第七十八話 端役 無学と方言を論ずる
私淑する自作魔楽機エフェクター界の生ける伝説、カーキラ師匠の名著『誰にでもできるものじゃない! 音魔道具製作指南』を読んだのが無学という学問に触れたきっかけだ。魔回路図と部品一覧だけ挙げて97%はバカ話。そこに何度も出てくるオカルト数学者グリーンフィールドの名前が頭に残り、公都で暇潰しに入った古道具屋で、うず高く積まれたゾッキ本の山に『無学 その理論と実践』全三巻を見つけ、ハマったのである。
無とはゼロである。だが俺はガキの時、疑問を持った。ゼロを足したり引いたり掛けたりしてもいいけど『1÷0』をやってはイカンという話。なぜかといえば、除算は乗算の逆演算、つまり1÷0=Xという式を考えて、逆にX×0=1となる存在を考えることは無理でしょ? どんなに大きい数でもゼロ倍したらゼロだよねー、そうだよねーオカシイよねーみんなという教師の説明に一人だけ頷かなかったのである。なんか不公平だ。オカシイ、ゼロに失礼ではないかと思ったのだ。無価値な自分を幼いながらに自覚し、ゼロに感情移入して哀れに思ったのかもしれん。
グリーンフィールドも2歳でその疑問にぶつかったことを白状している。彼は俺たちが漠然とゼロ=無と思い込んでいるのは妄想に過ぎないと考えた。ゼロ倍して1になる数など想像できんというのはオカシイ。ゼロの中に1になる『何か』が隠れていて、ひょんなことから顔を出す場合がないとも限らないという発想を抱いたのだ。バクテリオファージや魔量子論からの類推かもしれないが、まさしく真の天才である。その後、彼はあらゆる計算において現れるゼロという結果が等値ではなく、単純に言えば実数解、ゼロ解、虚数解となる3種の『無』に分類されることを突き止め、それを正無、負無、虚無と名付けた。一般に俺たちが漠然と捉えるゼロは全て負無に分類でき、彼の考えでは無の例外的な振舞、特殊解に過ぎず、1÷ゼロがゼロと等価となる正無、さらに1÷ゼロがあらゆる論理解を取り得る虚無が存在することを主張し、論理構築と実証実験に生涯を捧げた。
大道具バイトで俺が稼いだ5メリがアレックスにバレて、泣く泣く借金を払い財布がカラになる。この時の俺の財布の中身はどのゼロなのか? 朝ワクワク現場に向かい、たまには稼いだ金で尼僧喫茶で珈琲でも呑むかという期待に溢れた俺の胸ポケットにあった空財布のゼロ空間と、冷酷マネージャーに金を奪われ虚脱し人生全てを呪っているときに卓上に置かれた空財布のゼロ空間は等しいのか? この疑問にグリーンフィールドだけが明解な解答を与えてくれる。行きの空財布は負無、卓上の空財布は正無になるという。上巻の1258頁から1609頁を読めば分かるだろう。数学的資質は殆ど不要、2ケタの足し算がだいたいできて、絶望函数の初級解析を学んだヤツなら理解できるはずだ。
虚無は一般的な虚無や、暗黒エルフお気に入りの闇概念、ダークマターやブラックホールと混同されがちだが、むしろ全ての可能性や萌芽を内包した『卵』というべきか。例えばエックス掛けるゼロのエックスが如何なる数であっても、疑いの余地なく実数解を持つ、そんな非凡なゼロという存在/非在を考えりゃいい。1÷ゼロという演算はその先で必ず成立する。これこそがグリーンフィールドの虚無概念の真髄であるヌル=ゼロ、ここから構築した数学体系を使い森羅万象を記述しようとしてる連中が虚無学派である。無いにもかかわらず確固として存在するはずのものをベースとした世界観、当然マトモな発想ではない。なにせ下巻の九割は虚無による虚無の虚無化を滔々と論じているんだから、正常な知性の持ち主は笑い出すか怒り出すかするだろう。負無学派穏健派の構築した理論の一部は高等数学の傍流として認知されることもあるが、正無学派はヴァランデル第13の問題の別解の否定的論証として僅かに使われるだけ、虚無学派に至っては存在すら数学界の汚点だという認識が現状である。
◇◇◇
その土曜、『空を見つめるもの』にはいつもより大勢の大人が集まった。ニルセルメリに竪琴母娘、フランクと俺に加え家主の病院経営者パスカン氏と研究員のグレタ技術中尉。この人は青肌の典型的魔人族の中年男性で、技術屋らしい気難しそうなタイプだ。気難しさは職人肌の裏返しに思え、俺は理由もなく好感を抱く。プレゼンスも窓から見学。子供たちは同心円状に並べた椅子に腰かけ、中央の卓上に置かれた試作品一号を期待をこめたキラキラした瞳で見つめている。
朝の挨拶に続け、セルマが今日の目標を説明した。
