生まれたあなたへ
私がこの家に仕え出したのは十になるかならないか、というほどの頃だった。幼くして両親を亡くした私を、幼馴染みでもある領主様のご令嬢、エーデリア様が侍女にとご両親に願い迎え入れてくださったおかげ。
そのエーデリア様が婿養子を迎え、政略結婚でありはしたもののファデル様と恋をし、幸せな生活をおくられていた。私はそばで仕えながら侍女として、そして時に友としてお二方とともに過ごしていた、そんなある日。エーデリア様がご懐妊なされたのだ。第一子であらせられる。嬉しそうに伝えてきたエーデリア様に、私も思わず涙が出そうになるほど喜んだものです。
お医者様はついておられますし、お腹の子は順調に育っておいでだとお聞きしても稀に体調を崩すエーデリア様。そんなエーデリア様に寄り添う旦那様や、幸せそうに生まれるお子様のことを語りあうお二方に私も幸せな気持ちになりながら、迎えた出産。
苦しそうなエーデリア様の悲鳴や呻き声に震えてしまう己を叱咤しながら、ただ只管に、部屋の前に控えエーデリア様も、生まれてくるお子様も無事であってほしいと祈ることしかできなかった。出産に立ち会ったことはもちろん、自分が出産した経験もない。お役に立てないことを悔みながら、終わるのを待っていた。
しばらくして、なぜか一瞬、部屋の中から音が消えた。え、と顔を上げたときには騒然としており、突然のことについていけず、慌ただしそうな音や声を聞くことしかできず不安ばかりが募っていった。そうして徐々に静かになっていく部屋の様子に困惑していると、産婆さんが部屋から出てきた。慌ててどうなったのですかときけば、無事に生まれたと、めでたいことをなぜか沈んだ表情でおっしゃる。
そういえば、赤子の泣き声が、聞こえてこなかった。
愕然とし、部屋の中に駆け入れば、エーデリア様が蒼然と目を見開いて寝台におりました。その様子にまさかと不吉な考えが浮かび、なんて恐ろしいことをと自分の思考を叱咤する。産婆さんは無事生まれたと、そうおっしゃっていたではないか。視線を流せば、助手の方が赤子を洗っていた。生まれたばかりの子供を見たことはないが健康そうな、女の子だ。
「エーデリア様」
いかがなさったのですか、どうしてそのように落ち込んでおられるのですかと声をかければ、エーデリア様は青ざめたまま私の腕を掴み、震えた。
「あの子、ちゃんと今、息をしているのよね? 生きて、いるのよね?」
震える声でされた突然の質問に驚きながら生きておりますと答えれば、エーデリア様は涙をお流しになり、「私のせいだわ!」と悲鳴のように叫ばれた。
「なにを、」
「あの子、あの子、声をあげなかった。泣かなかった。それどころか動きもしなかった……息さえも、しようとしなかったのよ」
縋りつくエーデリア様に驚いて言葉を止め、そうして告げられた言葉に愕然とし、思わず振り向く。お嬢様は助手の方に丁寧に洗われ、その胸はきちんと上下していた。大丈夫、息をしている。
「息をしています。エーデリア様、お嬢様はしっかりと、呼吸をされています」
震えるエーデリア様の背中を擦り繰り返せば、エーデリア様はそろりとお嬢様の方へ顔を向けた。
「あの子、きっと生まれたくなかったんだわ」
「おやめください、そのようなことをおっしゃるのは」
「泣かないの。息なんて、きっとたまたま出来ただけなのよ。出来なかったらきっと、あの子はあのまますべてを受け入れていたんだわ。きっとそうよ。だってあの子、今思えば、お腹の中でも動かなかった」
「エーデリア様!」
首を振り、震える手で顔を押さえ泣きだしてしまわれたエーデリア様を、無礼と承知しながら抱きしめる。大丈夫だとその背を撫で続けるけれど、私は、それ以外なにも言えなかった。
妊娠したこともない。子供を産んだこともありはしない。そもそも貴族ですらない私には、この細い肩に乗せられた荷の重さすらもわからない。
私は、なんの力にもなれない。
それからシアお嬢様は、泣かず、喚かず、動かず、只管与えられたら乳を飲み、糞尿を垂れ流しておりました。離乳食も目の前に置いたところで食べず、視線すら向けず、スプーンを握らせようとしても力を入れてくださらない。こちらが掬って近づければ口に含む、生きているけれど空っぽのような赤ん坊だった。
シア様がお生まれになった日、旦那様はお帰りになるとすぐにエーデリア様とシア様の元へ駆けつけ、事態をお聞きになるとしばらくはお医者様や、魔術師様などに相談を持ちかけておられた。奥様は私には計り知れないほどのショックを受けたのでしょう。しばらくは苦しんでおいででしたが、しかしすぐに立ち直られた。たとえこのままであったとしても、生きているこの子を愛するのだと気丈に微笑む姿に、私は泣いてしまった。
