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新たな旅路の祝福を  作者: 稀一
一章
7/54

04

 領主ご令嬢のお遊びに付き合う気なんぞ、さらさらなかった。


 当たり前だ。俺は庶民の出で、そんなとこのご令嬢には足蹴にされるだけならいい方といった扱いを受けるのが普通だ。今まで付き合いのあった家を見てもご令嬢が真面目に勉強したいなんて思うはずもない。どうせ先生とは名ばかりの体のいい奴隷だ。ならば何故引き受けたのかといえば、単純に住む場所がなかったからである。そこ舞い込んできた住み込みの話に飛びついてしまったのは仕方のないことと言えよう。友人、と言えるかわからないようなやつだが、そんな奴に紹介されて、こいつが話を持ってくるなんてと物珍しさに興味がわいたわけではない。少しは理由にあるが。

 なんでも知っている先生で、なんでも教えられる先生で、いつでも教えて欲しい、と。そんな条件を飲むやつがどこにいるのだろうかと思いながら、教えられることは限られると返答すればそれでも構わないと言われた。主に教えてほしいのは魔術らしい。それなら得意分野だ。シルラグルは領も、領主たる夫人も悪い噂は聞かない珍しいところであったし、ならば、と話を受けた。


 だが親が良いからと言って、子供も良いとは限らない。


「シア様はただいま自室で休憩なさっております。申し訳ございません。お嬢様にお知らせする時間がなく、私のようなお出迎えで」


 そう、こんな風に。


「え、ああ、いえ。リリシアさんは立派にこうして仕事をされているじゃありませんか。出迎えに不満なんてありませんよ」


 どうせ嘘だろう。領主宅の使用人がそんな失態をするとは思えない。くだらない失敗一つでさえ鞭打ちではすまないのがこの世界だ。どうせ令嬢が出迎えなんてしたくない、向こうが勝手にこっちにくればいい、と言った態度なのだろう。尻拭いをさせられるリリシアさんに同情した。

 貴族の娘なんて信用ならない。クズばかりだ。

 すっかり荒んでしまった自分に苦笑を漏らして、元凶である過去を呪う。学園都市を出た頃は、こんなではなかったはずなのに。


「シア様、先生がいらっしゃいました」

「はっ、はい! 少し待って!」


 リリシアさんがノックをして中に声をかけると、女の子の声がそう返した。その時点で眉が寄る。仮にもこれから教えを請う者が相手だというのに、それか。

 開いていく戸を気分が冷え切っていくのを感じながら、目を細めて見ていた。が、いない。何故か開いた戸の向こうにいないのだ。思わず首を傾げると、その後ろからひょっこりと小さな影が姿を現した。


 ――小さい。

 五歳、とは聞いていたが、五歳とはそうか、こんなにも小さいものだったのか。


「ごめんなさいリリシア、お待たせ、」


 内心驚きながらそのまま見ていると、ご令嬢はそう言いながら顔を上げ固まった。ふん、もしや俺は今相当な顔をしているんだろうか。だが仕方がないと己に言い訳をする。雇い主の娘だ。ある程度の態度を心がけるつもりだったんだが。

 ごめんなさい、などと口では言いながら、微塵も思っていなさそうな無表情だった。使用人を扱き下ろすようなその態度にいらつかないはずはない。やはり庶民など貴族から見れば使い捨ての道具か何かでしかないのだ。


 腹立たしい。


「初めましてお嬢様。これからよろしくお願いします」


 リリシアさんが紹介してくださったので挨拶をすると、ご令嬢はギシッ、と音でもしそうな動きをした。あまりにぎこちなくて笑える。


「申し訳ありません先生。こちらからお出迎えすべきですのにこんなところまでご足労いただいてしまって。これから、よろしくお願いいたします」


 頭を下げるなんてやりたくもないのだろうな、と無表情のままなされたお辞儀をみる。ついで上げられた顔も無表情のままで、無言のまま見上げてくる令嬢に眉を寄せた。愛想笑いくらいはしたらどうなんだ。

