始まり
世界に不思議なことなんてない。
事象の全てに理由と名前がつけられていき、人々の疑問はなんにも残らない。
あるとすれば本人が知らないだけで必ず誰かが知っている。
未知を追い求める科学だってそうだ。
これがあるからこれもあるはずだと言う理論から導き出される新技術は…面白みがない。
結果が分かりきっている。予想できる。こうなって欲しいという願いの元に実験が繰り返されて生まれるものに個人的に興味が湧かなかった。
当然全部が全部つまらないということは無い。
本当かどうかは知ったことじゃないが、昔硫酸と硝酸をテーブルに零してそれを拭き取った雑巾をそのまま乾かしたら、無煙火薬が生まれたとか。
偶然できた、そんなことあるぅ? って言う事は面白い。
つまり未知が知りたい。
予想できないことを体験したい。
そんな他人から、馬鹿じゃないのかとか、アホらし、もうちょい楽しく生きろよとか、気取ってんなぁとな言われることは自分でも理解してる。
でもいいんだ。
その全てを叶えてくれる。
そんな在り来りで非日常な日常が始まって、今までの平凡だった日常が終わりを告げたんだ。
そう、在り来りな異世界スマホによって。
「ん…? なんだこれ」
〈正常にインストールされました〉
身に覚えがない通知だ。
特に何もアプリを入れてないし、普通にLINEしてただけだ。
「まさかウイルス? やめてくれよ…そう言うの…」
とりあえず何がインストールされたのか確認してみないことには始まらないと思ってホーム画面を見渡してみる。
「これ…か?」
アイコンはあるが…模様というか絵がなかった。角の取れた四角いただのアイコン。
怪しさMAXだ。
これ…開いたら請求とか来ないよな…
でも…
ポチ…
気になるから押しちゃった…とハラハラしながらことの成り行きを見守る。
「…ステルア?」
とりあえずワンクリック詐欺とかそういうのじゃなくて、普通にアプリ起動画面に移り代わって、ステルアと言う文字が大きく現れた。
聞いたことないけど…このアプリの名前?開発メーカー?
「長いな…」
起動画面のまま10秒ほど変わらないものだからフリーズしたかと思って、画面をタップしてみる。
「あ、開いた」
どうやら俺のタッチ待ちだったらしい。…なんの指示もなかったんだが…
そうやって提供元も正体もわからないアプリに文句をつけながら、うつり変わった画面を見た。
「やたら綺麗な…ヨーロッパ系の城…」
絵じゃなさそうな綺麗なヨーロッパ系の城が際立つ画面。
そこにはメニューと言わんばかりの3つのアイコン。
左からカメラマーク、GOマーク、人のシルエットだ。
説明も何も無し。
雰囲気的に真ん中のGOマークが、スタートとかそういう意味合いだと感じたからタップする。
「え…」
そして画面が移り変わる。
そう思っていたが…
視界がうつり変わってしまった。
俺は…札幌の街中を1人歩いていた最中だった筈だ。
アスファルトの硬い道を歩き、照りつける太陽のジリジリとした暑さに体力を奪われながら学校への通学中だった筈だ。
なのに…
足下が柔らかいし、太陽の光は柔らかい。気温も涼しいぐらいの適温。
そして…周りには高層ビルどころか建築物が一切ない…だだっ広い草原の真ん中に立っていた。
あまりのことに俺は大草原待ったなし。
「あ、ははは…」
それも乾燥して枯れ果てた大草原だがな。
俺の笑い声に反応したのか、さっきから足下にいる犬と羊を合体させたような…いや。ただ単にチワワぐらいの小さな羊が…30頭ほどいっせいに俺の顔に視線を向ける。
これくらいだったら、アルプスかどこかに瞬間移動したのかとも思ったが…それでは説明ができない存在が悠々と現れた。
「…」
集まる羊から目をそらそうと、上を向いたときだ。
バサッバサッっと言う雄大な空を感じさせる羽ばたく音。そしてその羽ばたきが生み出した風がボファっと何とも俺に吹き付けた。
「どらごん…」
もうカタコトの日本語しか話せないほどに俺の頭は限界で、本来感じるであろう恐怖心すらこの怪奇現象に仕事を忘れて呆気に取られている始末。
なんでどうして、空想の動物…モンスターが俺の上を飛んでるのっ!?
