29・宰相の妻はようやく自覚する
「キ、キキョウ! 大丈夫ですか!! されたのは頬へのキスだけですか!? ほ、他に何か嫌なことはされていませんか!?」
リシャルト様は私のそばまで走ってくると、強く私の肩を掴んだ。顔をのぞき込んでくる。
リシャルト様がこんなに慌てているのを初めて見た。
ここまで慌てている人が目の前にいると、逆にこちらは冷静になるというものだ。
「だ、大丈夫ですよ。頬へキスされただけです。それに、エルウィン様にとっては挨拶なんだと思いますよ……?」
多分。
なんだかんだこの世界で暮らして16年。この国では、挨拶で頬へキスをする習慣はなかったように思うが、エルウィン様は仕事でよく外国へ行っているようだから、その影響とかもあるのかもしれない。多分。
「そんなわけはありません。エルウィン殿下は多分僕への当てつけで……!」
リシャルト様は言いながら、ポケットからハンカチを取り出し私の頬を拭った。エルウィン様は軽く触れただけだし、汚れてなんていないのに……。
「僕だってまだ、キキョウの頬にキスしたことなんてないのに……!」
ストレートに言われて、思わずかっと顔が熱くなった。
――リシャルト様は、私のこと……どう思っているんだろう。
好意は、痛いほど伝わってくる。
リシャルト様に『好き』だと言われたことがないけれど、今まで散々「幸せにしたい」だの「大切に思っている」だの言われてきた。
向けられている好意を自惚れだと思うほどには鈍くないつもりだ。
だけど、それは果たして恋愛的なものなのだろうか。
私が昔リシャルト様の命を助けたから、恩を返したいと思ってくれているだけなんじゃないのか。
求婚までされていると言うのに、好意を示す確定的な言葉を言われたことがないから、踏み切れない。
――ああ、私、踏み込みたいんだ。
ようやく私は自覚した。
私はやっぱり、リシャルト様のことが好きなんだ。
それはもう、多分なんかじゃない。
好きと言われたいし、この人の腕の中に迷うことなく飛び込みたいんだ。
「リシャルト様……。リシャルト様は私のこと、どう思っているんですか?」
――私、卑怯だ。
好きなら好きだと、自分から言えばいい。
だけれど、もしリシャルト様が恋愛的な『好き』じゃなかったら?
ほんのわずかな恐怖が首をもたげるのだ。
ついこの間、首筋にキスまでされたというのに、それでも怖いのだ。
「ど、どうしたのですか、突然。もちろん、とても大切ですよ」
リシャルト様が当たり前だとでもいうように答えてくれる。
少し前までは、その答えだけで嬉しかった。満足だった。
だけど今は、それ以上がほしい。欲張りだ。
「それは私のことを、恋愛的な意味で『好き』ということですか?」
リシャルト様を見上げる。思ってもいない一言だったのか、リシャルト様は私の言葉に一瞬驚いたようだった。
「そんなの――」
勇気がほしい。
勇気を出さなければ。
エルウィン様だって言ってくれたじゃないか。
『本人に聞いてみるといいよ』と。
リシャルト様が何かを言おうとしている。
だけど、もう言葉を止められなかった。
「私は……リシャルト様のことを、好きになってしまったんです」
「……っ!?」
リシャルト様が息を飲む。
次の瞬間、私は近くにあった部屋の中に連れ込まれていた。




