『ガラスの靴は、割れない』ーー王子様の婚約者は灰かぶりの過去を忘れて思い上がり婚約破棄される。一縷の望みをかけて魔女はガラスの靴を投げつける。
「エラ! 君との婚約を今ここで破棄する!」
「なっ!!」
絢爛豪華な舞踏会。
毎夜のように催されるそれは、民から集めた税を湯水のごとく使って行われる。
それに溺れる者。
ここぞとばかりに恩恵に与る者。
訝りながらも逆らうことはできずに、しぶしぶ参加する者。
あからさまに眉をひそめる者。
ゴマすり、媚びへつらう者。
その舞踏会に参加する貴族たちは悲喜こもごも。それぞれに思惑はあれど、王家主宰の舞踏会は今宵も華麗にドレスが舞う。
「……な、なぜですの? 殿下……」
そんな華美な舞踏会の場で突然婚約破棄を突きつけられたブロンドカラーの令嬢。ブルーの鮮やかなドレスが人目を引く、とても可憐で美し……かった、今ではしっかりと肉のついた重たい体を引きずる、お世辞にも美しいとは形容しがたい、気の強そうな眉のつり上がった高慢そうな女性。
かつての細身のブルーのドレスなどとうに着られなくなり、新たに新調された同色の豪奢なドレスは今にも張り裂けそうなほどにパツンパツンだった。
エラと呼ばれたそんな彼女はたいそう驚いた様子を見せていた。
「自分の胸に聞いてみたまえ……」
そんな彼女に婚約破棄を突きつけたのは、赤いズボンに、赤と金の刺繍がなされた白い上着を羽織った整った顔の高貴な男性。
本来の、明るく爽やかな笑顔の似合う姿はどこへやら。
疲弊しきってやつれた顔の彼はひどく悲しそうな顔をしていた。
「……君は変わった。
あのガラスの靴を落としていった時の、素朴で可憐で身も心も美しいエラはどこに行ってしまったのか」
プリンスチャーミングと呼ばれるほどに令嬢たちの視線を集めていた彼は、いつかのトキメキを夢想してシャンデリア輝く天井を見上げる。
「……どうして、どうしてこうなってしまったのか」
そして、視線を下げて目の前の現実を見下ろし、絶望したかのようにその目を曇らせた。
今は、その様子に黄色い声をあげる令嬢は一人もいない。
「なんなんですの!? いったい何が気にくわないと言うのです! はっきり言ったらどうですの!」
「……」
鼻息荒くまくし立てるエラを王子様は悲しげに見つめる。
「また黙って! そうやって黙っていればわたくしがおとなしくなるとでも思っているのでしょう!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏むエラ。
周りの貴族たちも「またか」と顔をしかめる。
一度怒りだしたエラはしばらく機嫌を直さない。
何度も褒め称え、豪華な食事と高価な贈り物を用意して、ようやくむくれた頬を元に戻していく。
舞踏会に参加している面々はそれをよく知っているため、誰もエラに近付こうとしなかった。
それはいつも、王子様の仕事だから。
だからこそ、その王子様がわざわざエラを怒らせるようなことをしてみせた事態に人々は困惑していた。
そして、それと同時に「ついに来たか」という確信めいた予感を、その場の全員が感じていた。エラ以外が。
「……もう舞踏会はやめよう。毎晩毎晩、豪華な食事と演奏会。国中の貴族を順に招いて。
おまけに気に入った者には高価な手土産まで渡して。
それらは全て、民から徴収した税でまかなわれているのだよ?」
一概に舞踏会が悪いわけではない。
王家の権威を示す役割を担っていたり、貴族たちを労ったり、貴族が王家と関わる機会になっていたり。
また、貴族が動けば金が動く。
舞踏会を催すことで経済が回ることもあるのだ。
しかし、それはある程度の間隔をおいて開催されれば、の話である。
しかもエラが催す舞踏会は決まって最高級のもてなしが提供される。
当然のように、それにかかる費用も莫大で、開催されるたびに国の赤字を塗り替えていた。
王子様はどんどん減っていく国庫を憂いて私財をも投入して、何とかエラの期待に応えてきたが、それもついに限界が訪れたのだ。
途中からは、王子様もエラの機嫌を損なわないようにと、その顔色を窺うことしかしていなかった。
「だから何だと言うんですの!?
わたくしたちは王族ですのよ! それも次の王となる王太子とその婚約者!
そんなわたくしたちのために使わずして、何のための税ですの!?」
「……エラ」
王子様は悲しげな瞳を投げ掛ける。
もう、何を言っても無駄なのだと。エラの心は贅沢に溺れてしまったのだと。
王子様はそう確信し、全てに決着をつけて決別するのだと決意を改めて固めた。
「僕は、君の期待に応えたかった。
運命だと思ったんだ。
あの舞踏会の日。君は輝いていた。
その外見の美しさや素晴らしいドレスのせいではない。
君の美しい心が、君を何よりも、誰よりも輝かせていたんだ。
だから君の去り際にガラスの靴が置かれた時、僕はそれを運命だと感じた。
それを頼りに君を探してみせろ。真実の愛を掴み取ってみせろ。
きっと、神様が僕にそう御告げになられたのだと思ったんだ」
「そう! そうですわ! これは運命ですのよ!
あの日、魔女によって舞踏会に行くことができたのも! 殿下にそこで見初めていただけたのも!
今こうして、殿下の婚約者でいられるのも!
全部全部運命なんですわ!
