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新たな旅路の祝福を  作者: 稀一
序章
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おはようございます

はじめまして。こちら未完結物の加筆修正版となっております。元のものに追い付き次第新規のお話が入ってきます。なんとか読めるものに出来ればと思っております。お付き合いいただければ幸いです。

 正直、赤ん坊の頃の記憶なんてない。気がついたらいつの間にか、私という人格がじわり、じわりと目覚めたような感覚だ。揺れる水の中でまどろみたゆたうような、曖昧で、心地のいい感覚。

 そうして先日、ある時を境に、私ははっきりと目を覚ました。なにがあったのかはわからないけど、私が私を、私と認識したのはベッドの上だった。

 そうベッドの上だったのだ。いつも通りの目覚めだと思った。今日は夢を見ずに眠っていたのかと、もうずっと重く感じる瞼を押し上げ、今日も一日を生きるのだ。そう思って目を開けて、視線を動かした時、視界の違和感に気がついた。まだ薄ぼんやりと眠気に支配されていた思考がクリアになる。


 天井がいつもと違う。

 白くない。どうしてか高級感に溢れた、角にはテレビで見たような細かい彫りの細工が施されていて、そうしてなにより広い天井だった。淡いクリーム色に包まれた部屋だ。

 ここはどこだ。寝ている間に移動させられたのか。なんで?

 わけがわからないまま顔を横に向けて、視界に入った手が異様に小さいことに気がついた。紅葉の葉っぱのような、小さな手のひらと短くふにふにとした指。思わず掲げて窓から入る光に透かすと、確かに真っ赤に血が通っていた。


「ぁ」


 は、と、呆然と声を漏らしたつもりだった。なのにこの口から出たものは、音になっているかどうかさえ微妙な吐息のみ。

 なんだこれ。

 やっと、今、異常な状態であることを認識した。

 咄嗟に勢いをつけて起き上がろうとして、そんな力はないことを知る。足をバタつかせようとして、もたもたと拙いけれど動けることを知る。手を上げることができて、当然のように横を向けて。


 なんだ、これ。


 愕然としたまま身体から力を抜き横たわる。理解ができない。ここがどこなのか、この体はなんなのか、今私になにが起こっているのか。

 しばらくなにもわからないまま固まっているとドアの開く音が聞こえた。キィ、と古めかしい木の音だ。誰かが入ってきたのか、そのまま小さな足音が近づいてくる。


「朝食をお持ちしました」


 そう言いながら窓を開け、傍までやってきたのは微笑むメイド服の女性だった。語尾にハートがつきそうなフリフリのものではなく、長いスカートに詰められた襟。実用的なエプロンドレス。


「シア様、」


 そっとベッドと背中の間に手を差し込み、起き上がらせてくれた。片手で行えてしまっている。本当にこの体はどうなっているんだ。


 上体が起き上がった形で安定すると様子を見ながら手が離れていき、薄い布団の上から盛り上がって見える小さな足をまたぐように簡易テーブルを広げる。そこに先ほど言った朝食であろうものが置かれた。器を見れば、果物、のような、野菜のような、初めて見るものが入っていた。

 どうぞ、とフォークのようなものに刺さった果実を差し出される。ちらりとメイドを見上げた。メイドは召し上がってくださいと微笑んでいるが、どうにも先ほどから目を合わせようとしていない。視線を果物に戻し、思考を放棄した。考えたところでわからないものはわからないのだ。仕方がない。


 差し出されていたフォークを受け取る。随分と小さなサイズにカットされているそれを口まで運び、食べた。……おいしい。

 ぐさりと桃に似た色ツヤのものにフォークを突き立てる。それをまたおたおたと動かし慣れない腕で口に運んだ。おいしい。香りも味も、もう忘れかけていたあの桃の様だけど、それよりも食感がしっかりしている。口の中に残る桃っぽさも、後味も、すっと広がり消えていった。

