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新たな旅路の祝福を  作者: 稀一
一章
5/54

02

「おはようございます、シア様」


 ノックの音に気付かないほど、呆けていた。

 リリシアに声をかけられ、呆然としたままおはようと返す。じっと顔を見つめれば、その顔が徐々に不安そうなものになっていった。それを見ながらどうしたんだろうか、なんてやっぱりぼーっとしたまま考える。心配そうに顔を覗きこまれ、その動きを目で追った。


 手を伸ばす。触れた。当たり前だ、触ったのだから。

 夢。夢だったのか。あれは夢。だって今私はリリシアに触れている。リリシアはそれにちゃんと反応して、戸惑った様子で私を呼んでいるのだ。

 体が動かせる。目が覚めたときにも感じた言いようのないこの気持ちを、じんわりと噛み締め触れた手で拳を作った。小さな手だ。とても。でもこれから大きくなっていく。成長していく。生きているのだ。リリシアも。


 (梨夏)は?


 どっちが私なんだろう。夢に見ているのはどっちなんだろう。襟足がざわつく。現実がどちらなのかわからない。今まで本当に生きてきたのはどちらの私なんだ。


「シア様」


 眉を八の字にしたリリシアが、震える声で泣きそうになりながら私を呼んだ。ふいと、それに意識を向ける。そうか、無視してしまっていた。今更はっとして、握っていた手を下ろす。


「ごめんなさい、なんでもないの。少し考え事をしていて」


 そう言うとリリシアは途端にほっと表情を緩ませ、ご朝食の時間ですよと私の手を引いた。もうそんな時間だったのかと外を見るけど、太陽も見えなければ太陽の位置で時間を知る知識も私には無い。ということは、エーデリア様の祈りも聞きそびれてしまった。


 それにしてもリリシアは打たれ弱いのだろうか。これから気をつけなくちゃ。意図的に無視するなんてないと思うけど、仕事でもここまでよくしてくれている彼女を悲しませたいとは思わない。

 ぬるま湯につけたタオルで顔を拭かれながら、そういえば昨日は無茶なお願いをしてしまったのだった、と思い出した。


「ねえリリシア、その、剣の話はどうなったの? 怒られなかった?」


 急に不安になって手を引けば、リリシアは「そうです」と笑った。えっ怒られたの、と焦った私の手を取ると、リリシアは嬉しそうに口を開いた。


「剣術も習っていいそうですよ! 旦那様も奥様も了解してくださいました。魔術や他の勉学は先生をお呼びするそうですが、剣術は旦那様が直々に教えてくださるそうです」


 にこにこと笑うリリシアに、あれ、と拍子抜けする。怒られてはいないらしい。それどころか、わざわざファデル様直々に教えてくださるという。それに瞬きをして、では昨日のはどういう反応だったのだ、と内心首を傾げた。


「本当?」

「ええ」


 思わず聞けば、リリシアは迷わず頷いた。それに徐々に気分が高揚していく。不可解なところはあれど、なんにせよだ。剣道ではないらしいが、ともかく学べるのだ。喜ばしいことである。ファデル様は剣が達者であらせられるのだろう。楽しみだ。


「リリシア、ありがとう!」


 お礼を言えば、「旦那様にいって差し上げてください」と苦笑して頭を撫でられた。大丈夫。これから朝食でしょう。ちゃんとお礼を言うわ。





 実のところ、食堂でご飯を食べるようになったのはここ四日ほどの話で、それまでは自室でリリシアと二人。きちんとフォークを持ったり、溢さず食べられるようになってからここで食べるようになったのだ。

 この国の礼儀作法がどういうものなのかはわからないが、ファデル様もエーデリア様も上座にはいかない。長テーブルの中央に集まり、隣り合って座るお二人に対し私は向かいに座るのだ。ちなみに正面は早い者勝ちで決まっていない。一緒に食べるようになってからまだ日が経っていないから、はしゃいでいるんだろう。この取り合いもそのうち収まるはずだ。


「おはようシア」


 エーデリア様の柔らかな笑顔が挨拶とともに送られ、それに続きファデル様もおはよう、と微笑みをくれた。


「おはようございます」


 私がそう返すと、二人ともいつも心底嬉しそうに笑うのだ。いいや挨拶だけではない。私が反応を返すと、それだけで。


「剣術や魔術の件、ありがとうございました」


 さっそくお礼を言おうと話を振れば、エーデリア様がふふふと微笑みファデル様が目を伏せ照れくさそうに笑った。エーデリア様はともかく、まだ慣れないコミュニケーションにどうすればいいのかわからない父親、と言った風に見えないこともない。ちなみに私は完全にそうだ。