だからっ!!」
「……ならば、こうなるのも、もしかしたら運命だったのかもね」
「……え?」
失意のどん底のような青白い顔を見せる王子様に、さすがのエラも不安な気持ちを感じざるを得なくなっていた。
「あるいは、その魔女とやらのイタズラか……」
エラは王子様との婚約後、魔女の魔法で舞踏会まで来られたのだと話していた。その頃は、王子様に対して誠実であらねばとエラは思っていたから。
自分の力ではない。
魔女の魔法のおかげで、自分は素敵なドレスに身を包めたのだ。こうして、王子様と想い合うことができたのだ。
エラは、婚約後にすぐに王子様に正直にそう話した。
王子様はエラが正直に話してくれたことに感激し、ますますエラに惹かれた。
まさに、この出会いこそ運命だと、その魔女とやらに感謝したのだ。
だか、今はそれこそが魔女の気まぐれによるイタズラで、エラを自分にあてがって苦しむ姿をどこかで笑いながら眺めているのではないかとさえ思えていた。
「……とにかく、僕は限界だ。
父も、これ以上は看過できないと言っている。これ以上君を庇うなら、僕から王太子の資格をなくす、とも……」
「そ、そんな……」
その時にエラが見せた一瞬の表情を、王子様は見逃さなかった。
「……かつての僕なら、全てを失ってでも君といようと思っただろう。王太子としての立場を捨ててでも、君といたいと。
でも君は、そうではないのだろう?」
「え!?」
エラは王子様に指摘され、ギクリとした顔を見せた。
「王太子ではない僕に、贅沢ができなくなる僕には用はない。君は、そんな人になってしまった。
僕は国を継いで、民のために国を守っていかないといけない。
今の君には、その全てを捨ててでも一緒にいたいとは、思えないんだ……」
「……で、殿下」
「……でもね。かつての君となら、僕は本当に全てを捨ててでも一緒にいたいと思っていたんだ。それだけは、本当なんだよ」
「……」
王子様の今にも泣き出しそうな顔を見て、エラはもう元には戻れないのだと理解した。
王子様の決意はとうに固まっているのだと。
「……すまない、エラ。
今すぐ、ここを出ていってくれ」
「……」
王子様は目元を拭ったあと、そのまま俯いてしまった。
エラはその姿がいたたまれなくて、思わず周りに目をやった。
「……っ」
が、すぐにそれを後悔する。
侮蔑。怒り。あるいは嘲笑、喜び。
エラに向けられた視線は、大方そのような感情しか込められていなかったから。
同情など誰もしていない。
それは、王子様にだけ向けられていた。
エラはようやく自覚したのだ。
自分が疎まれていることに。
自分が、王子様の想いを蔑ろにしていたことに。
大事にされていたのではない。
腫れ物に触れるように、常に顔色を窺われていただけなのだ。
「……くっ」
エラは走る。
醜い肉を包み込んだドレスが限界だと裂けようとも。
とうに履けなくなったガラスの靴の代わりに仕立てた柔らかい大判のシューズが脱げようとも。
周囲の人間全てが自分を嘲笑っているような気がして、ついには膝を折って涙を流した王子様を振り返ることもなく、エラはただひたすらに転げるように王宮をあとにしたのだった。
「……これから、わたくしはいったいどうしたら……」
あてどもなく王都を歩くエラ。
満月が輝く夜。
人々はとうに寝静まり、街はしんとしていた。
改めて、そんな時間まで煌々と明かりを焚いて舞踏会をしていたのだと思い知る。
「……久しぶりに、街に出たわね」
エラが城から出たのはいつ以来か。
少なくとも、重たい体を引きずる今の彼女がかつての美しいエラであると人々が分からない程度には昔のこと。
「……なんだか、少し寂れたわね」
エラの知る王都はもっと華やかで賑やかだった。
夜であっても人々は酒をあおり、笑っていた。
だが、今はどこも門戸を閉めて明かりを消し、寝静まっているようだった。
「……夜を過ごす余裕さえ、ないというの?」
それは夜に灯す明かりでさえ倹約しなければならないという王都の現状を如実に現していた。
国庫の不足による騎士団の減員。
それによる治安の悪化。
人々は、夜に街を出歩くこともしなくなっていったのだ。否、出来なくなってしまった。
もはや夜盗さえ現れない。
そんな無人の街道を、エラはズルズルと進んだ。
「……」
王都でさえこの有り様。
地方はいったいどうなっているのか。
そんな想像をする感性はエラにもまだ残っていた。
「……全部、私のせい?」
エラはようやく自覚する。
自分が稀代の悪女であると。
「……うぅ」
エラはいつぶりかの涙を流した。
いつも眉を吊り上げて怒ってばかりいたエラ。
自分は何がそんなに気にくわなかったのか。
いったい、何に怒っていたのか。
今はそれすら分からず、ただ頬を熱く流れる涙を拭うこともしなかった。
その涙は誰のためか。何のためか。
エラはそれも分からずに、ただ泣いた。
悲しみと、後悔と、悔しさと。
さまざまな感情を込めて、エラはかつてのドレスと同じ青色の瞳から涙を流したのだった。
コンコン。コンコン。
「ん?」
夜もだいぶ更けた頃。
門戸を何度もノックする音がして、トレメイン夫人は目を覚ます。
「……こんな時間に誰だい」
今日は夫は城の舞踏会に招待されていて家にいない。
トレメイン夫人は警戒した様子で扉に近付いた。
「なあに?」
「誰か来たの?」
二人の娘も母親に続いて起きてきた。
「……もし。わたくしです。エラ、ですわ」
「エラ!?」
消え去るような声がして、トレメイン夫人は慌てて扉を開けた。
「……っ」
が、その先にいたエラの姿を見て、三人は絶句する。
「……久しぶり、ですわね」
気まぐれに家を訪ねてはぐちぐちとかつての文句を口にして、時に暴力を振るい、三人をさんざんイビってきたエラ。
トレメイン夫人の夫は舞踏会に呼ばれるたびにエラの無茶な要求に応え、媚びを売って、少しでも心証を良くしようと努めていた。
だからこそ、こんな夜更けに尋ねてきても三人はすぐに扉を開けた。少しでも機嫌を損ねればどうなるか分からないから。
だが、今目の前にいるのは、そんな苛烈な彼女などではなく。
目は泣きはらして腫れぼったく、ドレスはところどころ破れてボロボロ。靴も片方しか履いていなかった。
「……」