 これは、おいしい。

 なんだか嬉しくて、夢中になって次々と手を出していく。正確にはフォークで刺し食べた。みずみずしさが強い香りも味も梨のようなもの。苦味がないグレープフルーツのようなもの。色々なものが入っていたお皿を空にしてメイドを見ると、


「……」


 メイドはいなかった。

 あれ、と首を傾げる。そして体の動かし方を思い出した。そうだ、そうしよう、と思わなくとも体とは動くものであった。


 てぺ、と小さな手をベッドにつく。柔らかい布に僅かに手が沈み、ずりずりと移動していくだけで一苦労だった。隅まで移動するとずるりと滑り落ち、あっと思ったときには前転でもするように転がり落ちる。咄嗟に強く目を瞑り体をこわばらせると、ぼてん、と柔らかいものの中に沈んだ。

 目を開け、ぱちぱちと瞬きをする。見れば落下対策か、ふかふかとしたクッションのようなものが敷き詰められていた。置いてくれた人に感謝をしつつ気を取り直し動きだそうとして、柔らかすぎて起き上がることもできないことに気付く。どうしようか、と少し考え、体をよじり少しずつ上にずれて、なんとかそこから脱出した。


 大仕事をしたぞ、とばかりに息をついて部屋を見渡し、不意に、窓から入ってきた小さな存在を捉えた。手をつき、半ば引き摺るように足を動かし前に進む。腕がだるくなって窓まで行く前に座り込むと、その小さな存在、蝶が近づいて来た。それに目を奪われていると、窓からもう一匹。

 二匹になった蝶は周りをひらひらと舞い、それに手を伸ばしてはそのこと自体が楽しくて、嬉しくて、追うのに夢中になった。


 あぁ、体が動くと言うのは、そうか、こういうことだった。

 心の奥から、なにかがじんわりと滲み広がっていく。これはなにか。幸福感? 充実感? ああ、言葉に出来ないけれど、こんなにも、こんなにも、満ち足りている。


「あぁ」


 視線を自分のものであるらしい手に移し、ぎゅっと握りしめた。胸まで引き寄せ、開いては握り、開いては握りと繰り返す。目を閉じて、緩んでいるだろう顔を放置し、ゆっくり息を吐いた。興奮していた気持ちを吐息にのせ、熱い気持ちを落ち着かせる。

 目を開けると、また蝶が私の前を横切った。なぜか私の周りをずっと飛んでいる。


「ぅあーぅ」


 また手を伸ばす。ひらりひらりと蝶が逃げ、手でそれを追った。そんなことをしているというのにやっぱり蝶は離れていかず、緑の綺麗な翅をパタパタと動かしている。


 そうして遊んでいると、突然何者かに抱きしめられた。体当たりでもされたような衝撃とその事実にえ、と咄嗟に動きを止める。目の前をふわりと舞った優しい光を反射する金の糸に目を奪われると、体が離され、両頬に手が添えられ向きを変えられた。首が痛くなるようなそれではない、やさしく包みこむ手が親指で頬を撫でる。目でその手を辿っていけば、


「ああ、シア、シアっ、起きたのね。起きたのね……!」


 涙に濡れ揺れる瞳が目の前にあった。

 これは誰だ、と混乱する。今更過ぎるそれに、考えるのを放棄していた色々が頭の中で台風のように渦巻いた。メイドだって誰だ。私の体はどうなっていて、ここはどこで、この人は誰で、今なにが起こっているんだ。

 わからないことしかない。すべてがわからない。


「おはよう、シア」


 ぎゅう、とまた抱きしめられる。押されるように逸らされた顔の前を蝶が変わらずひらひら舞い、そうしてその奥、窓に映った自分の姿は、


「……え、」


 大人の女性に掻き抱かれる、見たこともない子供だった。





 そうして私はその日、今から一週間前に突然、じわりじわりと目覚める、ぼんやり寝ぼけたような期間を脱したのである、が。そういう時間が確かにあったのはわかるけれど、その期間の記憶が、本当にこれっぽっちもない。いや、もやがかかったようななにも認識できていないものでも記憶と呼んでいいのならあることにはあるんだろう。意識もできず思い出すこともできず、そんな期間があったのだなあと認識できる程度の。おぼろげな意識は積極的に記憶を作ろうとはしてくれなかったらしい。それともそういうものなのだろうか。