赤い鱗だろうか、それが太陽にピカピカと光って煌びやか。まるで全身に鎧を着ているようで…
「かっこいい」
それに尽きた。
地上で馬鹿みたいに口を半開きにして見上げている俺の事など気にもとめずにドラゴンは遠くそびえる山の方へ飛んでいった。
それをみとどけ終わった俺は我に返ったように
「夢じゃない…幻覚のレベルでもない…どういう事だ…ここどこ…」
現実を見ろと俺の中の冷静な自分が命令してくる。
「現実問題…ここどこだよ! どうしてこうなった!」
思い当たる節はただ一つ。
右手に持っていたスマホを確認する。
あの綺麗な城の画面のままだが…3つのアイコンが若干変わっていた。
「Back?」
真ん中のGOボタンだった所がBackボタンになってる。
もしやと思い恐る恐るタップする。
騒々しい都会の朝が戻ってきた。
ビルの間を縫うように車が行き交う見なれた光景…
「いやいや…まさかそんな…」
これは…これはひょっとして…
ふたたびGOボタンをタップしてみるが…
「は? まじで?」
今度は視界が移り変わることは無く、代わりに画面に新しい表示が現れる。
1秒毎に数字が減っていくカウントダウンだ。
(…自由に行来できるわけでもなさそうだけど…普通こういうのって…)
普通…異世界転生、転移、召喚物は簡単に元粗世界に戻ることが出来なくて、帰る方法を探すとか帰るために冒険したりて戦うとか、いっそのこと完全に永住するとか…大抵はそうなはずどけど…
「…うわっ、時間がっ」
遅刻じゃねぇかっ!
そう。あっちの世界に行ったっきりではなかったから、普通に学校に行かなければならないのだ。
すっかり俺の元にやってきたありえない事象のせいで時間を食ってしまったことに焦りを感じるが、俺的には今日は学校休んででもこの訳の分からないアプリについて調べたいところだが、何分親がうるさい家系のためおいそれと学校は休めない。
(…走ればギリギリ朝礼までには間に合うかっ!?)
あまり走るのは得意じゃないが、遅刻の記録を取られないためにできる限り全力で学校をめざした。
「よおっ、今日は随分と汗だくだな? まあ、暑いけどよ」
「いや、なんだ…寝坊してね」
「へえ、珍しい事もあるもんだな。じゃあほれ…」
「なんだよその手は」
「みなまで言わせるなよぉ? 俺お前の中じゃないかぁ」
当然のように要求してくる。悪気もない。
仕方なしにリュックの口を開けてノートを取り出す。彼が要求してるのは…宿題。
毎回のごとく…宿題の意味を理解してるのかと疑いたくなるほど俺のノートを丸写しするのだ。
「和春…いい加減家でやってくればどうだよ…」
「そんな冷たいこと言うなって、んじゃまどうもっす! いつも通り今日の昼は奢ってやるからよ!」
真っ白のピカピカした歯をピカんっと光らせながら前に向き直って、猛烈なスピードで書き写していく彼は小学中学とクラスは変わることはあっても付き合いが長い男友達、斉藤和春だ。
俺はスポーツ苦手だが彼はサッカー部にずっと入っているらしく、詳しくは知らないが中々強いらしい?
しかし、頭は悪くて宿題もこの有様。下手したら名前の欄に俺の名前を書くもんだからお前はコピーか何かかとツッコミを入れたくなることも少々。
「いつも大変だねー、カズっちも五歌君に感謝しなきゃダメだぞー」
「分かってるって! だから昼奢ってやってるじゃねぇか! なぁ?」
「そうだな、いいから早くやれ」
後ろから押すように机に向かわせた俺は、さっき話しかけてきた隣の女の子に向き直る。
「雪音、髪型変えたの?」
「そうそう! もーみんななんにも言ってくれなくてちょっとショックだったんだよ…。まぁ五歌君が最初に言ってくれるとは思ってもみなかったけど」
「悪かったな俺で」
「ふふ、冗談冗談」
満足そうに頬を上げながら、前髪をクルクルと指で摘む。
香坂雪音。ここで彼女が幼なじみとか言えれば少しはカッコがつくというか、実際はつい最近…入学数ヶ月後か? 近所に住んでいる事が偶然わかり、部活に入っていない同士たまに一緒に帰っている程度。
なんの華やかな話はないし、普通に会話して帰ってる。
「あ、今日バイトないから一緒に帰ろうよ」
「そっか、分かったよ」
この程度の会話だ。
傍から見ればそう言う関係に見えるのかもしれないが…俺はそういう気は…無くはないが、今のこの関係に満足してる。いやこの関係を壊したくないから満足している風に思い込ませてるのかもしれない?
