101回目の婚約破棄 〜婚約破棄された私が、『あと1日だけ一緒に過ごしてほしい』と頼んだ本当の理由〜
「アリエル、君との婚約を破棄させてもらう」
2人きりの応接間で、私の婚約者であるマリウス・ベルモッド伯爵令息はこちらを一瞥もせずに静かにそう告げた。
「ここ暫く会えなかったのもこれが理由だ。家にはもう話をつけてある」
「理由を聞いても、よろしいですか?」
しかし、婚約破棄された私、アリエル・ミトレアはその言葉に驚くことなくただ冷静に理由を聞き返す。
マリウス様が私にこう言ってくるであろうことは、なんとなく予想できていたことだった。
「君に理由があるわけじゃない、これは僕の問題だ。だから、君にそれを教えるつもりは毛頭ない」
「そうですか。もう私のことは愛していない、と?」
「それは、言わなくても分かるだろう」
まるで感情のない人形のように淡々とそう告げるその姿を見て、私はマリウス様が以前の彼とは変わってしまったのだ、ということを痛感する。
こうなるのは分かっていたはずなのに、それでも胸が痛むのは、私がまだマリウス様を愛しているからなのだろう。だから……
「承知いたしました」
「すまないな。それでは────」
「────ですが、最後に1つだけお願いしたいことがあるのです」
「……何だ?」
私は話を切り上げようとするマリウス様の言葉を遮るように言葉を重ねた。
そして、少し驚いたような顔でこちらに振り向いたマリウス様の目をまっすぐ見つめながら、私はひとつ深呼吸をした後に『お願い』を告げる。
「今日だけ、今日だけで結構です。ですから……私と婚約者として、最後の1日を過ごしていただけませんか」
たった1日だけ、ほんの少し終わりを伸ばすためだけの、最後のお願いを。
◇────◇
「……何が目的だ、アリエル」
「目的などありませんわ。いつも通りのティータイムでしょう?」
春の日差しが差し込む部屋の中、私はやけに不機嫌そうな顔をしているマリウス様と共にティーテーブルを囲む。
暖かい風に乗せられた紅茶の甘い匂いが鼻をくすぐる、気持ちのいいティータイムだ。
「なぜ婚約破棄した相手とティータイムを過ごさなければならないのか、と聞いているのだ。全く理解できん」
「これは私の問題ですわ。それに、今の私たちは婚約者でしょう?」
「それは……もういい、分かった。好きにしろ」
怪訝そうな顔をしながらもこの茶番に付き合ってくれるあたりは、本当にマリウス様らしいと思って思わず笑みがこぼれてしまう。
マリウス様は、私の頼みを1度たりとも断ったことがない……それどころか、悲しい思いをさせられたこともない。そう言い切れるほどに、彼は私のことを大切にしてくれていた。
「覚えていますか、マリウス様。初めて私たちが出会った日のことを」
「ああ、覚えている。5年前の舞踏会だろう」
5年前、ベルモッド伯爵家で開かれた舞踏会。名だたる名家の男性たちが公爵令嬢や伯爵令嬢の手を取る中、取り残された男爵令嬢である私の手を取ってくれたのがマリウス様だった。
それが単なる好意だったのか、あるいは哀れみだったのかは分からない。それでも、1人取り残されてみじめな気持ちになっていた私はその行動に救われた。
「今でも、あの時のことは鮮明に覚えています。思えばあの瞬間から、私は貴方を好きになり始めたのかもしれません」
「だから、どうした。どうにせよ、もう今日で終わりの関係だろう」
あの日の手の温もり、表情、言葉、全てがありありと思い出せる。それほどまでに、私にとってマリウス様との出会いは鮮烈で印象深く、大切な思い出だった。
「今日で終わりなのは分かっています。だからこそ、最後に未練は残したくないのです」
私は空になったティーカップをソーサーの上に置き、こちらを見ないようにしているマリウス様の視線の先に回り込んで左手を差し出す。
「……何をしている」
「手を、取っていただけませんか」
