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洋梨のコンポート

作者: 甘雨

 肩にかけていたバッグが急に軽くなった。見ると、隅っこに穴が開いている。来た道を振り返ると、手帳やらボールペンやら、買ったばかりの梨やらが点々と転がっていた。


 まったくもってツイてない日だ。アカリは道端の小石を蹴飛ばした。

 電車が遅延して大切な会議に遅れ、好物を詰め込んだ弁当を家に忘れ、午後は細々としたミスが続き上司に叱られ、残業で彼氏とのディナーはキャンセル。

 仕方がないから1人で飲みに行こうと思ったら、たまたま入った雰囲気たっぷりのオーセンティックバーで彼氏が女とキスをしていて、手に持っていたお気に入りのバーバリーのバッグで殴り飛ばして自宅近くまで帰ってきたのがついさっき。


 ころころと転がる梨は、頭を冷やそうと入ったスーパーの売れ残りコーナーにあったものだ。皮がやや黒ずんでおり、食べごろがギリギリ過ぎていそうな怪しい品。

 このくたびれた姿に親近感を持ち買ってきたのだが、落ちてひどく傷ついた梨を見たら、なんだかどっと疲れが襲ってきた。大きなため息をついて、私は荷物を取りに来た道を戻って行った。


 帰宅してワインを開ける。冷蔵庫にある余りもののチーズをつまみながら、水を入れた鍋に火を掛けた。

 つぶれてしまった梨は早めに食べる必要がある。しかし私は生の梨がキライだ。なんで買ってきたのかと思うが仕方がない。仕方がないから、梨のコンポートを作ることにした。

 ぐつぐつと沸騰する湯に砂糖とレモン、バター、先ほど開けたワインの残りを入れ、切り分けた梨を浮かべる。

「鍋蓋は…あった」

 埃を被っていた鍋蓋をサッと洗ってかぶせた。

 しばらく経つとコトコトと鍋蓋が踊り始める。そっと蓋をずらすと良い香りが漂ってきた。弱火にしてあと10分くらい待てば完成しそうだ。

 私はグラスに残りのワインを注ぐとグイと飲み干した。部屋には梨の甘酸っぱい爽やかな香りが漂っている。

 その時、ピンポーン。とチャイムが鳴った。時計を見ると23時30分を示している。こんな時間に部屋を尋ねるなんて非常識だ。彼氏が謝りにでも来たのだろうか。

 先ほどのキスシーンを思い出し、イライラしながらモニターフォンを付ける。

「はい」

『すいませんねぇ』

 何やらのんびりとした声が聞こえた。

『お宅、さっき梨落としましたでしょ。そんときに一緒に財布おとしましてね。それで私、持ってきたんですけど』

 のほほんとした声が続いた。声色からみて中年の男だ。しかしカメラには誰も写っていない。不審に思いながら、バッグを見ると確かに財布が入っていなかった。

『財布にあった保険証の住所を見てここに来たんですけども。あなた、アカリさんって言うんでしょう。牧内アカリさん』

 深夜に見知らぬ男性の訪問…。女1人暮らしだから出たくはないが、財布がないのは困る。それに声からして、そこまで変な人でもなさそうだ。

「…わざわざ持ってきていただいてすみません、今行きますのでちょっとお待ちください」

 あそこにはクレジットカードも入っている。わざわざ持ってきてもらえて助かった。私はほっとしながら玄関のドアを開けた。

「いやぁ、よかったですねぇ。これ、ちょっと重かったんで持ってこようか悩んじゃいました」

 両手で私の財布を両手で持っていたのは、小さな毛むくじゃらの、

「猫?」

 そう、ふさふさとした黒い毛皮、ひくひく動く髭、ゆらりとゆれるしっぽ。そしてまん丸の黄色い瞳。

 私の目の前には、二足で立ち上がる黒猫がいた。

 小さなポーチを肩から斜めに掛けシルクハット帽を被ったその姿は、普段目にしている猫とは似ても似つかぬ姿ではあるのだが。

 猫は、私の財布を両手で差し出してきた。

「ハイどうぞ~」

「ア、ハイ」

「もう落とさないようにねぇ」

「ア、ハイ」

 私は茫然としつつ差し出された財布を受け取った。すると猫がヒクヒクと鼻を動かす。

「いい匂いがしてますねぇ」

「…梨のコンポート作っているんです」

「いいですねぇ、梨のコンポート。私、梨は好きなんですが、コンポートはいっとう好きなんですよぉ」

「美味しいですよね…」

 真っ白な思考のまま会話が続く。

「ああ、そろそろ出来上がるみたいですよ。いい匂いがしてきました。火を止めなくちゃ」

 ねこのしっぽがゆらゆらと揺れる。目がキラキラと輝き、ふんふんと息遣いが荒くなる。今にも口からよだれが垂れてきそうだ。

「いい匂いですねぇ、ほんと、いい匂いですねぇ。大好物なんですよぉ」

「…食べます?」

 私は無意識にそう口にしていた。しまったと思うも後の祭り。

「ええ!いいんですかぁ!!」

 目の前の猫…?らしきものはそれはそれは喜んだ。「いやぁ~たまには良いことをしてみるもんだ」ピンと耳と立てて大げさに背をそらしそう言った猫は、いそいそと私の横を通り過ぎて勝手に家へと入っていく。

