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新たな旅路の祝福を  作者: 稀一
一章
4/54

一 世界について

◇2017/09/02 一部修正

 探索を進め、邸内の見事な装飾を見つめながら考えに耽る。

 はたして、ここはどこなのだろう。もしかしたら今夢を見ているのかもしれない。あり得ない話ではない。そして梨夏であったことが夢である可能性も、ないとは言い切れない。だけど私には確かに梨夏であった記憶があり、二十九年の人生があり、思いがある。

 今、確かにここで生きているのと同じように。


 優しいクリーム色の壁を撫でながら、ぽてぽてと歩く。爪先を一歩一歩見つめた。

 動く体。小さな体。知らない場所。知らない人。

 ふ、と息を吐く。やっぱりわからないものはわからない。ヒントの一つもないんだ、いくら考えたって答えなんかでやしない。窓の外を見ると空は晴れ晴れと青く澄んでいた。目を細め、ふらりと窓に寄る。雲が流れている。

 この足で見に行く。違和感と、どうしようもない歓喜が伴って、私は泣いてしまいそうになるのだ。毎朝起きる度、この体が動くことを確認しては涙が出る。夢ではなく、ここでこうして生きているのだと確認して。


 幸福である。


 ふへ、と弛みそうになる顔を慌ててぺちぺちと叩く。やっぱり心は正直で、わからないことよりも、この幸福の方が大きいのだ。


「ふふ」


 昨日見つけた中庭への戸まで向かう。少しふらつくけど問題はない。一昨日歩けるようになったばかりなのだから、走ることは出来ないし、意識してしっかり歩かなければ転びそうにもなる。

 廊下の中庭に面している一面のガラス窓に手をあて進む。その中の間違い探しのようなガラス戸を見つけ出し、なんとか届くノブに手をかけた。体重をかけるように下げ、ふらーっと前に出る戸につられてバランスを崩すけど、ふわりと頬を撫でた風に意識は向かい、そのままノブに手をかけぼーっとしてしまった。


「気持ちいい」


 暖かな風にふわりふわりと花びらがまい、それに気分をよくしながら戸を開けたまま靴を脱ぎ、庭の芝生の上で足踏みをする。


「~~っ」


 ふるりと、思わず興奮する自分がわかった。

 微かな弾力、反発感、草のちくちくとした感触。それらを足の裏に感じ、そのまま足を踏み出した。ぽてっと手も地面につき、手の平でまで感じるその感覚にまた震える。

 ちょっと痛い。でもふわふわ。もさもさしてて楽しい。このまま転がっていいかな。でもお洋服高そうだし。


 数瞬の逡巡。のち、庭の真ん中あたりまで出来る限り早く駆け、そのままえいやっと芝生にダイブした。ちょっと芝で切ったかもしれないけど、そんなことよりも今は嬉しくて楽しくていっぱいだった。

 両手足を広げ、うつ伏せで寝転がる。わくわくしながら準備運動に体を小さく左右に揺らし、とおっと勢いをつけ右に転がった。


「うわぁ……」


 一面に広がる青。青。青!

 自分で見に来た空は、なんて綺麗なんだろうか。

 少し視線を左にずらせば大きな邸の明るいオレンジの屋根が見え、右にずらせばずーっと続く空が見える。雲は確かにいろんな形をしていて、視界に入っていないはずの太陽の光が眩しくて眩しくて、涙が出た。


 ばっと勢いをつけ上体を上げる。頭ごと右に向け、柵の向こうを見ようとした。けどやはり高さがあってこの位置からでは下が見えない。渋々起き上がり柵まで歩き、覗きこんだ。

 下は完全に崖になっている。柵のおかげで落ちはしないが、もしも落ちたら死んでしまうだろうという高さだった。そこから少し前に視線をやると、色とりどりの屋根が見える。街の中央の広場までぐにゃぐにゃと続く道がいろんなところからのびていて、家も綺麗に揃って建ってやしない。でもこの不揃いな街の光景が、なんだか好きだと思えた。

 それにしても、どうしてこの家は街の中にないのだろう。もしかして、崖の上からは別の街になっていて、反対側はまた違う光景が広がっているのだろうか。


「わ」


 眺めながら考えていると、下からの突風に顔を叩かれた。咄嗟に腕で庇い収まるまで待っていると、風に乗ってきたのか、声が聞こえる。部活動に励む男士高生のような、気合いの入った声たちだ。風がやむと聞こえなくなり、そろりと腕を外しどこからだろうと再び見下ろした。そうして見つけたのは街の右下。崖のすぐ下の開けた場所だった。大豆くらい小さく見える人たちが、そろった動きで何かをしている。なんだろう、とぎゅっと目を凝らした。


「?」


 よくは見えないが、棒のようなものを振っていた。剣道の訓練か何かだろうか。……剣道?


