表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新たな旅路の祝福を  作者: 稀一
一章
8/54

05

 くるり、くるりと風見鶏が回っていた。

 あの建物は何なのだろう。彼女がずっと見ていた光景。


「つまらないな」


 彼女が無意識に構成したものしか、この世界にはまだない。

 今は誰も寝ていないベッドに座った。皺ひとつなく伸ばされたシーツを指でなぞる。


「つまらないな」


 早く一日が過ぎればいい。彼女はまだ眠らないのか。五年もここで眠っていたくせに、起きたら少ししかここにはいない。

 早く。早く。早く。


「つまらないんだ」


 彼女は、なにを見て、どんな反応をするだろう。





 呆然としていた。というより、そうする以外なにもできなかった。これではいけないと思うのに、凍ってしまったように足が動かない。


 先生は。そうだ、先生は呆れてしまっただろうか。リリシアは? リリシアだってきっと不審に思っただろう。折角よくしてくれていたのに。優しくしてくれていたのに。二人揃って出て行ったのがエーデリア様に辞めさせてもらいたいと話に言ったのだったら、私はどうすればいいんだろう。どうすることもできない。ただの子供だ。給料だって出せない。もし仮に出せたとしたって、嫌がる人に無理やり笑わせて傍にいるなんて、なんて酷いことだろう。

 私には引きとめる術が、ない。


「リリシア」


 一人に、この部屋は広すぎるのだ。


 高い椅子から飛び降りる。失敗して足を痛めたけど、問題はない。動くことを確認して部屋を飛び出した。寂しい。悲しい。悔しい。いろんな感情が胸の中で爆発したみたいだった。さっきまであんなに冷めきっていたのに、足を動かさずにはいられない。立ち止っていることが恐ろしかった。

 まずは自分の名前。それから領のこと。その後はなんだっていい。とにかく何か教えてもらわなきゃ。知らなくちゃ。知らなければいけないことを、知らなくちゃ。


 焦りながら、つい昨日歩いたばかりの廊下を走る。リリシアが辞めてしまう前に、エーデリア様の部屋まで行かなくちゃ。引きとめることは出来ないかもしれない。その資格もないかもしれない。だとしても、私はリリシアを手放したくないのだ。自分の我儘で、人を困らせようとしてる。


「シア様!」


 角を曲がろうとして聞こえた声に足を止める。振り向けば、リリシアが驚いた顔でこちらを見ていた。先生も一緒だ。ぎゅう、と胸が痛んで、泣きそうになった。


「っリリシア!」


 駆けだす。驚いた顔だったリリシアが慌てたように私を受け止め、その腕に縋りついた。


「お願い、辞めないで。いなくならないで。お願い、リリシア」


 しゃがんだリリシアの肩に頭を押し付けて首を振れば、「どうなさいました」と困惑したような声が返ってきた。思わず顔を上げれば、頭を撫でられる。


「辞めるだなんて、言うはずもないではありませんか」


 苦笑したリリシアに、「だって私が、」と咄嗟に口を開いて言葉に詰まる。これ以上声を出すだけで涙が出そうだった。


「シア様はなにも気にする必要はありません。あれは私が、いいえ、私たちが悪かったのです」


 頭を撫でながら、「ですから大丈夫ですよ」と微笑まれ目を瞬かせた。どういうことかはわからないが、何かが解決してしまったらしいことだけを知る。思わず見上げれば先生は驚いていたけど、どうしてかあの悪寒のする顔はもうしていなくて、私に目線を合わせるためにかしゃがんだ。


「これから、よろしくお願いいたします、お嬢様」


 今度こそ、というように柔らかい声で言われ、なにがあったのか理解できなくて目を瞬かせることしかできなかった。先生もリリシアもそんな私に笑っていて、余計に混乱する。


 なにがなんだか、わけがわからないよ?