まぁでも…
「雪音おはよっ! 今日も可愛いねぇ!」
「もうやめてよぉ…さっちゃんおはよ」
雪音はこのクラスで…この学年有数の…可愛いと言われている。
男どもはともかく女子からの人気も高くて、その人あたりの良さが見てうかがえる。
だから学校以外に外出なんてしなく、引きこもり予備軍な陰キャの俺からすれば…対極のような眩しい存在が彼女、香坂雪音だ。
(釣り合わないよなぁ…)
それがもっともしっくりくる、1歩を踏み出さない理由だった。
そんな俺が眩しすぎる雪音と、周りからすれば少し親しい関係をきずけているこの今の状況に不満を持つことなんで出来やしない。
「どうかした?」
「あ、あぁ…考え事をね」
「悩み事とか?」
「いやいや、そんな大したことじゃないよ。今日も朝から元気そうだなぁって羨ましく思えただけ」
「うっわ! 五歌君さりげなくディスった!? ディスったよね!?」
「それよりもうすぐ授業だけど和春、終わった? あの先生授業の最初に集めるからタイムリミットは近いぞー」
「うわ! 話変えた! そらした! カズくん酷くない? 聞いてたでしょ!?」
「わぁってるっ! 集中してるから話しかけんなっ!」
いつの間にか修羅の顔になって物凄いスピードでペンを走らせている彼だが、もう時は遅し。
それから数分後。
【はーい。宿題集めるぞー。前から回してくれー】
「終わった…」
燃え尽きた彼の力なき呟きがザワつく教室の中俺らだけに聞こえた。
彼の何が終わったのかはご想像におまかせしたい。
チャイムがなって1時間目の授業が終わり10分ほどの休憩に入った。
たった10分。されど10分。
その短くとも大切な時間をどう使うかは自由。
真面目に次の授業の予習するか、周りと雑談してるか、スマホ弄ってるか、寝てるか…必死に宿題を丸写ししてるかだ。
千差万別。
そんな中、俺は一人静かにスマホを睨んでいた。
「…カウントダウンは…終わったな」
言わずもがな。例の今朝突然インストールされた謎のアプリだ。
このアプリを使うとどうやらドラゴンが空を飛ぶ別の場所に行けるらしい。もしかしたらマジもんのVR世界かもしれないけど、とにかくとんでもないことが起こる。
俗にいう異世界転生、いや召喚…いやこれも違うな…。
転移物か。もしかしたらこの世界と別の世界を繋げてしまうこの世界の理を捻じ曲げてしまうとんでもないアプリじゃないかと授業を受けるどころではなかった。
改めて落ち着いてアプリを調べてみる。
分かっていることはこのアプリの名前がステルアなんじゃないかということ。これは起動画面でロゴとして目立っているから推定の名前だ。
そして操作できるアイコンは三つだけ。カメラマークとGOボタン、そして人のシルエット。
GOボタンは押すと文字道理異世界?に行ける。
カメラマークは意味は分かりそうだが、用途不明だ。
人のシルエット。これは想像もつかない。
人に関する事なんだろうけど…
そして異世界から帰るのは瞬時にできるが再び行くにはインターバルが必要らしい。今朝は一時間ほどだった。
後は不明点だが…あり過ぎてきりがない。
とりあえず明確にしておきたいのは異世界に言っている間のこの世界における俺の体についてだ。
まさか精神意識だけ異世界に行っているなんてことはないんじゃないかと個人的な考え。
そんなことをすれば今朝俺は街中の歩道でいきなりぶっ倒れたことになる。
もしそうだったら今頃間違いなく病院に居たことだろう。
憶測だが異世界に行っている間。こちらの世界の時間が止まっているんじゃないかと思ってる。
これは異世界に行ってたのは数十秒。そこから帰ってきても信号待ちしていた車は変わっていなかったし、周りの人も突然現れた俺に驚いた様子もなかった。
転移前の時間から始まったように普通に時間が流れていった。
でもそれだと精神意識だけが異世界に行っている説も否定できなくなったな。
時間が止まって体ごと転移したか、時間が止まって意識だけが転移したのか。
まぁどちらでも変わらないし大したことじゃないか。
体ごとか意識だけか。どちらにしても時間停止説が正しいのなら今ここで転移しても周りから俺は不自然には見えないということか。
(雪音〜? 駅の近くに新しいパン屋さんできたんだって! 美味しいらしいよ! 今日行ってみない?)
