前編 「暗闇のトンネル」
まずは前編からお楽しみください。
「もうどのくらい歩いただろう。」
真っ暗闇のトンネルに、彼はまた迷い込んでしまっていた。
手に持つ懐中電灯もいつ電池が切れるか分からない。
今ここで明かりが無くなってしまったら、たぶん絶望のあまり発狂して自殺してしまうかもしれない。
歩き過ぎたせいかそろそろ足も痛くなってきた。
彼は一息つくと、壁をつたい、地面に腰を下ろした。
「疲れた。眠りたい。」
肩に掛けた鞄を枕に、彼は冷たい地面に体を横たえた。
懐中電灯の僅かな明かりも消すと辺りは完全な暗闇になる。
しかし、何も見えない事がかえって神経を過敏にするのか、体も心も疲れているのに一向に眠る事が出来ないのだ。
休みたいのに休めない。
これほどに辛いものはない。
自分以外の“生きている存在”は凡そこの暗闇では確認出来ない。
目を閉じると様々な幻影が襲いかかってくる。
眠っていないのでこれは夢ではないのだろうが
恐怖の汗で服が雨の中傘を差さずに歩いたようにびしょ濡れになった。
思えばいつからここに居るのだろう。
最後に日の光を浴びたのはいつだろうか。
懐かしい外の世界。
日の光は眩しく、全てが輝きいつも心弾んでいたあの頃。
彼はこの暗闇に迷いこむ以前の日々に思いを馳せていた。
迷路のような街。
昼は青空に太陽が眩しく、健康な人々が楽しそうに通りを闊歩する。
夜はネオンが輝き、
綺麗に着飾った男女が夢の一時に溺れる。
美しい音楽が心地よく響き
鮮やかな色とりどりの様々な物質が目を楽しませる。
迷路の街を歩く人々はみな何処から来たのか分からない人だ。
いつから此所に居て、何処へ向かっているのかも互いに知る術は無い。
彼ら彼女らはいつの間にか存在し
そしていつの間にか居なくなっている。
自分もそんな人間の一人だったのだろう。
彼は暗闇でただ目を閉じて眠ったつもりになりながら思っていた。
漸く(ようや)うとうとし出し、やっと本当の意味で休めるようになっても
脳は何故か働き続け、鮮やかな極彩色の「夢」という魔物に翻弄された。
迷路の街のレストランで働いていた時の出来事が未だに夢に顕れるのだ。
自分の頼んだ料理がまだ来ないと
鬼のような形相で厨房に怒鳴り混んできた客
店長を出せと大声で喚きながら暴れる客に昼時の多くの客で賑わうレストランは大混乱となった。
一連の事件は全て最初にオーダーのメニューを間違えた自分のせいだと決めつけられ一人責任を負わされ店をやめさせられた。
あの店には自分の他にも問題点を抱える人間はいる。
しかし奴等は巧くやり過ごし今ものうのうと日の当たる道を歩みながらあの街でまだ仕事を続けているのだ。
理不尽な悪夢に魘され彼は結局ろくに休めなかった。
もう一度懐中電灯をつけると重い体を起こし立ち上がって彼は再び歩き出した。
進まなければ
とにかく一歩でも多く先に進まなければ
この暗闇からは出られない。
以前にも外の世界で躓き失敗し道に迷った挙げ句ここに迷いこんだ過去があった。
迷路の街で突如出現する謎のトンネル。
迷路の街の入り組んだ複雑な道を巧く歩けなくなると、突然表れ人を飲み込み暗闇で包み込む。
理不尽な運命、誰が決めたか分からないルール、弱肉強食の不条理に翻弄され耐えきれず粉々に砕かれた心やズタズタに切り刻まれた心がこの闇を呼ぶのか。
この闇に迷い混む条件は決まってそうだった。
心を壊された時だ。
彼はふと思った。
「自分以外にもここに迷い込む人間は居るのだろうか。」
以前迷い込んだ時は結局最後まで一人だった。
遠くの方に小さな光が見え出口だと気付き、再び迷路の街へ戻るまで。
「もし、他にも誰かいるなら答えて欲しい。この暗闇が何なのか知りたい。」
彼が思わずそう呟くと、鞄の中から声が聞こえた。
「ここだ。ここにいる。」
鞄を開け声の主を出すとそれはお守り袋だった。
半年ほど前、偶然見つけた神社でお参りした時買ったものだった。
「安心しろ。お前は一人ではない。」
お守り袋はそういうと次第に明るく光りだした。
「懐中電灯を消せ。俺が誘導に回る。見てみろ。周りにもお前と同じ境遇の者がいる。」
彼は懐中電灯のスイッチを切ると、辺りを見渡した。
「うわっ!」
何と周りにも数人迷い込んだとおぼしき人が立っていた。
さっきまで気配ひとつなかったのに何故突然見えるようになったのだろうか。
彼はお守りの紐を襟のボタン穴に通し胸から吊るした。
お守りから放たれる明るい光でそれぞれの顔がはっきりと見えた。
「皆さんも、何かあって、いきなり此所に迷い込んだんですか?」
彼の質問に一人の青年が答えた。
「そうだよ。俺は一緒に会社立ち上げようって信じていた友人に裏切られた時だ。信じて金も貸したのに持ち逃げされ、絶望してた所デリヘル嬢に性病うつされた。踏んだり蹴ったりだろ?」
まさに踏んだり蹴ったりだと彼は思った。
もう一人は疲れた顔の30代ぐらいの女性だった。
