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異世界端役の惨憺たる日々  作者: 小物爺
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第八十一話 一並びの日


お誕生会という単語は竪琴事務所関連施設、はっきり言えばニルのいる状況下において絶対の禁忌ワードである。年齢の話で過去数回被害を受けた俺がフラメリセルマと相談して決めたコモノ組の不文律。ゆえにバースデーパーティーという文化も存在しない。


年相応の落ち着きというものがある。最高齢のニルはふとした拍子に年長者としての威厳や知識に基づく卓見を披露するが、五十まであと数年の俺に分別を期待する奴はいない。さて竪琴事務所関係者で俺の次にドタバタを引き起こすのはセルマである。ライアの次に若いとはいえ既に三十路に突入、業界歴も十数年、仕事関係で決める急所はビシリと押さえるし営業や業界人への対応も頗る模範的だが……グータラデレデレモードに移行した際の放埓なダダっ子ポテンシャルは測定不能、経歴詐称事件以降の仕事『エレノアとエクレア』や『セルマンプク』『セルメル』で見せるコメディエンヌぶりは氷山の一角が戯れに跳ね返した煌めきの一片に過ぎぬ。


駄々っ子お嬢様の気質でリーダー的役回りを引き受けたがるが自分では思い付きをベラベラ喋るだけ、周囲を振り回すグタデレは一向に収まらない。端役ハウス界隈の連中も知っており、挨拶のついでにグデ子の行状を愉快そうにチクってくれる。道端で子供が散歩させていたムラサキガメと競走し途中で居眠りして敗北し再戦を申し込んだ、町会七組の建具屋の庭木に引っかかった子供の凧を取ってやろうとして風魔法で樹を丸裸にし障子と襖も全て破り大工さんにこっぴどく叱られていた、駄菓子屋のオバアチャンに頼み込み店番をやり、ギャラとして貰った麩菓子を一気食いし喉に詰まらせ倒れ介抱されていた……本日の晩飯でも、二つ向こうのテーブルに座った迷宮探索者の盗賊お姉さんから知らせが。


「あ、セルマさーん、写真全部回収しといて若いのシメといた。ハイ」


写真を受け取るセルマが慌て気味だったので、すぐニルが怖い眼で尋ねた。


「代表取締役、こんどは何をやったの? みっともない真似をしてそこら中で魔写真を撮られたんでしょ」


「事故よ。わたしはナンにも悪くない。たまたまよ」


すぐポケットにしまおうとするのを取り上げた。……ありゃ。これは女優以前に女性としてどうなんでしょという不注意。竜車と歩道の間にある低いガードレールに寄りかかり上空を飛ぶ転生さんの飛空城を口を開け見てるんだろうが、普段着ワンピースの短いスカートが捲れあがり下着がモロ見え、そこを通りがかりの連中が指さして大笑いするついでにパチリと撮影したようだ。俺は写真をニルに返し、お姉さんに撮影者への伝言を頼んだ。


「写真雑誌でもゴシップ日刊紙でも、売って構わねえと言っといてくれ」


一般的には商品価値が高いんだろうが、このバカのグデぶりを死ぬほど見ている俺には正常な価値判断ができん。アレックスは新入社員のライアにセルマ担当日の留意事項を箇条書きにして説明している。メリッサは仕事の衣装以外、常にジャージの着用を義務付けろと提案している。キャミソール以外ではヒラフワリという薄手の私服ばかり着るからツマラン写真を撮られる羽目になるんだ。フランクは最近増えてきた犬猫しつけ教室のチラシを貰ってきて、これに二週間預けたらドウカナーとニルに見せ褒められている。代表取締役が犬や猫といっしょにしつけ直しされているのはさすがに体面が悪いので惜しくも不採用。本人は一向に反省せず、訥々と窘めるライアに向かい、でもさー、だけどー、だってー……と弁解を続けている。


尤もコイツの甘ったれぶりに関しては随分前に一つの解答に辿り着いている。甘ったれなのは「甘えてほしいからだ」という一種の認知欲求のバリエーションであるという思想。確かにセルマは人に頼られるとそれはもう生き生きと、見違えるようにテキパキ動き見事な結果を出し、腰に手を当て胸を張り「どうよ!」という表情で碧緑の瞳をイタズラっぽく煌めかせ意地悪く微笑むのである。どちらもコイツの本質なのであり、前の事務所を馘になった後に端役ハウスに入り浸ったおかげで、頼りない三人(主に俺だが)の面倒を見てやっているという満足を味わえるようになったのが決定打だったかもしれん。ニルの分かりにくい母性の発露とは異なるが、セルマのも別の形の母性愛なんじゃなかろうか。とっとと男こさえて子供作れ。


◇◇◇


ニルのマンションに初めて呼ばれた。セルマ抜きの極秘会合である。ふかふかした敷物に座ると同時にニルが全員の顔を見渡し、まずアレックスに尋ねた。


「もしかするとアレックスは……『一並びの日』をご存知?」


ん、と言う表情のあと数秒考え、


「……知らぬ。1月11日か? 11月か?」


ニルは溜息をつき、フランク製のオベリスクを手にとり撫でまわしはじめた。


「外交使節で接触した白エルフから聞いたことがあるかと思ったのですけれど、……私も話を聞いたことがあるだけ、世話をしたことはないの」


世話をするって何の? 早く先を続けてくれ。


「……セラム家の属する北方系白色エルフ『セラフィム』女性は、生誕後、パレアス標準暦で壱万一千百十一日目……三十歳五か月と十日ほどね。契約精霊の影響で、その日一日だけ、幼児退行に似た状態になる……というのよ」