「いいですか、もう一度。お嬢様の名前はトア・シアメル・シルラグルです。繰り返して」

「トア・シアメル・シルラグル」


 何度目かの復唱を終えると、先生は満足げに頷いた。私もいい加減そう何度も繰り返せば覚えられるというもので、もはや無意識にでも名乗れそうな勢いだ。


 あの後、エーデリア様と私と先生で昼食をとり、「では授業を始めましょうか」と部屋まで連行されました。エーデリア様が昼食後のお別れハグを求めていたけど、先生はそんなこと気付いていなかったのか、無視してきてしまいました。寂しそうな顔が忘れられません。

 リリシアは部屋の前で待機、かと思いきや、食材の買い出しに行った。そう言えばこの家がそうなのかそれともこの国がそうなのかはわからないが、朝食は果物だ。でも昼食と夕食はいつもばらばらなので、それ以外特には決まっていないようだった。


「シアは愛称だったのですね」


 ついつい感慨深げに呟けば、先生が「そうです」と短く頷く。


「名前を覚えたところで、意味も覚えていきましょうか」

「意味?」


 思わず首を傾げると、先生はまた頷いて、「たとえば」と口を開いた。


「私の名前はノイマン・ジグトレトです。お嬢様の名前はトア・シアメル・シルラグル。違いがわかりますか?」


 名前が違う、という話ではないのだろう。はてと頭の中で二つの名前を繰り返せば、私には名前の前に一つついていることに気がついた。シア、と呼ばれている上シルラグル領、ということは、名前、名字の順なのだろうけど、その前にトアとついているのだ。先生の名前にはついていない。


「一つ多いです」


 何と言えばいいのかわからずそう言えば、先生は目を丸くしてから「ですね」と苦笑した。


「ただしくはトア、という部分です。ここは家の爵位を露わしています」

「しゃくい」


 あまりに聞き慣れない言葉にオウム返しをしてから、目を瞬かせる。領主というから薄々思ってはいたが、どうやら貴族であったらしい。そう言えば先生は自己紹介の時「貴族の家で」と言っていたような気がする。現実味がなくてなんだか他人事のようだ。驚くこともできない。


「トア、というのは伯爵を表します。他にはテオドが公爵。コットが侯爵。シルが子爵でロンが男爵です」


 そう説明されてもどの順でえらいのかがさっぱりだった。そもそも公爵だとか男爵だとかいう言葉がちゃんとあるなら、そう名乗ればいいじゃないか。なんてややこしい。


「どうしてシルラグル伯爵です、とは言わないのですが? 名前の一番最初につける意味は?」


 首を傾げれば、先生は「いいところに気付きましたね」と満足げに笑んだ。正直なところ最初のイメージが払拭できていないおかげで頭が混乱しそうになるのだが、敵意を持たれていないのだからそれでいいじゃないかとなんとか己を納得させる。不気味だとか思ってません。


「まず爵位を持っているのはお嬢様ではありません。それはわかりますね? ですからお嬢様がシルラグル伯爵だと名乗ることは出来ません。ですが、爵位を持つ方の子です。私は爵位を持つ家のものだ、と相手に示すため、直接爵位を名乗るのではなく、その意味を持つものを名前の一番最初につけるのです。これは子供だけでなく伴侶も適応されます。つまり、旦那様であらせられるファデル様もまたトア・ファデル・シルラグルとなります」


 ファデル様は響きが悪いな、と思いつつ、難しい話に目を回しそうになる。私が爵位を持っているわけではない、というのは十分に理解できるのだが、そもそもなぜ爵位を持つ家のものだ、などと相手に教える必要があるのだろうか。そのまま質問すれば、先生は目を丸くした。


「ああ、ええ、そうですね。まずは爵位の種類から説明しましょうか」

「爵位に種類があるんですか?」

「ええ。公爵から子爵までは世襲制と言いまして、家そのものに与えられたものになります。ですが男爵はそうとは限りません。一代限りの場合もあれば、家そのものに与えられている場合もあります。家そのもの、というと家族が全員爵位を持っているように聞こえるかもしれませんが、その爵位を名乗れるのはその代の当主のみです。つまりシルラグル家ではエーデリア様、ということになります」


 なるほど、と頷く。だけど男爵はどうやってどっちなのかを見極めるんだろうか。内心疑問に思いつつ、まだ続く説明を聞いた。


「個人に与えられているものではありますが、爵位はその家族も守ります。なので私はこの爵位に守られているぞ、とわかりやすく相手に示すわけです。そして一番前にある理由ですが、己の爵位がなんであるかをまず相手に知らせるためです。そして相手の爵位を知るためでもあります。つまり相手と自分の上下を、名乗り出した瞬間に判断できるようにしているのです。自身が無礼を働かないよう、そして働かせないようそうなっています」


 つまり、ええと、権力を翳す上に相手を威嚇しているのか。まとめるとあまりにひどい言いぐさになってしまったけどなるほど、わかりやすい。そういう、たとえば堅い席で会話をする相手の情報はある程度先に知っているだろうけど、そうでなくとも名乗り始めたとき相手がこの人の爵位はなんとかだ、となによりも先に認識することができるわけだ。無礼を働かないよう、と言われれば納得もできた。

