第七十五話 学徒は万物を色々で総括す
公都の中等部でセレモニーに使われたのを思い出させる擂鉢状の大教室の聴講席最上段、遠くに担当教官と教卓が小さく見える。私は跳上式の椅子の金具がギシギシ音を立てるのを気にしながら困り果てていた。大教室を埋め尽くした受験生はみな一心不乱にペンを動かしている。私の机上にはペンのひっかかりやすいザラ紙の問題用紙、氏名と受験番号を記入する欄の下、出題は一行だけだ。
“ 『閉ざされた空』が閉じている理由に関し、魔程式を一切用いず、歴史の観点から論述せよ。 ”
なぜこんな問題が出ているのに他の子のペンは淀みなく進んでいるのか。再び顔を上げると数段下に、ピエタらしい銀髪が……いや、セルマさんだ。おかしい、その数人左にニルさんの艶やかな黒髪、机間巡回の監督は背広を着たフランクさん、下で黒板に何か書き始めた教官は茶色の髪のメリッサさん……そこで額、直後に全身に衝撃を感じ、ハッと目が覚めた。……布団の上に掛けていた厚手の綿入りガウンと一緒に落ちたのが幸いして、ひどい痛みはなかったけれど、床に落ちたときの鈍い音で二人を起こしてしまった。濃い青のガウンを着たアレクがベッドの上から覗きこんでいる。
「どうした?」
「落ちた。ごめんなさい」
答えたあとで、受験生としては縁起のよくない表現だったと気づく。まだ薄暮、四時を過ぎたころかな……身を起こすと冷気が感じられ、息も白いけど夢の中の焦燥で火照っていた体を冷やしてくれるのが有り難い。コモも目を覚まし布団から半身を出そうとしてブルっと震えたかと思うと、リスみたいに布団を全身に巻きつけ身を縮め、ふがぁと聞こえる大欠伸をした。くぐもった声が響く。
「寝ぼけたか? 珍しいな」
「うん」
アレクは私が無事なのを確認するとすぐに寝入った。うー寒いとコモは小声で唸り、布団と同化しようと努力している。私はベッドの端から、アレクを起こさないよう静かに潜り込み仰向けになった。ちょっと嫌な夢だった。ホルズワス奨学生を目指すプレッシャーなんだろうか。よくわからないけど。
◇◇◇
一般教養で数科目の卒業試験は二月の半ば、それまでは自由登校扱いにして受験準備を進めて構わないと先生は仰ったが、どこか正しくないと思えたから年明けからいつも通り学校に通う日々を始めた。メリッサさんやセルマさんは呆れていたが「端役ハウスに一日中籠っていたら、合格が遠くなっちゃうんじゃないかなー?」とフランクさんが言ったので納得してくれた。新年の取締役会で、私は受験終了までライアープロへの関与を禁じられた。議事録もフランクさんに預けることになったが、義肢テストだけはどうしても参加させてほしかったのでニルさんに直訴し、見学だけという条件で許されている。ニルさんとセルマさんはシェアハウスへの来訪を自粛し『巨人』亭の晩御飯にだけ同席するようになった。コモはメリッサさんにずいぶん長いお説教をされ、私の勉強中はフランクさんが自室に拉致して、私たちが寝付いてから部屋に戻るように監視されている。そこまで腫れ物扱いしなくても、と零したコモは三人から魔術的折檻を受け、火傷と凍傷と内出血だらけになった。
難関校を受験する生徒が稀有なので、私が普通に授業に出ているとあちこちから好奇の視線が注がれる。転校直後にアレクの放逐に関してきつい言い方をしてきた女の子たちは、優等生はさすが違うよねー、などと揶揄しているけど、アレクに前もって注意されていたので気にしないことにしてる。ピエタに書く手紙の中でだけ愚痴ろう。それに主計科に通う年上の人たちが、課題に困ったときに私を見つけて相談しにくるんだけど、おそらく雰囲気を察して防波堤になってくれてるんだと感じる。メリッサ師匠に「ちょっと気が重い」と言ったら、役得だと笑われた。
「何も言わないのに気配りしてくれる男ってのは下心ミエミエだけどね、悪いことじゃないわよ。それを上手く捌いて利用すんのもいい女の必須科目。いい手本がそこら中にいるでしょ、受験が終わったらそっちの練習してみる?」
遠慮したいと答えたらまた笑われた。セルマさんもニルさんも口を揃え、私にはゼッタイ男運が無いと断言しているのだ。御母様を御覧なさい、アレですよアレ、アレというのもおこがましいプンププンです、遺伝魔工学が進歩して不要遺伝子の除去ができるなら即座に実行しているのですとニルさんは息巻いていた。こういうときは感想を言わずに黙って微笑んでいればよいらしい。
