第六十七話 端役 運輸業の苦労を体感す
パレアスにやってきた転生者の引き起こす戦闘や政変や勇者警報、突拍子もない超技術にはウンザリするものの、連中の偉い部分は、文化衝突による社会変容を専ら趣味・娯楽的な部分で留めているところだというのが私見だ。いつだったか、馬無し馬車を使う鉄道事業というのをクラインさんが始めると聞いたころ、キリットさんに尋ねたことがある。
「……どえらいモンすねー。便利っすけど、そんなもんが出来ちまったら職にあぶれる連中も山ほどいますぜ。輸送ギルドに竜車組合、馬車協会に有翼高速運送協会……」
台本に山のような赤を入れながら俺とお喋りしていたキリットさんは、心底不思議な顔で俺を見た。
「端役君。我々がそんなことをすると思うのかね? 杞憂だな」
えー? という表情が伝わったのだろう。キリットさんは普段よりもキリッとした顔で続けた。
「我々がこの世界の文化を、程度の差こそあれ、我々なりに愛していることは分かろうもの。たかだか100キロメルカルを3日かけて旅するのも、一通の封書を他国に送り返事が届くのが数週間先というのも、我々が愛する美点の一つだ。転生者会議でも、鉄道は娯楽施設としてのみ導入を認めるということで満場一致した。信じられんか?」
……正直驚いた。チート能力で世界変革されちまうんだろうという一種の恐怖と諦めを、全パレアス人が抱いてると思うのだ。恐る恐る話すと、ケシカラヌことに「度し難い奴……」という憐みの表情で見られた。
「ビスタ! これを監督に渡してくれ。二重マルの部分は譲れんと伝えろ、スーパーベリリウム鋼の盾ごときで黒剣の斬撃が防がれるなど言語道断だ。……端役君、僕を何人と認識してるのか答えたまえよ、正直に」
転生さんっすよね? と返す。珍しいことに溜息一つ、お気に入りの腰の小型剣を手先でもてあそびながら遠い目になった。
「……フム。我々の活動がまだ不足しているようだ。告げておく。サバス自治区の寒村に突然放り出されたあの日から、僕はパレアス人だと思っている。君らには不愉快かもしれんがな。……カリムーっ! 何度言えば分かるのだ、僕が黒剣を抜くということは前世現世来世を貫く全ての因果を両断する行為だとあれほど……」
この話は印象に残った。タナトスさんの所でお茶を飲みながら話したこともある。
「そうですね……結局、私たちは迷い人なんでしょうね。それも……迷うことを楽しむために転移・転生させられた迷い人。元の世界でありふれた暮らしを送っていたのに突然超人的な能力を授かって放り出されたわけです。前に話しましたよね、転生しても本質は変わらないのではないかと……私は極端ですが、他の転生者の方々も、それなりに迷って自分の位置を定めようと苦労しているのだと思いますよ。できればこの世界から愛されたい、必要不可欠な存在になりたいと思う人は、少なくないでしょう……自分を愛するように世界を改造するというのは、少々抵抗を覚えます。ですから異界の技術導入による社会構造変革には慎重ですね。内規みたいなものになってます」
転生者がしょっちゅう起こす政変や体制崩壊はドウナンダロウナー、と思うものの、彼らもそれなりにパレアス文化を尊重してくれているというのは意外であった。ところで俺がこうした深遠な思考に囚われているのには理由がある。西に傾く日を背景に馬車にうず高く積まれた木箱、先ほどから欠伸ばかりしているプレゼンス、ひん曲がったボルトを岩で殴り無理やり押し込んだため気持ち悪い角度で曲がっている車軸受けの金具。ここはカリャーマからオーノギロに向かう主要街道、16号線の途中だ。転生者が超技術による大量高速輸送網をさっさと整備してくれりゃ、現在の窮状は無かったのだという理不尽な怒りがふつふつ湧き上がる。欠伸のあとに道端の草をつまらなそうに食み始めた相方に聞いてみよう。
「どうする? ビグリングの竜車ターミナルまであと小一時間ってとこだが、行けそうか?」
……返答がない。あのあたりなら応急修理を受けてくれる鍛冶屋くらいあるだろうが、重荷に撓んだ軸受けがあとどれだけ持つのか、甚だ心許ない。突然壊れたらあっという間に荷が散乱……考えたくない。
◇◇◇
俺の借金は増える一方である。主にニルセルからクダラン頼み事が山と舞い込み、小銭稼ぎのために迷宮に潜る時間がなくなる。高級レストランの晩餐も高くついた。確かに旨かったし支配人もサービスしてくれたが……70メリ! 端役と現場下働きのギャラは家計担当のフランク直行、札入れの中に札が一枚もない日も多い。誰でも言うだろう。「働け」と。
『セルメルのから騒ぎ』用のジングルを幾つか録音していた夕刻、学校帰りのライアが珍しい人に逢ったと伝えた。
「『ウーティス』のグヤトンさんに逢った。コモに頼みがあるって」
え、誰だそれ? ……魔楽器を机に立てかけた途端、六年以上俺の顔を見るたびに説教を垂れてくれた安宿の親爺さんの顔が浮かんだ。
「親爺さんか。どこで逢った?」
まだ安宿に一人暮らししていた頃、アレックスが外遊に同行するあいだ、ライアを数回泊めたことがある。こちらに越してからも数回顔を出したという。どんな話をしたのかは知らんが。
「年末バザーの準備でお願いに行ったとき」
