雷撃隊初出撃!アレキサンドリアを奇襲せよ!
1940年7月25日、ゴリツィアの飛行場でイタリア空軍初の雷撃部隊が編成された。
独立雷撃試験隊(Reparto Sperimentale Aerosiluranti)と呼ばれたこの部隊は、編成後間もない8月15日に初の作戦を開始した。
目標は、アレキサンドリア港に停泊するイギリス地中海艦隊。
イタリア空軍 VS イギリス海軍。
地中海の覇権を争う戦いが今、幕を開ける。
イタリアが参戦してちょうど一カ月半が経った1940年7月25日、ゴリツィアの飛行場でイタリア空軍初の雷撃部隊が編成された。独立雷撃試験隊(Reparto Sperimentale Aerosiluranti)と呼ばれたこの部隊は、その名の通り航空魚雷の実戦試験を行うことが目的の部隊である。開戦当初、イタリア空軍は天敵イギリス海軍に対して高高度爆撃を盛んに行っていたが、その効果の薄さに軍部は狼狽していた。SM79たったの7機、搭乗員5チームで開始されたこの試験部隊が、当時のイタリア空軍の台所事情である。未だに航空魚雷を大量投入する段階に達していなかったのだ。本格的な雷撃法の確立が急務だった。編成後間もない8月10日、同部隊は北アフリカのトブルクへ飛び、12日にはエル・アデムの飛行場に到着。15日には初の作戦を開始した。開隊からわずか20日後の事である。このスピード感が当時の切迫した状況を物語っていると言える。
1940年8月15日。
奇しくも第二次世界大戦終戦のちょうど5年前、枢軸国初の雷撃任務が行われた。東地中海の要衝、アレキサンドリア港への雷撃任務である。5機のSM79はエル・アデムを19:28に発進。夜間の奇襲を狙った。しかし、この任務は全くうまくいかなかった。21:30~21:45の間に目標上空へ到達したものの、視界の不良で目標を視認できない上に編隊は2つに分断。燃料が不足してきたところで英軍の正確な対空砲火を受けた。
コッペロ中尉機の無線手として作戦に加わったジュセッペ・ドンディ1等無線士は当時の状況を以下のように回想する。
"高度600...500...400m...
300mになってもまだ雲下に出ない、まるで魔法をかけられているようだ...
しまいには100m未満にまで高度を下げてしまった。
そしてトンボのように直進していると、なんと敵地の砂浜上空ではないか!
急旋回して海に戻る。
アレキサンドリアはそう遠くないはずだ。
忌々しき雲塊が私たちに魔法をかけてあざ笑っているのだ。
再度、アレキサンドリアに機首を向ける。
砂浜。
またやられた。
2回...10回...13回と繰り返すと地上からサーチライトが点灯した。
光線が空を照らし、私たちを探し求めて交差する・・・"
"一転、あの忌々しい雲塊へ逃げ込んだ。
そして我々5機は地獄のような場所にいることを実感したのだった。
とんでもないところへ来てしまったのだ。
ダンテ(地獄への旅を書いた中世イタリアの詩)よりもずっと恐ろしい。
ヴェニスやナポリの花火など比較にもならない。
曳光弾が交差し、上空で見たことのない象形文字を描く。
白、赤、青、この世すべての色を網羅しているかのように思われた。
我々に挨拶をしているのか、かすめる曳光弾がホイッスルのような音を立てていた。
高度を上げて逃れる。
奇妙な電球が付いては消える。
対空砲火の大歓迎を受けているのだ。"
"私たちは確実にアレキサンドリア湾の中心にいた。
海面高度だが、魚雷を投下できない。
暗闇の中にアレキサンドリアの綺麗な白い家々が見え、湾内に伸びた桟橋が、無数の艦船を保護するかのように包み込んでいた。
湾口が見えた。
湾口の両端に据え付けられた対空砲が曳光弾で湾内を明るく照らしている。
我が機は機首を上げ、進路を変更して射程から逃れた。
彼方で、サーチライトが無駄な努力を続けていた。
サーチライトは我々を捕捉できなかったが、何度も捕捉を試みるので埒が明かない。
我々は帰路につき、初の任務の幕を閉じた。"
この日、SM79による初の雷撃任務は全くうまくいかなかった。
僅かに2機のみが巡洋艦グロセスターを発見し魚雷を投下したが、魚雷は浅い海底に突き刺さった。
更に悪いことに、3機が燃料不足で砂漠に着陸した。
2機はイタリア領内にあり、再補給後に基地へ戻ったが、1機はイギリス領内に着陸した。
乗員は、SM79を焼却した後、捕虜になった。
試験部隊にとって、1チームを失ったことは大きな痛手だった。
残るは僅か4チームである。
彼らは自虐の意味を込め、自らの部隊を"Quattro Gatti(4匹の猫)"と仇名した。
これは、人数がとても少ない状況を表すイタリア語のスラングである。
この"4匹の猫"部隊は今後、SM79に数々の伝説を残すことになる。
この時はまだ、自虐の念に苛まれるだけだったけれども・・・