一限目の戦後史が終わったころ、一緒に受けていた演劇部の後輩が肩をつついたので教室の後ろを見ると、戸口で主計課のリースさんが、大きな体を小さくして他の生徒の出入りを邪魔をしないよう、遠慮がちに覗き込んでいる。目が合うと手で教科書を示したあと、コモが時々やる片手拝み。また授業で分からないところがあったみたい。
「ありがと。ちょっと行ってくる。お昼は一緒ね」
教科書を鞄に詰めて戸口へ。後ろには猫獣人のブライトンさんもいた。
「……ごめんな……でも昼の授業は進んでてよ、たまに出るとずっと先のほうなんだよ」
水曜日は市場が休みなので、去年の暮れから年嵩の夜間部の人たちは昼の講義も週に一度聴講しているそうだ。リースさんは木綿や麻の生地を仕入れて市場に卸すお店、ブライトンさんは鮮魚の運送をやりながら主計科に通っている。
「二時限目は講義がないので、昼食まで大丈夫です」
図書室に向かう。リースさんの下のお子さんが熱を出して奥さんが聖教会の分院に連れていったそうだ。ブライトンさんが猫耳の片方を心持ち寝かせ、リースさんの袖を引っ張って私から距離をとらせた。
「ライアちゃん受験生だぞ。流感とかじゃねえのか、おまえは大丈夫か? 万一があったらおまえ、魔女さんたちに七回は殺されるぞ」
「いや、知恵熱だってよ。だいたい市場で合同予防接種受けたじゃねえか」
カリャーマ第二の図書室はあまり利用されることがない。本を読む人、調べ物をする人が少ないからだ。無理して魔晶端末を買って、それで間に合わせている子が大半を占めている。司書の先生に挨拶して、明るい窓際の席に向かい合わせで座った。
「じゃ、ライア先生、よろしくっす」
ちょっと嫌だ。コモが教えることを極度に嫌っているのをみんな嘆いてるけど、先生って呼ばれるのは……イヤ。
「呼び捨てでいいです。監査論ですか?」
今日二人が聴講したのは会計士に必須の監査論。夜学ではようやく原価計算に入ったばかりだから、法令の多い監査論は難しいだろう。でも素直に立派な姿勢だと思う。分からないことでも興味があるなら飛び込んで、まず感じてみる。コモの好きな考え方だし、アレクも「無謀で短慮だ」と批判するものの、そういう行為を「正しくない」とはいわない。幸い図書室にあった古い法令集を借り、短文の正誤を判定する問題の説明をしているうちに時間は過ぎ、二限終了の鐘が鳴り校内がざわついてきた。リースさんが伸びをする。獣人のシッポの毛並みがザワザワとふるえるのを見るのは……ちょっと面白い。
「……いやー、助かった。今日もお弁当なんだろ? 演劇部の部室で食うのか?」
「はい」
するとブライトンさんが布袋の中からプルタブ式の缶詰を一つ出し、私にくれた。
「スリーツオの魚市場で最近作り始めたんだ。魚の中骨の水煮、カルシウム豊富で骨が丈夫になるし、……きっと脳味噌にも効くぜ。友達と食ってみな」
これは知らない食べ物だ。栄養はありそう。持ち帰って師匠に相談して……いや、みんなで食べよう。リースさんはブライトンさんに、あまり粗末なものを礼にすんなよ失礼だろと怒っている。
◇◇◇
演劇部の部室には魔晶ポットがあってお茶が飲める。部長が買い置きしている葉が美味しくてつい飲み過ぎてしまうので、今日は二杯だけにしようと心に決め部室に向かう。
「失礼します。ライア=ブレイド=コモン、入室します」
秋の学園祭のあと、一年生が五人入部してくれたのは嬉しかった。三年生が卒業すると、魔法を使う舞台効果を担当できる人がいなくなるけど……それは仕方ない。コモやフランクさんみたいに、大道具や舞台美術だけでもお芝居はできるんだもの。一年生の一人は看板や装飾を手掛けるお店の息子さんだったので期待したのだが、本人はお芝居のほうをやりたいらしい。そのうち女の子たちが拝み倒して描かせると予想できるけど。アウロラ部長がお弁当の包みを開きながら私に尋ねた。
「また夜学の主計科の人たちに拝み倒されたそうね、だから自宅学習にすればいいと言ったのに……」