「みんなには前から話して期待させてたわよね、遅くなったけど、いよいよ今日から義肢の習熟訓練を始めます。魔法講義や剣の訓練でやってきたことが、ぜんぶみんなの義肢操縦に繋がってるの。今日練習してもらうのは、人類型の右腕、ライア先生をモデルにしたもの。これをある程度動かせるようになることが目標よ」
義肢の件では再三議論を戦わせてきたが、単なる「楽しいイベント」として、剣や魔法を使うのと同じように様々な補填具を試させ、並行して一人ひとりの希望を取り入れた個人用補填具を少しずつ作っていくノンビリペースで進めることに決定している。商売や産業化なんて遥か先のことになるだろう。セルマが試作一号を左手で持ち、そのまま自分の右肩に当てる。
「授業でやったから分かるわね。自分の右側から伸びる人類の手をイメージするの。このあたりから生えていて、こう……」
魔力に関する話は俺にはサッパリだが、実際には持っていない器官を所有したイメージで、架空の骨や関節、筋肉に神経という細部までを魔法的に固着化するのはそれなりに大変そうだ。最初は全員が右肩に義肢の接触部を当て、自分の体を動かすと義肢がどう動くかを確認するところから始める。ある程度肉体と義肢のシンクロが進んでからが本番、肉体を動かさずにイメージで義肢だけを動かす訓練をするそうだ。今日は本職のグレタ氏がいるので俺は安心している。セルマが右手を動かすと、同様に右手が動く。おおー、という歓声が子供達から。ニルが子供たちを促した。
「さあ、小さい子から一列に並んでちょうだい。右肩の辺りで、自分の魔力を集めやすいところを探してあてるのよ」
小さい子と言われるといつも一番は鬼人族のダグリアだ。外見では角の欠損しか目立たないが、それが身体機能に及ぼす影響は思いの外大きいという。父親のお下がりらしいぶかぶかの毛の上着を脱がせ右上腕を剥き出しにして、セルマが目で合図してから義肢の接触部を肩に触れさせた。グレタ氏が尋ねる。
「まだ何も考えないで。触れられている感触はあるかね?」
チラと上目遣いで緊張気味に頷いた。子供たちがもっとはしゃぐかと思っていたら何となく大人しいんだが、あとで聞くとグレタ氏はたびたび予防接種を担当しており、子供たちには注射と同様怖がられているという。たびたび来てもらうほうがいいんじゃねえかな、御目付役として。目を閉じさせ、どこに触れているか分かるかのテストをした後に本人の腕を動かさせ確認、指先でマルを作ってフランクに向けたので少し空気が和んだ。そのあとのイメージだけで動かす練習はなかなかうまく行かず、手を握ったり閉じたりするところで疲れが見えたので交代になった。ハーピーのアンジェ、狼獣人のヤーン……いちばん上手に使えたのは、右腕が不自由なテザートエルフのカイアンだった。小声でライアに尋ねる。
「ふだんからイメージしてた……てか、思いが強い分、習熟が早いかもしれねえな。代償機能っていうのか?」
同意の表情が返ってきた。グレタ氏は自前の記録魔晶を持参していたが、それは映像記録用ではなく、神経や体内魔力の流れをデジタル素子で記録するものだ。子供たちは自分の番が終わっても騒ぐことなく、次のやつの訓練を真剣に眺めている。こういう表情を見ると、少し無理してでも全員分、なるべく早く揃えてやりてえなぁと考えちまう。春が終わるまでには人数分揃えてえな。
全員終えて昼休憩に。大人がいては気づまりだろうと俺たちは講師用待合室に落ち着いた。試験を間近に控え、取締役二名から午後の見学を禁じられたため不満そうなライアをアレックスが連れ一足先に帰った。目線でパスカンさんに尋ねられたグレタ氏が口を開いた。
「週に一時間程度の習熟訓練では不足ですな。最低でも二時間を二回、できれば三回は実施しないと、体が忘れてしまいます」
軽く眼を閉じたままニルが頷いた。
「順応過程に問題はなさそうかしら?」
「ええ、汎用回路ですから精度の低い分、フィードバックも微弱ですし、肉体への負担はほぼ無いものと考えて宜しいかと。中尉殿もご存知の、軍用タイプで起きる激しい複合痛覚等の副作用の心配もありませんな」
セルマがほっとした顔に。メリッサが人数分の茶をポットから注ぎながら尋ねた。
「ギュスターブとテトラと……あとジークリットだったかしら? 温感検査のときの魔流が他の子と違うように感じたんですけど」
ほう、お気づきですかとグレタ氏が意外な表情をして、メリッサが回復魔法を使うことをパスカン氏が話すと納得顔になり、説明を補足した。