「魔術の先生は伝手でとてもいい方を見つけておいたから、楽しみにしていてね。その方が他の勉強も教えてくださるそうよ」

「他の勉強、とは、なにを学ぶのですか?」


 今朝もリリシアに言われたな、と思いながら首を傾げれば、エーデリア様は「そうね、」と視線を外し人差し指を唇に添えた。なかなかに可愛らしい仕草である。そういえばおいくつなんだろう。とてもではないが五歳の子供がいるようには見えない。


「言語、歴史、地理、数学、他にも必要なことや、シアが気になったことがあれば何でも学べるわ。先生を増やすのだってもちろん構わない。勉学に勤しむのはいいことよ。知識を増やすことは、あなたを助けるの」


 言われ、うわあ、と嘆きそうになる。机に齧りついてする勉強なんて嫌だ。そんなもの記憶の彼方である。

 うぐぐと呻きそうになるのを堪え、「ありがとうございます」と軽く頭を下げながら礼をいった。勉強は嫌だが、ありがたいのは本当だ。私のためを思ってのことだというくらいわかる。


「朝食をお持ちしました」


 給仕であるらしいメイドさん数人と席をはずしていたリリシアが一緒にやってきて、私のところにはリリシアが、お二方のところには他のメイドが食事を置いた。

 そうです、私、他の使用人たちに避けられているのでした。





 あの後食事をとりながら話をしていたけど、魔術の先生は早ければ今日の午前にはやってくるらしい。なので捕まるかわからなくなる探索は禁止となり、自室待機をしていた。

 昨日お願いしたばかりだというのに随分はやいなと思いながら部屋の中をうろつく。落ち着かなかった。なんでも先生は私がいつでも、どんなことでも勉強できるようにと、住み込みらしい。給料はどれ程払われるんだろう。二十四時間勤務と言うことだよなと考えると、恐ろしい。勤務時間も、発生する給料もである。


 剣術の方は明後日から始めるそうだ。ファデル様の仕事が忙しいため、直近で合わせられる日がそこだったらしい。忙しいのに仕事を増やして申し訳ないと言えば、ファデル様は随分とその、でれでれした顔で問題ないと言っていた。心がつらい。

 そうしてそういえば、と目を瞬かせる。お二方の仕事はなんなのだろう。勝手にエーデリア様は社長か何かだと思っていたし、ファデル様に至っては家の外でしている仕事としか知らない。私はこの家の人たちのことをなにも知らないのだ。知っておくべき、だろう。当然。


「リリ、あ……」


 ついリリシアを呼ぼうとして、今はそばにいないことを思い出す。先生がすぐにでも来るかもしれないためその準備をしているらしい。住み込みともなれば部屋の準備もあるだろうし、今はてんてこ舞なはずだ。

 振り向いた先に誰もいなくて、なんだか寂しくなった。私に宛がわれているこの部屋は一人では広すぎる。

 しん、と静まり返った部屋から目を逸らし、ベッドの下に落ちているクッションを一つ拾い抱えた。座り込み、顔を埋める。


 どんな先生が来てくれるのかな。そもそも一人なんだろうか。増やすのも構わない、と言っていたあたり、まずは一人なのかもしれない。学びたいこと、と言うからにはやっぱり一番に魔術について教えてもらいたい。あ、でも魔術って呪文とか使うのかな。暗記か。

 思わず苦い気持ちになりながらまだかなあと考える。ずっとリリシアがそばにいてくれていたから、一人の時間に慣れない。探索は別として、この部屋にだ。おもちゃはないし、本もない。そう言えばとふと顔を上げ、部屋を見渡した。

 あるのはベッド、サイドテーブル、チェスト、それだけだ。チェストの上にベルがあるけど、多分映画とかでよく見る使用人を呼ぶやつだろう。チェストの中も私の着替えしか入っていないのは知っている。本当に必要最低限のものしか、この部屋には無いように思えた。


(子供部屋、なんだよね?)