「……知らなかった」


ライアが呟いたからよほど珍しいか、秘匿されているのか。


「秘密ではないの、絶対数が少なく、親族内で乗り切ってしまうから知っている者も僅かというだけのこと」


「幼児退行って……三歳児レベルになっちゃうの? ママー、とか」


メリッサが尋ねたが、実際の現場を見たことのないニルも詳細は知らない。他のエルフ族には全く見られない性癖だそうだ。


「そうかもしれない。本来は一日、家から出さずに親族が相手をするから恙なくやり過ごせるそうだけど。セルマの場合、一人暮らしだから」


幼くして母を亡くしたセルマがある朝三歳児として目覚める……げ、どれだけ泣くか想像がつくぞ。


「リョーカーイ。一日隔離すればいいんだねー。あのマンションより端役ハウスがいいよね」


「第一、自分のことなんだから本人が分かってんのよね。ま、仕方ない。あたしとライアで何とかするわ。アレックス、スケジュールだけ調整して」


これで解決と思ったが、ニルはますます難しい顔になった。


「もう一つ確かなことがあるの、それも問題。幼児退行して……精霊語しか話さず、理解もできなくなるというの」


げ……それじゃ俺たちは無理だよ。


「お手上げだ。一日おまえのマンションで相手してやれ……日付は?」


セルマの生年月日を聞いたライアが即答。


「あさって……あっ!」


俺達も「あ!」と気づいた。今年の初め、事情を言わずニルが空けてくれと指定していた日だ。実家関係の外せない用事であろう。精霊語を理解できるヤツが皆無になる。


「……隔離はできるが、言葉が通じないということか。三歳児レベル……」


「そこは分からない。幼児退行というのがどの程度の年齢なのかも」


「記憶はどうなのよ? 憶えてれば、顔見知りに囲まれてるんだから大丈夫でしょ、ジェスチャーとか使って」


「……一並びの日は守護精霊が人生体験を総括して再構築するという話なの。一時的に記憶を預かってしまうということは……記憶もなくなると覚悟したほうがいいと思うのよ」


つまり、突然記憶のない異国の三歳女児と化したセルマを、言葉も分からない状態で一日あやし続けることになんの? ママーと泣きわめく幼児を相手に?


「……メリッサ、24時間効く睡眠薬とか、聖教会系統の安眠魔法とかねえか?」


一日眠らせてしまえと思ったが、アレックスがすぐ却下。


「……種族固有の不可欠な通過儀礼と推察できる。強引な手法では副作用があることも十分予見できる」


「じゃ、実家に帰したらどうだ? 転生さんに相談すりゃ手段もあるだろ」


セルマの実家、北のライトクリークは特急竜車を乗り継いでも一日半かかる距離だが、瞬間移送能力を持ってる転生さんなら何人か心あたりがある。事情を話して頼めば何とか……。


「お母様はヒト族よ、おそらく対応方法をご存知ないし精霊語の問題もあるわ。ご両親はもちろん引き受けてくださるでしょうけど、セルマが家を出た経緯や、お父様のお立場を考えると、ご迷惑をかけることは躊躇われるの」


家出した娘が戻ってきたんで一日世話してください、じゃダメなのか……。こりゃ困った。本人は両親に相談したのか、……あ、そもそも!


「あのよ。本人はそういう日が来ることをしっかり自覚してんだよな、日付もちゃんと分かってんだし。だったらヤツが頭下げて、皆さん一日だけ宜しくお願いしますと頼むべきだろ、何でまた、俺達がコソコソやってんだよ」


当人の種族的問題、体質なんだ。実家帰らないんで一日だけ面倒見てくださいヨロシクお願いします、こちらは些少ではございますが気持ちです是非お受け取りくださいと金一封渡すっていうのが道理だぞ。


「その通りだけど……このことはあまり言いたくなかったわ。でも……」


ニルは唇を噛みしめ、かなり長い間黙考。……おい、重たい話か? 俺の大嫌いなドヨンという雰囲気が立ち込める。茶を入れる素振りでキッチンに逃げ出し大型七ドア魔冷庫の中から旨そうなものを見繕おうとした俺の両肩はアレックスとフランクにガシリと抑えられた。それをきっかけにニルが意を決し。


「決して言わないで。じつは、セルマは……」


ここまで真剣な顔をされては仕方ない。俺たちは固唾をのみニルの告白を待った。


「……ゴク。セルマは……五ケタ割る三ケタの割り算がいまだにできない」


……んー。俺はシバシバする眼を数回パチクリして、周囲の反応を見た。メリッサは腕組みし目を閉じ、思慮深げにやはりそうだったのと納得している。フランクは手元に目を落とし指計算をやりながら、それはツライねー、気の毒だー、シラナカッターの三種を渋い低音でリピート。……期せずして右隣のアレックスと目が合った。こいつがハシバミ光線に殺傷力を持たせぬまま視線を合わせてくるのは稀有な事例だ。


「……学歴のない私には分からぬ。コモ、学校教育で五桁割る三桁はいつ習うのだ?」


えっと……俺は旧制だったからな……たしか……秋だったよな……


「戦前は三年生の10月ごろだった気がすんな」


もちろん初等部。アレックスの隣から俺を見ているライアも頷いた。


「三年生のとき、だった」


人類三人で視線を交わす。……うーん。ちょっと尋ねてみよう。


「……ニル……あの、だな。それは……暗算じゃなく……」


深刻な告白を終えたニルはオベリスクを置き、哀しそうな顔で俺を見た。


「……筆算よ……」


悲痛な表情でニルは目を閉じ両手で顔を覆った。非人類三名に重い空気がたちこめ……スミマセーン。場の空気を読むのが大切なのは知ってますよ、知ってますけど。


「……風魔法や精霊魔法の瞬間魔演算を同時に楽々こなすセルマが、だ。割り算の筆算がダメ、ということで……自分が一並びの日を迎える日付が分かってない、ということか?」


小さく頷いたニルの顔を覆う指の隙間から遂に涙が零れた。堪えていたメリッサも耐え切れず後ろを向き手で口を押さえ咽び始め、フランクすら顔を俯けてウグ、ウグと喉から異音……再び人類三名でアイコンタクト。まっすぐ女が呟いた。


「コモ。経理上の謎が幾つか氷解した。そのことには感謝する。だが。……人類と非人類は相容れぬ存在であるという偏見にも……業腹ではあるが……一分の理がある……やもしれん」