「蜥蜴族やドリアード族の温度感知が、恒温系種族とかなり異なっているためでしょうな」
種族差というのは俺には分からんレベルの差異を生むんだろう。あ、ちょっと気になるぞ、アナログ部分の微調整は俺の領域だ。
「……っていうと、次にこさえるのは、変温系に合わせた回路にできるなら、したほうがいいっすかね?」
「どのような?」
「位相保障コンデンサを大きめにしたんで、少しリークがあると思うんすよ。ジーク達に使わせんなら、かえって元の数値か、あれより小さく……」
グレタさんが鞄から図面を取り出してきたので暫く二人で話す。俺の思いついた方向でやって構わないという言質を頂き顔を上げると、呆れたような顔が並んでいる。フランクが全員の思いを代弁した。
「コモノが実社会で役に立つ場面を見ることになるとは思わなかったよー」
「いや、こんなのはライアが学校でこさえた受信機と五十歩百歩だ。アナログ魔回路ってのは廃れる一方だからな……」
ゼンマイ時計が一部好事家の収集品になったのと同様に、アナログテクノロジーはあと半世紀ほどで淘汰されると俺は思っている。デジタル魔工学の進歩は正に日進月歩なのだ。これもすぐプロセッサ化して極小部品になっちまうだろうと展望を述べると、グレタ氏が概ね同意した。
「ただですな、医療技術のエンドユーザー向け市販品は、大規模な工業化や大量生産には向かぬうえ、大手も参入には二の足を踏みますから、暫くは町工場製のアナログタイプも残ることになるでしょう」
俺の目の黒いうちは安泰ということだろうか。先に帰るグレタ氏にニルとフランクが同行し、メリッサとセルマが教室で焼くパンケーキの匂いに子供達がはしゃぐ声が聞こえてきた。パスカン氏と共に顔を出し、ご相伴に預かる。注射の先生が帰ったというので少しはしゃぎ気味、あまり行儀悪いと来週もグレタ先生に来てもらうわよとセルマが言うと、みな静かになったのが愉快だ。注射は嫌いなんだな。
◇◇◇
翌週、カリム監督の最新作『天翔ける聖転生騎士団』で使うセットの製作にウンザリして、第三でユーニス女史の撮影にムリヤリ付き合わされていたタナトスさんを覗きにいくと……あれ、もう終わったんですか?
「いえ、ユーニスさんに呼び出しがかかったので中止です」
ジラル大陸の東にある群島の火山が相次いで噴火、ベヒモスも数十頭現れ、小島の住人が魔物と溶岩に挟まれ動けなくなったと親衛隊から連絡が入り救出に出かけたそうだ。ちなみに親衛隊とはユーニスさん配下の美少年美青年美壮年軍団の通称、ユーニス女史がいるときは『花組』『月組』『星組』など正式名で呼ばないと睨まれる。現場には設営の数名が残り、明日の撮りになったんだろう、セットをばらさずに埃避けのシートをかけている。
「じゃ、今日は上がりですか? ちょうどいいや、俺もセット組みに飽きたんで逃げ出そうと思って。家……だと叱られるんで……甘いもん食いに行きません? 石切り場の近くの菓子屋がウチらの贔屓でして……そうだ、奥さんとウラヌスちゃんにお土産に買ってくと、点数稼げますよ」
西まで歩き、石切り場近くの菓子屋『アウト・オブ・オーダー』に入る。道々話したのは先日読んだ『re:live』の話だ。タナトスさんは自分の話をされると嫌がるだろうから程々で質問を切り上げ、固有名詞が混乱したという件を詳しく聞いてみた。
「あれは困るんですよ……そうだなぁ、こちらに来て一番困ったことかもしれません。会話に人名が出ること、多いですよね? これがもう……」
奥さんとの会話で起きた実例が愉快だ。全く知らない人名なら聞き直せば済む。結婚直後に町の荒物屋へ買物に付き合う道すがら、シャネル、ブルガリ、ランバンのどれにしようか悩んでいるという奥さんに「こちらの荒物屋では香水も売ってるのかい?」と相槌を打った話に俺は腹を抱えた。
「へー……鍋釜の材質や形が、あっちだと香水の名前なんすか……『巨人』じゃ大体ブルガリ製、うちのフライパンは丈夫なディオールっすね」
三時を回ったあたりなので女性客が数名いた。サインをねだられタナトスさんは気軽に応じる。気を遣って俺にまでお義理で頼むのを遠慮するとホッとした顔になるのもいつも通り、店主も便乗して頼み、魔女三人組のサインの横に飾られることになった。注文を終え、宙賊勇者レイジの感想を伝えると、意外な反応が返ってきた。
「……そうか、彼らしいですね。いかにもステレオタイプに思える内容ですか……そうだな、彼はそういう人だよなー……」
感慨深げな表情になったので仔細を聞いてみた。アレ、建前なんすか?