 そしてそんなことはどうでもいい。いやどうでもよくはない。ただ目下直面している問題は切実だ。その期間で私がなにをしたのかを、私は知らないのだ。

 私には自覚もはっきりとした記憶もないのに、不気味な赤子という印象を周りに植え付けてしまっていたらしい。もう赤子と呼べるようなサイズではないだろうにそう言われるということは、相当不気味だったのだろう。本当になにをしたっていうんだ、私は。


 果たしてこの体はいくつなんだろう。幼稚園生くらいか、もしかしたら小学校に上がるくらいなのかもしれない。もうそんな記憶は遠すぎてどの年齢がどれくらいの大きさだったのかもわからないが。

 そして私はまだわかっていなかった。私が何故こんなところに、こんな体で、いるのか。

 当たり前だ。答えなんて誰もくれない。私は「みなぎしりか」と言う名前の二十九歳だったはずだ、など、気が触れたと思われるかもしれない。


 とにもかくにも、わからないなりに、今わかっていることだけでもまとめるとこうだ。


 一、私は今幼稚園生くらいの女の子の体である。

 何度窓に映る姿を見つめても、この幼い子供の体はかわらなかった。これが私の幼少の頃の姿であったならまだ私も納得して私だと頷けただろう。しかし、この体は全く見たこともない子供だった。そもそも、もし私の体であったとしても周りがおかしすぎる。今際の際に見ている過去、というわけでもないのだ。

 私、いや、ややこしいから梨夏とシアと言おうか。梨夏は黒髪で、あえて言えば不細工と呼ばれる類の顔であった。目は細く、頬はぷくっと太り、幼少期に外で走り回った結果かそばかすを備え、唇はムスッとした形をしていた。

 対し、このシア。絹糸のようにふわふわと、しかし絡まらずさらりと流れる美しい金髪。顔は美しいとまでは言えないが、目は細くなくぱっちりとし、頬は子供らしいふっくらさすらないがすらりと輪郭が流れ、そばかすどころか真っ白な肌で、唇は一文字に結んでいてもムスッとしたようには見えなかった。美人、ではないのだ。美しくはない。けれど十分可愛らしいといって遜色ないだろう、あまりにも私らしからぬ顔である。


 二、先ほどから言っているように、この体である私の名前はシアというらしい。愛称なのかどうなのかもわからないが、日本人にもたまにいる慣れた響きだ。


 三、私は私を水岸梨夏であったはずだと知っている。

 そう、私は二十九歳の、三十路間近な独身女だったはずだ。とりえもなく、趣味もなく、いいところなんて一つもないような、ただのろくでなしだった。


 四、ここは日本ではないらしい。

 この家は随分高い丘に立っているのか、窓の外を見ても庭を区切る柵の向こうは崖のようだった。そうしてこちらから見えるのは草原と森だ。地平線まで続くのではないかと思うようなそれに驚いたのはつい昨日のことだ。


 五、私は大きな邸にいるらしい。

 一昨日やっと歩けるようになったので、リリシアを伴わず、昨日から一人で邸内を散策していた。驚くほど広い。昨日一日ではすべて見ることはかなわなかった。今日はその続きだ。窓の外に見える庭の散策にも今日は手をつけたい。