部長は私より二つ上、服飾店を営む実家でマヌカンの真似事をしている。皮革製品のデザインを学ぶ専門学校を希望して、ご両親と喧嘩になったそうだ。歴史的経緯で、肉屋さんや皮革職人の社会的地位が低いという現実は未だに残っている。他者の命を奪って生きるしかできない「生物」でありながら、こうした偏見が世間に広がっているのは人類も非人類も同様だという。生殺与奪の権を握る故に他種族より厳しい倫理と掟を課しているダークエルフの歴史をニルさんが話してくれたことがあったが、おそらくは原初の昔、肌の色だけで差別されたという歴史的記憶を忘れぬためだという推測には納得できる重みがあった。全く話を聞いていない素振りでお茶を飲んでいたコモがつまらなそうに、差別はパレアスの全知性が誇るべき文化の一様式に過ぎないと口を挟みニルさんを怒らせていたけれど、その皮肉な見方にも否定しきれない何かがあると感じる。
「大丈夫です。これ、ブライトンさんから貰いました。お昼にって」
空いている席に座り、お弁当と一緒に缶詰を出して見せる。先日入部した、一年生の大柄な男の子が女子のテーブルまでやってきて眺め、がっかりしたように言った。
「……骨? 骨の水煮かよ……獣人はこれだから……」
すかさず同級生の女の子が叱る。
「テニアン、デレハラだよ!」
チ、と舌打ちして男の子の集まっているテーブルに戻っていった。そうか、骨はケモノや非人類の食べ物だと思われてるのか。人類も骨格に蓄積したカルシウムを体内に取り込んで暮らしているんだから大した違いはないんだけど、と思うが沈黙を守った。何となく手を出しにくい雰囲気が生まれた缶詰に手を伸ばし、お弁当を包んでいたナプキンを広げ、プルタブを開けてみた。かすかな潮と鉱物に似た匂い……嫌いじゃない。小指ほどの太さの薄桃色をした骨が、珊瑚の一種みたいに並んでいる。手作業で詰めてから加熱したんだろう。これを詰めた人は、中等学校の昼食時に、美しい並び方に感嘆する娘がいると想像したのかな? 柔らかく煮えているようだ。みんなも怖々覗き込んだ。
「……食べられるんですよね……でも調理して食べるものじゃないんですか?」
二年生が不審な顔で聞くのに構わず、フォークで一つ掬い取り口に入れてみたら、みんながワッと言った。すごく柔らかい……確かに魚のほのかな味、それと湿気たクッキーみたいな軽い歯ざわり、噛むと細かく砕ける。面白い。
「私は好き。調味料があるともっと美味しいかも」
師匠の大嫌いなマヨネーズはどうだろう。おそらく合うと思う。お弁当を開けてみると……黒パンのサンドイッチの横にトマトと並んでいる半熟卵を発見した。この黄身に絡めてみよう。さっそくフォークで卵を割り、みんながまだ手を伸ばさないのに構わず、さっきより大きめのを掬い取って黄身にくぐらせた。口に運ぶと……うん、このほうが更に美味しい。師匠に報告しなきゃ。隣の一年生が半信半疑なので、お弁当箱の黄身を示して誘ってみた。
「面白い味。どう?」
けっきょくみんな順番にこわごわ試し、案外美味しいという意見にまとまった。誰かが、美容とスタイル維持にカルシウムは欠かせないよと言い出したら手の伸びる速度が倍になり、男の子たちが覗き込むころには殆ど無くなっていた。さっき文句を言った一年の男子も食べて「あれ、うめえじゃん?」と言ったので、今度ブライトンさんに報告しておこうと決めた。
◇◇◇
三限と四限は技術の授業、受講者は七人だけ、女の子は私一人だった。実は楽しみにしてたのだ。コモが好きな工作、鉱石を使う簡単な魔放送受信機の製作だ。原理は簡単だった。細い金属のコイルとコンデンサで同調回路を作り、鉱石で片波検波、その微弱流をロシエル塩の結晶で作った薄板を内蔵したイヤホンで聞くだけ。ハンダづけというのをやってみたかった。
コモの机の引き出しに詰め込まれている迷宮産の部品に似たものが配られた。薄い木の板に穴を開けて数点の部品を配置し、部品の端を教科書通りに金属線を絡げて繋ぎ、そこに溶かした合金を流し込んで固定する。コモが眉を顰めて薄目になりながら小さい部品を繋ぐ作業をやっているのを見て滑稽に感じてたけど、確かにああいう顔になるのが分かる。息を詰めて、左手に持った細く柔らかいハンダ合金を接続部に近づけ、コテで熱した部分で数秒待つと……うまくいくと、絡げた金属や針金の隙間に、ジュッという小さな音と微かな煙といっしょに溶けた金属が流れこんでいくのだ。でも熱し過ぎて真っ黒になったり、山盛りになってしまったり。自分の眉のあたりが顰められているのに気づいて、可笑しくなった。こういう顔になるのは仕方ない。今度からコモの作業を目撃しても、笑うのは堪えることに決めた。