「嘘というか、気取っているというか、気を遣ってるというべきか……彼、もとは病院の次男坊で、医師免許をとって数年勤めたそうですよ」
え、医者? 貧乏アパートに引き籠っていたってのは?
「医師はこちらでも激務ですよね。あちらも同様です。大きな病院の内科に勤め始めたころ、実家を継いでいたお兄さんが倒れて、仕方なく実家の診察と大病院を兼務して……中間にアパートを借りてたけど、殆ど帰る暇もなかったそうですよ」
「なんだっけ……ブラゲーとかBANとか、分かんないんすけど……」
「夜勤の当直医は、寝ようとしてもすぐ起こされるばかりで安眠できないので、時間潰しと眠気覚ましに、魔晶端末に似た道具でゲームをやっていたそうです。マナーの悪い参加者に注意する書き込みをしたら恨まれ、本名や勤務先が世間に曝され酷い中傷を受けたそうです。ゲーム廃人の勤める病院として」
……異世界、オソロシイ。それでどうしたんすか?
「そのころ運悪く、彼が内科で治療していた重篤患者さんが努力の甲斐なく亡くなって……遺族にこの件を知らせた弁護士がいて……あとはお分かりですね」
救われねえ。立派な医者として勤めてたのに、バカのために痛くもない腹探られ邪推され、道義的責任とかを追及され……。
「そんで医者やめちまったんすか……うわー、そんな屈託、カケラもなさそうな人だと思っちまいますよ、あのインタビュー読んだら。チート全開、殺生上等のイケイケ傲慢転生さんにしか思えなかったな」
ババロア風の一皿を気に入ったらしく、お代わりとお土産を頼んだタナトスさんは話を続けた。
「偽悪というのか……暗殺者ギルドでも彼、大勢救ってることは誰も知らないですよね、絶対言わないですし。私も助けられた人に何人か逢って、初めて知りましたしね。奥さん達のパラメーター操作も誇大に言いふらしてますが、殆ど疾病治療の一環だと思いますよ。お父さんが精神科だったみたいで」
事実ばかりを人が語るとは限らない。それにしても実像とあのエッセイのギャップは大きすぎますよね。何かポリシーあるんすかね? 俺の問いにうーん、と考えこむタナトスさんの表情を、向こうの席のオバちゃん達がウットリ眺めているのが見える。男前は得だな。
「転生者なんてパレアスには不要だろ?と伝えたいのかもしれません。小惑星衝突のとき、異世界への干渉に彼は最後まで乗り気じゃなかったんです、パレアス人が解決すべき問題だといって。だが多くの人に依存心が育ってしまっていた。本気で解決しようと動いたのは皇国のごく一部だけだった……けっきょく手遅れになる前に、一番反対していた彼が、自前の艦隊だけで惑星を破壊して破片も全て回収し、連絡会議でスタンドプレーを責められても高笑いして誤魔化してましたけど……異世界の客としての自分たちのスタンスを崩すな、と警告したかったのかな……だから良識派に嫌われやすい傲岸不遜な外面を装ってるんでしょう。私はそう思ってます。連絡会議ではよく一緒に食事するんですよ。無口で物静かな人です」
レイジさんもツンデレと呼ぶべき一人なのか。転生者にも不器用な人ってのがいるんすねー。読んだだけじゃ想像できないっす。本が返ってきたら、貸した連中に話してやらんとマズイかな。
◇◇◇
俺もお代わりを頼む。リンゴのパイの次に、さっきタナトスさんが食べていた丸いムースの色違いのを頼んだ。おお、ババロアってのはこういうもんだ。
「土曜のテスト、上手くいきました?」
「あ、ご存知でしたっけ。概ね良好、訓練時間を十分にとらせろ、そのために開発部の下働きはさっさと人数分を作れって流れですよ。つまり俺の余暇が更に削られるってわけで」
「頑張ってくださいよ。みんな期待しているんですから」
「期待ってのが一番重荷なんすよ……トホホっす。そこだけ別のヤツに肩代わりさせたいですよ……」
内部構造の話をする。人類非人類、程度の差はあるが共通回路が多いという点にタナトスさんが興味を持った。
「遺伝子も私たちと違うんですよね、複二重螺旋構造でしたか」
え、タナトスさん……って、転生者だってみなパレアスの嫁と立派な子孫を残してるのに?
