられないのであります。日々めそめそと涙を流すばかりで・・・。考えたくはありませんが、婚礼の儀ももっと長引くやもと・・・」
「大変じゃありませんか!せっかく使命を持ってこちらへ赴いたというのに」
「はぁ・・・申し訳ございません」
困ったのは従者ばかりではない。クラウディアの使命は、ハプスブルク家の世継ぎを生むこと。夫が自分に興味も示さないとなれば、責められるのは子を産めない皇后クラウディアである。彼女も困り切ってこめかみを押さえる。
「わかりました・・・。では、現状を把握するために、陛下の御様子を確認したい。陛下のところにご案内頂けますか?」
「今からですか・・・?」
「今からです!」
目一杯鼻先を近づけて睨みつけると、慌てて従者が出立の支度を始める。一方で、クラウディアも凄んではみたものの、内心では心穏やかではいられない様子だ。
(私は格別美人というわけでもないし、趣味が良い御仁とは聞いているけど・・・果たしてうまく関心を与えられるかしら・・・?)
色々と考えるべきことの多い身分である故、彼女の不安も周囲に漏れだしている。付添いの人どもはひどくそわそわとしており、華美な装飾の馬車に初めて乗った平民のような様子だ。
「到着いたしました」
静かに声がかかると、クラウディアは先程の従者に連れられて、皇帝の部屋へと案内される。徐に手袋を外した彼女は、それを従者に預けると、扉に耳をぴったりとつけて、聞き耳を立てた。
皇帝のものらしい咽び泣く声が聞こえる。室内では、机に突っ伏しているのか、やや鳴き声もくぐもって聞こえた。
それとは別に、錫杖で手を叩く、リズミカルな音が聞こえる。側近の誰かが彼のお守りをしているのであろう。あやすというにはあまりにあきれた様子であったが、それもそのはずで、彼はスペイン女のことをひどく嫌悪していたのだ。そんな顔も知らない側近の声を聞こうと、辛抱強く冷たい扉が人肌を得るまで耳を押し当てていると、ついに痺れを切らした側近の男が、皇帝に声を掛けた。
「陛下。お世継ぎを生むという大事なご使命が御座います。クラウディア様がいかに優れたご容姿をお持ちでないとしましても、いつまでも過ぎた日々を思い出しているのではいけませんよ」
(失礼だけどでかした!)
クラウディアは目を見開いて口角を持ち上げた。その様子がひどく不気味に映ったのか、周囲の者達が驚き慌てている。彼女に「お取次ぎいたしますか」と尋ねてくるのを、クラウディアは押し退けて黙らせた。
隠すほどのことでもないが、このクラウディアという女は、とりわけ耳が良い女である。音楽には秀でた才があった。扉越しでも十分にその者の人となりを推しはかることができるほどである。
皇帝はずっと口を噤んでいるらしかった。苛立ちに満ちた貧乏ゆすりの音が聞こえる。衣擦れの音が不規則で、心に余裕のない事を物語っていた。
「陛下、いい加減にして下さらないと、ひどいではありませんか。我々家臣の顔も立てて頂きたいのです。お気に召しませんでしたら、『逃げ道』もいくらでもご用意いたしますから」
耳をつんざく破砕音が聞こえる。クラウディアは、それが複数の鍵盤に指を叩きつけた打鍵音だと、すぐに気が付いた。
「彼女は、私の唯一のマルガレーテではない・・・!」
その声は、そこに居合わせた者全てに聞こえるほど大きかった。皇帝の言葉に、居合わせた者達は言葉を失った。明確に、世継ぎを生むことを拒絶する言葉であるように思われたからだ。
クラウディアの突然の訪問に応対するために、茶菓子を運んできた娘が泣き崩れる。ハプスブルク家はこれで終わりだと、案内した従者もすっかり肩を落とした。
暫くして、クラウディアが重い口を開いた。
「ああ・・・これは重傷だわ・・・」
そう言って扉から耳を離すと、従者が差し出す手袋を拒絶して、扉をノックした。
「陛下。新妻のクラウディアが来ましたよ」
「今は会いたくはない・・・」
彼女は構わずに、鉛よりも重い扉を開けた。
分厚い唇を持つ長髪の男が、鍵盤の上に突っ伏して泣いている。立派な口髭の側近が、戸惑いながらクラウディアを見つめた。
