10
目を開けるとそこはまた病院のベッドだった。白い天井を見てから視線を流す。何も変わらない。つまらない部屋だ。
ここに来るときはいつもここからなのだろうか。
起き上がって窓の外を見れば、見なれた風見鶏が小さく震えていた。あれはそういえば、何の建物だったかな。以前看護師さんに聞いた覚えがあったんだけど。
「ああ、来たのか。おはよう」
聞こえた声に目を向ければ、病室の入り口に立つ黒髪の少女。その姿もやはり変わらなかった。
「ねえ聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
ゆっくり傍までやってくると、ベッドに腰掛けて続きを促して来た。
「どうして私はあの世界の言葉を読めて、話せるの?」
アストラは特に何の反応もせず、私の顔を見つめている。
「最初から何かがおかしいとは思ってたの。目が覚めるまで、五年間ずっと眠ってたんでしょう、私は。それなのに話しかけられればわかるし、自分も話せる。文字を見る限り日本語というわけでもなかった。おかしいよ」
ねえ、と答えを求めれば、アストラはなんということはないように口を開いた。
「簡単なことだ。君と世界を繋いだ影響だよ」
「どういうこと?」
「君は何も、アスフェルートの言葉を理解して話し、聞いているわけではない。あくまでも本当に聞いているのはアスフェルートの言葉であり、君の頭に届いている日本語ではないんだ。そして君が話しているものも、日本語ではなくアスフェルートの言葉だ」
だから、つまり、どういうことなの、と首を傾げて話の続きを待つと、呆れたような眼を向けられる。もしかして今ので説明終わらせる気だったの? さっぱりわかんないよ。
「わからないのか。つまり、あの世界に馴染むためのプログラムだとでも思ってくれればいい。簡単に言えば翻訳機だ。それを君が搭載している」
「翻訳機、が、私についてるの?」
だからそれってどういうこと、と混乱しながらとりあえず頷く。重ねてわからないといえばもっと呆れた目を向けられてしまいそうだ。
「書けはしないだろう」
頷く。
「目で見た言葉や耳に入る言葉は自動で翻訳される。口に出す言葉も自動で翻訳される。だが手で書く文字は翻訳されない。書くことはもちろんのこと、翻訳しないように話そうと思えば、日本語を話すこともできるだろう」
どうして書くのだけはできないのだろう。口に出す時は勝手に翻訳されるのに。変な話だ。出力の種類が違うから? でも出力されるときに翻訳されるなら、口から出ようと手で書こうと変わらない気がするんだけど。やっぱりわからない。
「あまり難しく考えるな。そういうものなのだと思っておけばいい」
言われ、頭の中でころころ転がそうとしていた疑問を投げ捨てた。うん、そういうものなんだね!
「君は……」
アストラは一瞬目を丸くすると深く息を吐いて、それに首を傾げる。今何かおかしなことをしただろうか。
「それで、他に何か質問は?」
聞かれ、一度口を閉じた。ここに来るのを望んでいたのだ。それはアストラが、聞いたら答えを返してくれるからに他ならない。いいや、答えそのものを持っていなくともかまわないのかもしれない。
「私はちゃんと魔力をもってるの?」
わからないならわからないでいい。とにかく、誰かにきっぱりと何かを言ってほしかったのだ。
「もちろんある」
「あるんだ」
「ああ。まだ使い方を知らないだけだ、君の体が」
顔を上げアストラを見て、「ふうん」と頷いた。ほっと、は、しなかった。不思議だ。どうしてアストラの目を見ると、心が落ち着いてしまうんだろう。焦りも、なにもない。
「きみは使えるの?」
「私か?」
予想外の質問だったようで、アストラは珍しく少し考えるように口元に手を当てた。
「どうだろうな。私は何も知らないし、恐らくなにもできないだろう。使おうとしてみたこともない」
「そうなの? やってみたらできるかもしれないよ」
「やってみる気はないよ」
言いながらベッドから立ち上がったアストラはさてほかに質問は、と手をひらひら振った。
「うん、今のところはもうないかな」
「そうか、それは良かった」
よかったってどういうことだ。そういうことか。私が馬鹿だから!