耳にイヤホンを嵌め、コイルから長く延びる金属線を持ち、コンデンサに繋いだダイアルを微妙に動かして、また戻して……何度めだったろう、確かに小さな音が聞こえたのでそのあたりを探る。……あ、また聞こえた。男性と女性が話している……ドラマかな。左手に持って伸ばした長い線が揺れると聴こえ方が良くなったり悪くなったりする。技術の先生が声をかけた。
「アンテナ線を窓側に伸ばして、窓枠やノブなどの金属部分に軽く結んでごらん。そのほうがよく聞こえるはずだ」
みんな窓側に行き、すぐに「あ!」「おお、でかくなった、聞こえる」という声が。私も教壇に近い窓側に向かい、実験器具の洗浄用水道栓にアンテナの先端を触れさせた途端……さっきまでの三倍くらいの音量が聞こえてびっくりした。わあ、十分実用になる道具なんだ。放送は71年の魔映画ランキング、番組が選んだベスト20の発表らしい。
“……では六位、ここに『転生探偵』って意外ですね。もっと下だと思ってたけど”
“バディ物の定石はしっかり押さえてますからね、年末特番見ました?”
“ええ、チューニーの一般人っぽい演技が驚きでしたね、いい意味で”
“あたしはむしろ、ああいう路線でもキチンと見せられることを示した脚本を評価したいんですよ……”
知っている人の名前が出たのでもっと聞きたかったが、終業レポートを書かなければならないのでアンテナを外し席に戻った。コモもこうして受信機を作ったことで、魔楽機づくりを好きになったのかな。そうだ、音楽を流している放送局も聴けるだろうか? 年明けからコモがいない静かな部屋で勉強しているけど、却って落ち着かない。夜、勉強しながら聴いたらアレクに注意されるかな。
◇◇◇
帰宅前に部室に寄ってみた。部長が下級生に合わせて手直しした脚本を説明しているところだった。
「ライアも帰るの? じゃ、私も」
校門を出ると夜間部主計科の一人、質店勤めのイギーさんが登校してくるのに出会った。
「イギーさんは水曜もお勤めなんですか?」
信用商売だからか、鉄錆色のスーツにネクタイだ。コモもこういう色にするほうがいい……と思う。よくわからないけど。イギーさんは秋まで伸ばしていた長髪をさっぱりと切り、丁寧に撫でつけている。奥さんに叱られ年末に切ったそうだ。
「おお、俺んとこは水曜と日曜が忙しいんだ。堅気は日曜、商売人は水曜休みが多いからな……撮影所の人もたまに来るよ」
え、コモも? 思わず私の眼がきつくなったのに気づいてイギーさんは破顔した。
「違う違う。逆だよ、質流れの品を魔映画の小道具に使うために仕入れに来るの。親爺さんが来た覚えはねえけど、大道具の連中が時々来て、買ってくれんだよ」
そうか、ならば安心。お祖父様由来の品物は殆ど残っていないけれど、もし質屋さんの店先に並んでいるのをアレクが見たら……想像力が及ばない。
「それよりよ、受けるの普通科じゃねえんだってな……ふつうに昼間通ってよ、学生ライフを満喫するつもりはねえの? 若いうちにそれなりにやっとくべきだぜ、遊びも」
心配してくれてるんだろう。アウロラ部長が代わりに答えた。
「ライアさん、昼間は夜学の方と同じで、お勤めを始めようと思ってるのよね」
15歳でアレクは騎士団入り、コモは軍隊に志願した。メリッサ師匠は娼館に拾われ、セルマ先輩は家出……子供っぽいと思うけど、セルマさんじゃないけど、負けたくない、という気持ちはどこかにあった。頷くとイギーさんは眉をヒクヒクさせ肩を竦めた。
「15歳ってっと、七年前か……ああ、俺は『五百段階右折』走り始めたころか」
「暴竜族だったんですか?」
撮影所の大道具スタッフにも元は暴竜族だった人がいるそうだ。その縁で質屋さんを利用してもらってるのかも。
「先輩のケツに乗せてもらってただけだったけどな。竜買う金なんて無いし、後輩からカツアゲた雑貨を捌くために今の店に出入りし始めたのがその年頃だな……アウロラちゃん、言うなよ、また女房に叱られるからよ」