「!」


 そうだ、あれは剣だ。重そうなそれを皆並んで持ち、ぶんぶんと上下に踏み込みながら振っている。騎士か何かだろうか。すごい、すごい! 私もやりたい!

 落ちていた枝を拾い、よく見えないながらも真似をする。きっとこんな感じだろうと振ってみるが、同じようには動けていない。この体は早く動かないし、なにより子供の真似っこだ、こんなものは。彼ら――彼女らかもしれないが――のテンポには到底ついていけない。ビュン、と風を切るように振ろうとしても、間抜けなひゅんという音もかろうじて聞こえるかどうか。訓練している者たちと同じことなんてできるわけはないが、こんな枝一つまともに振れないとは、と不貞腐れながら芝生に投げた。


 リリシアにお願いしたら、剣道を始めさせてもらえないだろうか。

 女の子が剣道をするくらい普通のことだし、良家のお嬢様っぽくたってやっててもおかしくない。伝統ある我が何々家で女児はーとか持ちだされてしまえば駄目かもしれないし、どんな場所なのかも知らないから確かなことはいえないが、頼むだけ頼んでみたっていいだろう。

 さっそくお願いしに行こう、とくるりと振り向き方向転換。楽しみでにやけているかもしれない顔をそのままに、来た道を引き返した。





 部屋に戻ってもリリシアはいなかった。どこにいったのかと再び邸を歩きまわれば、庭の畑で野菜を収穫している。今日のお昼にでも使うのだろうかと、これから朝食だというのにそわそわ昼の献立に心を馳せながらガラス戸を開けリリシアに近づいた。と、


「――」


 リリシアが何かを呟いた途端、宙から突然水がわき出した。

 絶句。

 落ち着かない心地で歩み寄っていた足が止まる。ぽかんと見ていれば、あろうことかその水は宙に留まって浮いていた。


「リ、リシア?」


 口からこぼれた呼びかけは小さく、彼女は気付かないまま躊躇うことなくその水の中に野菜を入れ、中で土を落としている。


「リリシア!」


 もう一度呼びながら歩き出す。完全に未知のものだった。今のものが何か知りたい。知りたい。あれはなに!


「シア様?」


 きょとんとこちらを見たリリシアに飛び付かんばかりにしがみつき、それはなに、それはなに! と繰り返した。瞬きを繰り返し最初こそ戸惑っていたリリシアは、微笑むと私の頭を撫でる。


「こちらですか? 水の魔術ですよ」


(魔術、魔術ですって!)

 答えてくれたリリシアは「さあさ」と私を引きはがすと野菜を籠に入れ始めた。それを見ながら、興奮したままついエプロンを引っ張る。


「リリシアは、魔法使いなのね!」


 すごい! と言えば、ぱちりと瞬きをして私を見つめ、違いますよ、と苦笑した。


「だって魔法を使ってるわ」


 なにが違うの、と首を傾げれば、宙に浮かんでいた水がばしゃりと地面に落ちて、土に馴染んで消えていった。驚いてそれを見ていると、リリシアはしゃがんで私の目線に合わせ、「いいですか」と人差し指を立てる。