 どうしてこれをあいつが紹介してきたのかがさっぱりわからない。なにかあいつの興味を煽るものがあるのだろうと思っていたが、これではどうにも。


「それでは、私は部屋の前に控えておりますので、御用の際にはお呼びください」


 無言で見合う俺たちに微笑みリリシアさんは部屋を出た。それに俺もついてきたいくらいだと内心舌打ちを漏らす。こんな令嬢と二人きりなど、苛立ちを抑えられる気もしない。自分はこんなに堪え性がなかっただろうか。


「せ、んせい、こちらへどうぞ」


 その声に、先生とすら呼びたくないのかと悪態を吐きそうになった。いけない。雇い主の娘なのだ、これは。そもそもまだ相手が本物のボロを出したわけでもないのに、こちらから出すわけにはいかない。短く息を吐き、促されるまま椅子に腰かけた。後ろからついて来た令嬢は椅子を見ると動きを止め、視線を迷わせ始める。なにをしているのかと見ていれば、リリシアさんを呼んだ。


 なんなんだ、一体。

 呆れて息を吐いていると、二人の会話が聞こえた。なんでも椅子が高くて座れないらしい。最初から座れる椅子を用意しておけよ、と呆れる耳に、リリシアさんの戸惑う声が届いた。なるほど、もしかしなくとも、この令嬢は使用人に嫌われているようだ。

 鼻で笑いそうになり堪えていると、なぜかリリシアさんに謝られた。俺は別になんでもかまわないんだが、同席の是非を聞かれ了承すれば、ほっとしたように後ろに控える。こんなに態度も悪く、性格も悪そうで、使用人に当たりがきつく尚且つ嫌われている令嬢を、リリシアさんが慕っているように見えるのが不思議でならなかった。


「では、自己紹介といきましょうか。初めて会ったわけですから」


 重い腰を上げる、わけではないが口を開いて名乗れば、令嬢は俺に会釈を返してきた。

(なんだ?)


「ご挨拶ありがとうございます。私は」


 少しの違和感を感じながら、彼女の言葉の続きを待つ。と、いうのに、ちっとも続かない。何故かリリシアさんを見る始末。なんだ、こいつ。リリシアさんが首を傾げたが、俺も首を傾げたい気持ちだ。


「名前、は」


 俺を見てまた口を開くも、黙り込む。

 なんなんだ。いい加減にしろと苛立ちも募りこちらが口を開こうとした矢先、


「こ、こちらっ、トア・シアメル・シルラグル様、シルラグル領主のご令嬢でございます。まだ語学も勉強しておらず、先生には一からお世話になることと思います。よろしくお願いいたします」


 なぜか、顔を真っ青にし、恐々とした表情のリリシアさんが令嬢の紹介をした。

 なるほど自分で自己紹介もしたくない、と? そう思いながら、それに自分で違和感を感じた。先ほどから、見ていれば見ているだけ、この娘に感じる違和感が強くなっていく。それでも堪えようもなく冷え切っていく心を自覚していた。


「五歳にもなって、自分で名乗ることも、できないのですか?」


 びくりと、令嬢の体が跳ねた。足も届かない椅子の上でまあ器用なことだと、自分でも自覚できる程冷めた目で眺めていれば、それが遮られる。


「それにはわけがございまして、そちらはその、後ほど、後ほどご説明させていただきます! 今はどうか、授業をなさってくださいませ!」


 見れば、リリシアさんが腕で令嬢の顔を隠し、視線をぶった切っている。そうして驚くことに、


「ごめんなさい」


 令嬢が謝った。


(――は?)


 驚くどころじゃない。天変地異でも起きたかのような衝撃だ。今この令嬢は、何と口にしたのだろうか。ごめんなさい? ごめんなさいだと?