クラウディアが視線に向けて優雅に挨拶をすると、彼は気まずそうに恭しく挨拶を返した。彼女は目配せをして人払いをする。一同は二人を残して席を立った。
ゆっくりと、扉が閉ざされる。自分と同じように、側近達が扉に耳を当てているのを、僅かな音で聞き取ったクラウディアは、意気消沈した皇帝に近づいていく。
毛虫のように丸くなった体から、たいそう背の高い人だと分かる。乱暴に押さえつけられた鍵盤が奏でる不協和音は、彼自身をひどく責め立てているようだ。
トムソン椅子に腰かけたクラウディアは、皇帝の背中を優しく撫でて慰める。ショッキングな音を立てては失礼だと気づき、彼はくしゃくしゃに歪んだ顔を持ち上げた。
立派な唇と同じほどに赤く腫れあがった瞼。皇族の血筋を物語る大きな鷲鼻と突き出た下唇。紛れもなくレオポルド一世その人であると、一目でわかる顔立ちであった。
クラウディアは優し気に目を細めると、そっと鍵盤の上に指を添える。高貴な青い血管が透き通ってみえる、白い指は繊細な運びで、音を奏で始めた。
静かな伴奏から始まり、一音一音に不思議な安らぎの籠った曲が続く。一組の貴族達が優美に踊りを披露するような、美しくも繊細な音の運びが続く。
ただ、その音の中には、一匙の寂しさと、深い温もり、膨大な懐かしさが感じられた。
『おじ様!』
『こら、グレートル、あまりはしゃぐと転んで怪我をしてしまうよ』
『だって、おじ様との観劇ですもの。楽しみじゃない筈がないでしょ?ほら、早く行きましょうよ、おじ様!』
穏やかな風が肌を撫でる。風が馨しい花の香を運ぶ。優しい光の中できらきらと輝くのは、天真爛漫な君の無邪気な笑顔だった。
何よりも楽しい時間は、君と音楽や芸術を語り合う時間。何よりも頭を悩ませた時間は、君のために曲を作る時間。何よりも悲しかった時間は、君が子を流して悲しみに打ちひしがれていた時間。
それでも、私は君が楽しそうにしていれば、それだけで楽しかった。君がどんなにか重いものを抱えていたのかも知らずに、私は甘えていたのかな。
『スペイン人の横柄な態度にはうんざりだ』
『皇后陛下が、皇子を生まないのには困ったものです』
『次もきっとお流れになるぞ。このまま亡くなってしまわれた方が、良い妃をお迎えできるのでは?』
窶れていく君のことを心配することしかできない。もどかしく、辛くも感じたが、皇帝としてどうするべきなのか、私には立ち回りが分からなかった。君が血相を変えて泣きついてきた時も、諫めることも慰めることもできそうになかった。
『おじ様、どうか私のお願いを聞いて下さい・・・。私が御子を産めないのは、ユダヤ人がいるせいです!すぐにユダヤ人を、この宮廷から追い出してください!それしか考えられないの!お願い、お願い!』
私はあの時、どうしてあげるべきだったのだろうか。優柔不断な私を許しておくれ。
レオポルドはさめざめと涙を流した。隣に座るクラウディアが奏でる音に、儚げで優美な、舞踏曲に聞き入った。
演奏が終わった時、レオポルドはクラウディアの肩にその身を預けていた。肩がしとどに濡れており、絞れば桶一杯に涙が溜まりそうなほどであった。クラウディアが、皇帝の手に手を重ねて語り掛ける。
「私は、あなたの唯一のマルガレーテ様ではありません。ただ、皇帝陛下が信じて下さるように、音には人を慰める力がございます」
彼女はその滑らかな指先で、レオポルドの手を持ち上げた。聖職者特有の温くしなやかな手を、鍵盤の上に重ねる。
「マルガレーテ様との懐かしく楽しい思い出が、いつか、あなたの心を優しく暖めて下さるまで。そして、あなたが俯く顔を持ち上げて、私のことを見て、微笑んで下さるまで・・・」
レオポルトの指先が、鍵盤を押し込む。クラウディアもまた、柔らかい音を奏でた。
「ともに奏でましょう。なき王女のためのパヴァーヌを」
『おじ様!』
「・・・グレートル!」
レオポルトが顔を上げると、そこにはクラウディアの姿があった。彼女は目を細め、柔和に、微笑んで見せる。
滞りなく、結婚式は執り行われたそうだ。