「あっ、待って、一つ聞きたいことがあった」
歩きだそうとしたアストラに慌てて声をかけると、なんだ、と振り向いた。
「この世界に来るには、なにか条件でもあるの?」
寝ているときにしか来た覚えがない。
アストラはふと視線をそらし、戻す。
「さて。特別な条件などないよ。恐らくな。私は常にここにいるし、私が私になったときからすでにここにいた。私にここに来る条件など、わかるはずもない」
だが、と続ける。
「君はここに来るときはいつも眠っているのだろう? なら、それが条件なんだろう」
なるほど。
「寝たら必ずここに来ちゃうってこと?」
でもそれなら私は、いつしっかり休みを取るんだろう。あれ、でも最初の一週間はここに来た覚えがない。
「さてね」
それもそうか。知らないっていってるんだから、知らないよね。というか、あれ? 私寝てるって言ったっけ。
うん? と首を傾げているとアストラは歩き出し、病室の戸に手をかけると振り向いた。
「行くぞ。家に行きたいんだろう」
「あ、うん」
またさっさと歩きだし病室を出たアストラに慌ててついていく。なんとなしに振り向いて、シーツの乱れたベッドを視界に入れた。梨夏の体なのに、歩けることが当たり前のように感じ始めている自分に気がついた。
これでいいのだろうか。
「何をしているんだ。早く来い」
「あっごめん今行く」
よくわからない不安を振り払って早足に近づいた。アストラは目を細めて私を見ると、何もなかったように前を向く。私は隣について、好きに歩け、という言葉にぼんやり頷いた。
それはこれでいいということなんだろうか。
「悩むな。無駄だ」
「無駄なの?」
「当然だろう。人というのは変わっていくものだ。環境に慣れていくものだ。悪く言えばすぐに何でも当たり前になる。そうだろう。火を熾していた頃から今ではコンロがあり、ライターがある。水を汲んでいたのに今では水道があり蛇口をひねれば水が出る。洗濯機がなかったころは服を手洗いしていたし、自転車がない頃は歩くしかなかった。そのうち自動車が出来、免許を取れば乗るのが当たり前になっていく。今は自動車も自転車も、洗濯機も、まして水道やコンロなどなければ不満を言うだろう。歩きであんなところまで行くのか。手洗いで洗濯なんてするのか。火や水はどうするんだ、と。いつのまにかなれて当たり前になっていることは当たり前ではなかったことだ。それでも日々感謝をしつづけろと言われ、できるものが何人いる」
「……よく、わからない」
「そうか。そうだな。自転車に乗る前に君は乗れなくなったし、洗濯機を使う前に触れることもできなくなった。だから君は便利さを知らないが、苦労も知らないだろう。これから君はいろいろな便利を知り、苦労を知り、そしてその中で慣れていく。当たり前を作っていく。君が歩いて移動するのは当たり前。それの何が悪い。出来なかったことができるようになっただけだ。いつまでも感謝をし続けるなど、無理な話だろう。君も人間なんだ」
そういうものなんだろうか。
「もし君がいつまでも感謝をし続けたとして、それは本当に感謝をしているんだろうか。嘘にはなっていないか? 感謝の裏に、自分でも気付かない肉の下に、当り前というものが隠れてやしないだろうか。再び歩けなくなったとき、歩けた日々に感謝することができるだろうか。なぜ歩けないのだろうと疑問を抱きやしないか? 何故、昨日まで歩けたのに、何故、と。その疑問が、怒りになったりはしないだろうか」
「よくわからないよ。わからない。わからないよ」
「それが答えだろう」
え、といつの間にか俯いていた顔を上げると、アストラはやはり何でもないような顔で前を向いて歩いていた。
「君がわからないというのなら、わからないということが、答えなんだろう」
「それでいいの?」
わからないまま聞けば、アストラは「さてね」とだけいい、この話は終わりだというように手を振った。
「さて、こちらの方は前に来ていない道だが、これは一体何だ」
聞かれやっと周りに目を向ければ、随分酷いことになっていた。もしかしてこっちに意識を向けないで歩いたせいだろうか。
大きさのそろわない建造物。足もとにミニチュアがあるかと思えばすぐ横に大きなビルが聳え立ち、かと思えばなぜかブランコが道の真ん中にある。
「酷いね」
「酷いな。障害物をよけながら進まなければならない」
うわあ、と顔をしかめると、アストラは言いながらミニチュアの車を跨ぐ。私も同じように跨いで通り過ぎ、後ろを振り向いてひとつ瞬き。
「わ」
目を開けたら整地されていた。ビルは消え、ミニチュアだった車も普通のサイズになってブランコもない。記憶にある普通の住宅街だ。どういう原理なんだろう。やっぱりこの世界は不思議だ。
「随分ここにもなれたようだ」
今起こったことに対して言っているんだろうか。私もわからないままこうなったんだけど、これ私がやったってことなの?