 思わず間抜けな顔をしていると、令嬢は顔を上げにっこりと、ここに来てはじめて笑みを浮かべた。気がつけばリリシアさんの腕も下がり、愕然とした顔で令嬢の顔を見ている。それを視界に納め困惑した。


「申し訳ありません先生。本日は、いえ、今は挨拶のみで構いませんか? 少し、自分でも、あまりの無知さに厭きれてしまって」


 思いもしない様な言葉が出てきてそれにさらに戸惑い、思わずどもりそうになりながら返事をする。何の意味があるんだ、この笑顔には。


 目を細め、この場からさっさと逃げ出したくて立ち上がれば部屋を出る前にリリシアさんがそばまでやって来た。顔を寄せられ、足を止める。


「申し訳ございません。この後、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「ええ、構いませんが」


 また突然のことに驚きつつ、その深刻そうな表情に頷く。リリシアさんは令嬢に頭を下げ、俺を連れて部屋を出る。

 閉まる戸の向こう、俯いて拳を作る令嬢の姿が、やけに印象的だった。


 着いて来てくれという以外何も言わず歩き出したリリシアさんを追う。しばらく歩いていると、リリシアさんはとある部屋の戸をノックした。出てきたのはエーデリア様だ。挨拶をした時と変わらず穏やかな表情でリリシアさんに問いかけると、何かを耳打ちされ表情が崩れる。真剣な眼差しをして、俺とリリシアさんを部屋に招き入れた。


「何故エーデリア様のお部屋に?」


 三つ、リリシアさんが綺麗に向き合うように並べ直した椅子の一つを勧められ大人しく座り数分が経つ。お二人の姿はよく見えるが、俺の質問に押し黙ったまま答えない。どう話せばいいか考えあぐねている、といった様子だ。しばらくそんな調子で話しだそうとしない二人に溜息を吐き、ゆるく首を振った。


「ではこちらから失礼します。先ほどのあれはなんですか。このようなことを申し上げるのは失礼かと存じますし、気に障ったらこのまま追い出すなりなんなり、お好きになさって結構です。が、五歳にもなって自己紹介もできないとは、領主令嬢として、どうなのです」


 もはや堪えるつもりもなかった。顔を顰めながら叩きつけるように言えば、エーデリア様は辛そうに顔を歪め押し黙ってしまう。僅かに伏せられた目に視線が合わず、リリシアさんを見ても眉を八の字に引っ提げ、悲しげに俯いていた。それに目を細め、落胆した。

 反論はない、か。随分と過保護に育てられたか、自由にさせ過ぎたか。エーデリア様が多忙であらせられることを考えれば恐らくは後者。そしてそれを本人たちも自覚しているのだろう。だからこそ言葉がないのだ。親がよくとも子は別。まさしく、こういうことなのだ。子育てに正解はないとは言うが、間違いや失敗は確実に存在する。


 視線を外し、溜息を吐いた。お二人が悲しい顔をしているのは見ずともわかっているのだ。それに絆されてしまいそうな自分も。エーデリア様個人が悪いお方ではないとわかっているからこそ、これから令嬢も方向修正していけると期待してしまいかねない。

 考えれば考えるほど、なぜあいつがこの仕事の橋渡しをしてきたのかが理解できなかった。


「ごめんなさい。本当に申し訳ないわ。お越しいただく前に事情を話すべきでした。何よりも先に」


 やっとエーデリア様が口を開いたかと思うと、真っ先に謝られてしまった。思わず眉が寄る。いくらなんでも、こんな庶民相手に素直すぎやしないだろうか。しかし謝っているのは令嬢の無礼にではない。自らの伝え忘れだ。先ほどリリシアさんも言っていたが、事情とは一体何なのだろうか。二人して口をそろえて言う上、来る前に聞いておくべきこと、というのなら、そうとう重要であるはずだ。だというのに伝え忘れるような何か。少なくとも、エーデリア様の頭からは抜け落ちていた、ということだろう。そう考えてしまうと、重要も何もないように思えてしまうが。


 観念して目を向ければ、エーデリア様は再び目を伏せ瞼を震えさせた。怯えさせるような言動はしてないと思うのだが、なにかがあるらしい。普通に考えれば話の内容だが、話すことに怯えるようなものとは、と眉が寄る。