部長のお店のお針子さんの一人がイギーさんの奥さんと仲がいいそうだ。フランクさんは「壁に耳あり衝立に目あり、床にシロアリここに幸あり」という諺を教えてくれたけど、あの諺はこういう場面で使うのがいいのかな。部長は澄まして唇に指先を当て、どうしようかしら?という演技をしてイギーさんを苦笑させた。
演技が上手なのに部長は魔映画界への関心を示さない。脚本を書くほうがどちらかというと好き、でも服飾を考えて試作するほうがもっと好きだという。爪の欠片をもらって、今度ピエタが遊びに来たら飲ませるほうがいいかもしれない。フランクさんの細工物や『セルメル』の背景画、コモが作っている魔楽機や人形のことで話が弾んだ。
「今日、技術の授業で魔放送の受信機、作ったんです」
「あら、ハンダごてを使うのよね? ロウづけ作業は私もやってみたいの。難しかった?」
皮革製品の出来栄えを左右する要素は留め具やボタンなどの金具だという。いずれ自作したいので金属加工にも興味があるそうだ。
「顔が、こんな風になります」
午後の作業中、無意識にしていたしかめっ面を再現すると笑ってくれた。セルマ先輩は表情で人を動かすことがとても上手。公都ではそんなことをした記憶はないけど、魔女の姉三人を毎日眺めてるうち、試してみたくなったのだ。ふだんの私の印象とギャップが激しいので、そこが得だわとニルさんが褒めてくれたけど、ニルさんほどギャップが大きいとは思わない。
「ご両親が理解のある方で羨ましい……といったら気分を悪くする?」
「いいえ。部長はご両親と何度も話したんですか?」
嘆声し、芝居のように天を仰いだ。
「父も母も、自分たちには偏見はない、でも世間様がそう思わないってことの意味を良く考えなさいっていうの。そんなこと言ったら、大概のお仕事は歴史的に偏見塗れ、下賤と紙一重ということになるでしょ。そう言い返すとあとは親の感情論が延々と続くだけなのよ……好き好んで娘に辛酸を嘗めさせる親はいない、とか。だからしばらく冷戦状態」
騎士団の先祖も山賊や盗賊、私掠団だし、演劇や楽士も旅して暮らす娼婦と幇間が始めたという説もある。でも高貴と下賤、聖と俗という区別は存在するし、コモは怒るけど、階層社会が文明の発展を支えてきたことも歴史的事実だ。あ……不意に今朝の悪夢を思い出した。『閉ざされた空』を歴史として詳述せよといわれたから私は悩んだんだ。『閉ざされた空』はさまざまな史観と無縁、むしろ歴史の外……史実として位置付けることを拒否しているのではないかと予想していたから。私が真面目な顔になったのを、部長は幸い勘違いして受け取ってくれた。
「ごめんなさいね、人を羨んで愚痴っても仕方ないことよね。まあ見ててごらんなさい、アウロラの名を冠した洒落たレザーポーチを、ニルヴァーナさんやアンセルマさんが愛用する日がきっと来るのよ」
それはいい。部長に早く作ってもらって、ライアープロでニルさんセルマさんの限定モデルとして売り出せば……コモみたいなことを考えちゃった。受験終了まで事務所の業務に口出しも禁止だし……でも報告はしておこう。
◇◇◇
「プレゼンス、事務所近くの訓練場でいい?」
今日はシーズ農協が週に一度の即売会を開いた日だ。昼には全て売り切ってしまうので農協の人は帰ったあとだが、プレゼンスに差し入れてくれた青菜や果物が小屋の隅に置いてある。
「口に合わなかったの?」
首を振った。美味しかったので、散歩のあとに夕ご飯として食べるため、とっておいてるんだろう。鞍を乗せずに通用門へ、轡を軽く牽いて通りに出る。
「どっちから行く?」
今日は右回り、カリャーマケーブルネットの事務所脇から倉庫の多い通りを選んだ。公都の時と違って、あちらこちらで顔見知りの人に挨拶され、色々と伝言を頼まれることもある。朝夕二食を『優しき巨人』亭で食べているから、冒険者や探索者、ギルドや商店街の人たちには殆ど顔を覚えられている。倉庫の奥にある小屋から出てきた子供たちが数名走ってきた。
「竪琴ねーちゃん、帰りもここ通る?」
プレゼンスを見ると異論はないようなので、私がうんと答えた。
「じゃあ、井戸で水汲んどく。プレゼンス、来たら啼いてよ?」