「え?あ、ちょ、ちょっと!」

「大丈夫ですよ、こういうこともあろうとほら」

 小さなポーチから花の刺繍が施された可愛らしいハンカチを取り出すと、サッと足の裏を拭く。そして満足そうに頷くと家の中に消えていった。

 …私の家の中に。



 猫は台所にいた。猫の体では台所の棚は大きすぎる。精一杯伸びをして、興味深そうに鍋を見つめていた。

「ああ、ほら、もう火を消さなくちゃ!」

 せかすように、パシパシとしっぽで床を叩く。

「ああ、はい」

 私は鍋の火を消して蓋を開けた。ワインを入れたから、梨が赤く染まっている。

「あなた、良い腕をしていますねぇ」

「こんなの誰でも作れますよ」

 ホカホカと湯気を漂わせるコンポートを皿によそって猫に手渡した。使うかわからないが、ティースプーンを添えておく。

「ああ、いい匂いだ」

 猫はうっとりと匂いを嗅ぐ。そしてトコトコと歩くと、我が家のソファーにちょこんと腰かけた。図々しい猫だなと思いながら、私は今起こっている出来事をありのままに受け入れることにした。

 こんな事ってある?二足歩行で話す猫が、落ちていた財布を届けに来て、あまつさえ我が家で梨のコンポートを食べようとしているなんて!

 私は鍋から自分用の梨をよそうと、猫の正面に腰かけた。

「猫さんはこの近くに住んでいるんですか?」

「そうですよ~。この家から斜めにまっすぐ行ったあたりです」

「へえ…あそこら辺は確か神社がありますね」

 猫はホカホカとしたコンポートをじっくり見つつ頷いた。

「ああ、知ってます?私の家はあそこから空にグッと伸び上がってちょっと奥に行ったあたりなんですよぉ」

「へぇ、空に、グッと」

 訳がわからないがとりあえず頷いておいた。私はスプーンでコンポートを掬うと口に入れた。我ながらいい味だ。ほのかな甘みが疲れた体に染み渡る…。ふと気がつくと、目の前の猫がジッと私を見ていた。

「ええと、何か?」

「いいえ〜美味しそうだと思いまして」

 キラキラと瞳を輝かせながら、猫は自分のコンポートを見た。片手にティースプーンを握りしめて、そわそわと尻尾を揺らす。

(猫舌だから冷めるの待ってる、のかな…?)

 ちょんちょんとスプーンで梨を突き、「もうちょっとかな、もうちょっと…」とボソボソと呟いている。それを見て思わず笑ってしまった。

 なんだこれ。なんだこの状況。

「あははは」

 訳もわからず、胸がいっぱいになった。じんわりと目が熱くなる。

「はれ?どうしたんです?」

「いいえ、今日すごく良くないことがあって」

 猫はキョトンとしながら私を見て「ええ」と相槌を打つ。

「でも猫さんが来てくれたから、なんか全部どうでも良くなっちゃって」

 私はハンカチで目元を拭う。「ありがとう猫さん」そういうと猫は髭を撫でて頷いた。

「いいことも悪いことも、梨のコンポートがあればどうにかなりますからねぇ」

 トンチンカンな答えも、猫が言うと名言に聞こえてきた。

「さあ猫さん、そろそろ冷めたんじゃないですか?」

「ああほんとうだ!では…」

 そう言うと、瞳をキラキラと輝かせながらスプーンを梨に突き刺した。


 あの後、気がつくと私は猫に人生相談をしていた。猫はなんと300歳にもなるご老人…ご老猫…?で、奥さんの三毛猫と幸せに暮らしているそうだ。

 年の功なのかとても聞き上手で、私はスルスルと彼氏の愚痴や職場のことを話していて……ふと目を覚ますともう朝だった。


「あれ?猫が家に来てたの…夢?」

 慌ててテーブルを見ると、そこには大きなスプーンが乗ったお皿と、小さなティースプーンの乗ったお皿が出しっぱなしになっていた。

「夢じゃない…!」

 猫はいつ返ったのだろうか?それはわからない。けれど確かに昨日、そこにいたのだ。


 私は猫に出会った数日後、彼氏と別れた。そしてつい先ほど、自分に向いていないとずっと思っていた職場に辞表を出してきたところだ。

 平日の昼間に街を歩くのは新鮮だった。

 軽い足取りで階段を登ると、林の中に赤い鳥居が見えてきた。空を見上げるも、そこには何もない。青い空が続くばかりだ。

「猫さんの家はどこにあるんだろう」

 古びた神社の賽銭箱にお金を投げ入れると鈴を鳴らした。誰もいない真っ昼間にカラカラと音が響く。

 しばらく目を瞑っているとどこからか視線を感じた。振り向くと年老いた三毛猫が私をじっと見ていた。若葉のようなイエローグリーンの瞳が光を受けてキラリと輝く。

 どのくらい見つめあっていただろうか、不意に猫が二本足で立ち上がった。

「え?!」

 そんな私を見た三毛猫は、小さな両手を口元に当ててクスクスと笑う。そしてすぐに四足歩行に戻ると、何事もなかったかのように林の中に消えていった。

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