三人はエラのそのみすぼらしい格好を見て、全てを悟った。
王子様に限界が来たのだと。
「……え、とね。また、皆と、その……暮らしたいな、なんて思って、ね。
また、下働きでもいいから、ここに住まわせて、くれないかな……なんて……」
「……」
媚びへつらうような薄ら笑いを浮かべて、醜く太った体を引きずってこちらを見上げるエラ。
三人は、そんな彼女を冷たく見下ろしていた。
「……エラ」
「アナスタシア、ドリゼラ……」
やがて、二人の娘が見下ろしたままエラの名前を呼ぶ。
エラはようやく返ってきた反応に、ホッとした様子を見せる。
「……よく、ぬけぬけと顔を出せたわね」
「……え?」
感情のない顔で告げられた言葉に、エラは張り付いたヘラヘラとした笑みのまま困惑してみせた。
「あなたがプリンスチャーミングの婚約者となってから、しばらくは私たちを取り立ててくれたわよね」
「そう! そうよ! もちろん! 家族だもの!」
「……でも、それもすぐに終わった」
「……う」
三人は表情を変えることをしなかった。
そこにはもはや怒りさえ通り越した、呆れに近い感情しかなかった。
「冷遇、とはまさにこのことを言うのでしょうね。
お父様は下働きのような仕事しかさせてもらえず、過酷な日々にすぐに体を壊したわ。
それでも私たちのために貴女に媚びを売って……。
そんなお父様を貴女が嘲笑っていたこと、私たちが知らないわけがないでしょう?」
「……え、と」
エラは何も言い返せない。
それは変えようがない事実だから。
「私たちも、それはもう酷いものだわ。
私たちは確かに貴女に酷い扱いをしていたわ。
でも、貴女はそれ以上にあることないこと周囲に吹いて回って。
プリンスチャーミングがどれだけフォローしてくれたことか。まあ、それでも私たちの悪評を取り去れなかったけども」
「……」
王子様はそんなところにまで心を砕いていたのか。
エラは、彼の苦悩の一端に触れた気がした。
「おかげで私たちはこの年齢でも結婚はおろか、婚約さえできていないわ。
もはや好色な爺の妾になるか、地方領主の第三夫人あたりにお情けでしてもらうかぐらいしか、私たちには道はないわね」
「え、と……」
自分たちの人生に絶望しきった乾いた笑いを浮かべる二人の姉に、エラは次の言葉を紡ぐことなどできなかった。
そうした犯人は、まごうことなき自分自身なのだから。
「出てって!!」
「イタッ!」
突然、アナスタシアが近くにあったグラスを投げつけてきて、その直撃を受けたエラは額を切ってしまった。
ガシャンという音をたてて地面に落ちたグラスが砕け散る。
それは、エラと三人の関係が終わったことを現しているようだった。
「あなたのせいよ!
全部あなたの!
あなたがプリンスの優しさに甘えきって堕落したせいで! 私たちも! この国も! 何もかもがメチャクチャだわ!」
「……う」
激昂して声を荒げるアナスタシア。
唇を噛んで拳を強く握りしめるドリゼラ。
発露された二人の感情に、エラは血が流れる額を抑えながら圧倒されていた。
「……二人とも、落ち着きなさい」
「お母様……」
そんな二人をトレメイン夫人がなだめる。
夫人は二人を後ろに追いやり、エラの前にゆっくりと腰を下ろす。
「……エラ」
「お、継母様……」
その優しい声に、エラは救いを求めて顔をあげる。
「……っ!」
が、それはすぐに恐怖に変わった。
夫人は、酷く冷めた目でエラを見下ろしていたから。
「この国はこれから大変よ。体制を立て直していかないといけないもの。
あなたがいなくなってくれたから。
国の圧政が終わり、きっと王とプリンスが懸命に国を立て直すでしょうね。
あなたがやっといなくなってくれたから。
夫もようやく能力に見合った仕事をさせていただけるでしょう。
あなたが、ようやくいなくなってくれたから。
あなたに買収、あるいは籠絡されていた貴族たちも一掃、あるいは身の振るまいを改めるでしょうね。
手を回していたあなたが、とうとういなくなってくれたから」
「……う」
淡々と、ただ淡々とエラを責め立てるトレメイン夫人。
端々に滲み出る怒りに、エラは押し黙るしかなかった。
「うまくやったものよね。たかが婚約者風情が国政や国庫に手を出せるなんて。
陛下が気付いた時には、陛下の周りにはあなたの息がかかった者ばかりになっていたのだから」
「……」
バレているとは思わなかった。
秘密裏に手を回し、時に金を使い、時に体を使い、時に人を使い、エラは政治を自分のものにしつつあったのだ。
勘づいている者はいても、ここまで確信を持たれているとは思っていなかった。
「分かるわよ。姉たちを出し抜いてプリンスを我が物にした卑しいあなたのすることだもの」
「それは違っ……」
それは……その頃はそんなことを考える自分ではなかった。
エラはそう言いかけたが、今では到底信じてもらえないだろうと、言いかけた口を閉じた。
「……まあ、もういいわ。
この国にあなたの行く場所なんてない。
あなたの悪行はすぐに国中に知れ渡る。
貴族は噂話が大好きだもの。
行く場所どころか、誰かに見つかれば八つ裂きでしょうね」
「っ!」
「うふふ。あなたの行く末を思うと、少しは気が晴れるというものよ。
あなたには、灰かぶりに戻ることすら許さない」
「本当は私があなたを八つ裂きにしてやりたいところだけどね!」
「そうよそうよ!」
「……うぅ」
三人からの容赦のない悪意にエラはじりじりと後退りする。
「あなたの悪行が広まれば、私たちに対する心証もいくらかマシなものになる。プリンスもきっと尽力してくれるでしょう。
そうなればプリンスの次なる婚約者は無理でも、娘たちは王都の有力貴族に嫁げるかもしれない。
私たちはこれから忙しくなるわ。
あんたなんかに復讐して手を汚す暇もないの。
さっさと出てって頂戴」
「お母様。私、新しいドレスが欲しいわ」
「宝石も! 素敵な殿方に見つけてもらうには目立たなきゃ!」
「うふふ、そうね。大事な娘たち」
「あ……」
三人はもうエラのことなど見えていないかのように立ち去った。
バタン! と無慈悲に閉じられた扉の前で、エラは伸ばしかけた手を地に落とす。
「……私は、どうしたらいいの……」
いつまで経っても慣れなかった貴族令嬢の言葉遣い。