女の子が伸びあがってプレゼンスの顔に言い聞かせると、プレゼンスは大きく鬣が揺れるほど首を縦に振った。じゃああとで、と戻っていく子供達は『空』に通う非人類の子よりもさらに小さい。その後も訓練場で汗を流した探索者パーティーや冒険者ギルドの人たちとすれ違う。『巨人』亭の今日の定食メニューを尋ねられたり、セルマさんのポスターの余りはないか聞かれたり。
事務所近くの訓練場では、公都の護衛騎士団で団長を務めていたディードリヒさんの率いる『薄暮の地平線』が他のパーティーと模擬戦闘をやっていた。私に気づいたのでお辞儀して敷地に入る。プレゼンスはだいたい五周すると、あとは時間まで訓練場の周囲に生えている草を観察したり、時折現われる小動物にからかわれたりしながら過ごすので私は暇になる。厚手のマフラーを大きな石に敷いて座り、応用解析の一問一答集を広げる。
しばらく周囲の音が聞こえなくなるくらい集中していたようで、参考書に大きな影が差して気配に気づいた。プレゼンスが散歩に飽きた時間かと思い顔を上げると、リーダーのディードリヒさんと……シグルドさんだったはず、まだ若い剣士さんが立っていた。
「済まん、邪魔をしたかな?」
いえ、と答え立ち上がる。二人は公国騎士団の鎧に似た燻し銀の甲冑をつけている。
「あ、受験生だったよね……勉強の邪魔しちゃったかな?」
再びいいえ、と答え、訓練場の端に目をやると、プレゼンスが二匹の野ウサギに追いかけられながら並足でこちらに向かってくる。
「馬の散歩のついでです。もう帰ります……御用ですか?」
「うむ……討伐依頼があったので来週の後半から数週、ゴルドクリクに向かうことになったのでそれを……母上に伝えてほしい」
ゴルドクリクは北西にある、金を産出する沢で有名な歴史の古い町。一時は鉱脈が枯渇したと思われていたが、数年前に大きな竜迷宮が発生して再び砂金や粒金を産出するようになり、治安が悪くなっているという噂があったところだ。……あ、そうすると。
「返金ですね、母に伝えます。一月分は半分、二月分は全額返金できると思います」
『薄暮の地平線』が毎週月曜日に教室と庭を使って冒険者訓練をやってくれている。12月の初めに三か月分をまとめて先払いしてくださったのを覚えている。ディードリヒさんは顔を顰めて小さく首を振った。
「いや、返金の必要はない。ギルドに伝え、職員に使わせる予定だ。面識のない者が勝手に入っていると不都合だろうから、担当が決まったら挨拶に行かせると伝えてくれるかね」
「……はい、わかりました」
蹄の音がすぐ近くで止まり、プレゼンスが二人を眺めてから私の顔を見た。覚えておいたほうがいい人なのか? と言われた気がしたので紹介する。
「アレクの同僚だったディードリヒ=ストコフスキさん。そちらはイレーネさんの御主人のシグルドさん。来週からゴルドクリクでお仕事」
プレゼンスは軽く頷くと首を上げ、鬣を揺らしながら軽く前脚を蹴上げて嘶いた。ディードリヒさんが感心の声を漏らしてくれた。
「おお……『出陣の息吹』か……懐かしい」
「それ何です、団長?」
シグルドさんは知らなかったらしく、ディードリヒさんはわずかに苛立たし気な口調で説明した。公国の各騎士団に伝わる軍馬には様々な流儀があり、大切な戦闘に赴く際、騎馬が騎士に儀式として行う仕草が『出陣の息吹』。騎士を目標の一つに置いているシグルドさんがそれを覚えていなかったことをディードリヒさんが叱っている。アレクがコモを叱るときを思い出し、少しクスッとしてしまった。
「いやー面目ない……ライアさん、御祖父様とは面識があったんですか?」
「いえ。祖父は50年7月に亡くなりましたから」
「そうか……僕達の憧れの一人なんですよ、ゲイル=レビンソン=ブレイドは……」
「シグルド、他に礼を言うことがあるだろう」
「え? ……あ、そうです、お父様たちにお世話にならなければ……どうだろう、イレーネはどこかの大企業の御曹司に嫁に行ってたかなぁ。僕はいずれにしろ団長たちにしごかれてたと思いますけどね」
シグルドさんと奥さんの馴れ初めはメリッサ師匠が企画した無茶な作戦だった。結婚式には端役ハウスの全員が招待されて人形劇をやったし、イレーネさんの実家はアレクがシーズで仕事をしていたときにスポンサーになってくれた。公都で流すプリッツェルのコマーシャルにセルマさんを使えないかという打診もあったみたい。他の大人はともかく、コモが人のお世話をしたというのはちょっと変だ。ちらとプレゼンスを見ると、同感だという顔をしている。