「私たちは二重螺旋、塩基はATCG四種ですけど。混血子孫はみな複二重螺旋ですね」
へー……医学や生理学はよく分からん。減数分裂とか複二重螺旋がほどけコピーを作る過程とか。
「生物ってのは恐るべき柔軟性を備えた、やわらか機械だって言ってるヤツがいたな……ああ、そんなわけで多かれ少なかれ、みんな無事に動かせたんですよ。エルフも獣人も鬼族も蜥蜴人も、有翼でも混血でもね」
「魔法の適性……魔量子が関係あるんですかね?」
「そうみたいっすけど、俺にはサッパリっす。魔量子力学ってのはナニがナニやら」
拡大場の理論とか知ってるとカッコよくねえ?と思い、大学の教科書を手に入れたことがある。グルオン、フォトン、ウイークボゾンにグラビトンまでは分かった気になれたが、魔量子空間の遍在って部分で怪しくなり、ファイロンから始まる属性魔量子の膨大な数にウンザリし、精量子や神量子まで読み進めるのは諦めたんだ。
「でも雑学、豊富ですよね。読書家だからですか」
公都暮らし当時の日常を語ることに。戦後しばらくは混乱期、51年ごろまでは、二世紀の歴史を誇るあの名門、公都大学キャンパスにも身分証を提示せず誰でも入れた。深夜のバンド稼業から明け方帰り、ゲイルの屋敷の庭師小屋で寝ていると必ず、輝く金髪に鋭い榛色の瞳のアレクサンドラお嬢様が訓練服に片手剣を握り、公国早起き体操の市内放送が聞こえる時刻に合わせ朝のお説教にやってくる。公国民の正しい生き方とは何かに関するご高説を拝聴するうちアクビが出て、刺突練習用藁人形に結びつけられそうになる頃合いに逃げ出す。公都大の中庭で再びの朝寝を決めこんだあと学食でパンを齧り、オエライ坊ちゃん嬢ちゃんを見学しようと思いついて大教室の講義やゼミを覗いているうちに昼間の避難場所に最適だと頻繁に訪れるようになった。ゲイル最後の調査任務に同行するまで二年ほど通い、何人かの教授には顔を覚えられ、出席カードを配る手伝いまでやっていた。みな俺がモグリと知ってたのだ。
「本当にいるんですね、そんな人が。学部は?」
タナトスさんはあちらで商学部を出たそうだ。意外。
「人文系は色々出たし、教授が面白がって俺のレポートも採点してくれましたよ、理学系は数式出てくると、旧制の中卒じゃお手上げなんで、さわりばかり聞きにいってました」
無学の講義には出会わなかった。古本屋であの三冊に出会うまで、カーキラ師匠のヨタ話の一つだと思ってたくらいだ。
「ですが、その知見が今回役立ってるわけでしょう。大したものですよ」
「役に立ててなんかないっすよ……魔楽器作りと同じで、よく分かんねえけど組んで試したらイケてる、結果オーライって感じっす。親指を動かそうとしたら小指が動いちまったとか、接続ミスみたいなことが起きないか心配だったんすけど、それはないって言ってもらいましたし」
「接続ミスですか……知覚誤認は困るでしょうからね」
「面白えことも起きそうっすけどね……香水と鍋釜、化粧品と経済学がゴッチャになったら笑えるのと同じっすよ」
キョトンとした顔のタナトスさんが気づき破顔。親指と小指が入れ違うのも、鍋のブランドが別世界では香水の名前だってのも、どこか似た話である。
「それだって一種の知覚誤認っすよね?」
「なるほどね……そりゃそうっすね、と相槌を打ちたくなりますねぇ」
口調を真似られたのがおかしく俺はケケケと笑う。タナトスさんの頼んだ土産の袋を店主が持ってきた。持ち帰り用の氷入りだ。
「二時間は十分持ちます。本日中にお召し上がりを」
「ああ、有難う。美味しいからおそらく、帰って30分でなくなりますよ」
「ぜひご贔屓に、春も新作をいくつか作りますから。お話が弾んでますねぇ。……失礼ですが、言葉が流暢なのはチート能力でしょうか?」
主人の問いにタナトスさんは首を振った。
「いいえ、チートというより、母国語で話してそのまま通じるのが初めは不思議でした。方言は自信ないんですが……今のシリーズで、かなり苦戦しているんですよ」
『耕す転生者』には南部ディアラン地方のきつい訛が出てくる。あれは無理だ、半島系の異言語にしか思えんのだ、俺にも。
「ほぉ……エルフや大陸系言語はお使いなんですか?」
いえいえとまた首を振る。
