良薬、目に苦し
願いが叶うお薬、あります。非常に胡散臭いフレーズだ。かなり存在感のある宣伝文句かもしれないが、そんな内容の看板が通い慣れた薬局の前にいきなり現れたとき、どうすればいいのだろう。赤の下地に黄色のペンキで文字が書かれた安っぽい看板に、思わずわたしは自分の目を疑った。
そこは極めて普通のドラッグストア。三年前に引っ越してきてからはわたしもよくお世話になってきた。夜十一時まで開いているのが有難い。一人暮らしの大学生で遊び盛りのわたしには、遅くまで遊んだ帰りに生活用品が買える近所のドラッグストアは非常に有難い存在だったのだ。
合コンの帰りの今だって、わたしの目当てはラップと電池とトイレットペーパー。カップ麺もなくなってきたはずなので、安いインスタント食品もいくつか買うつもりでいた。最近の大型ドラッグストアは何でも売っている。履き慣れていない勝負用のミュールに足が痛むのを我慢しつつ、閉店間近の店内へ足を運んだ。別に怪しい看板に興味があった訳ではない。
財布と相談しながら必要な物をさっさと買い物カゴに突っ込んでレジに進むと、顔見知りの店員のお兄さんと目が合った。店内もわたしもお兄さんもいつも通りなのに、目が合った瞬間、やけに不思議で印象的な沈黙が少しだけ流れる。
「あ、看板見たんですね。」
「え。」
まるで、「今日の広告見たんですね。」と言うような口調で話しかけられ、わたしは思わず間抜けな声を上げていた。わたしが引っ越してきてた頃には既にお兄さんもお店にいたので、かれこれ三年の付き合いになる訳だが、こんな風に話をするのは初めてだ。
「あ、別に通報されるような薬を置いてる訳じゃないですよー。第一、薬局コーナーは八時までですし。」
薬が売れないのに、さも怪しい薬があるかのような看板を出したのか。私はこの三年間を思い返す。この店員さん、こんな変なことを言うような感じだったっけ。いつもはもっと真面目そうで……。戸惑うわたしに、お兄さんがにこにこしたまま続けて口を開いた。
「まあまあ。試供品のドリンクとでも思ってくださいよ。いつもお世話になってるわけですし。あなたならこれかな。使用法は守ってくださいね。」
こちらの疑問など意に介せず、お兄さんは分厚い大きな封筒を差し出してきた。もしかするとわたしもどうかしていたのだろうか。漫画のようにトントン拍子で進む展開にまんまと飲み込まれていたらしく、無意味な荷物としか思えない大きめの封筒を促されるまま受け取ってしまった。ずしりとした重みを確かめたところで我に返る。
「何ですか、これ。」
当たり前の疑問が、漸く口から飛び出した。
「一種のサービスと思って、受け取ってくださいよ。お金取る訳じゃないんですし。」
「……はあ。じゃあせめて袋に一緒に入れて貰えませんか。」
コンビニで弁当を温めてくれと言い直すかのような気分だった。わたしは何をやっているんだろう。結局、足が痛むのを我慢しながら、両手に大きな買い物袋を下げて帰るはめになってしまった。
そして、その薬の効果は翌日の夕方に現れた。
「これ、君のだろう。」
昨日の合コンで会った、学部が違う彼。その手には、確かにわたしが使用法通りに放置してきた封筒があった。
サービスと言って押し付けられた封筒の中には、書類か本が入っていそうな何の変哲もない分厚い封筒と、手書きで使用法が書かれた紙が一枚だけ入っていた。紙切れ曰く、「中身は見ないで食堂の南にあるベンチに置いてください。その日の夕方は広場で効能を待ってください。」とのことだ。非常に胡散臭かった。
勿論、半信半疑で試しただけだ。昨夜の自分が何を願っていたのかすらはっきりしていなかったのだから、何が起こるのかも全く予想していなかった。あと数分もしたらここを去って次のバスで帰ろう、なんてことを思いながら、広場のベンチで空を見上げていたのだが、まさかよりによって彼がやって来るとは。