周りは普通に時間が流れているように感じる。
「でもそれだと矛盾が生まれると思うんだよなぁ」
矛盾。わかりやすく極端に例えると異世界に行って仮に40年くらい生活してこちらに帰ってきたとすると…
こちらの世界では俺がいきなり年取ったことになるよな。
(そうなの? でも…今日は用事あるの…また今度行こ?)
俺の寿命…どうなるのこれ…
異世界に行っている間こちらの世界が止まるなら、異世界にいる俺の体の成長というか…俺の時間が止まってくれていれば全部辻褄が合う…のか?
ただ俺が人の倍の時間を過ごすことになるという事で…仙人化しそう
「何難しい顔してるの?」
「うわっ!?」
隣の女の子、雪音がスマホを覗き込んでくる。
突然過ぎて心の底からの叫びを上げてしまって自分でもびっくりした。
「何そんな慌ててんのさ、さては…教室で堂々と…」
にやにやしながらさっきのお返しと言わんばかりに責め立ててくる雪音。
本当に違うのに…さすがにこのアプリの存在を知られる訳にも行かないし…
「みーせてー!」
「ちょっ!? 俺のスマ…」
不意をつかれてスマホを雪音に取られてしまう。やばいやばいと取り返そうとすスマホを掴むが…遅かった。
俺から逃れようとする雪音の親指が…偶然にもGOボタンに触れたのだ。
瞬時に座っていたはずの椅子が消えて、ストンと尻が落ちる。
ドサッと尻もちを着いたが感触は柔らかい草。明らかに教室のタイルの硬い感触ではなかった。
「え…」
頭が追いつかない様子の雪音。
俺がここに初めて来た時と同じ反応だ。
上を見上げれば蛍光灯が吊られている天井ではなく、どこまでも気持ちがいいほど澄み切った晴天の空。空気も排ガスの匂いなんて一切しない手付かずの自然の空気。
地平線を眺めれば高層ビルどころか建築物すら一切ない本当の平原。
北海道でもなかなかこんな景色は見られない。
足元を見れば…安定のチワワサイズの小さな羊の群れだ。
「え、えぇ…なにこれ…え…草? 外? 学校は…?」
「落ち着いて聞いてくれよ」
こうなったら仕方ない。知っている限りのこの状況について雪音に正直に話すことにした。
終始わかってるのか分かってないのか、まだ脳が復帰してないのかポカンとした顔だったが…
「え、待って異世界? 嘘でしょ…」
「異世界って確信はないんどけど今朝ここに来た時は空にドラゴンが飛んでたんだ。ドラゴンが地球にいるわけないだろ? だから少なくとも地球以外のところって考えてる」
「今朝って…寝坊じゃなかったんだ」
「そういう事」
雪音は改めて周りを見渡した。全て見たことがあるようで少し違う感じがする風景だ。
原っぱに座り込んでる俺と雪音の周りにチワワみたいな羊…チビ羊の群れに取り囲まれていてモコモコして気持ちい。
不思議と獣臭もしないし、毛も汚くなくてふわふわ。
どうやらなんでかは分からないけど懐かれてるみたい。
「五歌君…この子達は…?」
「わかんない…見た目はチワワみたいな羊だけど…」
雪音の膝の上で寝始める羊すら出てくる始末だ。敵意のような恐怖感は感じないし大丈夫だと信じたい。
「可愛い…ね」
「モコモコだね」
抜け出せないと観念した雪音が吹っ切れたように羊を撫で始めた。
まるで犬のように擦り寄ってくる羊に可愛いと言いながらも引きつった顔で、我先にと雪音に迫る羊の相手をしていた。
「順番にするからぁ…」
「それで…帰れるんだよね」
「そのはず。俺はすぐ帰れた」
なんか疲れたようなやさぐれた顔でどんよりしてる雪音が聞いてきた。
顔中舐められてベタベタ。さぞかし壮絶な体験だったのだろう。
「なんか…大変だったね」
「お風呂…」
「でも多分帰ったら普通に2時間目の授業だよ」
「むりぃ〜」
とりあえずスマホを取り出して、ステルアを開いた。
「ん…?」
「どうしたの?」
「いや…不味いことになったかも」
異世界に来ているあいだはGOボタンがBackボタンへと変わるはずで、それを押せば帰れると軽く考えていたが…そう甘くはなかった。
今朝は出てこなかったカウントダウンの数字。
4:59:50と表示されていた。
最後の50は一秒ごとに減っている。つまり…
「5時間は帰れない…」
「ええええええ!!!!!」
Backボタンを何度も押してみるがカウントダウンの数字が繰り返し表示されるだけでなんの変化もない。。
不味い。
こんな身一つスマホ1つで訳の分からない場所に5時間もいなきゃいけない。