不安は拭えないでしょう。それでも、私たちの子なのよとシア様を抱きしめ、旦那様と微笑み合う姿は、本当に、涙が出るほど、美しい光景でありました。
エーデリア様は毎朝毎晩シア様に本を読み聞かせ、愛おしそうに抱きしめ、頭を撫でて祝福のキスを送るのです。
「今日があなたにとっていい日でありますように。あなたが幸福の中にあれますように」
あたたかな声でそう紡ぎ、エーデリア様は私に微笑みかけると「よろしくね」と部屋を後になさる。夫人でありながら貴族のご当主。領主様だ。その公務は多忙を極める。旦那さまであられるファデル様も領地を守る騎士団長として日々働き、ほぼお邸にはおられない。
そんなお忙しいお二人の代わりにシア様のお世話を務めるのは、私の役目だ。
「シア様」
声をかけても反応はない。自分への声かけだと認識していないのか、そもそも聞こえていないのか。ただ動きもせず寝たまま天井を見つめておられる。いいや、きっとただ目を開けておられるだけなのだ。天井なんて見ておられない。
「シア様」
それでも声をかける。
玩具を与えるのは早々にやめた。反応せず、渡そうとしても持ちすらなさらないからだ。
「シア様」
それでも声をかける。
どうか、どうか、生きてください。
死んだように生きるこの幼子に、私はただただ願うばかり。
シア様が誕生なさって、三か月が過ぎ、私以外の使用人は人形のようなシア様を不気味がり、近寄りすらしなくなった。部屋に入るのは私と、エーデリア様とファデル様だけ。さらに一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎ――そうして、五年が過ぎた頃。
本日もいつもと同じようにドアをノックし、返事がないまま中へと入る。シア様は目を瞑ったまま寝台に寝ておられた。いつもはすでに目を開けていらっしゃるのに、と焦り近寄れば、その胸は弱弱しくはあるものの上下していた。しかし少し荒い呼吸に驚き、その額に手を当てる。
「熱が!」
慌てて朝食を寝台の横にあるチェストに置き、エーデリア様の元まで走る。廊下を走るだなんてはしたない行為をしていることも構わずに、とにかく急いだ。
「エーデリア様!」
「どうしたのリリシア、そんなに慌てて」
ノックをし返事が聞こえた瞬間戸を開ければ、エーデリア様は目を丸く見開きこちらをご覧になった。
「シア様が熱をお出しに!」
焦りながらそう告げると、エーデリア様はガタリとイスを鳴らして立ち上がり、「シアを見ていて」とおっしゃった。頷くと、険しい表情で部屋を出ていかれる。
「私はすぐにお医者様をお呼びするから、その間、お願いね」
言うが早いか、そのまま邸を飛び出して行かれた。私もすぐさま部屋へ引き返し、シア様の元へ向かう。その途中しっかりタオルと氷水を用意し、ノックするのも忘れ部屋へと入った。
「ぅ」
呻いた。シア様が。
あのシア様が呻いたのだ。
今まで一度も口を開かず、羊水を吐き出す際の軽い咳以外で、誰も声を聞いたことのなかったシア様が。
「シア様、もう少々お待ちください。すぐに、奥様がお医者様を呼んできてくださいますから」
どれほど苦しいのだろう。どれほどお辛いのだろう。あんなにも、この五年間反応をしなかったシア様が呻くほどの熱なのだ。
顔が歪み、涙が滲みそうになる。ぐっと堪えながらタオルを氷水につけ、そっと額に乗せた。それでもシア様の様子は変わらない。苦しそうにたまに呻き声を漏らされるままだ。それでも眉間に皺や、目を強く瞑るなど、表情に変化がないのには唇を噛みしめてしまった。
ここ五年、ずっと表情なぞ変わらなかった。動かし方がわからないのかもしれない。動くということを知らないのかもしれない。
「シア様……」
思わず寄ってしまう眉をそのままにすぐに温くなってしまったタオルを氷水につけると、戸が乱暴に開かれた。
「リリシア! シアは、シアは無事!?」
お医者様を伴って部屋に入ってきたエーデリア様はシア様に駆け寄ると、ああと顔を歪ませ目を伏せられる。
「シア、シア、お医者様をお連れしたわ。もう大丈夫、大丈夫だから」
頭をそっと撫でながらいうエーデリア様を見て、私は静かに近づいてくるお医者様と交代するようにするように場所をどいた。診断を始める様をエーデリア様と二人で固唾を飲んで見守ると、ゆるりと、首が横に振られたのだ。
「これは、私ではどうにもできません」