 思わず首を傾げ、部屋の真ん中まで移動してみた。景色は変わらない。クリーム色の柔らかい色に包まれているというのに、あまりにもさみしい部屋だった。


「机」


 そうだ、勉強をするなら机が必要だ。勉強机。どうするんだろう。それとも勉強は先生の部屋でするんだろうか。

 ばったん、と後ろに倒れるように寝転がった。柔らかい絨毯だ。大きなベッドの周りには落下対策のクッションが敷き詰められているし――これのおかげで降りるのものぼるのも自力だと少し大変なのだけど――チェストや他のものも、ぶつかっても大丈夫なようにか角が柔らかく丸いもので覆われている。こうみれば、きちんとした子供部屋に見えた。

 そこでそう言えば、と体を起こす。再び部屋を見て、今更気がついた。この部屋には木の家具しかないのだ。思い返してみても、探索した限り食器とかはガラスや金属だったけど、家具に関しては木のもの以外を見た覚えがない。

 もしかして、いや、本当にもしかしてなんだけど、もしかして。


「文化水準が、低い、とか」


 呟いてから、はっとして慌てて首を振る。失礼な考えだ。でも見れば見るほど、家具の細工も拙い気がしてくる。木の表面はささくれていたりはしないけど、なめらかとは言い難いぼこぼこっぷりだ。細工は見事だ。それは素直に頷くが、綺麗であるか、と言われれば、まじまじと見れば見るほど、唸ってしまう。技術がないわけではないだろうが、洗練されてはいない、と言った風だった。


 街並みからも思っていたけど、やっぱりここは、現代、つまり梨夏が生きていた時代でも、世界でもないんじゃ――。


「シア様、先生がいらっしゃいました」


 結論に至ろうとした時、ノックの音がそれを遮った。びくりと肩を揺らせばリリシアの声が聞こえ、思考が吹き飛ぶ。あんまりにも突然すぎやしないだろうか。


「はっ、はい! 少し待って!」


 焦りつつ立ち上がり、寝っ転がって崩れたワンピースと髪の毛を整える。このまま出ればはしたないと怒られることだろう。身なりを確認し、ドアへ寄った。手を伸ばし、開けながら出るなんてこともできない体の大きさなため、ノブを回してそのまま後ろへ下がった。壁にぶつかる前に手を離し、部屋を出ようとドアをまわる。


「ごめんなさいリリシア、お待たせ、」


 いきましょう、と声をかけようとして、顔を上げ硬直した。


「シア様、こちら、本日から住み込みで勉学を教えてくださる、ノイマン・ジクトレト先生でございます」


 お茶の乗るお盆を持ったリリシアの隣に、黒髪の見たことのない男性が立っていたのだ。


「初めましてお嬢様。これからよろしくお願いします」


 ざんばらで、セットなんてされてもいないだろうあちこちに跳ねた髪。一文字に引き結ばれた唇に、温かさなんて微塵もない、よろしくだなんて思ってもいなさそうな顔。むしろ身震いしてしまいそうなほど冷めた、細められた黒い瞳が私を見下ろしていた。


「――……」

(ちょ、――っと、まって)


 普通、こういうものは、私が玄関までお出迎えするものではないのか。

 ぽかん、と開いてしまったであろう口を閉じ、なんとか再起動を試みる。ぎこちない動きでワンピースをちょいと摘まみ、お辞儀をした。


「申し訳ありません先生。こちらからお出迎えすべきですのにこんなところまでご足労いただいてしまって。これから、よろしくお願いいたします」


 顔を上げたところですらすらと、なけなしの敬語の挨拶が口から出た。頭は未だに真っ白である。先生は変わらぬ温度のままさらに目を細め、それにびくりと肩が跳ねた。そうしてようやっと、思考が回復する。

 まさか、いらっしゃいましたというのがリリシアと一緒に、部屋の前までという意味だとは思いもしなかった。てっきりリリシアと一緒に玄関まで出迎えに行くものだと思っていたのだ。いまの挨拶に失礼はなかったか、お辞儀はリリシアに教えてもらった通り出来ていたか、とぐるぐると頭の中で何度も疑問が巡り、混乱が収まらない。


 深呼吸をしながら、リリシアがぱちんっと指を鳴らしたのを聞く。目を向ければ後ろから数人の使用人がやってきて、何かを運び込み始めた。慌ててドアの前からどけば、テーブルと椅子だということに気付く。部屋の奥まで入り、それらを置くと静かに出て行った。リリシアは優雅にテーブルにお茶とお菓子を置くと、お盆を脇に抱えたおやかに微笑んだ。