そんな着飾る必要もなくなってしまったエラは、ただ呆然と立ち上がり、フラフラと歩きだした。
夜道には誰もいない。
犯罪を起こそうとする者さえいない。
生来、善き治世を行ってきた王たちの姿を見てきた民には、そもそもそのような気を起こす者が少なかったというのもあるが、何より出歩く者がいないのだ。
奪われる者がいないのに、奪う者が動く意味はない。
人々に蓄えなどないことも皆が知っているから。
奪うことを生業としていた者たちはとっくに国を出ていた。
治安が悪化すると同時に人々が貧困した。
その結果として、エラが夜道を一人で歩けるようになるぐらいに治安が安定するとは、何という皮肉だろうか。
「……はぁ、はぁ」
いったいどれぐらい歩いただろうか。
まだ空は暗い。
宛てどもなくさ迷い、エラはボロボロになった足を引きずる。
いつの間にか街から離れ、辺りはより一層暗くなっていた。
「……ここは、森?」
エラはいつの間にか王都を出て、郊外の大きな森に来ていた。
人の気配が、人の営みが怖くなって、無意識に人の明かりのないところを求めたのかもしれない。
「……痛っ」
フラフラと歩いていたエラは落ちていた木の枝を踏みつけてしまい、足の裏を切ってしまった。
エラはそこで初めて、自分が靴を片方しか履いていないことに気が付く。
「……あんな潰れた靴じゃ、もう誰も私を探しになんて来てくれないわね」
傷付いた足を擦り、エラは自嘲気味に笑う。
魔法が解けるからと焦って舞踏会から抜け出して、慌ててガラスの靴を片方落としてしまって。
王子様は、その靴を頼りに自分を探してくれた。姉たちに押し込められて隠されていた私を、劇的に見つけ出してくれた。
「……なのに。それなのに私は……」
その優しさにつけこんで贅沢三昧。
しまいには、その優しささえ疎ましくなり……。
「……私は、最低だ」
そんな女の落とした潰れた大きな靴など誰が拾おうか。誰がその主を探そうか。
こんな、身も心も醜く肥え太った女など……。
「……いるわけがないじゃない」
エラは再び歩きだした。
自分の終わる場所を求めて、森の奥へ。
ウオォォォォーーーッン!!!
「ひっ!!」
その時、森の奥で獣の遠吠えが響いた。
まるで森への侵入を拒むように。
「……あなたたちも私を拒むのね。
でも、私にはもうここしか行くところがないの。気にくわないなら私を食べればいい。
きっと食べ応えあるわ。お肉なら、余るほどこの身についているもの。
せめてあなたたちの糧となれるのなら、誰かの役に立てるのなら、私はもう、それで本望よ」
エラは進む。
痛む足を引きずりながら。
終わるのなら。
終わらせてくれるのなら。
今は、それこそが希望だから。
「……う」
それから何日がたっただろうか。
エラはまだ生きていた。
森の奥で、ひっそりと。
残念なことに、森の奥へ進んでも獣たちは彼女を襲わなかった。
「……ふふ。そんな価値さえないってことかしらね」
頬はこけてもお腹に重くたわむ贅肉はなくならない。
エラは自分の醜い体を見下ろして自嘲する。
気まぐれに森が与えてくれる木の実や果物を食べて、エラはかろうじて命を繋いでいた。
川が近くにあるので飲み水にも困らなかった。
最初のうちは酷く腹を壊したが、やがてそれにも慣れていった。
「……自分で死ぬ度胸もないなんてね」
いっそ獣に喰われるならそれで良かった。
でも、自分で自分の命を断つのは怖かった。
何もしなくても腹は減るし喉は渇く。
このまま何もしなれば……とエラが考えないわけがなかった。だが、それは怖かった。
というより、耐えがたい空腹と渇きにエラは森の恵みに手を伸ばしていた。
不思議なことに森には人間が食べられる果実や木の実が豊富だった。
というより、人々が森を畏れて深くまで入ってこなかったためにそうなったのだろう。否、森はもとよりこうだったのだ。
人が立ち入らなければ人にとって住みよい環境になる。
「……皮肉なものね」
何だか人間全体が自然にさえ嫌がらせを受けているような気がして、エラは痩せた頬でふっと笑った。
「……自分で死ぬこともできず、獣たちに殺してもらうこともできず、私はここで、無駄に生きていくのかしら……」
エラのその絶望と諦めのこもった呟きは、森の枝葉のざわめきにかき消されて誰の耳に届くこともなかった。
もとより、それを聞く者などここには誰もいないのだが。
「……ふぅ」
それからどれほどの年月が過ぎただろうか。
森の奥深く。
その川の近くに作られた簡素な小さな小屋。
そこに、エラはいた。
扉が開かれる。
屋根にとまった鳥が羽ばたく。
森には空からの光が葉に阻まれて、何とも穏やかで温かな日差しとなって降り注いでいた。
「よっ、こい、しょ」
腰を曲げ、水を桶に汲む。
森の入口近くに捨てられていた桶。
「やれやれ。年々重くなるね」
水が入った桶を引きずるようにして家の入口まで運ぶエラ。
ボロ布をローブのように仕立て直して羽織っていた。
体はすっかり痩せ細り、骨に皮を張り付けただけのようだった。
手は荒れてボロボロ。
そして何より、エラは年をとった。
老婆と呼ばれるほどの風貌となったエラは、いったいどれだけの時間をこの森で過ごしたのか。
「……ふむ」
桶を家の入口近くにどさっと置くと、エラは目を閉じた。
ローブのフードで隠れて顔をよく見えないが、ブロンドカラーの長い髪はすっかり白髪になってしまっているようだった。
「ああ。リンゴが食べ頃だね。そろそろ取りに行くとしようかね」
エラは遠く離れた場所にあるリンゴの樹になった実が熟したことを感じた。
「よいしょ、っと」
エラはその樹が生えている場所まで杖をつきながら歩く。足腰も衰え、杖なしでは歩くのも億劫だった。
長年、森で一人で過ごしたエラには不思議な力が宿っていた。
遠く離れた場所にある物を視たり、森に響く音を拾えたり。
時には、何もなくとも火を起こしたり、何かを別の何かに変えることさえできた。
「……ん?」
そんな彼女の耳が、いつもとは違う音を拾う。
エラは森の中の音ならば、どこにいても聞き分けることができた。
「おや。森の入口に人が。珍しいね。
というか、最近は人が来ることさえほとんどなかったね、そういえば」
話の内容から、来訪者は二人の行商人のようだった。