「それも私のチートには無いんですよ、持ってる人が多いんですけど……でもね、今欲しいチート能力といったら、ディアラン訛を流暢に喋る能力しか思いつきません。本番前に監督に散々脅されるし」
ニジスキー監督は厳しいし、細部に魂が宿るという昔気質の職人肌だから妥協もしないんだろう。店主が初老の常連客に呼ばれて去り、タナトスさんは腕時計に目をやった。俺も骨董品の軍用手巻き腕時計を見る。日に三分進むというと殆どの連中は呆れるが、いいんだよ、好きなんだから。
「五時ちょうどのを逃がすと40分待ちっすね、ボチボチ行きますか」
俺は滅多に奢らんのだがたまには格好をつけたいと考え、伝票を持って会計を済ませようとして、いえ払いますから、いえいえ俺が誘ったからと数回やったあと、割り勘ということで決着。馴れないことは上手くできないものだ。西日はまだ沈まず……う、夕焼けっぽいな、明日は雨かよ……だがタナトスさんは心なしか安心した表情を浮かべた。
「降ってくれると助かるなぁ……」
おお、農業従事者らしい言葉。
「次はいつでしたっけ、『たがてん』撮り。そっか、ユーニス女史のヤツに客演するから明日もですか?」
「いや、……今日流れてくれたから、何か理由をつけて断りますよ。女史のメンバーに合わせて色男を演じさせられるのは本当に……竪琴事務所は忙しそうですね、皆さん多才だし」
「貧乏暇なしを地でいってるだけっすね……月末までは昼間だいたい撮影所に居ます。そうだ! カリャーマ町会の世話役さんの話すんの、忘れちまった」
「ああ、あの牧場の方ですか、柔和で愛想のいい年配の……」
「次にあったら話します。その人物評を全面的に書き換えることになりますぜ。んじゃ、お気をつけて」
◇◇◇
ケーキの紙袋を提げ西外れの竜車場に向かうタナトスさんと別れ、冒険者ギルドに寄る。迷宮素材調達のために潜る時間がなく、取締役会に直訴し、ギルドの買取品を仕入れることにした。カウンターを任されているタリナと同郷の青年に頼んである。
ギルドはふだんより活気があり、パーティーが続々戻ってきて依頼終了を告げ、金を貰っている。顔見知りで何度か同行したことのある魔物使いも上がってきたので混雑の理由を聞いた。
「別の迷宮でも発生したのか? 大繁殖のシーズンか?」
「違うんだ、ディードんとこが遠征討伐出ただろ? Bランクの連中がA狙って、ふだんディード達の受けてた高難度の依頼を受けて、それで芋蔓式に中堅以下も忙しくなってんだ」
「たかが『薄暮』の6人だけだろ?」
「聞いてねえか、ゴルドクリク以外からも合同討伐の依頼がけっこう出ててよ、堅い仕事なんでA級やB級のベテラン連中もけっこう出ちまった。数週間は人手不足だな」
珍しいことで。もっともカリャーマの迷宮なんて、俺ですら途中までは潜れる危険度の低いのばかり、たかが知れてるんだが。
「それで稼ぎ時ってわけか」
「コモノ、おまえカウンターに素材発注してんだって? ちょっと待ってろ、買取価格に色付けんなら今日の分を売ってやる。おーい! ホーガン、ドロップ品持ってこい」
俺より若いが本職だけあり、下層でドロップする素材を幾つも持ってたので、常に持ち歩いている義肢の部品リストを見ながら数十個を買うことに……あ、今は金がねえよ。渋い顔で文句を言うかと思いきや。
「ツケとく。有名人が端金惜しんで逃げ出しゃしないだろ。なあ?」
パーティーのメンバーと顔を見合わせ笑っている。俺は札入れから名刺を取り出し、金額を書いて渡した。俺にも私にもとメンバーが手を伸ばすので、営業の一環だと全員に配る。珍しそうにみな見入る。
「はー、これが竪琴事務所の名刺かよ。ほんとに竪琴描いてあんだな」
「コモノの『筆頭下働き』って何よ? 業界用語?」
「うるせえ、分かって言ってんだろ。貸しホール……は使いそうもねえか。お前さんたちがランク上がって、討伐成功の凱旋セレモニーやる日が来たら知らせてくれ。白いのか黒いのにでかい札持たせて先導させてやる。もちろん金は払え」
「おお、いいなそれ。ニルヴァーナさんかな、暗黒魔導士の衣装で」
「竜討伐凱旋ならセルマちゃんの精霊騎士、一択だろ」