人類三名は脱力としか表現できない薄橙色のアトモスフィアを漂わせ、同時に茶に口をつける。そうですか。グデ子、除数が三桁でなくともヤバイんですけどね。先日タナトスさんの奥さんが送ってくれたヨモギ饅頭の箱をあけ、綺麗に並んだ二十個を見るなり、わーコレみんなで分けるのよね、わたしもちゃんと七個貰えるわよね、公平に分けなきゃダメよと輝くペカ顔で皆を見回していたのを思い出す。すすり泣きは嗚咽から遂に号泣に、慟哭しながら全身で悲しみを表す三人を放置し、ライアはニルの本棚に精霊語辞典がないか調査を始め、アレックスは手帳で明後日の俺の雑用をどの日に割り振るか淡々と決め直し、俺はゴロンと横になり腕枕で欠伸をし、ここまで念入りにセルマをネタにしたお笑いを演じる三名にお義理の拍手を送るか、今すぐオベリスクで後頭部を一撃ずつ殴って回るか悩んでいた。あー疲れた。眠い。


◇◇◇


問題の元凶に、今夜枕とパジャマを持ってこい、明日は一並びの日だから端役ハウスのジミ子部屋で一日大人してろと話したら。


「スゴイ、誰が計算してくれたの? 何十回やっても違う日になっちゃうのよ、もう仕方ないからなるようになるでしょって諦めてたんだけど……ライアね、優秀ね、さすがわたしの舎弟」


至って能天気。魔導卓上計算機くらい使え。


「幼児退行ってタノシミだわ。一日だけぜんぜん別の人になれるのよ。おとぎ話みたいでしょ。あ、あんたとフランクもいるの? 幼女にヘンなことしちゃダメよ」


「ニブータさんじゃねえんだ、幼女趣味は俺には皆無だ。当の本人がアッケラカンとしてると、真剣に心配してたこっちが馬鹿に思えてくる」


「うふふ、どうなるのかしら……アレックス、カメラでちゃんと撮影してよ。翌日見るわ。言葉が通じなくてもね……フランク、カードあったでしょ。きっとアレが便利よ」


フランクが『空』の子供に綴り方を教えるために作った絵と文字のカード、確かに『水』『お風呂』『お手洗い』『ごはん』等々、日常生活に必要な単語がイラストで網羅されていた。意思疎通くらいはできるだろう。一並びの日をただ一人楽しみにして夜遅くまで騒ぐグタ子、雷撃を飛ばし静かにさせようとするメリッサをたびたびライアが止めに行き、それが夜半過ぎまで続いた。


◇◇◇


眠りの浅かった俺と竪琴母娘は五時には目覚め着替えを済ませていた。みな普段着、ゼロ歳児まで幼児退行して涎ベトベトの手であちこち触られる危険も考慮し、エプロンに鼻紙と柔らかいタオルに飴玉も準備、保育園職員みたいな扮装である。六時過ぎ、メリ部屋のドアが開き、ほどなくメリッサが降りてきた。


「どうだ?」


メリッサも普段着に着替えエプロン。表情は……面白さ皆無、純粋な困惑。


「……予想とかなり違った。フランクがいま一緒だけど……とにかく来て、顔見せしてくれる?」


静かに上がり、メリッサの部屋に……ベッドに腰かけているセルマがこちらを見た。いつもの……顔よりずいぶん凛々しく見えるが。俺たちを見ても怯えず、何か言った。精霊語だろう、全く分からん。だがベッドから下り、以前セルマが見せた、跪く正式な礼を見せたので、こちらも見様見真似で似た格好を。手にカードを持っていたフランクが振り返り、こちらも困惑気味。


「三歳よりずっと年上だと思うよー。小さい子の反応じゃないし、言葉が通じないのも分かってるみたいだし。カードも使い方をすぐ理解して、逆に精霊語をボクに教えようとしてたトコ」


ほう、なら大きな問題はなさそうだ。俺はエプロンから同じカードを取り出し、『ゴハン』のカードを示した。するとセルマは頷いたあと、自分のパジャマをつまんで何か一言、ついで顔を洗う仕草。


「身支度してからってことね。大丈夫、ライア、朝食はお願い。着替えはあたしが見るわ」


メリッサを残し部屋を出る。


「精神年齢はずっと上だな、予想より。異国人のホームステイと考えれば恙なく終わりそうだ。な?」


「大事を取り過ぎたきらいがあるか……今のところ心配は」


ない、というアレックスの言葉のタイミングにあわせ「ギャー!」というメリッサの悲鳴が振ってきた。大慌てで部屋に戻る。大声を出したくせに澄ました顔で部屋の中央に立ち、どしたの?という表情のメリッサ、セルマの姿はない。


「どうした! セルマは?」


すると……メリッサは自分を指さし二言三言、次いでベッドの横を指さした。そこには腰を抜かしアワワアワワとわななく……メリッサ。俺は思わずメリッサを振り返った。ん? という顔のメリッサが何か……精霊語。


「セルマか!」


立っているメリッサが胸に手をあて、その通りという表情で頷き何か話す。アレックスが本物のメリッサを立たせた。


「何が起きた」


「ハヒュー……ああ驚いた、夕べ自分で持ってきた服を見て首を傾げてさ、あたしの服を指さして何かいったのよ……これ着たいの?って聞いたら微笑んで頷くから、いいわよって答えて、普段着をタンスから出して振り返ったら……あたしがいたのよ、驚くなって言われても無理」


着替える代わりに変身したの?


「認識疎外を瞬時に発動させたのか?」


不死のレイス族の女性、ゲルトさんがホームステイに来たことがあった。彼女の持っていたのが外見だけ変化させる認識疎外能力、光学的な錯覚だ。現在その特技を生かし、公国でエリザベート様の影武者をやっている。あれと同じか。


「へぇ……セルマ、そういう能力を使えたんだねー」


フランクも驚いていたが、ライアがそれを否定した。


「違う。完全な変身、だと思う。……セルマさん、ちょっと、いい?」


ライアはメリッサ姿のセルマに歩み寄り、静かに右手を差し伸べた。また微笑んでメリッサ姿のセルマ……ややこしいな、メリセルマが右手を差し出し握手。楽し気に手を振るメリセルマ、ライアが振り返り報告した。


「これ、師匠の手。まちがいない。包丁ダコの位置も」


メリッサの手を再現してる……じゃ、完全変態をとげたわけか? 見た目だけじゃなく?