異世界。このワードを聞くだけで不安は何倍も倍増する。
「ど、どうするの!? 5時間なんて…みんな心配するよ…」
「それなら…大丈夫なはず。こっちに来てるあいだはあっちの時間は止まってるはずだから…帰ったら俺の雪音がスマホの奪い合いをしていた時に戻るはず」
「問題は…あれだよね…異世界あるあるの…」
「まさか…」
「…ドラゴンだっていたんだ…ほかのモンスターがいない理由なんて…ない…よね」
その時、空気が変わったような気がした。
まったり寝転がっていた羊達が一斉にムクリと起き上がって、ある一点を見つめていた。
「えっなになにっ! 今度は何っ!」
そして羊たちは一斉に逃げ出した。
「ちょっ…何が起きてるんだ…」
俺には何が起こっているのかなんてわからない
わからないことが恐怖に直結する。
先程までとは全く持って凍りついたように硬い空気が異常事態なんだと思わせていた。
「わかんないけど、逃げた方がいいんじゃない!?」
「あ、あぁあ…とりあえず羊たちを…」
追おう。
そう言いかけたその瞬間。とてつもない殺気が俺の心臓を突き刺した。
背後から来る体験したことの無い恐怖。
本能的に逃げろと叫んではいるが、その圧倒的な殺気に体が怖気付いて動かない。
「なんだ…これ…」
息を吸うのさえ重い気がする。
「あれ…なに…?」
震える指先で雪音が指さす方向には…俺には黒い塊のようにも見える物体だった。心無しかゆっくりとこちらに近ずいてきているようにも見える。
直感がヤバいやつだと警告するが、情けないことに腰が抜けて思うように動けない。
どれくらいたっただろうか。
黒い塊の正体がハッキリと見える距離にまで迫っていた。
「イノシシ? でも…」
イノシシのように見えた。でも、その容姿がとてもじゃないが俺の知るイノシシとは全くの別物。
全体的に真っ黒な体毛におおわれていて、所々白…いや銀に近い毛が混ざっている。
それだけなら色違いってだけで許容できたのかもしれない。
でも、そうすることが出来なかった理由はなんと言っても牙。いやあれは刃物だ。
金属光沢を帯びる鋭い2本の牙は、触れるもの全てを切り裂くかのような鎌のような形状をしていた。
あれにどつかれたら、人なんて両断されてもおかしくない。
「なんなんだよ…こんなの…」
武器もない防具もない、能力も魔法もないし筋肉もない。
どうすることも出来ないただの餌。
それが今の俺たちの状況。
逃げたところで周囲に身を隠す木々すらもなければ、大きな岩もない。
ただの平原で野生動物。さらに言えば有り得ないほどに肥大化した筋肉でおおわれた足で追われれば逃げ切るのは不可能。
「ゆ…雪音っ! 逃げろっ! 早くっ!」
「でも五歌君はっ!」
逃げきれないことはわかってる。
でもそれしか出来ない。選択肢がそれしかない。
「いいからこれ持って早く行ってくれ!」
スマホを押し付けるように雪音に持たせて、俺は怪物イノシシへと向き直る。
何が出来るかはわからない。
突進されて終わりか、もう少し粘れるか…
俺を食らってお腹いっぱいになって帰ってくれれば万々歳。
「死ぬ覚悟…なんてかっこいい真似なんて出来ないけど…」
「何言ってるの五歌君っ! 早くあなたも…」
「女守って死ねるとか…はは…そこら辺の死に方よりは…カッコつくかな」
イノシシは真っ直ぐと俺たちを見つめながら近づいてくるだけ。
歩いてるだけで俺たちは死すら覚悟しなきゃいけない。
道具を使って地球の頂点に君臨していた人間なんて…それさえ無ければ何にも勝てない。
自然を…この世界を舐めすぎていた。
震える足を力ずよく地面にたたきつけて、自らを焚き付け立ち上がる。
「五歌君…」
「行けよっ…行ってくれよ! 俺のせいで…雪音が死んじまったら…死んでも死にきれないからっ!」
どうしていいか雪音は迷っていた。
渡されたスマホの意味を知ってもなお五歌を置いていくことに抵抗感があった。
自分だけでも助かりたい…もちろんそんな思いはない。
五歌の言葉を受け入れるか…
「行けって!!!」
「っ!?」
イノシシがついに襲いかかる。
猛烈な突進。大型バイクぐらいの大きさはあろうかという巨大な体が、猛スピードで突っ込んできた。
「っ…絶対っ! 絶対助けを呼んでするからっ! 呼んでくるからっ!!」
雪音の心は滅茶苦茶だった。
イノシシが怖い。この世界が怖い。何より…五歌君を置いてここから立ち去ることが怖い。
五歌君は…死ぬの?