そんな日が来たら文句言わせず派遣するぜケケケといい残し、ギルドのカウンターに。頼んでいた素材は全て揃ったので、請求書を受け取り帰路につく。素材は順調に集まり図面も届いてるので、作業を急がなきゃと思うが、ガキどもに万一があったら夢見が悪い。魔楽機エフェクター製作よりも慎重に作業を進めている。グヤトンの親爺さんが掛けていた眼鏡、手元が見やすくなるのかな……老眼がボチボチ進み、細かい作業がシンドイのだ。
◇◇◇
三日の夕方、公都の北に位置するホルズワス高等専門学校で二日がかりの試験を終えたライアが若干疲れた表情で帰ってきた。試験前日から今朝まで、ピエタちゃんのお屋敷で上げ膳据え膳で過ごしたのが辛かったらしい。玄関口に並んだ俺達に、試験の手応えなど一言も喋らずに宣言した。
「ご飯つくる」
さっそく俺は『巨人』亭の厨房通用口に顔を突っ込み、今日の夕飯はいらないっすと叫ぶ。知らせておかんとケイトさんに嫌な顔をされるのだ。オーブン前のメリッサが指でマルを作り、肉の仕込みに忙しいセカンドのキュイジーヌさんが応じた。
「あいよー。帰ってきたんか嬢ちゃん、出来はどうだったのよ」
さて分かんねえなと答える。戻るとライアは荷物を部屋に放り出し、外出着の上からエプロンをかけ既に臨戦態勢。
「手伝いはいらんのか?」
「うん。ひとりでやる」
ジミ子お墨付きの手早さで料理が始まるのを見て、俺はキッチンの扉を閉め、屈託顔の非人類三名に一時間放置するよう伝えた。セルマが眉を下げ本気の心配顔で尋ねる。発想は少々ズレてたが。
「うまくいかなかったのかしら……玉葱切って、涙を隠すとか……」
「結果は知らんが、あいつがここ一番で全力を出せなかった記憶が俺には無い。やり切ったってことで、次のステップに切り替わったんだろ」
ニルも扉の向こうを心配そうに眼を細め見つめていたが、類稀なる竪琴の加護を信じないといけないわ、とフランクに告げ、さあ一時間後に何が頂けるのかしら暗愚親爺、お酒を買ってらっしゃい葡萄酒よこういう日は急いでと命じ二階に消えた。セルマも肩を竦め続く。
「行ってくるわ……おい、お前の渋い顔は何だ?」
アレックスが微妙に眉根を寄せていたので声をかけたが、返事に腰が砕けた。
「冷魔庫の食材を思い出せぬ。従ってメニューの予測が不可能だ」
「……フランク、付き合え。どうせ夜半過ぎまで呑んで帰らないかもしれねえだろ二人も。ライアのストレス発散料理だけじゃ足りっこねえ」
「りょーかーい。アレックス、お風呂は先に入っちゃうように伝えといてよー。肩まで浸かってゆっくり三十数えないとダメだって言っといてねー。いってきまーす」
発表は三日後、学校では行わず、古式ゆかしき郵送だという。本人でないと受け取れんのだろうか。
◇◇◇
「フランク、酒はどんなのがいいんだ、ロゼか」
「ニルはねー、辛口の赤と渋い白を1対2で混ぜて飲むのが最近お気にいりだよ。シェイクでなくステアで、って妙に低い声で、ニヒルな顔でボクにグラス差し出すのが面白いよ」
ハードボイルドの役作りの一環なのか。
「ヤツにシェイクとステアの味の違いなぞ分かるはずがねえ、5メリ賭けてもいい、あとで試してみようぜ。カクテルを作んなら白と赤の他に何本か買うことにすっか。蒸留酒とスピリッツかな……」
市場の暇そうな酒屋に入り、蒸留酒を頼むと主人が奥に声をかけ、しばらくして娘が瓶を持ってきたが、俺たちを見て固まった。主人が早口で叱る。
「おい、早く渡しな、それから鳥の絵のラベルのついた白を一本、同じラベルの赤もだ。お客を待たせんなよ」
怯えた表情の娘は正気づくとフランクの持つ籠にこわごわ瓶を入れ、再び俺たちを見て慌てて頭を下げ、奥へ走っていった。そこで思い出しフランクが主人に確認する。
「世話役さんの紹介で働いてる子ですかー?」
「そうだよ、田舎育ちで学もない子らしいけど頼むよって連れてきた。要領もよかねえしワンテンポ反応も遅えし、愛想もねえけど……無駄口叩かずサボらねえとこは、田舎者の長所かな。続くかはわかんねえけどよ」
「住み込み?」
「店閉める頃合になると、若い鬼人族の兄ちゃんが迎えにくる。ツレだろ」
地方出身で言葉の問題から馴染めない連中は大勢いる。自分の話をされていたらしいと察した娘が、さっきよりも固くなり瓶を二本抱え出てきた。フランクが半目の笑顔を作り、腰を思い切り屈め籠を差し出しながら、怖がらせないよう細心の注意を払った低音で、ゆっくり声をかけた。