 六、ここで初めて会ったあのメイドはリリシアという。

 あの日、奥様を落ちつけるといい後からやってきた旦那様が奥様を連れて出て行ったあと、取り残されたリリシアは一人私に近づき、挨拶をしてきた。私はまだ回らない口と、うまく声の出ない喉で対応したが、彼女は私のどんな言動にも心底、涙ぐんでまで嬉しそうに笑っていた。メイドであるから呼び捨てにしてくれとのことだった。恐らく私が理解しているとは思っていなかっただろう、ただの挨拶。


 七、その邸の持ち主である「旦那様」と「奥様」が両親に当たる人らしい。

 私を抱きしめていた金髪の美女である。確かに髪はそっくりであったが、顔はとんでもなかった。奥様は美人過ぎる。それこそ直視するのも躊躇われるほど美しかった。外国人――日本人であった梨夏から見ればという話で今の私にはそうではないのだろうけど――で見慣れないからか、眩しいほどの笑顔を向けられた時は思わず動きを止めてしまった。美人は三日で飽きるというけど、いつか見慣れる日が来るのだろうか。

 旦那様はイケメン、という類ではなかったが、ハンサムと言って差し支えのない顔だった。奥様と並ぶとどうしてもそう見劣りしてしまうが、単体で見ればなんの問題もないどころか、むしろ女性にはモテ過ぎて困ったことがあるのではないだろうかと思わせる程にハンサムだ。今はあんな美人の奥方がいるわけだから、言い寄られることなんてないだろうけれど。

 つまるところ、美系の両親、というやつである。


 とはいっても、私から言わせてもらえば申し訳ないことに両親と言われても理解は出来ない。事実としてそうか、と頷きはしても私の中で両親というのはどうしたって梨夏の両親に他ならない。美人でも、かっこよくもない、まさに没個性の、際立った特徴もないようなそんなさえない顔の二人が両親なのだ。背も低く、少し太り気味で、けれど歳をとるごとに徐々にやせ細っていった、私のかけた心労にずっと苦しんできた人たち。

 故にどうしても私の認識では、事実として両親である奥様と旦那様は梨夏の両親ではなく、シアの両親であった。不思議な感覚だ。

 けれど、私が眠ろうと目を瞑った頃にやって来ては毎晩わざわざ挨拶をして、毎朝お祈りと、額への口付けをしてくれるのは、確かに愛というものを感じてしまうのだ。だから両親であることは納得できる。頭では認識してはいるのだ。だけど心はどうしても、梨夏の両親を捨てるのかと認めることを拒絶する。私の両親はあの二人なんだと、こちらを理解したがらない。


 ともかく、このように、後半はもうずっとらしい、としか言えなかった。これ以上挙げると不確定要素が増えすぎてもはやわかっていることではない。この体は動けるのに動きなれていなかった。筋肉自体ついていたのかどうか。口も喉もほとんど動かなかったことを考えると、以前のこの体である私はずっとだんまりだったようだ。まあ、今では歩ける上、


「おはようございます」


 このようにある程度流暢に話すこともでき、お辞儀までできるようになった。一週間でここまで出来るようになったのだ、褒めてやりたい。

 しかし、すれ違ったメイドは私の挨拶には一瞥するだけで怯えるように走り去って行った。恐らく、というよりも、あれは逃げたのだ。

 これが、目下直面している問題、というやつである。なんども言うが、切実だ。生活する家に住み込みらしい使用人たちが避けるのである。唯一相手をしてくれるのはリリシアだけだ。使用人が家のものに失礼をするなんてクビになりはしないんだろうかと純粋に疑問を持ちはするが、奥様達に言い付けたりは別にしない。仕方のないことなんだろう。赤子の頃が、そこまで問題だったのだというわかりやすい結果だ。だけどその間のことはやはりどうしてもわからない。わからないことだらけだ。


 だが、それでも。

 この体が、私のものであるらしいこの体が動いている。動ける。それだけで十分だった。なにもわからなくても、いっそ構わないのだ。もはやわかっていることさえどうもいい。


 今、私が動いている。それだけで。

読んでくださりありがとうございました。

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