優雅な音楽も、華やかなドレスも、踊りを見る観衆もいらない。ただ、あと1度だけ私の手を取ってほしかった。
「はぁ……これが最後だぞ」
「ありがとうございます、マリウス様」
そうしてため息をつきながらも私の手を取り立ち上がったマリウス様は、ゆっくりとステップを踏み始めた。
「どうしたのですか、マリウス様。そんなに驚いたような顔をして」
「久しく踊っていなかったはずなのだが……体は覚えているものだな」
ひとつ足を出すごとに、ひとつまばたきする度に、今までの懐かしい思い出が頭の中を駆け巡る。この感覚だけは、何度経験しても色褪せることがない。
「これからもずっと、覚えていてください」
私はただこの痛いほどに幸せな時間を噛み締めながら、マリウス様に聞こえないほど小さな声でそっとそう告げる。
きっとこの言葉が聞こえてしまったら、マリウス様は今度こそ私のことを突き放すだろうから。だって……
「……どうした、アリエル。足が動いていないが」
「ああ、すみません。少し考え事をしていまして」
と、そんなことを考えているとどうやらステップが覚束なくなってしまっていた。
自分から踊りに誘ったというのに、これではマリウス様に示しがつかないと思い、私は再度踊りに集中する。
心地いいリズムに乗せて他でもないマリウス様と踊るこの時間が、この時間だけが、元のマリウス様と共に過ごしているような気持ちを私に与えてくれた。
「やはり、君と踊るのは良い……これで終わりだと思うと、残念に思うほどにはな」
「そう言っていただけると幸いです」
でも、そんな時間にも終わりはやってきてしまう。終わりに近づくごとに、少しずつこれ以上先に進みたくないという思いが募っていく。
そんな願いも虚しく、私の手にあったマリウス様のぬくもりは離れて行ってしまった。
「これで、満足か?」
「……はい」
「そんな顔をするな……誘ったのは君だろう」
辛い表情を見せまいと今まで我慢してきたが、この感覚だけはどうしても耐えられなかった。
2度と優しい頃のマリウス様に出会えなくなってしまう気がして、涙を堪えるので精一杯だった。そして……
「……お言葉ですが、マリウス様」
「どうした?」
「マリウス様も、そんなお顔をなさらないでください」
……それは、マリウス様も同じ。彼の青い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
「違う! これは、ただ……」
「もう、いいでしょう。本当のことを話してください」
マリウス様が隠し事をしているのは、最初からずっと分かっていた。
私は急いでこの場から離れようとする彼の手を掴み、そのままの勢いで抱きしめる。
「……僕が、事故にあったことは知っているだろう?」
すると彼は私の肩に顔を埋め、嗚咽を漏らしながらポツリポツリと真実を語り始めた。
「ええ、命に別状はなかった、と。面会は出来ないと聞いていましたが、大きなお怪我もなかったようで何より……」
「ああ、怪我はなかった。だが、どうやらその時に頭を強く打ってしまい……少し、特殊な記憶喪失になってしまったんだ」
そう言いながら彼が懐から取り出したのは、医師の診断書のようなもの。
そこに書いてあったのは『前向性健忘症』という聞いたこともない病名だった。
「簡単に言えば、僕の記憶は事故の日から毎日リセットされ続けているということだ。事故の日からもう何日経ったのかということさえ分からない」
「そんな……だとしたら、どうして婚約破棄を……」
「これに従った。『昨日の僕』が医者に預けて『今日の僕』に渡した、手紙だ」
未だに現実が受け入れられないとでもいうような反応をする私に対して、マリウス様は続けてもう1枚懐から紙を取り出した。そこに書いてあったのは……
「ひとつ、君を今日、この別邸に呼んであるということ。ふたつ、僕自身の状況をかえりみて、君との婚約を破棄したということ。そしてみっつ……このことを、元婚約者の君にはバレないようにしろ、ということだ」