 一人頷いていると、先生は「納得いただけたようですね」と笑い何かが書かれた大きな紙をテーブルに広げた。


「それでは、覚えた名前を書いてみましょう。そのためには文字を覚える必要があります」


 なるほど、紙に書かれているのは日本語で言うところの五十音ということか。書き取りとかからだろうか。ついついため息が漏れてしまう。文字を覚えるなんて大変そうだ。私は英語すら未習得なのだ。

 先生は「それでは始めましょうか」と何がそんなに嬉しいのか、笑っていた。


 あれ? そういえば私は、どうして普通に話せているんだろう。





 その日の終わりはぐったりとしていた。

 そもそも先生の豹変にもついていけず混乱したまま授業が始まり、名前から、爵位から文字と、短い時間でやりすぎじゃないだろうか。と思ったけど、思い返してみればそう厳しい内容でもない。ただ自分の名前を繰り返し、教えられた通り書いてみて、話を聞いていただけだ。

 それでも今日は色々あった。疲れたおかげでぐっすり眠ることができそうなくらい。


 先生は多分いい人だ。そもそものあの態度はどうしてか嫌われていたからで、嫌いな相手に態度が悪くなってしまうのは普通だろう。大人なのだから少しは隠せとも思うが、先生にもなにか事情があったに違いない。最初の印象はどこへやらで、午後はひたすら優しかった。

 でもやっぱり急に態度が変わったのが気になって仕方がない。リリシアとどこにいっていたんだろうか。もしかしたらリリシアが説得してくれたのかもしれない。ありがたいけど、今日一番ホッとしたのはリリシアに呆れられていなかったことだった。