「うん、良くわかったね。ていうか、ええっとその、……二日酔い大丈夫なの。」
他愛ない話をしたつもりだったのに、彼の目は真剣だ。やはり馬鹿で軽率な真似なんてするものじゃなかったのだ。中身は何だったのだろうか。封はされていなかったため、きっと彼は中身を見たのだろう。わたしが特定出来るような何かを。考えれば考える程、不安になってくる。後悔を感じ始めたところで「わかるさ。」と強めの口調で言われ、その瞬間、わたしの頭は真っ白になった。
そもそもわたしは、彼とまた話せるなんて思っていなかった。学部が違うので普段は顔を合わせることすら少ない。それに、「合コンもお酒も本当はそんなに好きじゃない。」「今日は連れて来られただけ。」と、酔ったときに彼は呟いていたではないか。きっと生ビールをジョッキで五杯も飲んで更に焼酎のロックを遠慮もなく頼んだわたしなんて、印象も最悪のはずだ。そんなわたしに、わざわざ忘れ物を届けに来てくれたのだろうか。いや、わたしはわざと置いてきたのだが。
「……何でわかるの。」
彼が無言で封筒から中身を取り出すと、わたしの口から「あ。」と声が漏れる。それは、わたしも見覚えのある一冊だ。
「これ、君が描いたんだろ。」
本と呼ぶべきかパンフレットと呼ぶべきか、はたまた、画集と呼ぶべきか。高校生の頃、美術部にいたわたしの絵が唯一入選したコンテストがあった。そのコンテストの優秀作品が厚紙に丁寧にカラー印刷された一冊が、今、彼の手にある。
どうして、とか、何で、とか、そんな言葉も出ないくらいにあんぐりと口を開けたままのわたしの隣に彼が座った。そして、やはり優秀作品のページを開く。見開きいっぱいに、今にも懐かしい香りがしそうな油絵のカラー写真が広がる。
「びっくりしたよ。ギャルっぽい子かと思ってたのに、凄い綺麗な絵を描くんだね。草の匂いがしてきそうだ。」
なんとなく、彼が合コンを好かない理由がわかった気がした。懐かしさに任せるまま、わたしの口がぺらぺらと勝手に喋り出していく。
「わたしが小さい頃住んでた場所の絵なの。すっごい田舎で電車も一時間に一本しか来ないんだ。生まれた時から住んでたから、写真見ないままでも描けたの。」
「へぇ。」
合コンの時には、美味しいお酒を飲んでも彼に対してだけは口が開かなかったのに……、わたしは今、何に酔っているのだろう。
「その場所で描いたんじゃなかったんだ。」
「わたしの高校入学に合わせて家が引っ越ししたから……。それに、いつでも行けるって思ってる場所ほど普通は写真なんて撮らないじゃない。思い出通りに描いただけだから、似てるかはわかんないよ。油絵だって高校に入るまで触ったこともなかったし。三年の時に描いたんだけど、下手くそでしょ。」
「いや、凄いと思った。思い出を大事にしてるんだね。」
そんな大したことない、と言いながら、昨夜のわたしは結構諦めの悪い女だったんだと実感した。胸がドキドキしている。
「僕は風景写真を撮ったりするんだけど、写真でもこの絵くらい雰囲気のある一枚はなかなか撮れないよ。」
もう少し薬の効き目がもちますように。
気がつくと、そんなことを願っていた。食い入るようにわたしの絵のページを見詰めている彼。どこか子供のようなその横顔を見詰めながら、口を開いた。
「写真、良かったら見せて欲しいな。興味持ってくれたなら、わたしの他の絵も見せるから。」
勝負用のミュールで走っても近付けなかった人が、この瞬間にすぐ隣で照れたように笑った。胸のときめきまで薬の効果とは思えない。どうやらわたしは、最高の薬を貰ってしまったようだ。
一見馬鹿らしい看板が立っている薬局を見かけた人は、是非足を運んでみて欲しい。心からそう思う。
(2009/08/31)