「お願いしてみる……セルマさん、師匠が二人だと不便だから……」


メリセルマにあちこち指さしながらライアが身振り手振りで説得、真面目な顔で聞いていたメリセルマは、セルマが何かに気づいた時そっくりの顔でニコリとしてライアを指さし、するとそこに……竪琴エプロンを着たライアが。一瞬静止したライアが俺たちを振り返る。


「ちょっと、失敗した。……とりあえず、いい?」


俺はこめかみを揉み、区別ができないから、セルライアのエプロンは外してくれと頼んだ。指さすだけで意図を察し、脱いだあときちんと畳んでライアに渡す。これで外見による区別は可能になったが……次は誰になんの?


◇◇◇


俺やフランクにまで変態されるのは何としても阻止したい。ライアには悪いがこのままでいこう。ライアそっくりの顔にセルマと呼びかける違和感を我慢することにした。


中身はセルマ、仕草や表情がライアと全く違う。朝食の席について食事を始めると、一品ずつ興味深げに観察してから一口、感想を俺達に伝え(もちろんワカラン)俺たちの食が進んでないことを見て気にせず食べるよう促し、自分もフォークを置いて食事を中断する。セルマより遥かに行儀がよい。ヘルソニックを動画モードで置きっぱなしにしているアレックスが、誰にともなく話しかけた。


「何故、この格好なのか……元の姿には戻らぬのか?」


そうだよな、戻ってもらえば何よりだ。言葉が通じないのでアレックスは仕事用鞄に入っていた宣伝材料ファイルを持ってきて、セルマのページを見せた。あら、と喜びの表情で写真をじっくり眺め、写真と自分を交互に指さし、顔の前で右手の人差し指と親指を合わせ、交互に左手で指さしている。はいはい、同一人物なのはみんな分かってます。


「セルマさん、これに戻ってほしい」


ライアも写真を指さし、言葉にジェスチャーを添えて……意図は伝わったようだが、ライセルマはなぜという表情で、やや上目遣いで俺たちを見たあと眉を寄せ、イヤイヤとゆっくり首を振った。ライアの姿が気に入ったのかは不明。


「ウーン……ボクにはワカンナイ。メリッサ、どうしてかなー?」


さきほど仰天させられたメリッサ、回復魔法系のソナーみたいなもんをわずかに流して様子を見ていたが、異常はないと報告。


「外見は完全に一致してるけど、中身は全く違う、セルマだわ。どうやってるのかは分からない。物理的変態だからおそらくウェザビー偏微分の……」


「超高等数学はあとでライアと心ゆくまで話してくれ。それより、なんでまたそばにいるヤツの姿に変わろうなんて酔狂を始めんだろうな……」


すると難しい顔で茶を飲み終えたアレックスが、仮説を提示した。


「『セルマとは異なる自分』を明確に示すためではないか?」


「……そんなら自分自身の姿をとりゃいいだろうが……完全変態のエルフなんて聞いたこともねえし」


戦中に軍事教本で読まされた敵性種族の一覧や特徴でも、完全変態能力を持つ非人類はいなかったはず。……あ、おい、吸血鬼。


「おまえにはないのか、この能力。潜在的に持ってるとか」


吸血一族はマジレアである。俺達が知っているのはコイツだけ。


「……皆無。持ってたらどれだけラクができたことやら……同族にはいたけど……変態後も、種族特質が必ず体の一部に残るのよ。皮翼や尾が」


亜人系獣人の人狼族や蛇人族も必ず目立つ特徴が体に残る。戦中、完全擬態したスパイの心配など誰もしなかった。外観のみ完全に変身するレイス族の認識疎外能力が重宝されたのはそんな事情もある。


「ふーん……明日からセルマ、何にでも変身できるようになっちゃうのかなー?」


その場合、一並びの日を迎えた北方エルフ女性が全て変態能力を持つことになる筈だというアレックスの意見でこれも却下。人類の三日麻疹みたいなモンだろうという俺のいい加減な意見のほうがまだマシだ。本人はキッチンを物珍し気に眺め、鍋つかみや泡だて器を興味深げにいじっている。家を出なければ実害はなし、明日には治るというのなら仕方ない。


「そのうち飽きて昼には元に戻るかもしれん。ライア、ちと我慢しとけ。さて……料理でも教えたらどうだ?」


◇◇◇


セルマ、と声をかければ反応するし、突然奇天烈な魔法を発動するような素振りもない。午前中はジミ子とライアと一緒に、菓子作りに勤しむことに。俺は延び延びになっている義肢試作第二号の回路製作、フランクも部屋で『から騒ぎ』用の背景画製作、アレックスは魔映画名鑑の末尾にある地方上映館に送付する予定の事務所案内と『から騒ぎ』資料の準備。ハンダ付けをやりながらひとりごちる。


「面食らったが、何とか過ごせそうだ。午後はフランクと俺で面倒を見る。割り算でも教えてみるか、後々のために」


背後の空気が若干柔らかみを帯びた同意を返してきた。


「建設的な意見とは珍しい。雨を降らせたいのか?」


「おう、しばらくお湿りがないし、シーズ農協の御百姓さんも心配してんだろ……精霊語の同時通訳ってのはいねえのか、役人には」


「知己にはおらん。同行者には当然いたと推定できるが、確定はできなかった。秘匿扱いだ」


人類側の通訳はかなり希少価値が高いのか……。


「それならよ、セルマに今日一日、精霊語講座を開かせて俺が覚えてみるか……あ、録音しといてもいいな、『セルメル』用に」


「今日はどうした。実用的な提案が三つ続いた。異論ない」


記憶は明日以降も残ってるんだろうか。録画を見せればいいんだが、せめて除数が一桁の割り算は忘れないでくれんかなー。20÷7は2あまり6、程度できるようになってほしい。……余り、6でいいんだっけ?