「それでは、私は部屋の前に控えておりますので、御用の際にはお呼びください」


 一礼するとすすすーっと部屋から出て行ったリリシアはそのままドアを閉め、部屋には私と先生だけが残された。どうすればいのかわからない。梨夏だって生まれて二十九年、男の人と部屋で二人きりなんてシチュエーションを体験したことはないのだ、父親以外で。


(あ、でも先生なんだよね、そう先生。そんなに緊張することも、な、い……)


 ちらりと先生を見上げると、なんだかゴミでも見ているような目で見下ろされている気がした。これはコミュニケーションをはかれる気がしない。私が緊張するとか、しないとか、もはやそういう話ではないように思えた。どうしよう、と視線を迷わせ、とりあえず運んでもらったテーブルまで案内を、とぎこちなく動きだす。不出来なおもちゃか何かのようで泣きたくなった。


「せ、んせい、こちらへどうぞ」


 どうぞ、と手で促すと、先生は無言のまま無遠慮に女の子の部屋にずかずかと侵入していく。もちろん招いたのはこちらなのだけど、その若干荒々しいような気もする歩みは一体何なのだ。先ほどから感じてはいたが、これはもうもしや、だとか思ってはいられない。どう考えても、嫌われている。えっ初対面で!?

 どうしよう。これからご教授いただく先生だって言うのに、もう嫌われてしまった。理由もわからないのだ。どうすればいいかわからず、なすすべなくデーブルまで進む先生の二歩後ろをついていく。なるようにしかならないのだと思考を投げたくなりながら、先生が座ったのを見て私も座ろうとして、


「あ、」


 椅子まで届かないことに気がついた。

 高い。食堂の椅子よりも高い。私の部屋のものはベッドもチェストもサイドテーブルも私の手の届くものになっているのだけど、これは、どう考えても高い。


 そ、れは、そうよね。なるほど、大人で背の高い先生の目線に合うよう作ってあるわけだ。子供に合わせては先生が窮屈になってしまう。納得ではあった。だけどそれならちゃんと踏み台とかも用意してほしかったかな!?

 先生は椅子を前にしておろおろする私を観察していた。その目は気のせいでなければ先ほどよりも冷ややかで、泣きそうになる。この人なんだかちょっと怖い。


「リ、リリシア、ごめんなさい、ちょっと来てもらえるかしら」


 震えそうになる声を必死に堪えながら呼べば、リリシアがはいと微笑みながら入ってきた。その姿に救われたような気がして肩の力を抜き、「どうされました?」と聞くリリシアに手を伸ばした。


「椅子に届かないの、乗せてもらえるかしら。ごめんなさい」


 頼めば、リリシアは今気付いた様に目を丸くしあら? と首を傾げた。


「申し訳ありません。階段を用意していたはずなのですが……」


 いいながら私の両脇に手をいれ、そっと体を持ち上げてくれた。いつもながら申し訳ない。礼を言うとリリシアは「こちらの不手際です」と流してくれた。


「申し訳ありません先生。お嬢様の便のことを考え、私も同席させていただいてよろしいでしょうか」


 苦笑していうリリシアに先生は微笑んで「大丈夫です」と答え、それにあれ、と首を傾げる。目線が似たような高さになると、なるほど、下から見ていたから顔が陰って見えていたのか、先ほどよりはましに見えた。リリシアに向けられる表情はさきほど見ていたものとはだいぶ違う。


「では、自己紹介といきましょうか。初めて会ったわけですから」


 先生がそう言いながら私の目を見た。

 あ、やっぱり、ましになってませんでした。


 ちゃぶ台のように勢いよく思考をひっくり返す。完全な勘違いだ。やはり違う。リリシアに向けられた表情だったからましに見えていたのだ。軽蔑されているような、同じ目線の高さになってもなお変わらず見下してくる目。ちょっと、どころじゃない。私が二十九年を過ごしていないただの子供だったら、本気で怯える目だ。怖い。


「私はノイマン・ジクトレト。学園都市の魔術学部の卒業生ではありますが、ただの庶民です。このような貴族のお邸で教師として雇われる身ではありませんが、今回はご縁がありこうして置かせていただくことになりました。お嬢様の勉学を見るということで、大変恐縮ながら、努めさせて頂きたいと思います」


