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始まるわけにはいかない!  作者: あおと
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遅れてきたくせに……

 圭織は珈琲を飲み、息を吐く。何度も見ても呼びつけた女が来る気配はない。既に一時間半も遅れている。さほど広くもないカフェはひっそりとしたまま、時間ばかりを運んでいく。落ち着かない。平日の昼間のせいなのかはたまた、もともと混雑しないカフェなのか。初めて来た圭織には判断がつかない。悲しいことに客は圭織だけなのだ。テーブルのスマートフォンすら大人しく、酷くもどかしい。


 一体、何をしているのだろうか。圭織はむっとしながら珈琲をごくりと飲む。熱くも温くもない珈琲を何度頼めば、美紀は来るのだろう。圭織は時計を見上げ、深く息を吐く。荷物が増えることを恐れずに本でも持ってくれば良かったのだ。つまらなくて居心地が悪い。

「いらっしゃいませ」

 心地よいバリトンに圭織ははっとする。首を傾け、素早く扉を睨む。同時に顔を強張らせた美紀が店内に飛び込んできた。

「美紀……」

 時が進んだ音が聞こえた。美紀の足取りはとても速い。

「おや、加藤さん」

 男は美紀を見てにっこりと微笑んだ。顔見知りのようだ。美紀は男にお辞儀をし、すっと席に着く。

「ねぇ、遅いんだけど」

「ああ」

 目が合うと美紀は切れ長の双眸を細めた。美しい顔には汗が浮かび、黒い髪が頬に流れ、張り付いている。

「ごめん、待った?」

 美紀は言った。圭織は震えた。美紀の声はとても低く、何度聞いても聞きなれない。

「あ、当たり前じゃない。馬鹿なの?」

 圭織は言った。貴重な平日休みの一時間半を無駄にしてしまったのだ。

「あら」

 美紀はわざとらしく目を瞬かせた。長い髪が重く、揺れる。見惚れてしまいそうになる。

「そうね、一時間半は待たせたわ」

 ハンカチで汗を拭い、美紀は微笑んだ。美紀からふわりと甘い、南国のような香りがした。

「なんだ、わざとか。ふーん、待たせるのが趣味なんだ」

 圭織は堂々と嫌味を言った。苛立ちが少し減った代わりに今度は美紀の眉がぴくりと動く。

「別にそんな趣味はないわ」

「ふぅん、どうだか」

 美紀は不愉快そうに圭織をねめつけた。不穏な空気が流れ始める。

「いきなり、なによ?」

 圭織はたじろいだ。美人特有の凄みが美紀にはある。見られるだけで緊張してしまう。何年経っても慣れることが無いだろうと圭織は思った。喉が鳴り、汗の気配を感じた。明らかに美紀は不機嫌である。圭織は唇を舐め、叱りつけられた子犬のような目で美紀を見た。喉が渇いていたが、冷めきった珈琲を飲む気にはなれなかった。