行商の途中の休憩にと森に立ち寄り、ついでに野草や果実を採って食べるつもりらしい。
森の奥に行かなければ獣も出ないし、入口あたりなら問題ないだろうと、エラはリンゴの樹に向かいながら二人の話に耳を傾けた。
『このあたりに来るのも久しぶりだな』
『そうだなー』
『あの王国がなくなって以来、この辺にはめっきり来なくなったもんな』
「!!」
ぼんやりしながら二人の行商人の話を聞いていたエラは、聞き捨てならない言葉を耳にした。
「……あの王国って、まさか……」
こういう時の嫌な予感はだいたいよく当たる。
エラは煩くなっていく心臓の音を懸命に落ち着かせながら、足を止めて二人の話に集中した。
『あそこの王も、ついぞ妃を迎え入れなかったからな』
「!」
『ああ。悪鬼を追い出してからは引く手あまただったのにな。もったいない』
『ま、世継ぎのいない王国の命運なんぞ分かりきってたな』
『それに、あの王もだいぶおかしくなってたみたいだしな。
王として懸命に治世を行いながらも、忙しい合間を縫ってずっと薄汚れたでかい潰れた靴の持ち主を探してたんだってよ』
「……っ」
『なんだそれ』
『んで、結局妃を迎え入れることもなく、跡継ぎ問題で貴族連中が揉めに揉めて王国は崩壊。一面の焼け野原だけが残ったと』
『悲惨なもんだ。
焼け野原じゃ、たいしたもんは残ってなさそうだな。盗賊なんかに金目のものは粗方盗られてるだろうし』
『まあな。あ、でもな。一つだけ。城の最奥の宝物庫にあった宝箱だけは誰にも開けられずに、今でもそこにあるらしい。ま、他は焼け落ちてるから、瓦礫に紛れてそれだけが焼け野原に置いてあるらしいけどな』
『本当かよ! お宝じゃないか! 取りに行かないか!?』
『それがな。その宝箱はどれだけ手を尽くしても鍵が開くどころか、破壊することも、そこから動かすことさえできないんだそうだ』
『なんだそりゃ』
『噂が噂を呼んで何人もの名のある盗賊がそれに挑んだけど、誰もそれを開けることはできなかったんだと』
『ちぇー。じゃあ、しょうがねーなー』
『ちなみに、噂ではその中には靴が入ってるそうだ』
「!?」
『靴ぅー!? 金目のもんじゃないのかよ!』
「それは本当なの!?」
「「うわぁっ!?」」
二人の話を聞いていたエラは我慢できずに行商人の前に姿を現した。
森の端から端程度の距離を跳ぶことなど、エラには造作もないことだった。
「と、突然、現れやがった!」
「ボロいローブに杖。こ、こいつ、森の魔女だ!」
「ま、待って! 話をっ!」
「に、逃げろーーっ!!」
「あ、待ってくれ! 俺も!」
「あ、ちょっ!!」
二人はエラの姿を見るやいなや、置いてあった荷物もそのままに一目散に逃げてしまった。
彼らは一度も振り返ることなくすぐに見えなくなってしまう。
エラはいつの間にか、人々から森の魔女と呼ばれて恐れられていたのだった。
「……まさか、そんな……嘘よ……」
エラは二人の話を信じられずにいた。
王国が崩壊?
焼け野原に?
いえ、それよりも、王というのはきっと……。
そして、靴……。
「……行かなきゃ」
エラは再び跳んだ。
姿が消え、空間から空間へ。
二度と戻るまいと決めた、懐かしき地へ。
「……そ、そんな」
かくして再び王国に戻ったエラ。
しかし、そこはもはや王国ではなかった。
「……本当、だったなんて……」
エラは失意に膝を折る。
行商人の言うように、王国があった地はほとんどが焼け落ちていた。
瓦礫が散乱し、草木は燃え尽き、何とも異様な光景が広がっていた。
「……行かなきゃ。
お城は、あっちね」
エラはふらっと立ち上がると、一際大きな焼けた瓦礫のある方向へと向かった。
それはかつて、ブルーのドレスを身に纏い、カボチャの馬車で向かった場所。
その時は期待と不安で胸がドキドキと張り裂けそうだった。
「……」
でも今は、ただただ不安だけが心臓の鼓動を大きくしていた。
嫌な予感ほどよく当たる。
不思議な力を身につけてから、それをより一層感じるようになったエラは、すぐに跳ぶことをせずに一歩一歩、踏みしめるようにして前に進んだ。
滴る汗。
止まらない動悸。
足が熱に浮かされたときのようにうまく動かない。
それは疲れなどではなく、背筋を走る嫌な予感がその先に広がる絶望を確信していたから。
「……あ、ああ……」
そして、エラは城に着いた。
城、だった所に。
かろうじて残る城壁の一部。
倒壊して焼け落ちた尖塔。
可憐な花が咲き誇った庭園は見る影もない。
「……」
エラはふらふらと歩く。
かつては期待に胸を膨らませて歩いた道を。
やがては常にイライラして歩いた道を。
そして今は、失意と絶望でもって、その道を……。
「……最奥の、宝物庫……」
場所は知っていた。
しかし、そこは王と王子しか入ることが許されていなかった。
エラがどんなに機嫌を損ねても、どれだけ怒鳴り散らしてみても、王子様はそれだけは許してくれなかった。
いったいどんなお宝を隠しているのやら。
当時のエラはそんな恨みがましい気持ちでその宝物庫の扉を睨み付けていた。
「……ここ、ね」
そんな過去の愚かな自分を思い返しながら、エラはそこにたどり着いた。
「……あれだわ」
本来は地下深くにあった最奥の宝物庫だが、炎に巻かれ、人に荒らされ、ソレは城の中央にポツンと佇んでいた。まるで、エラのことを待っていたかのように。
「……青い、宝箱」
それは焼けて荒れた土の上にただ置かれていた。それだけが、ポツンと。
このような目立つ所に置いてありながら誰にも盗られていない所を見ると、やはり行商人たちの話していたことは本当のようだった。
誰にも開けられず、壊せず、動かすこともできない。
「……」
エラはその青い宝箱にそっと手を伸ばす。
まさかまさかと思いながらも、かすかな期待に手を伸ばすように。
「……」
そして、エラが宝箱に手を触れると、その宝箱はカチリと音をたてて静かに鍵を開けた。
「ウ、ウソ……」
誰も開けられないはずの宝箱。
しかし、自分が触れたらそれが自然と開いた。
エラは信じられない気持ちと、どこかそれを予感していた気持ちの両方を感じていた。
「……」
エラはゆっくりと宝箱のフタを持ち上げる。
そして、その中に入っていたものを見て、抑えきれない感情が溢れ出す。
