みんなで朝食(準備)
朝の台所では包丁の断続的な音が、スープを煮込む音が、そして、怒気を孕む甲高い声が響いていた。
「カミツミちゃん! はやく帰ってよ! もうカミツミちゃんの仕事は終わったでしょ!」
カミツミは師匠など居ないかのようにシンディー背中に居座っている。シンディーの背に料理中のため両手が塞がっているため、カミツミを支えるものは何も無い。カミツミは自力でシンディーの背中にしがみついていた。
「師匠、危ないので離れててください。すぐに用意するので、リビングで待っていてください」
「むむむ……」
シンディーは朝食の支度をしながら足元で暴れる師匠を諌める。学園の授業時間が迫り焦るシンディーは、それ以上師匠に構うことなく、サラダ用の野菜を素早く切る。
そんなシンディーの態度に師匠の怒りは頂点に達した。
「うー! にゃー!」
師匠は助走をつけ、シンディーの脇腹に向かって全力でタックルをした。シンディーは倒れはしなかったものの、たたらを踏む。
衝撃で切りかけの野菜があたりに散らばった。
「ふーんだ! カミツミちゃんもシン君も知らないもん!」
そう言うと、師匠は台所から走り去り、自分の部屋に逃げ込んでしまった。完全に子供である。
「あ〜あ、拗ねちゃった……今日は遅刻だなぁ……」
シンディーは包丁を置き、散らかった野菜を片付けながら呟いた。
――その時、背後から異様な気配を感じた。
シンディーは背中のカミツミに目を向ける。そこには深紅に光る目を吊り上げ、怒りの形相を浮かべる、本物の悪魔がいた。
「カ、カミツミさん?」
背中をよじ登るようにして肩から飛び出したカミツミを反射的に胸の前で捕まえる。カミツミはシンディーの腕の中で、手脚を振り乱し暴れた。暴れるカミツミをしばらくの間捕まえていると、息を荒らげながらもなんとか落ち着いた。
「落ち着きましたか?」
シンディーはカミツミが頷いたのを確認してからゆっくりと床に下ろしてあげた。
その時、シンディーは指に小さな痛みを感じた。左手の中指から血が出ていた。それに気付いたカミツミが心配そうな顔でシンディー指を見た。
「包丁で少し切ったみたいですね。まぁ大丈夫ですよ」
シンディーは大したことないと手を振る。カミツミはシンディーの左腕に手を伸ばした。血の滴る手をカミツミの小さな両手が優しく包み込む。カミツミはその手を自分の方へと引き寄せた。
シンディーはされるがままに腕を動かすと、カミツミの小さな口の中に指が入った。
「カミツミさん!?」
シンディーの指が、はむはむと甘噛みをするように口の中で弄ばれる。カミツミの小さな舌が傷口を舐めるくすぐったさに、思わず身震いをする。
しばらくして、ようやく、シンディーの指がカミツミの拘束(口束)から解放された。その指にはさっきまであったはずの傷が無くなっていた。
「ありがとうございます、カミツミさん」
気にしないでと言うように首を振る。カミツミの頬っぺたが少しだけ赤くなっている。
「でも、さすがですね。綺麗に治ってます」
カミツミの唾液でテラテラと光っている指を眺めながら呟くと、カミツミの頬はさらに赤みをました。
「でも、血が出てたのに口に入れちゃダメですよ。触れてるだけでも回復しますし」
悪魔の多くは魔法の適性が高い。カミツミは特に回復の魔法を得意としている。小さな切り傷くらいなら彼女に触れているだけでも一瞬で回復する。
「じゃ、はやく用意をして、師匠を呼びに行きましょう」
カミツミは白く細い右腕を突き上げて答える。
§
「これで今頃、シン君の頭の中はわたしの事でいっぱいだね! わたしって天才!」