「十年よ」

「は?」

 唐突に美紀は言った。圭織は首を傾げた。

「十年は経ったわ。良い区切りだと思うの。ねぇ、そろそろだと思わない?」

「は? 何がよ?」

 混乱した。知らぬ間に美紀は短距離走者にでもなってしまったのだろうか。圭織を置いて走り出してしまったようだ。美紀は赤い唇を尖らせた。子供のようだった。

「……解らないの?」

「解らない」

 圭織の言葉に美紀は息を吐き、薄い唇にそっと触れる。ぎりぎりまで切り揃えられた爪が目につく。

「なに、煙草でも吸いたいの?」

 圭織は眉をひそめ、言った。幸運なことにテーブルに灰皿の存在はない。

「はっ、吸わないわよ」

「あれ? 此処、禁煙なんだ」

「違う、吸わないだけよ。止めようと思って」

「へぇ?」

 圭織はにやりとする。美紀はヘヴィスモーカーである。三度の飯より煙草なのだ。だが、美紀は奇妙なことに禁煙を試みている。

「……悪い?」

「何、好きな人でも出来たわけ? 今度はどんな人? 前に好きだって言ってた人妻は? あれ、もう、付き合ってるんだっけか?」

 圭織はまくし立てたるが美紀は小さく首を降った。その目はやけに冷たい。圭織は口を噤んだ。

「煩いわね。別れてきたわよ。それも今日!」

「ああ。だから、遅くなって……そう、そっか。まぁ、そういう時もあるよね……」

「圭織は?」

 美紀は圭織をじっと見つめる。圭織は焦った、美紀の意図が掴めない。

「圭織?」

「え? ああ、特に無いよ? 合コンには行くんだけど、なかなか。それにしても、禁煙するんだ。前の人に何か言われた?」

 圭織は言った。舌がもつれそうになる。汗が流れていく、そんな感覚がする。

「特には、まぁ、あんたと一緒で臭いとは言われたけど……」

「ああ、それはね。煙草を吸ってる人は自分がいかに有害なのかを知らないから」

 圭織は言った。煙草が本当に苦手なのだ。圭織のナイフに美紀は顔をしかめた。切っ先に触れ、血でも流れたのだろうか。

「美紀?」

「だからよ」

「へ?」

 圭織はぽかんとするが、美紀は怖い顔をしている。

「あんたが煙草嫌いだから禁煙するのよ」

「そ、そう。ありがとう。健康的で良かったじゃん」

「だから、違うってば!」

「は? 何で怒ってんの?」

「ああ、もう! あんたの為に辛くて憂鬱な人生を選ぶのよ。馬鹿なの? その意味くらい理解しなさいよ!」

「はああっ?」

 圭織と美紀は高校生の時に知り合い、既に十年は経っている。そのため、相手を思いやるという行為を忘れてしまっていた。店内に圭織の声が響いた。

「煩いわよ」

 美紀は言った。

「意味が分かんない! 人を勝手に呼んで待たせた挙句、急にキレたりさ! あたしは美紀の玩具じゃないんだけど。あたしじゃなく、義之と遊べば? 義之だったら、あんたの我儘に付き合ってくれるだろうし」

「どうして、義之?」

 圭織はぎくりとした。美紀の顔は怒りで白くなっていた。

「え、あいつ、美紀に惚れてるみたいだから」

圭織はおののき、美紀は鼻を鳴らす。立場はオセロのように変わっていた。

「男よりも女がいいのよ」

「勿体ないね、義之も美紀も容姿だけは整ってるのに」

「別に。私が好きなのはあんただけだから」

「うっ、またそうやって……」

「本気よ、愛しているわ」

 美紀は言った。学生の頃から美紀は何度も圭織を好きだと言うも同性を愛したことのない圭織は言われる度に戸惑ってしまう。それでも、具体的な返事をしたことはなかった。それは単に何を言っていいか分からなかったせいもあるが、要するに反復行動に圭織自身が慣れてしまったのだ。

「えーと、その」

 圭織は言った。今日のアプローチは妙にねちっこい。美紀が急に舌を鳴らす。

「え、何」

「もしかして、好きなの?」

「は、誰を?」

「義之」

 美紀は言った。圭織は驚き、仰け反りそうになる。気でも狂ったのだろうか。

「は? 弟だよ? なんか、今日、変。美紀、生理にでもなった?」

「なってない。ただ、焦ってるだけ」

「焦る?」

「周りはどんどん結婚して幸せになっていく。それなのに、私は逆走しているだけだもの。圭織だって……」

 美紀は目を伏せた。

「ああ、あたしもそれは思うよ、好きな人もいないし。うーん、好きになるのが恐いのかな? 期待しちゃうのが馬鹿みたいで恐いのかも。まっ、分かんないけどね」

 圭織は言った。美紀は神妙に頷くがその目には妙な期待が見える。嫌な予感しかしない。しんみりとした話を美紀は一気に吹き飛ばそうとしている。長年の勘だ。

「美紀さん?」

「え?」

「変な話をしようとしてないよね?」

 圭織はおずおずと尋ねる。美紀はかぶりを振るもその動作は当てにならない。帰りたくなった。急用でも出来ないだろうか。ちらりとスマートフォンを見るも画面は何も表示していない。トイレに立ってしまおうか。