 静かに語られた簡単な自己紹介と堅苦しい挨拶。会釈した先生の表情はやはり変わらない。震えそうになる拳を膝の上で握り、会釈し返す。顔を上げると彼の片眉がひょいと上がった。


「ご挨拶ありがとうございます。私は、――」


 口を開いて、あれ、と言葉が止まった。


 私は、私の、名前はなんだろう。


 ばっとリリシアを振り返る。きょとんと首を傾げ微笑まれ、私は思いもしなかった事態に再び混乱しかけていた。

 そうだ、私は、この家の人たちのことどころか、自分の名前すらも知らなかった。


「名前、は」


 ゆっくり視線を戻し口ごもっていると、先生は訝しげに目を細めて眉を寄せ、少し傾げながら首を引いた。それに余計呆れられているのだと悟りながら、目も思考もぐるぐると回す。シア、シアと呼ばれるばかりで、自分の名字も知らないのだ。なにも紹介できる自己がない。

 続いた無言に、リリリアが目を見開いた。さっと色を失ったその顔を視界にとらえて、気付かれたと俯く。いいや、助けを求めようとしたのだ、気付かれたもなにもない。助かった。だけどさすがにこんなのはおかしい。自分の名前がわからないだなんて、そんなの。


「こ、こちらっ、トア・シアメル・シルラグル様、シルラグル領主のご令嬢でございます。まだ語学も勉強しておらず、先生には一からお世話になることと思います。よろしくお願いいたします」


 焦りながら口を開き、すっとエプロンドレスを摘まみ膝を落としたリリシアに先生の眉根がさらに寄り、下がった。私の血の気も引く。

 お金持ちだとは思っていたけど、領主だなんて、そんなすごい家の子だなんて知らなかった――!

 つまり、あの邸の柵の外、あの崖の下に一望できる街は、この家が納める領だったってこと? とんでもない。そりゃ、領主の娘に剣術を習いたいだなんて言われて、リリシアが戸惑うはずだ!


 あぁ、と思わず目元を覆いたくなった。先生の視線ももはや氷のように冷めきっている。自分自身ですら呆れ果てているのだ、私を嫌っている人が、嫌悪を現さないはずがなかった。先生の口が開くのを視界に捉え、体が強張る。


「五歳にもなって、自分で名乗ることも、できないのですか?」


 ――ゾッとした。


 明らかに侮蔑の色が濃くなった目に、背筋が粟立つ。

 怖い。怖い。怖い。この人、怖い。


「それにはわけがございまして、そちらはその、後ほど、後ほどご説明させていただきます! 今はどうか、授業をなさってくださいませ!」


 リリシアが私の前に腕を伸ばし、庇うように先生の目線を遮った。プツン、と緊張の糸でも切られたように力が抜ける。情けなかった。涙が出そうだった。リリシアに、無理をさせてしまっている。だって私が自分のことを知らないのは本当のことなのだ。リリシアだって驚いたはずだ。五歳。五歳ということは、もう幼稚園の年長さん。自分の名前はおろか、年齢だって言えるはずの歳だ! 私は昨日エーデリア様が言うのを聞くまで、自分の年齢も知らなかった!


「ごめんなさい」


 目を合わせることができなかった。ただ顔を伏せ、目を伏せ、ぎゅっと膝の上でワンピースを巻き込み、皺ができるのも構わず拳を作り涙を堪える。泣いたところで意味はない。いいやむしろマイナスだ。泣くわけにはいかない。

 ぐっと顔を上げた。先生が驚いた様に目を見開いてこちらを見ていたけど、それにこちらも驚く余裕はなかった。


「申し訳ありません先生。本日は、いえ、今は挨拶のみで構いませんか? 少し、自分でも、あまりの無知さに厭きれてしまって」


 意識して目を細め、口角を上げ、首を小さく傾げる。少し引きつってしまったような気もするけど、仕方ない。とりあえずここは笑顔で納め、この気持ちを静めなければ会話もままなりそうになかった。


「……わかりました。では、また後ほど」


 先生は目を細めると、すいと顔を逸らし席を立った。唖然と目を見開いていたリリシアはそれにはっと気を取り直したように表情を引き締め、先生に近づくと一言二言耳打ちし、一緒に部屋を出て行った。


「……ああ」


 ドアの閉まる音を聞いて、ひゅう、と息を吸った。小さく吐息とともに声を出して、俯く。ぎゅっと硬く目を瞑り、拳に力を込めた。

読んでくださりありがとうございました。

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