「よくわからないけど、そうなのかな」
首を傾げ、後についていく。
「前の道とは雰囲気が随分違うな」
「そうだね。前のは都会って感じだったけど、ここらへんは住宅街だから。優しいおばちゃんとかいたんだよ、近所に」
「優しいおばちゃん」
繰り返して首を傾げたアストラは、その姿も相まって可愛らしい。私がこの姿にしているそうだけど、ならほかの姿にすることもできるってことなんだろうか。
うーん、とアストラを見つめながら猫を想像する。けど変わらなかった。何か条件でもあるのかな。
「あ、ここだよ、うち」
くだらない試みをしているうちに藍色の屋根が見えて、少し駆け足になる。玄関の前に立つと、なぜかまた大小のバランスがおかしくなったのか、私の目線が低く感じられた。
瞬き。
変わらない。
あれ、と首を傾げて遅れてついてきたアストラを見る。すぐ横まで来て目を合わせ、思わず目を丸くした。
「あれ?」
目線の高さがアストラと変わらない。見下ろしてみれば、服も病衣ではなく、小さい頃気に入っていたワンピースだった。ついでにランドセル。
「あれ」
どうやら私は今、小さい梨夏になっているらしい。
「不思議だな。気持ちに引き摺られたのか。まあその体も肉体といえるほど実物ではないのだろうし、納得もできるか」
言われたことはよくわからなかったけど、つまり私の体も私は変えることができるってことなのか。無意識だけど。
「へえー」
思わずくるりと回ってみる。お気に入りのワンピースは記憶の中のものと変わらず、ひらりと広がった。色あせていたはずの記憶がそれとともに蘇る様だった。
「そら、行くぞ」
頭をぽんと叩かれ、うんと頷く。ドアの前まで進んで鍵がかかっているのを確認し、鍵っ子だった私はランドセルから家の鍵を取り出して開けた。後ろを向いたらいなくなっていたアストラは庭をふらふら歩いていて、呼ぶと顔を上げついてきた。
ドアを開けて中に入ると、つい癖のようにただいまといいそうになって口を閉じる。返ってくる言葉は、家にいないとかではなく、ないのだろう。だってこの世界に、私は私とアストラ以外生き物を置いていないのだ。それを寂しいと思っているのに、どうして私は人を増やさないんだろう。
「これはなんだ」
玄関で靴を脱ごうとすると、靴箱の上に飾ってある魔除けを見てアストラが首を傾げた。
「それはお父さんの友達がお土産に買って来た魔除けの人形。不気味でしょ、私あんまり好きじゃないな、それ」
猿のような犬のような、不思議な形に不気味な化粧の施された木彫りの人形だ。
言いながら靴を脱ぎ家に上がるとアストラも上がって、それに慌てて靴を脱いだか見れば履いていない。でも玄関には私の靴しかない。そもそも履いていなかったのか。けど足は汚れていない。はて、さっき履いていなかったかと首を傾げながら進み、リビングを覗く。
ソファ、テーブル、テレビ、ベランダに出るガラス戸。
本当は少しだけ期待していたのだ。いるんじゃないか、両親だけは、いるんじゃないかと、私に。
ガランと静まったリビングは誰かがいたような跡もなく、綺麗に整っていた。
「ただいま」
本当に誰もいないのだと悟ってしまえば、口からポツリとこぼれた。誰かに居てほしかった。返してほしかった。返ってくることを期待していた。
「おかえり」
誰かから、返してほしい。
聞こえて振り向けば、アストラが「こういうんだろう」と聞いてきて、それにうんと頷いた。
「挨拶が大事な国なのだと聞いた」
「誰から?」
「さて、誰からだったか」