「……ああ。ああ……そんな……殿下っ!」
エラは宝箱を開けると、その中身を見ながら地面に膝をついて涙を流した。
青い宝箱の中には煤で薄汚れたガラスの靴が入っていた。
それが履けなくなってからは、見たくもないと遠ざけていた靴。
王子様がその話をするだけで不機嫌になっていたガラスの靴。
誰にも開けられない宝箱の中には、それだけが綺麗に揃えて入れられていた。
「……殿下。なぜ、なぜこんな私を……まだ……」
王子様は生涯、妻を娶らなかったという。
王として世継ぎが必要なはずなのに。おそらくは周囲からもさんざん言われたはずなのに。
そして、国で最も頑丈な宝箱に入れられていたのは……。
つまりは、そういうことなのだろう。
「……殿下。貴方に、もう一度お会いしたい。
お会いして、心の底からお詫び申し上げたい……」
愛してくれてありがとう。
貴方を愛せて良かった。
貴方を、好きになって良かった。
贈りたい言葉は数あれど、エラが最初に伝えたいと思ったのは王子様への謝罪だった。
『なのに、ごめんなさい』
エラは王子様の優しさにかまけて変わってしまったことを何より謝りたかった。
「……せめて、お姿だけでも、もう一度……」
エラはガラスの靴に触れながら、もう片方の手に持つ木の杖を一振りした。
すると、ガラスの靴がその青い宝箱に納められる瞬間が幻影となって再現された。
『くっ! はぁはぁ……』
「ああ……殿下」
白い薄影の幻。
そこがまだ城の最奥の宝物庫であった頃の場所の記憶。
エラは魔法でそれを再現したのだ。
『……ここまで、か』
そこに避難してきたのは年を重ねた姿の王子様だった。
王冠を被っているところを見るに、どうやら王様になったようだ。
かつての姿とは違っても、エラにはそれがあのプリンスチャーミングその人であることがすぐに分かった。
王子様は肩で息をしている。
どうやら足を怪我しているようだ。
上の階からは複数人の怒号と走り回る足音。きっと王子様を探しているのだろう。
『……すまない。少し汚れてしまったな。本当は君を追い出してしまった時に落とした靴も持ってきたかったのだが、焼けてしまってね』
「あっ」
王子様は懐から一足のガラスの靴を取り出した。煤で汚れ、かつての輝きは薄らいでいた。
『……あの老婆は、この時を予見していたのだろうか』
「……!」
王子様は愛おしそうにガラスの靴を撫でると、ポツリと呟いた。
『私の最も大切にしたい物を入れよ、か』
「!」
王子様は台座に置かれた青い宝箱を開ける。
そこには何も入っていなかった。
『それは誰にも開けられず、誰にも壊せず、誰にも動かせない、だったか。
それが出来るのはただ一人。私が最も大切に想っている者だけ……』
「っ!!」
過去の幻影。
場所の記憶。
それは、確かにそこで起こっていた出来事。
エラの頬からはもう止めるつもりもない涙が次から次へと溢れていた。
『……エラ』
王子様はその空の宝箱の中に、そっとガラスの靴を入れた。
フタを閉めると、カチリと音をたてて宝箱の鍵がかかる。
『……ふう』
王子様は安心したように宝箱が置かれた台座を背もたれにして床に座り込む。
『エラ……ごめんよ。
君を変えてしまったのは私だ。
君が傲ってしまわないよう、もっと支え、寄り添い、そばにあるべきだった。
君に嫌われたくないと、君の顔色ばかり窺うべきではなかった。
どんな君でも愛していると、何度でも、何度でも、心から伝えるべきだったのだ……』
「……殿下ぁっ」
『……エラ。君はまだ、どこかで生きているのかな。生きていてくれているのかな。
幸せになってくれていたら、いいな。
誰かと、幸せに……いや、それはちょっと嫌だな。
もし仮にそうだったとしても、たまには、少しでも私のことを思い出してくれていたら嬉しい。
私はもう、それだけで十分だ……』
「……殿下。う、うぅ……」
『……エラ。ごめんよ。
愛してる』
王子様のその言葉を最後に幻影は消えた。
「殿下っ! 殿下ぁっ!!」
エラは泣いた。
誰もいない焼け野原で。
年老いた老婆は全ての想いと感情を込めて、ただただ大声で泣いたのだ……。
「……」
エラはぼんやりと空を見上げた。
いつの間にか夜が更け、あたりは真っ暗になっていた。
満月が同情するように輝く。
目は泣きはらして赤く腫れ上がっていた。
かつての美しいブルーの瞳は見る影もない。
「……殿下。
全部。全部分かりましたわ」
涙も渇れ果てたエラはふらりと立ち上がる。
その手には一足のガラスの靴。
「……ふぅっ」
エラがそのガラスの靴に息を吹き掛けると、汚れが全て消え去り、もとの輝かしいガラスの靴に戻った。
満月の光が優しくガラスの靴を照らす。
「……これは、何回目なのでしょう。私は、何人目なのでしょう」
自問してみても答えは出ない。
今のエラにそれが分かるはずもないから。
エラはガラスの靴を掲げた。
王子様との思い出も、エラ自身の想いも、王子様の想いも、その全てが詰まった大切な靴。
「私の魂と記憶に強く結び付く存在。
それを私自身の手で破砕することで私の魔法はスパークして、私の限界を超える」
エラは掲げたガラスの靴をぎゅっと強く握りしめた。
「……殿下。ごめんなさい。
もう二度と、私に愚かな真似は、殿下を悲しませるような真似はさせないから。
私も、殿下を愛しているからっ!!」
エラはガラスの靴を思い切り放り投げた。
誰も壊すことが出来ないと言われるほどに頑丈な宝箱に向かって。
そして、その宝箱に当たったガラスの靴は大きな音をたてて粉々に壊れる。
「っ!」
それを見たエラはそのショックもそのままに杖を回した。
くるりと一回転させて、地面にトンと突き刺す。
瞬間、世界は巡る。
満月が回り、星が回り、空間が、世界が回る。
エラは跳んだ。
場所ではなく、世界を、時間を。
「……ここ、は」
気がついた時には、周りは真っ暗だった。
先ほどと違って星や月の明かりもない、真の暗闇。
建物の、奥深く。
「誰だっ!!」
「!!」
その時、ふいに暗闇に明かりが差す。
誰かが扉を開けて部屋に入ってきたのだ。
たいまつの炎が揺れ、部屋が照らされる。
「……ここは」
エラは開けられた扉に見覚えがあった。
何度も恨めしげに睨み付けた扉。
「なぜここにいる? どうやって侵入した?