◇◇◇


ジミ子とライアの指導をきちんと聞き、クッキーの生地を器用に編み樹木や花を作り上げたセルライア、俺達に焼きあがった完成品を配り、うむ旨いと感想を伝えると両掌を胸の前で上品に合わせ顔を綻ばせる。後片付けも手伝い、洗い物を一枚ずつ丁寧に拭っているセルライア、外見がライアだから違和感ないけど、中身を考えると……。


「いっそこのまま元に戻らず、そのままでも構わねえんじゃねえか?」


ライアは不服顔だが他の連中は同感という面持ち。ここでいいの?と食器棚を指さし、メリッサが返事すると丁寧に重ねて置いていく。


「俺はいま、脳内でセルマのビジュアルに変更して観察してんだけどよ……大きい皿を小皿の下に置き直すセルマを想像することはどえらく難しい」


グタ子品質なら大小構わずひたすら上に積み重ねる。スプーンやフォークの向きがメチャクチャになって引き出しに収まっていたら、ヤツが犯人だ。


「仮説を思いついた。こりゃな、精霊界とこっちで、セルマと精霊が一日だけ入れ替わってるんだ。これは俺達と初対面の、まっとうな精霊さんの一日ホームステイなんだ」


アレックスがいきなり俺の額に手をあて熱の有無を調べた。全員に支持される仮説の提唱に俺が成功したからだ。たまたまセルマという名の精霊さんだと思えば気分が全く違う、お客さん扱いしてればいいのだ。


「ジミ子、ライア、交替しよう。疲れただろ」


「あたしはほぼ全く。セルマをキッチンに立たせるときの5%未満ね。ライアも見た目の違和感はあるけど……平気だったわよね?」


「うん。すごく普通」


また着替えを勧めて別の誰かに変態されては困るので、エプロン姿はそのままでフランクの部屋に来てもらった。作業用の大机や背景用の板絵、工作に使う道具や素材類の整然とした配列を物珍しげに鑑賞している。


「ライ……じゃねえ、セルマ、少し精霊語を教えてくれ。ほら」


ジェスチャーでしばらくやり取り、意図が伝わったようなので、まずはカードのイラストを見ながら名称を言ってみたんだが……


「……あのよ……なんで毎回異なるんだ?」


耳のイラストを見せ「耳」と言うと「フィナシュ」と聞こえたので真似てみる。頷く。目が「ディン」口が「ボトゥヌ」……一通り覚えたと思い、復唱していくと首を振る。耳が「テキュラヌ」目は「イシュカドゥ」……数回繰り返したが毎回変化する。ライセルマも妙だわという表情で首を傾げているが、俺もフランクもご同様。フランクが首を傾げ俺に言った。


「……時間経過とともに言語がどんどん変化するオハナシ、無かった?」


「……『エッペッペ』だったな、おまえも読んだか。バカ話としちゃ楽しめるけど、現実に直面したんじゃ相互理解不可能だ」


即席精霊語講座はすぐ断念。さて懸案の算数はどうだろう。算用数字を書いたカードを出し、ゼロから9を示し、フランクの部屋にあった木のボタンを数字に合わせて置いてくと……瞬時に理解された。当たり前じゃないという表情のセルライア。2と4を示すと6と8を示した。和と積だな。


「フランク、四則演算の記号のカードはないのか?」


「低学年用のは足し算と引き算だけなの」


そう答えたフランクはありあわせの厚紙にサラサラと四則演算の記号を描いた。加減に乗法まで確認したあと、14÷7と並べたら指を二本出した。こ、これは!


「フランク、ノートを出して筆算を教えてみろ。戦後最大のターニングポイントだ」


鉛筆とノートを置いてフランクが隣に座り、筆算のやり方を教えていく……いや、このセルライア、できる。一桁はすぐOK、除数二桁になったら……


「わ、スゴイ、四捨五入もできてるよ!」


「開平算はどうだ?」


数分後。


「できた! 1.4142まで順調だよー」


平方根を求める開平算、それも難なくこなすとは……よく考えれば精霊だって超絶魔程式の瞬間演算程度こなすはず、驚くようなことじゃないんだが……本人はこんな簡単なことで褒められる理由がわからないというキョトンとした表情。中身の一部にライア成分が紛れこんでるんだろうか? 僅かでも定着してくれねえかな。


「えー、ボクが解くの? コモノー、セルマに問題出されちゃったー」


今度はいたずら好きの表情を浮かべるセルライア、まさにセルマとライアを足した印象である。紙の上には『□×□-□+□=10』。


「お、同じ数を入れるヤツか?」


フランクが2問解いたところで休憩に。言葉が通じないのも気にせず機嫌よく話すセルライアに適当に相槌を打ち、たまに質問すると返事らしきものが返ってくる。姿も声もライア、だが中身が入れ替わるだけで全く違う人物に思えるもんだ、すっかり慣れてしまった。


「言葉ってのは大して重要なもんじゃねえんだろうか、巨人よ」


「今回はその意見、サンセーイ。案外困らないモンだねー」


茶とクッキーをつまんだあと、立ち上がって窓から庭を指さし何か言っている。出かけるのは勘弁してもらいたい。


「いや、そりゃダメだ。とりあえず室内限定ってことでよ」


手を振ると意味が伝わったようで、不服そうに頬をわずかに膨らませた後、人差し指を頬に置き一考、ああ、という表情になったあと……セルマが現れた。午前中アレックスが見せた写真と同じ、銀髪を両側で縛り緑のリボン、エルフ族の好む浅黄色の上下、ブラウスとドレープの大きいスカートに濃い緑のサンダルである。フランクの部屋に置いてある姿見で自分を確認、たいへん満足気。


「いや、戻ってくれたのはありがてえけどな、外出はよ……」


だが身振り豊かに「外に出たいのだ」という意思を伝え熱弁している。


「えー……セルマー、今日だけなんだからガマンシテヨー……」


「お前の本体がだな、色々あるわけだし、ニルにも一応言われてるし」


しかし諦めず、ついには少し表情を険しくしたあと何か決意、窓を開けようとする。羽でも生えて飛びだされたらマズいので、慌てて下に連れていくことに。


◇◇◇


町内の連中に声でもかけられたら色々面倒だし、何かあったらヤバいし……メリッサが妙案と思える方策を捻りだした。


「機嫌損ねて一人で出ていかれたら、そっちのほうが面倒よ。とりあえず外に出るのは譲ってあげて、撮影のフリしたらどうかしら。プレゼンスに乗ってもらって、誰かがカメラ構えて歩いてれば、大概の人はロケだと思ってくれるんじゃない?」