「父がご迷惑をかけるほうが多いと思います。お詫びします」
一礼して頭を上げると、二人は何とも困った表情で私を見ていた。タイミングよくプレゼンスが嘶き、私は轡紐を持って撤退することにした。よく分からないけど、そうするのが正しい……と思った。
◇◇◇
学校で作った魔放送受信機をアレクに見せた。窓際にアンテナ線を伸ばして張ったけど、学校で聴いたときよりも雑音が多い。でもアレクは左耳にイヤホンを当て、しばらく目を閉じて聴いていた。
夕御飯の席でコモに雑音のことを話すと、平地だから魔放送の入りが悪いんだと言われた。
「だがな、雑音の中から聴こえる音ってのも味があるんだ。最先端の受信機やハイクオリティ魔映画みたいな臨場感とは無縁だけどな。雑音の中を掻き分けるようにして届く放送を、全霊込めて集中して聴いてよ……それに癒されてたんだ。ま、アナログ世代のノスタルジーってやつだ」
アウロラ部長の皮革細工の話にもコモが食いついた。予想通りだ。
「おい経営陣、こりゃチャンスだろ。お前らを使ったキャラクター商品、そこそこ金になると思う。バッグみたいな大物よりも、むしろ革のストラップとかキーホルダーとか……真面目に検討すべきだ。特に外注先の候補は幾つあってもいいと思うぞ」
返事がヘパとフンフフンだったことをフランクさんは記録してくれるだろうか。ちょっと心配。メリッサ師匠に魚の骨の缶詰の味を報告した。マヨネーズで和えてクラッカーに乗せてみたいと伝えたら、やはり師匠は抗議した。
「アレは勘弁。あたしの目の茶色いうちは端役ハウスへのマヨネーズ持ち込みは禁止よ」
「ライアー、メリッサはマヨネーズとアスパラを弱点とする空前絶後のダメジミ吸血鬼なんだよー」
「ウッサイわね、ライア、その猫獣人さんに今度、魚の目玉の缶詰がないか聞いといて。あたしが買ってフランクの枕元に置いてやるから」
わーワルモノだよー、メリッサがグレッサになっちゃったよーとフランクさんが笑う。ディードリヒさんの伝言を伝えると、やはりアレクはコモに、返金のお使いに行くことを命じた。
「ギルドが使うならギルドに払ってもらうのが筋だ。役員、宜しいか?」
やっぱりだ。アレクは手続きの正当さを大切にしているのでセルマさんもニルさんも頷くだけ。
「返金時に以前の領収書を必ず頂くこと。ギルドに寄り、本当に使ってくださる意思があるのか確かめること」
コモはまた面倒な仕事が増えたという顔で、お茶を不味そうに飲んでいる。
◇◇◇
夢のせいで人文科学系の出題が心配になり、帰宅後は論術型の問題集に取り組んでみた。工学系の出題よりも人文系の出題のほうが興味深い。リツモ芸術高専の最終課題「共感覚保有者の生み出した芸術を一つ挙げその特質を論ぜよ」という設問の解答例に納得できず、お茶を淹れて小休止しようとキッチンに行くと、少し経ってコモが下りてきた。
「そろそろ日が変わる時刻だ……寝不足でベッドから落ちないようにな」
「うん……コモ。共感覚を生み出す代表的な芸術って、知ってる?」
シナスタジアねぇ……と呟いたコモは、私が両手で包んでいるカップを爪先で軽く弾いたあと「音楽家にゃ、そういう連中が多いらしい」と答えた。
「どんな曲?」
「やつらが言うにゃ、どれでも、だそうだ。音色って言葉があるのがその証拠。和音や音色で特定の風景、色を感じる連中はけっこういる。味や匂いってこともあるそうだ」
「コモも?」
「俺の場合もその一種なのかな……演奏してるときに目を閉じんだろ、そうすると、自分や周囲の出してる音が一種の三次元的立体図形として配置される気分だな。ま、錯覚なんだろうが」
「……音に、囲まれる?」
こりゃ難しいな説明が、と零したコモはお茶を入れるのが面倒らしく、カップに白湯を注いで一口啜ってから、手振りを入れて話し始めた。
「俺がドラキャス持って、何か一音出すとする。ノッてるときはな、その一音が三次元的な不定形の『かたち』を持って空間に……点滅するように位置づけられる気がするんだ。その『かたち』は感情も持っている。ある一音は寂しそうにたゆたってるから、そいつと対になる音を与えてやりたくなる。別の音は物凄く傲慢に疾走を始めようとしてるんで、全く別のところからそいつを笑う別の音を配置したくなる……って、分かってもらえるかな?」