逃げ出した師匠は自分の部屋にいた。本気でシンディーに怒っていた訳ではなく、ただ構って欲しかっただけだった。
師匠は、昨日、シンディーが飲んだものと同じ液体が入った瓶を眺める。
「それにしても、シン君の様子に変化なしだったなぁ。うーん、今回の惚れ薬は完璧だと思ったんだけど。くそぉ、今頃シン君は私にメロメロになってたはずなのにぃ……」
昨日、シンディーの飲んだ薬、その正体は師匠特製の惚れ薬だった。
「うーん……明日の調査でいい素材があれば良いんだけどなぁ。はぁ……片付けよ……」
シンディーが来るのを待つ間、散らかった素材を片付ける。その間も師匠のひとり言は止まらない。
「あ、身体能力が上昇する薬ならもう一個作れそう。一応作っておこうかな。はぁ、偽装用の薬ばっかり上手くいくんだよねぇ……」
ただ惚れ薬を作ってばかりではシンディーに怪しまれると考えた師匠の狡賢い作戦だ。既に完成した薬も用意することで惚れ薬を飲んだ事をシンディーに気付かせない。
師匠はネコの手で器用に道具を使い、薬を調合する。
「よし! 完成〜 今はいらないから閉まっとこう。よし、そろそろシン君来るかなぁー」
しかし、しばらく待っても来ない。
「シン君、遅いなー。いつもならもう迎えに来てくれるのに……どうしたんだろ?」
いつもは素早く朝食の準備を終えて、迎えに来るシンディーが、未だ姿を見せない事を不思議に思い始めていた。そして、師匠はその理由に思い至った。
「はっ…… 今、シン君とカミツミちゃん二人っきりじゃん! これはまずいですよ! シン君がカミツミちゃんに……」
師匠の頭の中で妄想が膨らんでいく。カミツミがシンディーを……
事態の緊急性に気付いた師匠は急いでリビングへと向かう。シンディーをカミツミの魔の手から守るために。
☆
シンディーとカミツミは無事に朝食の支度を終えた。カミツミも食卓へ運ぶ手伝いをした。悪魔とはいえ、7、8歳くらいの少女が食事を運ぶ姿は実に微笑ましいものだった。
カミツミに合わせて用意をしたせいで少し遅くなってしまった。
「よし、あとは師匠だけですね」
その時、がチャリと扉が音を立てて開いた。そこには白いネコ、師匠がいた。
「師匠! 今から呼びに行くつもりだったんですが……無視してすみませんでした」
「ううん。シン君……ごめんね……怪我、しなかった?」
「はい、大丈夫でしたよ。でも、いつもは僕が行くまで戻ってこないのにどうして今日は?」
「だって、放っておいたらカミツミちゃんがシン君に何するかわかんないじゃん!」
「カミツミさんが僕に何か? 特に何もないと思いますけど……」
シンディーはカミツミに目線を送るが変わった様子はない。朝食の置かれたテーブルを囲うように置かれた椅子の1つに座り、脚をぷらぷらと揺らしている。
そんなカミツミの姿は無垢な子供にしか見えない。シンディーにはカミツミが何かをするようには思えなかった。
「わたしにはわかるの! とりあえずご飯にしよ! 怒ってたらお腹すいちゃった」
「そうですね。ご飯にしましょう」
「わ〜い!」
師匠は嬉しそうに飛び跳ね、シンディーの肩に飛び乗った。シンディーも慣れたように肩に乗った師匠を撫でる。
「ちょ、ちょっと、師匠。危ないですよ」
「まぁまぁ、ちょっとくらい良いじゃない。あ、そこ! 気持ちいぃ」
「ここですか?」
「そうそう、そこそこ。いいかんじぃ」
二人(一人と一匹)がじゃれている時のカミツミの悔しそうな表情は誰も見ていなかった。
カミツミの表情は、シンディーと師匠が席に着いた時には、いつも通り、感情の読めない無表情に戻っていた。