「アリガトー。みんな居場所ができて、ヨカッタねー。なにか困ったらさー、世話役さんにすぐ相談してよー?」
俺達が無害だと判った娘は顔を上げ、俺の顔も眺め、勇気を奮い起こして口を開き、声と共に深々と頭を下げた。
「あ“り”か“と“こ”せ“ま”し“だ!」
うわー凄い訛、だが嘲っちゃいかん。俺たちの言葉がこの娘にはどんなに奇妙で、もしかすると恐ろしく響いてるのか想像もできねえし。タナトスさんが零していたように、方言って難しい。俺も可能な限り柔和な、つまりは便所に駆け込んだら前の奴が入ったばかりで泣き出す寸前の表情を作り、努めて優しい声音でゆっくり喋ってみた。
「おお、また来るから、今日買ったのと、同じのを頼むよ」
理解されたらしく、前掛けの裾をギュッと握り大きく頷いた。店を出る時も再び「あ“り”か“と”こ“せ”ま”す“」が聞こえたので振り返り、頷いてから次の店に向かう。葡萄酒のラベルを薄明かりで確認するフランクが呟いた。
「学がないって、高学歴じゃないってコト?」
「それもあるかも知れんが、方言の抜けないヤツが、自分をそう卑下することも多いな。都会の言葉のテンポや意味に戸惑って溶け込めないんで」
「でもさ、そういうの、学がないってヘンじゃないかな。コモノも方言聞いて、田舎者ってバカにする気持ち、あるのかなー?」
「あー、馬鹿にはしねえけど、田舎の連中は早口が多くて訛もキツいから、つい聞き返しちまうんだ、もう一度とか、ゆっくり喋ってくれとか。それを馬鹿にされたと勘違いされて激昂された経験がある。コミュニケーションてのは難しいな」
「ふーん。表情や手振りで分かってあげないとイケナイのかもねー」
「メリッサの言うアトモスフィアか。声の調子とかもあるだろうな」
方言イコール無学無教養という蔑視は健在だ。『耕す転生者』でも、品種改良のヒントを得ようとディアラン地方を訪れた主人公が言葉で苦労するうち、無意識の地方蔑視が意思疎通を邪魔していることを自覚して方言を練習するのだ。タナトスさんが零していたのは、その特訓場面の撮影だ
先日メリッサが話していた魚の目玉の缶詰を見つけフランクの籠にそっと放り込んだが気づかれ、メリッサの嫌いな白アスパラガスの水煮と交換した。ライアはフニャとして独特な匂いの缶詰アスパラが割と好きなのだ。カクテル用の砂糖や香りづけのリキュールの小瓶も手に入った。フランクは、石材店の親爺が石材の寸法を間違えた若いのをこっぴどく叱った時の話をしている。
「その子がさ、学がねえんだから仕方ねえだろって言い返したんだよー。親方、久しぶりに怒ってねー、学がねえのを仕方ねえで片付けんな、自分で努力しろって、おかみさんが止めるまでボコボコにしたんだよ」
「また腰を痛めなきゃいいけどな」
「フランプ君と帰りが一緒でね、親方はひどい、学問できねえのは社会のせいじゃねえかって愚痴ってたんだよね……ニルやセルマが『空を見つめるもの』をやってるの、こういうコトと関係あるのかなー?」
無学の遠因を社会構造の責任にする。さて、正しいか誤りか。
「テルスの親爺さんに俺も賛成だな。殴られた若いのは、どうせ学校に行きゃ『役に立つことなんか何も教えねえじゃねえか』って喚いて通わなくなんだよ。そうじゃねえだろ、複雑バカよ? ニルセルはそういう甘ちゃんに金を払って、土日にヘトヘトになるまで相手する類の阿呆じゃねえよ。役に立てる、立てないはそいつの器量だ。まっすぐ騎士にも聞いてみろ。『知識を知恵に昇華させ実益に繋ぐのは、個人の資質と不断の努力に帰結する』とか、お前の聞きたそうな答えが返ってくること請け合いだ」
ふーん、りょーかーいと間延びした返事が響く。
「知ってるー? 答えは内に求めるものなんだよー」
「俺には無理だ。無学者代表の俺の内側に何が詰まってるか考えてみろ」
「うーん、空っぽよりも、もうちょっと、有害なものだと思うー」
「おお、まさにそれが虚無だ。お前にも無学者の資質があるな」
えーそれは遠慮したいなーとボヤく巨人の提げる籠に、熟しすぎて安売りしていた果物を数個投げ込み、合格通知が届く日の晩餐はどうするか、意見を戦わせながら俺たちは戻る。フランクはあのクリスタルエレベーターパレスを推してきたが……ライアの出世払いにしてくれんならなと呟き、帰路は甲斐性のなさを延々非難されることになった。