むくれて暴れ、魔法や精霊力で勝手に出ていかれでもしたらアウトだ。仕方ないのでアレックスがプレゼンスを連れてきた。セルマに戻ってくれたから助かる。メリッサやライアが二人いたら、すれ違う何人かは不審がるだろう。


まず玄関を開け庭に連れ出した。フランクが丹精込めて育てている花よりも、ヤツが保護した害虫の住処になっている小さな公国聖堂の土の模型が気にいったらしく、中の虫たちにも素手で触れ、小さな声で話しかけている。


「意思疎通できんのかもな」


「ボクも覚えられたらいいのにナー」


精霊語の習得が不可能だったことは既に話した。毎回違うという点にライアが興味を持った。


「おそらく、共通点がある。録画した?」


「おお、あとで好きなだけ研究してくれ。ホルズワスの研究課題に最適だ」


プレゼンスもグタ子がいつもと違うことに気づいたようだ。いつもなら身軽に飛び乗るセルマだが、プレゼンスは脚を折り背を下げた。セルマは鞍に横座り、ビジュアル的には似合う雰囲気。プレゼンスが立ち上がると喜びの表情で周囲を観察、何かを指さし、そちらに行きたいと俺達に訴えている。


「あっちって何がある?」


フランクが指さされる方角を確認。


「北西の火の見櫓……あ、セルマのアパートのほうだね」


……一度自分の家に帰りたいのか? 連れていったところで問題はないだろう。鍵はアレックスにライア、メリッサも持っている。


「あんがい火の見櫓に昇りたいだけかもしんねえけど……じゃ頼む。フランク、札を掲げてくれ」


◇◇◇


『魔映画ロケ中 ライアープロ』という即席の札をフランクが先頭で掲げ、横座りのセルマを載せたプレゼンスの手綱はライアが牽いている。左右にメリッサとアレックス、俺はしんがりからあちらこちらに移動してセルマを撮る。近所の連中も、ああまたやってる程度で不審に思わず。ときどき通る子供も撮影と分かるとだいたいは遠慮する。道中は順調、あちこち指さして精霊語で尋ねるセルマに周囲の女たちが答える。なんか、こういう魔映画があってもいい気がしてきた。


小型カメラは回しっぱなしだと魔晶バッテリーの減りが早い。途中で立ち止まり予備と入れ替えていると、現場の大道具さんに出くわした。


「なんだ、竪琴事務所、一斉に休んだと思ったらロケハンか。今度もケーブルか? 本格的に帯ドラマ始めんのかよ」


「いえ、またセルマの思いつきでリハやってるだけっす」


精霊語で話すセルマもロケと思えば違和感がない。


「ヘー……おお、頑張れよ」


こちらに気づいたセルマに大道具さんが手を振ると綺麗な会釈。特に不振を抱かれることもなく、散歩は続いてほどなく広場、坂を登って事務所前に到着した。プレゼンスと俺、フランクは外で待つことに。


「ご苦労さん。この様子なら歩いて帰っても問題ねえな」


小刻みに首を振るプレゼンス。共同水道からバケツに水を汲んできたフランクが戻り、プレゼンスに与える。


「幼児退行したほうがずっとオトナなんだねー。三歳児のセルマのほうが立派だとおもうなー」


「同感だけどよ、ありゃ二度と会うことのねえ精霊さんだろう」


「……するとセルマはさ、いま、精霊界にいってるの? ……ちょっと、けっこう、スゴク心配」


……う……うう……そこは考えなかった。もし仮説が当たってたら……。


「謎の請求書が事務所宛に届いて法外な請求をされる……ヤツのことだ、精霊界で俺達が望まぬ類のトラブルを全て引き起こしてるだろう。そりゃマズイぞ、精霊界を敵に回したら……今の思い付きは黙っとけ、明日ヤツが目覚めたら最初に確認しよう」


「……目覚めないでほしいなー……」


十五分ほどで降りてきた。少し様子がおかしい。メリッサがしょげたセルマの肩を抱き、通じぬ言葉で慰めながら肩を抱いている。反対側に心配そうな表情のライア。


「何だ、何かトラブったか?」


アレックスも困惑気味。


「部屋に入った。先ほどまでと同様、初めて見るものを興味深げに観察している素振りだった。特に止める必要もないので、引き出しにしても、クローゼットにしても、本人の望むよう触れさせていたが……突然、今まで同様の笑顔のまま、瞳を潤ませたのだ。それでも明るい振舞は変わらず……言葉も少なくなり、遂には目を閉じ涙をこぼしたので……」


フランクが小声で尋ねた。


「何を見たときー? 触ったときー?」


「分からぬ。机か書棚だったと思うが……」


さほどの時をおかず、セルマは落ち着くと目元を拭い、周囲に詫びらしい言葉で話したあと、頭を何度も下げ謝罪した。精霊が見てショックを受けるもの……?


「精霊が素材のプリッツってあるか?」


「バカなこと考えなさんな。全くわからないけど……ま、戻る気になったみたい」


帰りは馬に乗らず歩いて帰ることに。セルマも元に戻り、往路同様に時折何かを尋ね周囲に答えてもらっていたが、口数は少し減っていたようだ。


◇◇◇


一日くらい風呂に入らんでも死にはしないと思うのは男だけ。石鹸の成分で溶けて排水溝から流れだしたり、風呂から上がってきたらまた別人に変身したり、

危惧は色々あったが無事入浴を終えたセルマ、いま一人でキッチンに立っている。俺たちを追い出そうとはしないが、手伝いは微笑んで拒絶、気味が悪い。包丁をまともに使い、鍋も道具も調味料も、使い終わると元の場所に戻すのだ。時々冷魔庫から食材を取り出してメリッサに尋ね、返事を聞いてから味見をし、使うかどうか決めている。メリッサやライアには及ばぬものの、十分まともな腕前である。


「『一並びの日』を拡大解釈してだな、毎日11時11分になると、今日のセルマが戻ってくるというのは便利そうだ」


「精霊界に提出する書類が必要だよ。アレックスでも分からないよねー」


グタ子のレパートリーとは全く異なる。野菜のスープ、脂でソテーした肉に何かのソース、コールスローみたいなサラダ、ハーブの卵とじ……家庭料理風だ。盛り付けまで全て一人でやり、俺たちを座らせた。