告げられた言葉に目を見開くと、お医者様は慌てて「勘違いしないでくださいね」と顔を上げた。
「恐らく、今日魔術窓が開いたのでしょう。今は確か五歳でしたか。例に見ない遅さではありますが、この様子なら大丈夫でしょう。問題はありません。安静にされていれば、今日の夕方には落ち着くかと」
その言葉に二人で驚けば、それではお大事にとお医者様はお帰りになられた。
シア様は初窓がまだだったのか。
「あ、では」
思わずエーデリア様と目を見合わせる。何の問題もないのだ、とやっと呑み込み、二人でほっと胸をなでおろした。
「申し訳ありません、騒ぎ立ててしまい」
「いいのよ、これからも、何かあればすぐに知らせて。大切な娘のことだもの。いつもそばにいてあげられないのが、心苦しいけれど……」
はっとして頭を下げた私に微笑みそういうと、エーデリア様は名残惜しげにシア様を撫で、部屋をあとになされた。
それからシア様は慣例通り半日ほどで熱も下がり、また何事もなかったかのようになにも変わらない様子に戻られた。
そうして次の日、ノックをしてからお部屋に入ると、目を開き寝転がるシア様がいらした。いつも通りの光景にほっと息を吐き、本当に何事もなくてよかった、と胸を撫で下ろした。
朝食をお持ちした胸を伝えながら窓を開け、シア様に近づく。そっと上体を起こして手を離し、小さな机を前に置いた。
「召し上がってください」
いつも通り、そう、ここまではいつも通りだった。
フォークにマアムを指し、口元まで運ぶ。しかしシア様は口を開かなかった。思わず困惑して口元を見ていると、フォークを、その手が掴んだのだ。覚束ない動きで手が伸びてきたと思えば、フォークを鷲掴みにするとふらふら、ゆっくり、口元まで運んで行った。
彼女の体が動くのを、私は初めてこの目で見た。
あまりのことに数瞬呆然とし、我に返るとすぐさま走り出した。慌て過ぎて何度か転びそうになりながら、エーデリア様を呼び走ったのだ。部屋につく前に私の声が聞こえていらしたのか、部屋から出てきたエーデリア様にこの目で見たことを話せば、エーデリア様も驚愕に目を見開き、走ってシア様の元へと向かった。
しかし寝台には、空になった食器だけが残されていた。
私は呆然として、部屋に一歩踏み入り見渡す。すると、シア様は、床にぺたりと座られた状態で、窓から入ってきたのであろう蝶を、手で追っていたのだ。
ああ、と涙が出そうになった。この優しい主人たちに、神様はなんと酷い仕打ちをなさるのかと、何度彼女を見て嘆いたか。
エーデリア様も気づいたのか、ゆっくり、ゆっくりと彼女に近づかれ震えだす。口元を両手で覆い、涙を流しながら言葉にならない声を漏らしていらした。
私も溢れそうな涙を堪え、まだ信じられないというように口を覆い立ち竦んでしまったエーデリア様に左手を差し出し、「さあ」と促した。エーデリア様は震える右手を私の手に置き、ゆっくりと、彼女がまだ認識すらしていないだろう名を呼びながら、歩を運ぶ。
「シア」
何度目かの呼びかけに、それでも彼女は反応をしめされない。やはりご自身の名前をまだ知らないのだろう。奥様のゆっくり進んでいた足が次第に早くなり、とうとう駆けだすようにしてその小さな体を抱きしめられた。
何度も、何度も、これ以上幸せなことなどないというように、涙で濡れた顔をくしゃくしゃにして、名前を呼ばれた。
私も零れる涙を指で拭いながら、その光景を見て目を瞑った。
――おはようございます。シアお嬢様。
次の日から、まさにやっと目覚めたというようにシア様は活発になられた。朝お部屋に伺えば寝台におらず部屋中を這いながら、今では歩きながら動き回り、隙を見せれば部屋を出て邸を探索しようとなさる。いったいいつ覚えたのか言葉も徐々に話せるようになられ、今ではなんの問題もなく聞き取れ、会話ができる。
目覚ましかった。
目まぐるしかった。
まるで今までの時間を取り戻すように、一週間で五年を過ごすように、シア様は嵐のような一週間をすごされた。
朝の挨拶が返されるだけで涙が出そうになる。名を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになるのだ。
ああだけど、取り返しがつかないものもあった。表情。シア様は表情に乏しい。やはり五年も動かさなければ動かなくなるのは道理だったようで、いくら声に抑揚がついても、強弱がついても、表情は微かに動くか、いいえ、動かないことのほうが多かった。
それでもシア様は元気に過ごしていらっしゃる。明るく、好奇心旺盛で、体を動かすのが好きなお嬢様。