マリウス様は聡明な方だ。きっとこの手紙を見て、全てを理解したのだろう。そして自分も不安でたまらないはずなのに、私に何も知らせずに婚約を破棄しようとした……これが、彼のやりたかった全てだ。
「そんなの、身勝手すぎます。私は、マリウス様がどうなろうと……」
「分かっている。だから、このことは君に伝えたくなかったんだ。何も知らないまま、僕を恨んでくれればそれで良かった……今の僕じゃ、君を幸せには出来ない」
私を悲しませないように、なるべく未練なく歩いていけるように、マリウス様は私を突き放そうとした。
それはどこまでも身勝手で、独善的で、理解できなくて……そして、何よりも優しい選択だった。
「いや、違うな。本当に君に何も伝えないつもりなら、わざわざ君をここに呼んだりはしない。きっと僕は、君にこのことを気づいて欲しかったんだ。そして、引き止めて欲しかった……自分の弱さにつくづく失望しそうだよ」
自分自身を嘲笑うように、マリウス様はそう告げる。面と向かって婚約破棄を言い渡したのも、私のお願いを受け入れてくれたのも、これが理由だったのだろう。
「……いいえ。マリウス様は、とても強くて優しいお方です。こんな状況になっても、自分のことよりも私のことを考えてくださるほどに」
それでも、私はマリウス様を弱い人だとは微塵も思わない。こんな信じられない状況を受け入れて婚約を破棄するなんて、私には出来なかったことだから。
「ありがとう、アリエル。たとえ記憶に残らないとしても、僕はもうその言葉だけで十分だ」
「マリウス様……」
「だから、頼む。君との婚約を、破棄させてくれないか」
先ほどとは違い、真っ直ぐにこちらを見ながらマリウス様ははっきりとそう告げる。その目はとても優しくて、その声はとても暖かくて……愛に満ち溢れた、別れの言葉だった。
だから────
「……承知いたしました、マリウス様。この婚約が消えてしまっても……私はこれからもずっと、貴方を愛しています」
「ああ。僕も、君を愛している」
────私はマリウス様の愛と嘘に、私ができる精一杯の愛と嘘で答えることにした。
◇────◇
それから数時間後、私が帰ったと思い込んでいるマリウス様が寝静まった頃。
「それでは明日もよろしくお願い致しますね、お医者様」
「……まだ、諦めてはおられないのですね」
私がマリウス様の専属医に渡したのは、彼が先ほど見せた手紙……『昨日』のマリウス様、いや、100日前のマリウス様が書き残したメモだった。
「何度も何度も、同じことを繰り返して……これで100度目です。はっきり言って、マリウス様の記憶が戻る見込みはありません。アリエル様ご自身もお忙しいはずなのに、どうして……」
マリウス様は、毎日記憶がリセットされてしまう。だから私は……いや、私たちは繰り返しているのだ。
マリウス様が私に婚約破棄を言い渡す……そんな終わりの1日を、何度も、何度も。
「マリウス様は、私を愛していると言ってくださいました。私も、マリウス様を愛しております。婚約者という関係を続けるのに、これ以上の理由が必要でしょうか?」
たとえどれだけ薄い望みだとしても、マリウス様が元に戻るその日まで、私は何度でも繰り返す。彼と婚約者として過ごす、最後の1日を……
「……かしこまりました。それではまた明日、こちらをマリウス様に渡しておきましょう」
「ありがとうございます。それでは、また」
2人の愛と嘘で満ちた、悲しいほどに幸せな日々を。
ベルモッド伯爵家の別邸の中にある、小さな応接間。
2人きりのその部屋の中で、私の婚約者であるマリウス・ベルモッド伯爵令息はこちらを一瞥もせずに静かにこう告げる……
「アリエル、君との婚約を破棄させてもらう」
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