ここは、王と王子にしか入室が許されていないはず」
「!」
その言葉でエラは確信する。
ここは城の、最奥の宝物庫であると。
そして、同時に理解した。
それを言っていた人物。いま目の前に立つ人物が、誰なのかを。
「……老婆、か?」
たいまつをこちらに近付けたことで、それを持つ者の顔も露になる。
「……っ」
それは紛れもない、一目でいいから会いたいと願った王子様だった。
真っ直ぐで誠実な瞳。
エラは、その瞳にもう一度自分が映っていることが信じられなかった。
涙はもう出ない。
とうに渇れ尽くしたから。
それに、自分の正体を悟られるわけにもいかない。
たとえ、まだかつての自分と王子様が出会っていなかったとしても。
「……なぜ、ここに? どうやって入ったかは分かりませんが、ここは立ち入りが禁じられています。外までお送りしますから早く出てください。
必要ならば食糧やお金など、国で少しはお渡しすることも出来ますから」
みすぼらしいローブに杖を持った、痩せ細った老婆。
王子様はそんなエラの姿を見て、警戒はしつつも少しだけ声を優しくした。
国では、王と王子の計らいで浮浪者の保護を行っていた。
エラは、彼のそんな優しい所も好きだった。
王子様はまだ少しだけ若い。
エラと出会う直前、あの舞踏会の少し前なのだ。
「……あの」
王子様が涙を我慢して動かないエラを心配する。
エラは顔を覗き込まれる前に、腰を屈めてゆっくり立ち上がった。
「っ」
立ち上がった瞬間、頭がクラっと揺れる。
大きすぎる魔法の反動。
それでもエラは自分のやるべきことを全うする。
「……私は、フェアリーゴッドマザー。
そうだね。そう呼ばれたりもしているよ」
「フェアリーゴッドマザー?」
実際、エラは森で迷った者の怪我を魔法で治してやったことがあった。その時に、その者にそう呼ばれたのだ。
「王子様。あんたに、あたしからプレゼントがあるんだ」
「え?」
エラはしわがれた声でそう言うと、杖を軽く一振りした。
すると、エラの後ろの何も置かれていなかった台座の上に、美しい青い宝箱が現れた。
「これの中は空だ。なんにも入っちゃいない」
「?」
「その時が来たら、ここにあんたが最も大切にしたい物を入れなさい。
この宝箱は誰にも開けられず、誰にも壊せず、誰にも動かせない。
これを開けられるのはただ一人。
あんたが、最も大切に想っている者だけだ」
「……僕の、最も大切な?」
「そうだよ。今はまだ分からないかもしれない。
でもね、必ず現れるから。あんたが、その生涯をかけて愛し抜きたいと思う者が」
私は、そう信じてる。
エラは、思わず出そうになる言葉を飲み込む。
世界は甘くない。
少しでも関わりすぎれば世界は変わる。
きっと、これから自分がやることの方が危ない。だから、ここでは多くは語れない。
「……ま、老婆の戯れ言とでも思っとくれ。
じゃあね」
「あ、待っ!」
王子様の伸ばした手を見ないフリをして、エラは空間を跳んだ。
これ以上いると、再び枯れたはずの涙が溢れてしまいそうだから。
「……」
数十年の念願。
愛しの王子様に会えた余韻に浸るエラは、けれどすぐに顔をあげる。
「……行かなきゃ」
泣いている暇も、歓喜している暇もない。
自分には、時間がないのだ。
エラはもう一つの目的に向けて歩を進めた。
跳んだ場所のすぐ近くだったため、そこにはすぐにたどり着けた。
遥かな昔に見慣れた風景。
「……いたわね」
そうして見つけた。
ブロンドカラーの美しい髪に、どこまでも澄んだブルーの瞳。
かつての灰かぶり。
エラ、その人を。
「……舞踏会に、行きたいかい?」
「え?」
「……やるべきことは、やったわね」
残された魔法の力で馬車を、ドレスを、ガラスの靴を出した。
もう一人のエラは喜んでいた。
嬉しそうに微笑んで、得体の知れない老婆に感謝して。
そうだ。そうだった。
自分は、ほんの些細なことにもよく笑い、喜んだ。
誰からの親切にも懇切丁寧に礼を言った。
継母や義姉たちに蔑まれてささくれた心には、不思議な老婆の魔法がどれだけ嬉しかったか。ありがたかったか。
「……ふふ」
そういえば、堕落してから魔女を探させたこともあったなとエラは自嘲気味に笑う。
私利私欲のために、その魔法を利用しようと。
「思えば、王子様は私の存在を知っていたのね」
知っていながら、エラのためにならないと黙っていたのだ。
「まったく。本当にどこまでも優しくて、私はどこまでも愚かだったわね」
魔女など、その時にはいるはずがないのだから。
「……う」
エラの頭がふらつく。
まもなく0時の鐘が鳴る。
自分の限界を超えた、世界を丸ごと書き換えるほどの大魔法。
そんなことをした自分が無事でいられるはずがない。
エラには、自分の行く末が分かっていた。
分かっていながら、託したのだ。