「魔法使いと言うのは間違いです。正しくは、魔術師といいます」

「魔術師……」


 繰り返すと、リリシアははいと頬を緩ませ目を細め、優しく微笑んだ。よくできました、と言わんばかりのそれにまた首を傾げると、リリシアも笑ったまま首を傾げる。


「リリシアは魔術師ではないの? 魔術を使っていたわ」

「いいえ、私は魔術師ではありません。生活魔術しか使えないからです」

「生活魔術? それを使えるだけじゃ魔術師にはなれないの?」

「魔術師とは様々な魔法が使える人がなれるものです。攻撃や、防御、本当にいろいろな魔術です」


 リリシアの説明に、落ち着いていた興奮が再び顔を出す。ざわざわと首のあたりが落ち着かなくて、思わず手でさすった。


「生活魔術は生活で使うものです。たとえば先ほどのように水を出すもの、火をつけるもの、風を起こすもの、それだけなのです」


 また人差し指を立てて言ったリリシアに、それだけでも十分攻撃になると思うのだけど、と黙ったまま首を傾げていると、クスリと笑う。


「魔術に興味がおありなら、奥様にご相談なさってみては? きっといい先生をつけてくださいますよ。一人でお願いしづらかったら、私も一緒にお願いします」


 ね? と笑って首を傾げたリリシアに、私は強く頷いた。「少々お部屋でお待ちください」と言うとリリシアはお辞儀をし、野菜の入った籠を持っていってしまう。それを見送り、急いで部屋まで向かった。

 魔術を教えてもらえるだろうか。教えてもらえるとして、魔術には一体どんなものがあるのかな。

 ベッドに腰掛け足を揺らし、そわそわしながら待っているとドアがノックされた。跳び下りてドアまで向かい開ければ、リリシアが軽くお辞儀をする。


「お待たせしました。それではお嬢様、参りましょうか」

「付き合ってくれてありがとう」


 リリシアの手を掴んで繋ぎ、見上げる。リリシアはそれに小さく笑うと、「どういたしまして」と私の頭を優しく撫でた。私もそれに笑いながら部屋を出る。


 エーデリア様の部屋は私の部屋から少し遠い。正確には、エーデリア様の執務室だ。私室は近いところにあるらしいが、まだ伺ったことはない。エーデリア様はわざわざ仕事部屋があることからわかる通り、偉い人らしい。それがどういう場所で、どういう風に偉いのかはわからないが、私にあまり構えなくてごめんなさいと、謝りながらも自分が一番悲しそうな顔をする程度には多忙なのだ。つまり自分の事情を置いても優先しなければならず、出勤する必要はなく一人でする仕事。尚且つ大量。ということは大きな責任の伴うものなのだろう。自分にだけ影響するなら、自分のことを優先したって困るのは後々の自分だけだ。この大きな屋敷や使用人の数を考えると、どこかの社長でもしているのかもしれない。

 そんな執務室の前までつくと、リリシアが私を見た。見返して頷くと、頷き返される。視線をドアに戻してノックした。ドアノッカーには私では届かないため、リリシアがだ。コンコン、と軽い音に、中から「はあい」とゆったりとした声が答える。それと同時にドアが開いた。


「あら、どうしたの? 二人揃って」


 顔を覗かせたエーデリア様――やはりどうにも母とは呼びずらい――は目を丸くして私を見ると、リリシアを見て、また私を見て微笑みそう聞いた。リリシアが軽くお辞儀をし、笑いかける。


「エーデリア様、シア様が魔術を習いたいそうなのです。初窓ももう済んでおりますし、始めてもよろしいかと」

「そうね、たしかにもう五歳だものね……。わかりました、先生をお呼びしましょう。とびっきりのいい先生をお呼びするから、楽しみにしていてね」


 しょそう、という初めて耳にする単語や、五歳であるという事実に目を瞬かせている私を置いて話はあっけなく終わってしまったらしい。全部リリシアに喋らせてしまいこれでいいのかと狼狽えそうになるが、エーデリア様が気分を害したようすはない。とりあえず魔術が習えるようだということはわかった。

 ふふ、と無邪気に笑って私の頬に両手を添えるエーデリア様に、どうしようもなく、申し訳ない気持ちになってしまう。


「ありがとうございます」


 ごめんなさい。私、あなたのことをお母さんと呼べないの。

 自分がどんな顔をしているのかもわからなかった。でもきっと笑えてはいない。だというのにエーデリア様は私の頭を撫でると、手を差し出してきた。その手を見て、顔を見上げる。


「そろそろ朝食の時間だわ。道中ご一緒しませんか?」


 お茶目にいいながらあたたかな笑み湛える顔に、胸が痛んだような気がして、俯きながらおずおずと手を取った。

 私は酷い人間だ。そう思うけど、こればっかりはどうしようもない。時間が解決してくれる、だろうか。わからなかった。二十九年も過ごした時間を、なかったことにはできない。けれどそれを抱えながら、無邪気にこの人を母と呼ぶのもまた、裏切りに思えて仕方がないのだ。梨夏の両親だけではない。どちらにもだ。