「圭織」

「な、何?」

 圭織は身構えた。

「何も言わなくていいから頷いてくれない? 圭織が頷いてくれれば、円満に解決できるわ。そして、そうね……渋谷に行きましょう」

「え、どういうこと? 渋谷って何?」

 圭織は目を剥いた。短距離走者どころかこれでは新幹線だ。圭織はスピード狂じゃない。そもそも、此処は宮城だ。本当に新幹線に乗るつもりなのだろうか。


 何をしに行くのだと尋ねてしまいそうになるが圭織はぐっと堪えた。聞いたら負けてしまう。唇が渇き、ひりひりと痛む。

「だから、十年待ったわ」

「そ、そう」

「ああ、もう。いつまで焦らす気? もう、我慢の限界なの。素直に頷けば、十年分、じっくり、ゆっくり愛してあげるわ」

 美紀は言った。ただならぬ雰囲気に圭織は息を飲む。美紀は本気で言っている。

「あたし、ジェットコースターより回転木馬がいいんだけど……」

「回転木馬? いいわよ、好きなだけ乗せてあげる。東京ディズニーランドがいいわね」

 美紀はふっと笑う。鳥肌が立っていた。服の上からしきりに腕をさする。眩暈を起こしそうになる。

「圭織? 寒いの?」

「え、少し」

 圭織は言った。

「そう……」

 美紀はカウンターに立つ男性に右手を上げ、目配せをする。長くて細い指が上を向き、ぷっくりとした指先に血管が伸びている。くるくると回る指紋の中に汗がぬるりと光っていた。くらりとする。心臓が痛い。何を意識しているのだろう。


 

 それでも、圭織は目を離すことが出来なかった。美紀の指先が圭織の身体を這い、焦らす様に甘く動く。触れられてしまえば、抗うことなど出来やしない。

「何を……?」

 圭織は呟き、ぶるぶると身体を震わせ、恐ろしい妄想を解く。何を想像したのだろうか。おかしい、まさか。まさか――


 渇いた喉に圭織は珈琲を流し込み、顔をしかめた。時間が経った珈琲ほど不味いものはなく、むせてしまいそうになる。手が震えていた。

「ああ……」

「圭織?」

 美紀は言った。優しい声に香織は身をより硬くする。我慢できずに視線を逸らしてしまった。

「ご注文はお決まりですか?」

 男性はカウンターを抜け、美紀に歩み寄った。圭織を見てにこりとする。圭織は視線を逸らしたことを忘れ、美紀をじっと見つめていた。何を頼むのだろうか。メニューは下げられている。

「ええ。ホワイト・ルシアンと甘いケーキを」

 美紀は言い、圭織は小首を傾げた。美紀が何を頼んだのか理解出来なかったのだ。目を丸くする圭織を美紀は楽しげに見ている。

「かしこまりました」

 男性はくるりと背を向け、カウンターに戻っていく。美紀はまだ、答えを教えてくれない。からかわれているのだろうか。圭織はむっとし、口を開こうとした瞬間、美紀の熱い手が圭織の手に触れた。

「え」

 圭織は言った。驚き、声が震えてしまった。ふにゃりと曖昧に笑いかけるが美紀は真面目な顔で圭織を見ている。圭織は叫び出しそうになる。心が毛羽立っていくのを感じた。絡め取られていく。



「貴女が好きよ」

 美紀はぎゅっと手に力を込めた。甘く濡れた視線がくすぐったくて恐ろしい。圭織の心臓が壊れていく。穴から熱い血が漏れ始めた。そのせいだろうか、身体がとても熱い。圭織は息を吐き、震え上がった。

                                 

【登場人物説明】


加藤美紀かとう みき 28歳 社会人 切れ長の美人 一人称:私

瀬川圭織せがわ かおり28歳 社会人 一人称:あたし

圭織の弟……義之よしゆき25歳 社会人


   短編的な雰囲気で続きます。

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