頷く。こういうときのコモの表情、手振りはセルマさんに負けないくらい雄弁だ。自分でもよく分かっていないことを誠実に伝えようという気迫が感じられる。コモに気迫という言葉が似合わないのは分かってるけど。
「さて、何か曲を聴くとする。そいつが稀に、俺に『かたち』を伝えてのっぴきならない状況に追いこんでくることがある。そういう曲が俺は好きなんだ。歌詞のメッセージよりも曲全体の構造が、俺に何かをさせようとしてる気がするんだ。構造って言ったけどな……そういう『相性のいい』曲は、最初を聴いただけで、どのように展開して最後にどんな到達点が待ってるかまで分かっちまう。予測じゃなくて事実に感じられるし、終わってみるとそれを実感するんだ。断片から全体を再構築する能力っていったら格好良すぎるかな……限定的だけどな。シナスタジアってのは俺なりの実感だと、こういうことの延長線上にあるんだと思う。ああ、それと、そういう能力は先天的なものでも天才的な才能でもない、誰でも、何でもが備えてる能力だと思う……いや、妄想してる、俺はな。……参考にはならんか?」
断片から全体を再構成するという言葉に意表を衝かれた。色が味、音が図形といった認識の先にあるのは、おそらく多義的な情報の同時処理であって、魔法演算の並列処理とは次元を異にしていると感じたから。並列処理は単純に処理機能を並べれば実現できる、量的な差異だ。でも同時処理とは全てを統合したまま演算を行う未知の作業、一種夢物語の世界だ。コモは私の顔を見て心配そうに弁解した。
「いや、すまん。勉強の邪魔したってんで、ジミ子たちに叱られる。俺の理解だとな、共感覚を利用した芸術ってのは形容矛盾だと思うんだ。芸術ってのは全て共感覚を引き起こすもの、それが倫理や道徳、法学、経済や政治との違いじゃねえかと……思うだけだ。アレックスに言うなよ」
コモはカップを持ってさっさと上の階に逃げていった。逃げてくれてよかったと思った。もしコモが逃げ出さなければ、私は共感覚と芸術を結びつけるのは『無学』ではないかという思いつきを真剣に話そうとしていたからだ。試験が終わるまで読まないことに決めた『無学 その理論と実践』全三冊。『閉ざされた空』を堕とさず、外から開くのでもなく、自分から開かせることを可能にできそうなただ一つの理論だと思って……お茶はすっかり冷めてしまった。アレクも欲しそうだったのを忘れていた。
◇◇◇
零時を回ったので問題集を閉じ、手早く着替えベッドにもぐりこんだ。仰向けのまま両手をいつものようにお腹の上あたりで軽く組んでいたアレクが声をかけた。正しい呼吸を感じるのに最適な姿勢だそうだ。
「私もコモも、何かを背負わせた覚えはないのだが……」
「うん。分かってる。いろいろのひとつ」
色々という言葉をよく使うようになったのは、ピエタと交流し始めてしばらく経ったころ。各種族の小話に興味を持って調べたピエタが紹介してくれた一つが、有史以降の歴史をできるだけ簡潔にまとめよという課題に困ったマヌケ男が提出した解答用紙の話。大きな字で「色々あった。」とだけ書いてあり、それが最高点を与えられたというので吹き出してしまったけど、確かに色々あったとしか表現できないと思い直し、便利な言葉だと思うようになった。
「話、聞こえてた?」
「いや。空気で分かる。コモが真面目に妄想を語ると……音が聴こえるのだ。濁っているのに心を惹く、波のような音が」
あ、アレクも共感覚の話をしてるのかも。
「かたちは、ある?」
ふふ、と小さく笑い、アレクは左手を布団から抜き私の頬に軽く触れた。
「休もう。就寝前の妄想は安眠に有害だ。おやすみ」
それだけ言って手を布団に戻し、いくらも立たぬうちに微かに上下する布団の動きと静かで規則正しい深い寝息が伝わってくる。アレクに合わせ深呼吸すると私もすぐに寝付いてしまうのだ。そうだ、今夜の夢にあの問題が出たら、大きな字で「色々ある、そういうものだ」と書いて提出しよう。夢の中では奨学金はおろか合格も無理だと思うけど、おそらく擂鉢状の試験会場のどこかに隠れているコモは褒めてくれるかもしれないと思った。よく……わからないけど……。