 無言で言葉を待っていれば、エーデリア様は小さく息を吐き、口を開いた。


「シアのことです。これからお話しすることは、内密にお願いします。あの子自身も、多分知らないことなんです」


 顔を上げたエーデリア様は、先ほどまでの不安げな様子も鳴りを潜め、強い眼差しでそう言った。それにしかと頷く。隠したがっている事情を言い触らそうとするほど、軽率な口はしていないつもりだ。

 しかし本人も自覚していないとは、一体どういうことだろうか。性格、ということなら、自分の性格を悪いと自覚しているものなどほぼほぼいないだろうが、どうにもそう言う話ではないように思える。言い触らしはしないが、話の内容によっては住み込み三食付きという好条件でも考え直させてもらいたい。というよりも、すでに少しやめる気でいるわけだが。


「実はなんと言ったら良いのかわからないのですが、一番近い言い方をすると、あの子はまだ一週間しか生きていません」

「……なに?」


 あまりにも予想外の言葉に、思わず口をついて出た無礼さに気付けない。理解が追いつかなかった。たった一言がなにを言っているのかわからない。一週間しか、生きていない・・・・・・? そんな馬鹿なことがあるだろうか。確かに小さくはあったが、五歳だと聞いていた。いくら俺が五歳児を知らないからと言って、生まれて一週間の子供と見間違えるはずもないし、一週間であそこまで大きくなるはずもないということも知っている。


「今はなにを言っているのかわからないと思います。ですのでまずは話を聞いていただけませんか? 私たちもそうであったと言うだけで、なぜそうであったのかを知りません。聞いたあとにどうするかは、先生が決めてください。もし辞めるというのなら、こちらの不手際です、お詫びも用意しましょう。引きとめはしません」


 あまりの言葉にもしや馬鹿にされているのか、とふつりと苛立ちが顔を出した時、それを察したわけではないだろうが、エーデリア様は目を伏せそう言った。それに顔を顰めつつ、聞くだけは聞こうと頷く。エーデリア様はそれを見ると表情を和らげ、リリシアさんを見た。リリシアさんは心得ているとばかりに頷き、ひたと俺の目を見、ゆっくりと話しだす。


「シア様は、ご存じの通りこのシルラグル領の領主たる、エーデリア様の第一子であらせられます。つい五年前にお生まれになりました」


 確認のようにわかりきっていることを言われ頷く。五年前に生まれた、という先ほどの言葉との矛盾に内心わけがわからないと呟きながら黙ったまま続きを待った。


「ただ、シア様はお生まれになってからつい一週間ほど前まで、一度も話すことも動くこともなさいませんでした。ただひたすら、そこに在るだけ、というように生きてきたのです」


 意味がわからない。目を細めると、リリシアさんは指先をすり合わせるように弄び、思い返すように視線を外した。


「食事も自らしようとせず、口元まで持っていき初めて召し上がって頂けました。玩具を渡してもご覧になることすらせず、名前をお呼びしても答えてくださることはなく、起きてから寝るまで指の一本すら自ら動かしたことはござません。視線さえもです。喋ることも、初窓の際小さく呻かれたのが初めてお聞きした声でした」

「馬鹿な」


 話しながら、きゅうと小さく眉が寄っていた。その表情に本当のことなのだと悟り、しかし理性がそんなことがあるかと否定する。赤子は主張し続ける生き物だ。意思すら、それこそ自我すらなくとも、生きるためにである。それでは生きることを放棄していると同義ではないか。

 口をついて出た否定に、リリシアさんは「いいえ」と首を振った。


「本当です。あの日まで、確かにシア様は自我もなく、意識もなく、ただただ在るだけでした。生きているのに生きていませんでした。空っぽだったのです。顔の前で手を振っても、目を開けているのに目に映っていないように手を追うこともありませんでした。排泄をコントロールすることもなく、ひたすら垂れ流し、そうして生きていたのです」