 にこにこと嬉しそうに笑って歩き出したエーデリア様と、繋いでいた手を離し後ろに控え微笑むリリシアが、この空間が、少し息苦しかった。漏れそうになる溜息を堪え前を向けば、すぐに食堂の扉が見えてくる。両開きの木の扉をリリシアが開けると、広い部屋に椅子が四つ並ぶ長いテーブルがあった。いくつもある窓が部屋を明るくしていて、少し眩しくて目を細める。

 エーデリア様は私の手を引くと、テーブルを回り込み右から三つ目の椅子を引いた。それにはっとする。慌ててリリシアを見れば、リリシアはにっこりと嬉しそうに笑うのみだ。慌てる私に構わず、エーデリア様は両脇に手を差し入れて、私にはまだ高く自力で座ることができない椅子に持ちあげて座らせてくれた。恥ずかしくて顔を覆いたくなる。いつもはリリシアがしてくれるのに。

 リリシアもエーデリア様も、なにがそんなに嬉しいのかにこにこと座って固まっている私を見ていた。子供用の椅子の導入を強く要望ます。


「重くなったわね」


 不意に小さく落とされた言葉に見れば、エーデリア様は眉を下げて悲しいのか、寂しいのか、切ないのかよくわからない顔で笑った。どうしてかまた胸が痛んで、鼻の奥がつんとする。何故そんなに感慨深く呟くのかも、リリシアが顔を覆ったのかもわからない。わからないけど、つられるように波立った感情をぐっと堪え、エーデリア様の手を取る。


「散歩をするようになりました。筋肉だって、ついてきたと思います。そのうち、お邸よりも大きくなるかもしれませんよ」


 そういうと、エーデリア様は目を丸くし、次いで目元を和らげる。「そうね」と頷く姿にほっとすれば、最後に頭を撫で、エーデリア様は向かいの席へと向かった。

 遅れてきたファデル様が私の正面を取れなかった、とエーデリア様と軽く言い合いをしていたのは、気まずいことこの上ないと言わせていただこう。だけど三人そろっての食事の時私の正面の席が奪い合いになっているのは毎度のことだ。そうしてそれが収まると料理が運ばれ、穏やかに笑いあいながら食事が始まる。理解できない会話と、私に向けられる二人の暖かな微笑みに苦しくなりながら、私も今日の予定を話したりするのだ。


 そうして食事が終わると、ファデル様は仕事なのか邸を出て、エーデリア様も執務室へとこもる。名残惜しげに私を抱きしめるファデル様の情けない顔は未だに見慣れないし、そんなファデル様を見送りながら同じく私をぎゅっぎゅするエーデリア様の顔も見慣れない。そもそもそんなに「あーいやだいきたくないいきたくない。離れたくないよやだやだ」と、口に出さずともわかるほど駄々をこねるように別れを惜しまれたこともないので、当然ともいえる。どんな反応を返せばいいのかさっぱり分からないのだ。かろうじて「今日も頑張ってください」と言えるくらい。そんな言葉にも嬉しそうに笑われてしまえば、余計に苦しくなるというもので。

 ああ、これ以上ないほど愛されてしまっている気がしてならない。


「ようございましたね、シア様」


 本来なら嬉しいことのはずなのに、沈んだ気持ちで考えていたらリリシアにそう言われた。心を読まれたのか、と驚いて顔を見上げ、すぐに魔術のお願いのことかと思い到る。

 部屋に戻りながらリリシアの方が嬉しそうに笑いかけてきて、私はそれにはっと当初のお願いを思い出した。

 魔術への驚きで吹き飛んでしまっていたが、本来お願いしようとしていたのはそれではなかったのだ。あまりにも遅すぎるタイミングだ。その上魔術もお願いしてしまっているし、これ以上何か願うのは欲張り過ぎだろうか。


「シア様? いかがなさいました」


 返事をし忘れていたか、悩んでいるのが顔に出ていたのか、少し歩調をゆるめ私の顔を覗いて聞いてくるリリシアに考えた末、聞くことにした。リリシアは首を傾げ私の言葉を待って、とうとう足を止める。それに私も足を止め、手を組んだ。