「母がうつ病なの。攻撃性の強い奴で毎日バトルよ。そりゃもう酷いときは掴み合い、殴りあい。だけど、ある日パートから帰ったら部屋中血まみれで…母が自分で死のうと包丁とか、ハサミとかカッターとかで自分の体切りまくって叫びながら壁に頭ガンガン打ち付けてんの見てからね。必死で止めて救急車呼んで、もうこんな家帰りたくないって思ってたらいつの間にか…」
その後ろの少女は学生服を来ていた。
「私は先生にレイプされそうになったの。今まで裸の写真を取られたこともあった。でも怖くて嫌だって言えなかった。でも、ある日クラスメイトに見つかっちゃって…次の日から苛められるようになって…もう私の事を誰も知らない人ばかりの世界に行きたいと思ってたら…」
そしてその隣には
ガリガリに痩せた顔色の悪いロングヘアーの女性が力なく立っていた。着ている服からやっと二十代ぐらいとわかるぐらいひどくやつれていた。
「彼氏に嫌われたくなくて…綺麗になるためにダイエット繰り返してるうちに拒食症になって…食べなきゃダメなのに吐いちゃうの…。彼氏にも結局嫌われて死のうとしたらここにいたの…。」
「皆さんも、そうだったんですか…。大変な思い…なんて言葉じゃ足りないぐらいひどい目にあってこられたんですね…。」
彼は深い溜め息を付きながら同情の意を示した。
「あなたも酷い濡れ衣着せられて…世の中ほんと、ろくでもないわね。」
三十代ぐらいの女性が両手を広げ頭を降りながら返した。
「なあ、せっかく知り合ったんだ。皆で一緒に進もうぜ。」
最初に友人に裏切られたと称した青年が言った。
全員その意見に合意し、暗闇の中お守り袋の明かりを頼りに歩き出した。
「で、さあ。ここは一体何なんだ?って言うか何処なんだ?お守りの神さん、答えてくれよ。」
友人に裏切られた青年がお守り袋に話しかけると
「この暗闇はお前たちの心の中だ。正確にはお前たちがお前たち自身を守るために作り出した、“魂の結界”だ。」
と説明が返ってきた。
「“魂の結界”!?」
今度は三十代の女性が叫んだ。
「お前たちは外の世界に絶望しそこに存在することを拒んだ。そして自らを闇で包み、動く事を制御し、自らを守った。しかしそれはお前たちに備わる当然の防衛本能だ。少なくともここは外の世界より幾分安全だ。」
お守りの言葉に全員が互いの顔を見渡しあった。
「じゃあ、出ないほうが良いの…?私、もう外の世界は嫌。ここが安全ならここにずっと居たい…。」
教師に強姦されかけた少女が言った。
「そうよね。私もよ。彼に愛してもらえない世界に居たって仕方ないもの。ここに居れば何も食べなくてもいい。吐かなくて済むし。」
拒食症の女性も少女に同意して言った。
「なるほどね。道理で進もうとすればするほど辛くなるわけだ。自ら動く事を制御してたんだったら、反対の事すりゃあ…そりゃ疲れるわ。」
友人に裏切られた青年も納得した様子で言った。どうやら彼もここから出ようと必死で歩き続けていたようだった。
「つまり、神様がプレゼントしてくれた、やっとゆっくり休める場所と解釈していいのかしら。」
三十代の女性が言った所で彼が加えた。
「ここが休める場所…?俺、ここに来てまだ一度もまともに寝られた事無いんですけど…。」
彼の言葉にお守り袋の神は答えた。
「無理に眠ろうとしなくていい。この空間自体が休息そのものだ。休息の反対は何だ?活動だろう。ここでは無理な活動は反って逆効果だ。眠って休むのは外の世界の常識だが、ここでは違う。ここでは目を閉じているだけで良いのだ。」
お守りの説明に彼も次第に納得の域に達した。
「そうか…大人しく休めば良いのか。」
「本当だ!目を閉じるだけで楽だ!」
友人に裏切られた青年が目を閉じながら驚いて言った。
彼の胸元には不思議な光を放つ物体が下げられていた。
「あっ!マリア様のネックレス!」
教師に強姦されかけた少女が叫んだ。
「うわ!光ってる!」
青年も一緒に驚いていた。
「もしかして、お守りですか?俺の“これ”みたいな…。」
「数年前、フランスに旅行に行った妹のお土産だよ。不思議のメダイって言うらしいぜ。」
お守りを見せながら問う彼に青年は嬉しそうに言った。
「私、知ってるわ。それ首から下げてマリア様に祈ると奇跡が起きるのよね。」
三十代の女性も覗きこみながら言った。
「同じ境遇のもの同士引き合わせてくれた…。ある意味奇跡が起きてるのかもしれないですね。」
彼も自分のお守りと照らし合わせながら言った。
お守りの明かりと不思議のメダイの放つ光でトンネルの中は程よい明るさになった。
さっきまでと打って変わって、彼は随分心が楽になっていた。
自分以外にも仲間がいた事、暗闇の正体が分かった事もあったからか。
暗闇の居心地も良くなっている事に気付いた。
「休んでもいいんだ。ここは休むための所だったんだ。」
「そうだ。充分に心が休まったら自然に出口の明かりが見えてくる。それまで存分に休めば良いのだ。」
お守りの神は彼の呟きに答えるように言った。