 目がこちらを向くことはない。話すことすらつらいのだというように視線を落とし、強く手を握っていた。

 先ほど見ていた令嬢が、動かず、喋らず、ただ在るだけを想像しようとする。だがわからない。想像がつかないのだ。そんな人を俺は見たことがなかった。

 リリシアさんが一度口を閉じると、エーデリア様が震える手を握りしめ深く息を吐いた。嘆くようなそれに目を向ければ、強く目を瞑っている。


「まるで魂の入っていない、人形のようでした」


 そうして苦しげに吐き出された言葉に、愕然とした。人に対して、いいや、親が自分の子に、そんなことを言うのか、と。そんな風に、思うのかと。


「あんた、なんでそんなことが言えるんだ。自分の子供だろう。それなのにそんなっ」


 思わず拳を作った。硬く握り、意図せず顔が歪む。批判の言葉を口にして、しかしその続きが出てこなかった。なんといえばいいのかわからない。

 自分の子供を持ったことはない。それでも確かに親に愛されて生きてきたのだ。


「あなたに、なにがわかるんですか!」


 ガタンッ、と大きな音を立て椅子を倒しながら、拳を握り俯いたリリシアさんが怒鳴った。震える声は悲鳴のようで、それに目を向ければ、涙の滲んだ目で睨まれた。思わず息を呑む。怒りに染まった瞳に目を見開いた。


「五年間、五年間です! 五年間も自らの子供が何の反応もしてくれないっ。それなのに毎日毎日、愛していると伝え、その日の幸せを祈り、口付けを送る、その愛をあなたは知らない! そう在ったシア様だって見ていないくせに! 私でさえつらかった、怖かった、悲しくて苦しかった! エーデリア様はどれほどそうであったか、私には想像もできない! 初めて動かれた時、エーデリア様がどれほど喜んだか、私だってどれほど、どれほどその奇跡に感謝したか!」


 零れそうなほどの涙を湛え、怒りを露わにする声に、何かを堪えるように全身に力を込める姿に言葉をなくす。「やめなさい」と小さく諌めるエーデリア様に、リリシアさんは顔を上げ、唇を噛み締めて首を振った。


「やめなさいと言っているの」


 しかし凛とした表情で繰り返したエーデリア様に、こちらまで呑まれそうになる。その顔がこちらを向き、思わず顔を引く。完全に気圧されている。


「申し訳ありません。知らなくて当然のことですし、私が酷いことを言ったのも事実です。ですがどうかリリシアを責めないでください。私を思ってのことです」


 そう言い、静かに下げられた頭に驚いてしまった。慌てて首を振り顔を上げさせようとしてしかし、ご婦人の肩に手をかけるわけにもいかず、言葉で「いいえ」と否定する。


「なにも知らず、その場にいたわけでもない私が言うべき言葉ではありませんでした。無礼なことを言ってしまったのは私です。申し訳ありませんでした」


 顔をあげてくれないエーデリア様に、眉を寄せて下げ返した。一拍、沈黙したかと思うと、エーデリア様が「ごめんなさいね」と小さく呟いた。顔を上げると眉を下げた笑みが見え、また首を振る。


「続けましょう。まだ話は終わっていませんから」


 気を取り直して、というように微笑まれたエーデリア様にほっと息を吐く。リリシアさんは俺に頭を下げると、赤くなった頬を挟み深呼吸をした。だがちらりと向けられた目は未だに不機嫌そうで、軽く睨んでいる。思わず目を逸らすと、唇を尖らせた後コホンと咳払いをした。椅子を立て直し、座る。


「シア様の初窓は、目覚める前日に起こりました。五歳で、あまりにも遅い初窓です」

「馬鹿な。普通は二歳までに来るものです。そんな事例は聞いたこともない」

「ですが事実そうでありました」


 どういうことだ。いまだ解明されきってはいないとはいえ、そんなに遅くに来るなんて話は聞いたことがない。体に異常はないのだろうか。いや、もしかしたら一週間前までの状態はそのせいだったのでは。しかし確証がない。

 思わず顎を擦り、考える。可能性としてなくはないだろうが、そうだと確定するための材料はなにもなかった。他に例がないことが答えを遠ざけている。一度調べてみたいものだが、どうすれば過ぎてしまった初窓についてなんて調べられるんだ。痕跡が残るようなものでもなし。自身の無知が悔しい。