嫌だ…
なんで…死ななきゃいけないのっ…
「私があの時ふざけてなきゃ…あんなことしなきゃ…」
後悔が後悔を呼んでますます気が気でいられない。何も考えられない。
だから…走った。走るしか…ない。
1度走り出したら、後ろから聞こえてくるドスンドスンと言う思い音が迫ってくるように感じて止まろうとも止まることは出来なかった。
最後に振り返った時に見た…恐れに震え私を必死に守ろうとしてくれる五歌君の背中が…
深く…とても深く心に焼き付けられた。
「五歌君…絶対…絶対…」
「っ!」
猛烈な突進を止めることなんて出来ない。避けるしかない。誰でもわかるこの状況。
俺は全身の力を込めて横に飛び退いた。直後にすぐ横を通過したイノシシの風圧が俺を吹き飛ばす。
「ひぃ!?」
(生きてるっ!? 俺生きてる!)と異世界のイノシシの突進を避けきれたことに自分の体と自分の運に喜んだのもつかの間。
あの巨体であの速度。
もっと戻ってくるのに時間がかかるかと思っていたら、なんと俺を通り越して2m程で急停止、巨大な蹄が地面を抉りながらめり込んでいるところを見ると相当無理やりな…急制動。俺に突進を交わされたことに大激怒しているかのように荒い鼻息が水蒸気のように吹き出して、牙の生える頭をブンブンと振るった。
マジで怒ってる。
汗がつたる。暑いのか冷たいのかさえわからない。それを感じとれる余裕すらない。
バクついた心臓の音だけが死のカウントダウンのように頭に響いた。
「はやっ!?」
下顎から天を貫くようにそびえ立つ2本の鋭い牙が、俺の目の前をヒュンと音を立てて空を掻き切った。
人の反応速度を明らかに超えた加速。
「うぁぁぁぁっ!?!?!?」
目の前で血が映りこんだ。
誰の…俺のだ。
血だ…あぁ…血が…あぁぁ
「あぁぁぁっっ!!!」
俺の腹が…赤く染みを通り越して流れ出ていた。
どくどくと脈動と同期して溢れ出すように生暖かい血が足を伝って地面に染み込む。
足が震えて…体が崩れる。
恐怖で震えているわけじゃない。血が…流れすぎてまともに立っていられない。
視界が白っぽくなる。意識も遠のいてきて…いよいよ限界…膝をついて俺はイノシシを前に倒れ込んだ。
喉の奥から鉄の感覚が湧き出してくる。
「グアッ…」
吐血。
この腹の傷…相当深い。内臓まで…やられてる…死ぬ…
ゴミを見下す暑くも冷たい獣の目が俺を突き刺す。
死ぬ…
踏み潰されるか…牙で貫かれるか…体当たりでバラバラに砕けるか…
いずれにしても身動きも取れず、このままだと助かる見込みすらない重症を負った俺は…死ぬしかない
あぁ…。どのくらい稼げたかな…雪音…逃げれたかな…雪音…
でも…
「な…んで…」
横たわる俺の視界にはイノシシの凶悪な蹄しか見えない。
見える…?