セルマがたまに見せる精霊への祈りに似たヤツの長いのをやったあと、俺たちの顔を見ながら長いセリフが続いた。うーん、感謝の言葉みたいなヤツだろう。どうやら話し終わったようなので食い始める。俺達も勝手に話しかける。


「ず……いや。少し苦みが効いているのだな」


ハーブの卵とじは苦みが強いが旨い。苦手なアレックスを見てセルマは、自分の皿に半分を取り、代わりに肉をフォークで示し、返事を待たずに半分をアレックスの皿に寄こした。


「わ……セルマが自分のお皿からお肉を人にあげてるって……明日録画を見せない方がいいわよアレックス、晩ゴハンで一皿奪われることになるわ」


「善処する。コモ、就寝前に録画の編集を終わらせろ」


意味が分からずとも雰囲気は伝わるのか、相変わらずセルマはニコニコして、ライアやフランクの皿にも手を伸ばし何かをパクリと失敬し、その後自分の皿から何かを返す。


「……精霊だから? 分かち、分け与える?」


ライアが呟くが返事はない。その可能性もありそうだ。食後の片付けもセルマが一人で殆どやり、今朝作ったクッキーが食器棚に入れてあるのを見ると、こちらに向かって何か言いながら、手で小さな形を作る動きをした。


「ああ、袋? あるわよ、こっちに」


菓子を入れていた小さな袋をためておいた箱を見せるとセルマはそのうちの一つを手に取り、午前中自分の焼いたクッキーを数個入れ、上を結んでから袋を指さしたあと、その指を自分に向けて微笑んだ。


「……りょーかーい。明日食べるんだねー。ボクはとりませーん」


その通りと頷いたセルマは、食器棚の目立つ場所にクッキーをしまい、ポン、と手を打って満足を示した。ああ、誰もとらねえよ。おまえじゃねえんだし。


◇◇◇


やはりいつもより早く目が覚めてしまった。無事元に戻るのか、精霊セルマ。昨日同様さっさと着替え、母娘は庭で公都体操。俺も庭に出て、きのうセルマが触れていた虫屋敷を覗く。……精霊力で変身してる、ということはなかった。芋虫は芋虫、テントウ虫はテントウ虫、そのままである。


「なんかツマラン……お、起きたか」


メリ部屋で窓辺のカーテンが開いた。中に入ると二階からメリッサと……おお、品質は元に戻っている、パジャマを捲り上げ脇腹を掻きながらおりてくるのはノーマルのセルマだ。


「おう。覚えてるか? それより本体のオマエはどこ行ってたんだ?」


欠伸をしてウーンと伸び、フッと力を抜くとセルマが鼻の頭をさすりながら答えた。


「どこって……今日金曜よね。イッパイ寝た気はするわ、夢も見ないで」


一昨日寝たあと今朝目覚めるまでの記憶が完全に欠落しているという。


「そうか……そんで、だ。何かだな、成長や変化の実感はないか? 今まで知らなかった割り算の筆算を妙にやりたくなっているとか……」


「朝から割り算やる気はないわ。お昼も夜もイヤだけど」


セルマは洗顔に。アレックスが小声で俺を責めた。


「万一のこともある、ニルヴァーナが戻ってからにしろ。こちらも準備が必要だ」


きのうの録画を見せるかについてはセルマの就寝後、深夜のキッチンで決めていた。ニルの帰宅後に見せ判断をもらうまで闇に葬る。アレックスがヘルソニックの操作を誤り記録済魔晶を入れたまま気づかず録画していたので写っていなかったということに。セルマが元通りなら笑い話で済むが……潜在的に完全変態能力を身につけていて、映像を見た拍子に思い出すことを考えたら、その先は想像ができない。ロクな事態が起きないことは分かっている。


「おう……打ち合わせ通りでいこう」


録画を見たがるのをなだめすかし、朝飯に出かけた。完全変態の件は伏せ、他はそのまま伝える。午前の菓子作り、午後の精霊語講座と割り算、自宅の見学、見事な家庭料理を作った話……自分のクッキーをきちんと確保した点はセルマ品質が維持されていたな、と俺が報告したところ、わりあい落ち着いて話を聞いていたセルマは突然立ち上がり、外に飛び出した。昨日のこともあるので俺達も仰天し、後を追うと……端役ハウスのキッチンに駆け込み、見つけたクッキーの小袋を額にあて目を閉じ……声を出さずに泣いている。俺と同じ光景を見て、みな固まる以外の反応がとれない。


しばらく時が経った。セルマは落ち着くと昨日同様に目元を数回拭い、涙痕の筋が残る顔でニパ、とやったあと、ごめんなさい、オドカシちゃって、ゴハン食べてオシゴト行かなきゃね、オシゴトオシゴトと言いながら戸口に立つ俺たちを押しのけ『巨人』に戻っていった。クッキーはしっかり握りしめて。


「……記憶ないって、ホントなのかなー? ちょっと疑問だねー」


フランクは呟いたが、魔深層心理探査でもやらんかぎり本当のところはワカラン。セルマの突発行動の理由はニルの帰宅まで不明だった。


◇◇◇


実家の用を終わらせ不機嫌な顔で帰って来たニルにフランクが顛末を報告しにいった。あれからセルマは全くの正常であり、突然誰かに変身するという奇行にも及んでいない。ニルの確認後許可が出て、事務所の魔晶スクリーンで変身を含む一部始終の記録を確認させたというが、特に感想らしきことも喋らないのが却って不気味だった。事務所に顔を出したライアは、例のクッキーが袋を開けず瓶に入れられ、箒と剣を入れている縦長収納の最上段の棚に置かれているのを目撃したという。数日後、俺たちはニルの家に再び集まった。


「確かなところは分からない。これも暗愚の小悪党同様、仮説の一つです。そのつもりで聞いてちょうだい」


ニルが実家から貰ってきた茶を入れた。収穫はこれだけだったわ散々な目に遭ったと愚痴りながら清涼感の強い芳香を漂わせる薄褐色の茶をみなに配る。


「セルマよりもずっと分別があるという印象ね。私も見たし、同意するわ。完全変態能力に関しては私もお手上げ、推定すらできない。言葉も分からないけれど……」


そこでニルは言葉を切り、思いもしなかった単語を発した。


「セルマの『ママ』じゃないかしら?」


セルマの実の母親? ……若くして亡くなった……実家には物語の樹があった……うむ……。フランクが数秒瞑目し、半目を開いた。


「ボクは納得だなー。ほら、セルマの事務所で泣き出したとき、なにかセルマの持ち物で、ちっちゃい時から持ってるもの……ママさんとセルマしか知らないものを、見つけたんじゃないのー?」