「ああ、けれど、五年も動かしていなかったせいかお顔がうまく動かないようなのです。ですので先ほどの笑顔には、心底驚いてしまいました」


 それを聞いて瞬きをし、なるほどと納得した。だからあんな反応をしていたのか、と内心頷いていると、エーデリア様が「笑った? あの子が?」とリリシアさんに詰め寄っていた。それを見てつい苦笑をしながら見れば、困った風に眉を下げながら手のひらで寄ってくるエーデリア様を止め、リリシアさんが続けた。雇い主にそんなことをしていいのか、と思いながら話に意識を向ける。


「そ、そういうこともあり、シア様は本当になにも知りません。不甲斐ないことに、私がそのことに気付けずお教えすることもしなかったおかげで自身の名前も知りませんし、文字も知りませんし、恐らくこの世界のことをなにも知らないのです。生まれて、そのまま、なにも知らず真っ白なまま」


 その言葉に、ふと引っ掛かった。「後で話します」と二人で戯れているのを見ながら「待ってください」と話を止める。二人は目を丸くしてこちらを見て、首を傾げた。


「なら、どうして今お嬢様は普通に話しているのですか。一週間で誰が言葉を教えたのです」


 思わず寄った眉をそのままに聞けば、リリシアさんとエーデリア様は目を見合わせ、困ったような顔をした。


「それがどうやら、最初からシア様は話すことができたようなのです」

「それこそ、そんな馬鹿な!」


 目を見張り否定する。それはもはや、五年間意識がなかったこととは別物だ。生まれてすぐに言語を理解している生き物などいない。聞き、覚えることで話すようになるのだ。

 リリシアさんも難しい顔をして視線を投げ、唇に触れながら首を傾げた。


「最初こそ聞きとり辛く拙いものでしたが、言葉を知っておられたのです。本当に最初から、目覚めて二日目から。そのときはまだ口がうまく動いていらっしゃいませんでしたが、確かに話そうとなさっていました」


 それを聞き眉を寄せる。そうして一つ、もしや五年間の間、意識自体は在ったのではないだろうかという考えが浮かんだ。そうすれば周りの話を聞き言葉を覚えることができる、


「みなお嬢様を怖がり、今では私とエーデリア様とファデル様しかシア様に近づきません。折角話せても話し相手が少なく、不憫に思います」


 ということはないらしい。エーデリア様は仕事に追われていらっしゃるだろうし部屋に入り浸ることはないだろう。旦那様であらせられるファデル様も騎士団長だ、邸にいる時間の方が少ないはず。となれば基本的にはリリシアさん一人だったと考えるべきだ。なら会話をすることもない。

 眼を閉じ眉間を押さえ、天井を仰いだ。深く息を吐き、正面を見る。


 わけがわからない。

 わけがわからないが、ひとつだけわかったのは俺がとんでもない勘違いをし、あまりにも失礼な態度をとってしまったということだ。

 なにもわからない子供が、突然こんな見た目の男に睨まれれば恐怖を感じないはずはない。ひねくれお嬢様だとばかり思っていたからこそああしてなにも気にしていなかったが、物ごころついたばかりの子に酷いことをしてしまった。


 最後にみた姿を思い出す。そして浮かべられた気丈な笑みを、あの言葉を。その裏でどれ程自分を責めていたのだろうか。


「ですのでどうか、どうか、シア様に色々なことを教えて差し上げていただきたいのです。お願いいたします」


 リリシアさんが深く頭を下げるのを、エーデリア様と見ていた。エーデリア様はなにも言わない。自分で引き留めない、と言った以上、なにも言えないのだろう。だがリリシアさんを見つめる目を見れば、同じように思っていることはわかってしまう。

 深く息を吐き、リリシアさんに頭を上げる様お願いした。ゆっくりと上げられた顔は不安げに揺れていて、それに苦笑する。エーデリア様もこちらを見たのを確認し、ゆっくりと、深く頭を下げた。


「失礼ばかりで申し訳ありませんでした。お許しいただけるのなら、喜んで」

読んでくださりありがとうございました。

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