次こそは失敗しないようにと。
今度こそ、王子様を幸せにしたいと。
悲しませたくないと。
「……ふふ」
きっと、そうしたのは自分だけじゃない。
灰かぶりを変身させて、王子様に青い宝箱を渡して、その宝箱を特殊な仕様に仕上げて。
それは、一回や二回では出来るようなことではない。
きっと自分は、何度も何度も失敗して、あの夜にガラスの靴を割ってきたんだ。
「本当に、私は愚かな女ね」
エラは呆れたように笑った。
0時の鐘がまもなく。
エラの体が少しずつ薄くなっていく。
「……今ごろ、殿下と楽しく踊っている頃かしら」
あの時は本当に楽しかった。
このまま時が止まればいいのにと何度も思った。
「……あの時に、魔法があったらそうしてたかしらね」
エラは微笑んだ。
それは二人の幸せを祈った笑みだった。
そこにはもう、愚かな悪女としての面影はどこにもなかった。
「釘は刺したわ。
エラ。あなたならきっと大丈夫。あなたならもう、きっと大丈夫だから。
今度こそ。今度こそ幸せになるのよ」
0時を告げる鐘が鳴り始める。
エラの姿がさらに消えていく。
その鐘が鳴り終わる時。エラもまた消え去るだろう。
エラが消えれば魔法も解ける。
最後の力を振り絞って強く魔法をかけた宝箱とガラスの靴と違って、シンデレラを彩ったドレスたちは消えてしまう。
今ごろ、シンデレラは慌てて階段を駆け降りているのだろう。
そして、そこでガラスの靴を落としてしまうのだろう。
「楽しみに待っていなさい。
王子様が、必ず貴女を迎えに来るから。
貴女を幸せにしてくれるから。
だから、貴女も彼を幸せにするのよ。
もう二度と、彼に悲しい思いをさせてはダメよ」
0時の鐘が鳴り終わる。
エラの体がこの世界から消える。
「……お願い、ね?」
その言葉を最期に、老婆のエラはこの世界から完全に消えてなくなったのだった。
「エラ!」
「お待たせしました、あなた」
そこは城の最奥の宝物庫。
そこに入ることが出来るのは、今は王と王妃だけ。
「僕らの可愛いプリンスチャーミングはもう眠ったかい?」
「ええ。あなたに似てとても良い子だから」
「ははっ! 僕も、良い子なのかい?」
「ええ。もちろん」
「それは光栄だっ!」
イタズラな笑みを向けるエラに、王は嬉しそうに両手を広げておどけてみせた。
「今年もこの日がやってきたね」
「ええ」
二人は幸せそうに視線を交わすと、目の前の青い宝箱に目を向けた。
「さあ。開けてごらん」
「はい」
王に言われて、エラは何の躊躇もなく宝箱を開ける。
カチリと音をたてて、宝箱はすんなりと開いた。
「ふふ。今年もありがとうエラ」
「こちらこそ。あなた」
無事に宝箱が開いたことに互いに微笑み合い、感謝を伝える。
「さあ。足を」
「はい」
宝箱の中身はガラスの靴。
綺麗に磨かれた曇り一つないガラスの靴。
王はそれを優しく手に取ると跪き、エラの足元に差し出した。
エラは履いていた靴を脱ぐと、王の肩に手を置いてゆっくりとガラスの靴に足を入れる。
ほっそりとした綺麗な足は迷うことなくぴったりとガラスの靴に収まる。
「愛してるよ、エラ」
「私も愛してるわ、あなた」
立ち上がった王はエラに優しく口づけをする。
幸せそうに微笑む二人。
鮮やかなブルーのドレスの下で、ガラスの靴が嬉しそうに輝いていた。
『ガラスの靴は、割れない?』
『ええ。合言葉よ。
ガラスの靴を割ってはダメ。
毎年、その靴に足を通して今の純真な気持ちと、愛する人への想いを思い出しなさい』
『あ、愛する人なんて……』
『今は分からなくていいわ。
でも、その時が来たら、必ず思い出して。
決して傲ってはダメ。
貴女がひたむきでいる限り、彼も必ずそれに応えてくれるわ』
『わ、分かったわ』
『……エラ』
『ん?』
『どうか、幸せにね』
『ええ。本当にありがとう。フェアリーゴッドマザー』
『……ほら。もう行きなさい。
0時の鐘には気をつけてね』
『ええ。本当に、本当にありがとう!』
「さて、戻ろうか」
ガラスの靴を再び青い宝箱に収める。
エラ以外には開けられない宝箱に。
「ええ」
エラは差し出された手をとる。
二人は繋いだ手に照れくさそうに微笑みながら部屋をあとにする。
「ねえ、あなた」
「ん? なんだい、エラ?」
「いつか、私たちのプリンスチャーミングに大切な人が出来たら、このガラスの靴を譲ろうと思うの」
「いいのかい? 君がいいなら僕は構わないけども」
「ええ。私たちの子たちにも、こうして愛を確かめ合って生きていってほしいのよ。
だって私、今とても幸せだもの!」
「ふふ。君らしいな。
分かった。そうしよう。我が王家の新たなしきたりだ」
「ありがとう。
あ、そうだ。その時に、この言葉を忘れずに伝えるようにしないと」
「ん? なんだい?」
「『ガラスの靴は、割れない!』」