あり得る話だ。戦地に赴いた母が万一の時を思い幼子に残した形見、という品の一つくらいはありそうだ。


「コモ。さいしょに、セルマさん、親指と人差指を指して、自分をさした」


「ああ、ベッドの上でな……ありゃ? あれは『親子』ともとれるって……」


アレックスが写真を見せたときのことを思い出した。親指と人差指を交互に示したジェスチャーは親族、親子だと伝えようとしていたのかも……しれん。


「宣伝写真を見せた時か……誇らしげに見えたような印象も……あるな……」


アレックスの呟きに頷き、暫し考える。母が娘の体に入れ替わり、一日だけ過ごす。変態の奇妙さは……精霊にも制約があり、何かの理由で生前の姿に戻れないのではなかろうか。メリッサやライアになったのは「娘と異なる人格」であることを分かってもらうためか? 娘の住まいを訪れる際にセルマの姿に戻ったのは理屈が通るし、夕食を振る舞う時もセルマのままだったのは、母と娘からの知人への礼と解釈したら…………亡き生母が娘の友人に逢い、娘の住む部屋を訪れ、友人たちに手料理を振る舞い、娘のために菓子を焼いておく……。うーむ、謎の守護精霊と考えるよりも、よほど納得のいく解釈だ。


「……どうかしら? この仮説の出来は」


ニルの真面目な顔を見て、みな納得し頷いた。今回セルマの『一並びの日』を担当したのは、若くして亡くなり精霊と同化した亡き母だったという説明で、ほぼ全て辻褄があう。みなそれぞれ、感慨深げな顔になる。


「筆頭出資者の御意見に完璧に同意するぜ、俺は。そういうことで、この件に関しては片付けよう。なかなかしみじみさせる話だし、茶化す気もねえ。だがな……」


残っている問題点、完全変態能力。精霊化したセルマの母親の固有能力だというなら、大した問題はないんだ。もし次の一並びの日に現れるとしても十万日先のこと、274年後だ。俺は疑いなく死んでいる。不死属性の連中がどれだけ迷惑しようと知った事ではない。しかし、だ。小心者は心配性なのだ。


「すまんが、もっとも嫌な仮説を披露するからぜひ完璧に砕いてくれ。あのう、だな。じつはセルマ、一並びの日をきっかけにトンデモ能力を身につけたくせに……内緒にしている。見事な演技力でシラバックレてるが、必ずや何かやらかす機会を狙っている。ジミ子がヒラフワのドレスを着て市場前の空地でクルクル踊っていたり、ヤミ子がキャミソールとドロワーズで現場に現れたり、まっすぐ騎士がプリッツエル咥えてビール片手に子供とメンコに興じていたり……こうした身に覚えのない行動を、町内の連中から知らされることが増え、俺達の評判が下落するのをニパペカ顔で面白がる計画を立てている……どうだ? さあどしどし反論……しろよ! してくれよ! 黙ってないで何でもいいから言ってくれ!」


俺が早口で囁いた仮説に基づく大惨事を、みな想像してしまったのだろう。自分の中身がグタデレ子に乗っ取られ、破廉恥活動に喜々として勤しむという恐怖。女四人はみな固まり、その後全員で俺に掴みかかり仮説の取り消しを求めた。おぞましき想像に耐えられず唇を戦慄かせるアレックスが俺の襟首を絞める。


「なぜ! 貴方は! どうでもいいことだけ精緻に予言するのだ! 馬鹿者が! 今すぐ仮説を放棄せよ、さもなくばセルマに能力を使わぬよう断固として説得せよ!」


四人の暴行に耐えかねた俺が「ヤツは実はすでにこの場にいるかもしんねえぞ!」と再び思いつきを叫んだ瞬間に、四人はギョッとした表情で素早くお互い睨み合ったあと部屋の四隅に素早く散り、戦闘態勢に入った。直後に全身を揺さぶる衝撃と轟音が響き俺は気絶したので四人の対戦結果は描写できん。明け方、ベランダに来た小鳥の囀りで目を覚ました俺は、精霊樹とオベリスク以外破壊しつくされた室内を一人で泣きながら片付けているフランクの背中を見ることになった。


「……手伝うのはもう少し待ってくれ、まだ目が回る……ヤツらは?」


「グスン……四人にしか分からない合言葉で本人確認することにしたって……グスン……ねえコモノ、ボクたち何か悪い事したー? 今回は全く心当たりないんだけど……」


ようやく眩暈が軽くなった。痛む体を起こし、周囲に散乱する木片やガラス、パルプ化した書物や布でできたうず高い山を眺める。


「巨人よ。『存在こそがあらゆる罪の根源である』みたいな箴言はねえか?」


「……グスン……覚えてないけど……納得するよー……とりあえず箒とチリトリ買ってきて。魔動掃除機も粉微塵になっちゃったんだ……」


「雑巾も必要だな……行ってくるわ」


この後しばらく、俺とフランクは1という数字が3つ以上並んでいるのを見ると蕁麻疹がでるようになった。1並びの日に罪はない。存在それ自体が罪なのである。グデ子という能天気な時限爆弾を抱えることになったライアープロの存在も罪なのだ。残念なのは、罰してくださる奇特な神様が皆無であるという一点に尽きる。セルマの実家では新年に、守るべきものを持つ罪深さについて許しを乞うという習慣があるそうだ。思うんだが、許しを乞うだけで何一つ反省してねえんじゃなかろうか。守るべきものの範疇に、俺とフランクは間違いなく入っていないだろう。ああいうバカ女にトンデモ能力を授けた母親に俺は何と文句を言うべきか。巨人はいみじくも宣ったものだ。


「……『ありがとう』しか思いつかないなー」


俺は肩を落とした。俺も同じセリフしか思いつかなかったためである。


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