アストラは「覚えていない」と言いながらリビングに入ってテレビを見つめ、リモコンを手に取った。「赤いボタンが電源だよ」と教えると躊躇いもなく押し、ぱっと画面が明るくなる。
『今日もミラクルマジカルミミクル! 魔法少女ミミ参上!』
あの頃大好きだったアニメが放送されていた。これどうなってるんだろう。もしかして私の頭の中から覚えてる番組がランダム再生、とか。
「なんだこれは」
言いながらまじまじとアニメの始まった画面を見つめるアストラに少し笑う。私も今見ると懐かしいな、とは思うけど、昔のようなドキドキわくわくはなかった。
「私がちっちゃいころ流行ってた子供向けアニメだよ。ミミっていう女の子が突然魔法界の問題に巻き込まれちゃって、ある日から魔法少女をやることになるっていう話。不思議な生き物が彼女のパートナーでね、その生き物がミミに魔法の力を与えてくれるんだ」
ダイニングキッチンへ向かいながら言えば、アストラの「そうか」、という気のない返事が聞こえた。もしかしてアニメに夢中なんだろうか。
冷蔵庫を開けてみて、麦茶が入っているのを見つける。まさか中身があるとは思わなかった。なんとなく開けただけだったんだけど。賞味期限とか、ないよね、多分。腐ってたらどうしよう。
食器棚からコップを出して少しだけ注ぐ。色も、においも別におかしくはなっていないようだった。それにほっとしつつ、もうひとつコップを出して注ぎ麦茶をしまう。
「麦茶あったよ麦茶」
コップを差し出すと視線を画面に固定したまま受けとって「ありがとう」と言われた。まさかアストラがアニメに夢中になるとは……。
「じゃあ私、ちょっとうちの中回ってくる。好きにしてていいよ」
恐らく聞いていないだろう生返事に苦笑を洩らしながら、リビングを出て階段を上った。上ってすぐの自室のドアを見つめて、懐かしいネームプレートに笑う。触れば変わらない木の感触がざらりとして、なんだか急に、胸に込み上げてくるものがあった。
お絵描きが大好きだった私は、ネームプレートに猫の絵を描いていた。下手くそな絵だ。
「お邪魔します」
自分の部屋だけど、なんとなく断りながら入る。小さい机。小さなベッドに乱れた布団。マンガは本棚に入れてなくて床に積み上げられてた。その傍にクッションが一つ落ちていて、乾いた笑いが漏れる。
そのままだ。だらしない私の、いつもお母さんにきちんとしなさいって怒られてた私の部屋。
「――」
悲しいのか、虚しいのか、悔しいのか。よくわからない感情が湧きあがって、胸が締め付けられるようだった。きゅぅと痛んで、じわじわと広がっていく。
自然と眉が寄って、胸を押さえた。
「さみしい」
そうださみしい。
思い出の詰まったはずの家には誰もいなくて、現実の家でもない。きっと本当の世界の家は売られているか、もう取り壊されているんだろう。
一人だ。どうしようもなく。
梨夏は一人だ。
自身を見つめる。手を広げて上に掲げた。電気で透かすと僅かに赤く見える手に目を細める。
シアは幸せだ。とても幸せだ。リリシアはいるし、エーデリア様もファデル様も、先生もいる。ここに来ればアストラだって。
なのに、梨夏はひとりだ。独りだ。
生きているのは、シアなのだ。
「あー……」
気がつけば零れていた涙に、これは何に対しての涙なんだろうと不思議に思ってしまった。あまりにもひとりな梨夏を悲しんでいるのか、それとも幸せなシアを喜んでいるのか。
どっちでもいいのかもしれない。そうだどっちだっていい。
ただただあふれる涙を止めることもせず、そのまま立ち尽くしていた。
読んでくださりありがとうございます。