 ふっくらベッドに潜り目を瞑っていると、ドアの開く音がした。ぼんやりした意識でそれを認識しながら、どんどん意識が霞んでいく。

 シア、と、優しい声で呼ばれた気がした。

 ぽかぽかするような、ふわふわとした暖かさに包まれるような錯覚をしながら、穏やかな心地で眠りについた。


 おやすみなさい、エーデリア様。





 ぱちり、と、自然と目が開いた。疲れて眠っていたはずなのに。

 視線を迷わせる。またあの部屋だ。白い部屋。


「おはよう」


 声のした方へ目を向ければ、あの少女がいた。無感動な黒い瞳が私を見ている。


「おはよう」


 どうしてか酷く凪いだ心地だった。

 挨拶を返せば、彼女は起きろとまた私の手を引いた。引かれるままするりとベッドを抜け出し、歩き出す。


 ほら、歩けるのだ。梨夏なのに。


「ねえ、きみはだれなの」

「少し待て。早急だな」

「そんなことない、早急なのはあなたよ」


 そうか、と首を傾げながらそれでも進む後ろ姿と、それに合わせて揺れる髪を見つめた。


「ねえ、ここはどこなの」

「ここはここだ。君の世界だ」

「どういう意味?」

「そのままの意味だ」


 そう言いながら彼女は、急に立ち止まって振り向いた。


「さぁその目で見てご覧。ここは君の世界だ。君だけの世界だ。君のための世界だ」


 両手を広げまるで劇中のように、謳うようにそういった。

 言われるまま周りを見回して、首を傾げる。ただの、そう、ただの病院の待合室だった。病室からそう歩いた覚えはなかったのだけど、いつの間にか。


「これが、私の世界なの?」


 当然と言えば当然だった。だって私が知ってる世界は、十歳で時を止めている。


「そうだ。君が決めた世界だ。行くぞ。世界を作りに行くんだ」

「世界を作りに?」


 不可解な言葉を紡ぐ彼女はまた私の手を引くと歩き出す。なんだかとにかく不思議だった。


「この世界は君が作っていくんだ。あの部屋も、ここも、ここから先も」


 彼女はそう言いながら歩いて待合室を通りすぎていく。振り返っても受付には誰もいなかった。

 見慣れた、しかし通るのははじめての自動ドアが不思議な音を立てて開いていき、蛍光灯とは違う外の光に目を細める。


「え」


 そうして見えた外にはおかしな光景が広がっていた。ビルが聳え立つ都会の街並みだったのだ。

 そんな馬鹿な。あの病院は、こんな街並みの中にあったものじゃない。そもそも敷地だって広くて、公園みたいな緑に囲まれていたはずなのだ。

 場所が変わったのかと振り向くも、ちゃんとそこに病院の入口がある。そうして、それを見つめて気がついた。


「私が入院してた病院じゃない」


 見覚えがあるけれど、これは違う。これはそうだ、ドラマに使われていた、本当に病院かどうかも怪しい建物。


「いいや、ここは確かに君の病院だ」


 どういうことだ、と彼女を見る。彼女は私を見ると、言ったろう、と口を開いた。


「ここは、君の世界だ。君の見たもの、聞いたもの、知っているものしかなく、それ以上もそれ以下もない。それしかない世界だ」


 私は自分の病院に運ばれたとき意識はなかった。外見を知らない。でも中庭からの光景は知っている。窓からの光景も知っている。逆にそれ以外を知らない。つまり、


「ドラマで見た病院が、補正してるのね」


 そういうことなのだろう。

 もう一度病院を見上げた。本当のところはわからないけど、こんなに背の高い病院じゃなかったはずだ。


「見覚えがあるはずだわ」


 呆れる。自分の入院していた病院すら知らなかったなんて。そりゃ、小学三年生なんて小さな世界でしか生きていない。家、学校、いつも遊びに行くところ。小さいけれど、当時はそれが大きな世界のすべてだった。


「私の人生は、本当にちっぽけだったのね」

「それは君が決めることだ」


 言われ振り向く。彼女はまた歩きだそうとしていた。慌てて横について、ねえと話しかける。


「じゃあ病院から出てすぐにビル街なのも、私のテレビからみたものがつぎはぎになっているだけなのね」

「テレビかどうかは知らんが、そうだろう。そうつぎはぎだ。おかげであちこちちぐはぐになっていることだろうな。今現在作られていっているこの世界は矛盾だらけで、私は君がいないとこの世界ではまともに歩けもしないだろう。気を抜けば暗闇に落ちる」


 こんな世界は初めてだよ、と彼女は言いながら、まだ歩き続けた。


「ねえどこに向かってるの?」

「知らん。向かっている先は君が今作っている世界だ」


 そうか、じゃあ私が、行き先を決めているわけね。


「それで、結局きみは、何なの?」


 彼女から少し離れ、少しドキドキしながらビルとビルの隙間を覗く。


「うわ」


 少し入ったところまではちゃんとあったけど、その先は真っ暗で何も分からなかった。路地裏なんて入ったこともないのだから、そういうことかとようやっと理解した。つぎはぎにしようにもそこから繋がるものが思い付かないから、何もないのだ。つまり彼女が言っている暗闇というのはこれだろう。落ちるのか、これ。


「何をしているんだ。質問しておいて姿を消すとはな……」


 呆れたような声音で言われ、「ちょっと気になって」と返しながら路地裏に面するビルのドアを開けた。


「うわ」


 こっちも真っ暗だ。つまりこのビルたちははりぼてらしい。正面から入れば、屋上くらいはあるかもしれないけど。


「行くぞ」


 手を引かれ、ドアを開けたまま離れる。けどドアは私の手から離れるとぱたん、と勝手に閉まった。

 彼女はちらりと振り向いて、私がちゃんと着いてきているのを確認するとあっさり手を離す。さっきから繋いだり離したりと忙しい。


「で、きみは何なの?」

「何なのと聞かれてもな。君には今、私はどんな姿で映っている」

「黒い髪の女の子。私より断然背が低いの」

「なら君にとってはそうなんだろう。それが君が私に望む姿だ」


 私が望んで、彼女はこの形をしているらしい。どうしてそんな姿を望んだのか自分がわからない。


「それじゃあ、本当のきみはどんな姿をしているの?」

「私に姿はないよ。見る人が作るんだ、私がどんな形をしているのか」

「まるで神様みたいね」

「まさに神様だからな」


 ぽかん、と口を開けて立ち止まってしまった。彼女は振り向くと、「冗談だよ」と言ってまた歩きだす。

読んでくださりありがとうございます。


↓ 以下用語説明


◇爵位

 公爵 テオド

 侯爵 コット

 伯爵 トア

 子爵 シル

 男爵 ロン

それぞれが名前の最初に付く。家族も。最初につくのは己の爵位がなんであるかをまず先に相手に知らせるため。そして相手の爵位を知るため。自身が無礼を働かないように、そして働かせないようにするため。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