そうして今日もまた。
「リリシア、今日も一人で探索していいのでしょう?」
「ええいいですよ。ただしお食事の時間にはきちんと戻ってくださいまし。時計をお貸しいたします」
そっと裾を掴み声をかけてきたシア様に微笑み頷くと、じゃあいってくるわ、と時計を掴み、早々に部屋を出て行かれた。
「いってらっしゃいませ」
思わず浮かぶ笑顔のままにお辞儀をし、シア様をお見送りする。
「さぁ、」
さして汚れてもいないけれど、元気なお嬢様のお部屋を掃除いたしましょう。
読んでくださりありがとうございます。
↓ 以下用語説明です。まだ出てない単語も出ますが、一気に乗せてしまわないと私が忘れてしまうと思うので。言わなくてもわかるよってものもあるかもしれませんが、ご了承ください。
◇魔力
魔術を行うのに必要なエネルギー。
◇魔玉
魔力を作るタンク。許容量は個々人で違い、大きい人もいれば小さい人もいる。目に見えるものではない。大きさを測ることはできるが馬鹿高い魔石と呼ばれる水晶が必要。小さい人でも中に圧縮されて詰め込まれることもあるが、やはり個々人で一定の量になるとそれ以上生産しなくなる。
魔玉暴走という生産し続けてしまう病気もある。
◇魔術式
体のなかにある魔力を使えるようになる無意識化に組み込まれている回路。
◇魔術窓
魔玉から魔術式に欲しい分の魔力を流すための窓。生まれてから、これが満タンになる頃初窓が起こる。
◇魔石
高価な、魔玉の許容量を図ることができる水晶。
◇初窓
生まれてから初めて魔玉というタンクが満たされ、そうすることで初めて魔力がタンクから出てくること。このとき魔術窓は自然と開き、魔術式がゆっくりと体に魔力を浸透させる。主に生後十か月~二歳までの間に起こる。その際高熱を出し、放置する以外にはどうしようもない。基本的に寝ている間に起こり、半日ほどは熱が引かないが、一日も経てば確実に何もなかったかのように収まる。
◇魔玉暴走
自己の魔玉の許容量を超えても魔力を生成し続ける病。直すことはできない。対処法は三つ。
・常に魔術窓を開けたままにし、魔術式から魔術を行使しないまま垂れ流す。デメリットは意味のない魔力とほぼ無理やり垂れ流していることになるので魔術窓、魔術式共に傷つき、原理は分かっていないが、恐らくそれが原因で急死する可能性がある。
・常に生成する量と同じ程度の魔術を行使し続ける。結界魔法や、肉体強化等、魔術窓を開けたままにして行使する魔法があるので、それを常に使い続ける。デメリットはほぼない。垂れ流すのと違い無理やり開けたり、流しているわけではなくあくまで魔術を行使しているので、魔術窓は素直に開き、魔術式も素直に魔力を使っていく。
・魔虜常に持ち続ける。デメリットは自身の魔力生成の量を把握しなければならないこと。
◇魔虜
特殊な鉱石で、魔力の虜、という意味でそのまま名付けられた。素手で持っている人間から魔術窓も開かず、魔玉から直接魔力を吸い取る過去に呪われた石と呼ばれた品物。
魔虜自体は安価で手に入りやすくそれほど負担にはならないが、大きさによって吸い取る魔力量が変わり、許容を超えると割れてしまう。割れた魔虜からは周囲に魔力が霧散し、それ自体に害はない。魔力が霧散するため、割れて残った欠片の魔虜もまた魔力を吸い取ることができる。
魔玉暴走の対処に使用する場合、自身の生成量と合わないと、魔虜が大きければ一気に吸い取られ、すぐに手放さなければ魔力枯渇になり動けなくなる。すぐに話せば疲労感と倦怠感という一時的な症状が起こる。魔虜が小さいと魔力をほとんど吸ってもらえず、魔術窓を無理やりこじ開け魔力があふれ出る可能性がある。魔術窓をほぼ壊すような形で魔力が出るため、垂れ流しよりも危険度が高い。自身の魔力生成量を把握しなければ完全に危険な代物となってしまう。
◇魔力枯渇
魔玉が空っぽになることにより、体が動かなくなったり、生命活動が微弱になったりしてしまう。己の魔玉の許容量の把握は重要。
◇フォーク
フォークのような三つ又の食器。ただしまがっておらず、ただまっすぐな鉄の棒の先が三つに別れている、といった形。
◇マアム
プラムのような果物。ただし甘さが強く、皮は堅いため必ず剥いて食べる。種はなく、じつはマアム自体が種であり、熟したあとは小さく硬くなっていってしまう。収穫時期が難しい果物。
フォークも名前を変えようかと思ったのですが、読みづらいかなと思ってやめました。私もそのうち間違えそうですし。
名前は変えませんでしたが一応説明載せておきます。ものがちょっと違うので。