なんでまだ生きてる…
4本の足が遠ざかっていく。
「っ…お前っ…まさ…かっ!!!!」
イノシシはあろう事か俺にと止めを指すことなく、雪音の方向には頭を向けた。
やめろっ…やめろっ…雪音だけはっ…
「雪音だけはっぁああ!!!!」
力が出ない。いや出すんだ。
別に彼女でもなんでもない雪音だがっ…俺が勝手に惚れた片想いしてるだけだがっ!
守れっ!
動けよっ!
動けよっ!
今だけ…死ぬまでの僅かなこの今だけっ!
「動けよぉぉぉぉっ!!!!」
【スキル・フレイムソウル】
ピコーんという間の抜けた通知音は誰も気づかない。
それでも画面にはステルアが起動され、スキル名【フレイムソウル】と表示された。
湧き上がる気力。
引いていく痛み。
意識が冴えたようにハッキリとする。
そして増すばかりの…目の前のイノシシへの…雪音を追うイノシシへの純粋な殺意。
「待てよっ…豚野郎っ」
イノシシの足がピタリと止まる。
まだ生きてるのかと言うような顔だ。
面倒くさそうに俺へと向き直って、牙が俺へと向けられた。
血が滴るが気にしたことじゃない。どうせ助からない命なのだから足掻いて足掻いて、雪音が助かれば…
俺は満足だっ
「さぁ…来いよっ…豚野郎っ!」
俺の言葉を理解してるのか挑発されたとまたもや激怒の苛立ちを目立たせる。
そして奴は3度突進してきた。
不思議だ…目で終える
今度は避けない。
死ぬ覚悟は出来てる。
迫り来るイノシシは目と鼻の先。
2本の牙が今まさに俺を貫かんと鬼の形相の赤い目が俺を睨んだ。
でも…
「ぬおっっっ!!!!」
俺は全身全霊をかけて踏ん張る。
そして、やつの牙を両手で受け止める。
止めることなんて当然出来ない。猛烈な速度のイノシシと共に俺の足が地面を抉りながら何十メートルも押され続ける。
刃物と同義の牙が俺の掌にめり込んでいく。切られた手から血が牙を伝って行くのが見えるし感じる。
「捕まえたぞっ!」
自慢の牙を掴まれたのが不快と感じたイノシシが振り払うように暴れるが、俺は抗うことはせずそのままイノシシの背中へ飛びつく。
さらに暴れ馬のように跳ね回って俺を振り落とそうとするが、負けじと硬い剛毛を鷲掴みにして踏ん張る。
「っ!!! 雪音だけはっやらせねぇっ!!!」
振り上げた拳に懇親の力を込めて俺は歯を食いしばる。
全力で振り下ろした拳はグチャッという不快音を立てながら熱く柔らかい場所へ拳がめり込んだ。
【グビョァギァォォァ!!!!!】
この世のものとは思えない絶叫が木霊した。
「死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!」
俺の拳はイノシシの目に無理やりめり込んでその奥をぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
気持ち悪い。
死ねっ!
気持ち悪い。
死ねっ!
死んでくれっ!
激しく抵抗するイノシシから振り落とされないように、剛毛を掴む腕と頭蓋骨の眼球のところにめり込む腕とで踏ん張る。
ブチブチと何かを切断するような感覚。
溢れ出る熱いとも感じる液体。
死ねっ!
死ねっ!!
死ねっ!!!
我武者羅に無我夢中てイノシシの頭の中を掻き乱していく。
やがてイノシシの動きも鈍くなっていく。何度も何度も突いては掻き出しを繰り返すうちに体をビクビクと痙攣させながらドテンと巨大な体を地面に倒し、その反動で俺も地面に投げ出されて眼球の破片を握り締めながら天を仰いだ。
首をかたむけて倒れ込んだイノシシを見た。
息はあるようだが目から血を流して舌をだらんと垂れさせてる姿を見て思った。
「もう…動いてくれるな…よ」
ピクリともしない。
「…」
「へへ…グロいよ…」
あぁ…気が遠のいてく。
空が遠のいていく。
痛い…な
気持ち悪い…
ね…む…たい…
(五歌君っ!! 五歌君!!)
(酷い怪我っ…慈悲深き守護神様に名も無き羊飼いが懇願します。彼に癒しの光を…ヒールっ!)
(五歌君っ! 五歌君! 死んじゃやだよ…やだよ…)
雪音…生き…た…