「もうひとつお願いがあると言ったら、聞いてもらえる?」


 窺うようにそっと見上げるとリリシアは目を丸くし、すぐに微笑むと「なんなりと」と私の頭を撫でた。それにほっとしつつ、それならばと顔を上げる。


「剣を習いたいの」


 率直にいえば、リリシアは目を見開いて驚いてしまった。やはりいくらなんでも矢継ぎ早にお願いなどはしたないと思われただろうか。それとも女子が剣道を習うのはこの国ではおかしなことなのかもしれない。


「それは、私の一存では決めかねますので、旦那様と奥様に相談しなければ、その……」


 言いながら視線を逸らし、消えていく言葉尻とともに肩を小さくしていく。どうしてそんな反応なのかと内心首を傾げつつ、首を振った。


「いいの。無理にというわけではないし、よければ、よ。魔術も教えてもらえることになったのだし、これ以上の我儘はいけないかもしれないわ」


 リリシアはそれに「いいえ」と首を振り、何かを考えるように視線を落とした。それを見ながら歩き出せば、リリシアも心ここにあらずと言った風に、けれどしっかり歩き出す。

 選択を間違ってしまったのかもしれない。もし女子が剣道を習うのがあまりよろしくないお国柄なら、エーデリア様たちに言うことでリリシアが罰せられることもありうるだろう。余計なことは言うべきではないのかな、と思う。

 浮かれていた自分を自覚し、少し落ち込んだ。





 目を覚ました。


 白い部屋だった。隅に彫り細工もなければ高級感もない、あえて言えば清潔感のある白い天井。夕飯を楽しんだ後、眠りにつこうとまどろんでいた部屋ではない。


「……」


 夢だったのか、やっぱり。

 それはそうだ、魔法だとか、そんなファンタジーあるはずもない。この世界にはそんなもの存在しない。あるのはいつだって残酷な現実ばかりだ。


 金髪。いいえ、この体は黒髪。

 小さい。いいえ、この体はもう成長することもない、十分大きなものだ。


「夢」


 幸せで、幸せすぎて、泣きたくなるような夢。


 目を閉じる。世界はそれだけで真っ暗に閉ざされ、それに少し安心した。もうなにも見たくはなかった。聞きたくもなかった。いっそあのまま目覚めなければ、静かに眠っていられれば。

 世界は私の意思で拒絶できない。


「泣くな」


 突如、響いた声。辛うじて動く顔を向ければ、はっとする艶やかな黒髪の少女がいた。私とは違う。本当に、墨でも垂らしたかのように真っ黒な髪だった。


「きみ、どこからきたの」


 ぽつんと、ドアの前で後ろで手を組む少女に聞けば、彼女はちらりと私を見た。無感動な顔だ。およそ表情と呼べるものなんて浮かんでない。


「そんなことを聞いてなんになる」

「きみ、どうしてここにいるの」

「そんな答えは持ち合わせていない」

「きみは誰?」


 沈黙。彼女は髪と同じ黒い瞳で私をまっすぐに見ると、「立て」と言って近づいてきた。


「立てないよ。この体は立てない。そうなってる」

「どうして立てないんだ」

「体が動かないからだよ」

「もうない肉体に動かないもなにもない」


 目を見開く。彼女はもうすぐそこで、言葉を理解する前に私の手を掴むと引っ張った。


「わ、わ、わ」


 ずるり、とベッドから引きずり出される。おかしい。こんなに小さな女の子の力で、大の大人を引きずり出せるはずがない。力の抜けた体はそれだけで重いのだと誰かに聞いたのに。


「気付けよ。思い出せ」

「なにを?」


 困惑しながら歩く背中を見る私を、彼女は振り返るとふと視線を下げた。


「自分を見てみろ」


 言われ、見る。


「あれ」


 歩いていた。歩けていた。手を引かれ、その手に引かれるまま、ついていっているのだ。


「どういうこと?」

「そういうことだ」


 意味がわからなかった。


「ねえ、きみは誰なの」

「私は誰でもない」

「どういう意味?」

「そういう意味だ」


 ブツッ、と、視界が途切れた。目を開ける。白くない。手を見る。動く。髪は金。

 涙が流れた。

読んでくださりありがとうございました。

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