学生が各家庭や商店を訪れ、不要物を引き取りバザーを開き、収益を全て児童基金に寄付するというヤツだ。頼みか……また布バッグが大量に余ってるとかいう話かな? それならむしろ歓迎だ。ライアープロ公認のグッズとして、大手を振ってニルセルメリバッグを大量生産し売りさばくこともできる。善は急げ。
「分かった。ちょっくら行ってくるわ」
そういえば安宿の名前、『ウーティス』だっけ……その名に惹かれて転がりこんだ記憶も微かにある。夕暮れの冷え込みがきつくなる時期、鳶職がよく着るダブダブの綿入れを着て出かけた。
十年一日の如く新聞を睨みつけている親爺さんの顔が、暗めの室内灯に照らされて赤く見える。声をかけるまでもなく、チラと一瞥して顎をしゃくった。
「302号。俺の紹介だといって話を聞いてやれ」
302号……B級パーティーの斧使い夫婦の隣……闇市場に出入りしてる若いのがいた部屋だっけ? 軋む板張りの階段を上がり、ノックすると……メリッサと同年配と思しき赤毛の女、ついで亭主らしいノッポが顔を覗かせた。知らない顔だ。
「どうも。昔長い事ここに世話になってた者で、親爺さんから聞いて来たんだが……」
「ああ……俳優やってる人! 悪いな……散らかってるんで下でいいか?」
そのまま二人と階下に降り、カウンター傍の机を囲む。亭主は輸送ギルドの内勤、女房はラッカーマの非人類専用宿の仲居をしているそうだ。
「小型竜車でオーノギロまで運んでほしい荷があるんだ。ユニオンと揉めてて厄介な状況になってるんだけど、義理もあって……」
運輸業の長時間労働や非正規雇用の待遇問題は年々深刻化している。公国がガイドラインを示して環境改善に向けた取り組みをしているのは分かってるが、末端や個人業者にまで恩恵は届かない。組合も人材確保に躍起である。労使馴れ合いのストライキの一種だろうが、急ぎの荷物は常にあるだろう。
「モノは何?」
「紙」
各地に残る手漉きの名紙(というのか?)の中でも知られたサンクリット紙、真水竜魚の住める綺麗な池のほとりに自生する植物を煮て叩いて作ったヤツだ。趣味人が工芸品に使ったり、一部の画家が珍重している高級紙である。新年を迎える装飾品の材料として使うという。
「竜車の手配はしてくれんの? 御者は何とかやれるけど」
地竜なら何とかなる。大人しくて馬力のある黄色や緑系が好みだ。
「いや、それもユニオン絡みでさ……」
女房も口を挟んだ。
「そこら中に走ってるんだから幾らでも借りられると思ってたんですよ私も。でも地竜も登録制で、ストに合わせて休養と繁殖をやるそうで……個人所有者はこの機会に大車輪で小口の仕事を受けちゃって……当て、ないかしら?」
えー……地竜なんて持ってるヤツはいねえよ。市場で働いてるといってた青年に頼んで……いやいや、彼らもユニオン所属だろう。仕方ねえな……。
「年寄り馬なら一頭都合がつく。馬車じゃマズイってことはないだろ?」
「え、種別は? 嵩のわりにけっこう重いよ?」
紙や本は確かに重い。だが小型一台程度……。
「軍馬の血統だ。年寄りとはいえ、農耕馬にはひけをとらない馬力はある。飛ばさなければ何とかなるだろ。車はそっちで手配してくれよ……期日は?」
「20日までに納品。車か……ギルドの共用車でよきゃ出せるな」
プレゼンスのカポカポ歩きでも10時間かければ辿り着く距離だ。帰路でもう一日……今日は10日、十分余裕もある。
「荷揚げと荷下ろしは?」
「こっちは手伝う。納品は……まあ、頼む」
その位はやむを得ないか。ギャラは現場下働きの10日分、受けない手はない。
「ちょっと待ってくれ……」
予定を思い出す。撮りと重なる撮影所の下働きは外せない、『から騒ぎ』の撮影は平日夕方に2回、セルマに同行してケーブル局の音声担当と逢う日が14日……2日の空きができるのは……。
「16日の朝一番に出るってのでどう? 当日中に納品で」
段取りを決め、ギルド管轄の倉庫前に朝6時と決まった。ギャラも出発時に先払いで渡すという。
「グヤトンさんの紹介だし、有名人だしな。信用できるだろ?」
有名人と言われた瞬間、背後のカウンターで新聞がガサガサ揺れ不気味な唸りが聞こえた。笑いを堪えてるんだろう。夫婦は挨拶後、三階に消えた。
「……てな感じです。こっちも助かりますよ、物入りが続いてんで」
親爺さんは老眼の進む眼を一層細めて俺を睨んだ。
「有名人サマが、御冗談を言っちゃいけねえな……」
鼻で笑いやがった。何にせよ助かった。帰ろうとすると声がかかった。
「嬢ちゃんに言っとけ。木の実のクッキーがもう無えぞ」
先日魔女どもが学校で配り回った木の実入りクッキーをメリッサとライアがアレンジしたのだ。持ってきてたのか……俺の知らない所で頻繁に出入りしているのか、アレックスやジミ子の差し金か?
「伝えましょ」
「年寄りの軍馬っていったな……生き残りか?」
「いえ、戦後生まれ。ライアより3つ上っすよ」
「そうか……幸せなヤツだな」
全く仰せの通りだ。詳しくは語らないが、親爺さんは砲兵だったという。大陸軍相手に徒手空拳に近い状況で突撃する騎兵を何度も見てるんだろう。感慨深い話ではあるが、俺には久しぶりに札入れに札が収まる情景を思い描くほうが更に感慨深い。
◇◇◇
アレックスに頼んで14日の夕方、タナトス家に寄ってプレゼンスを連れてきてもらった。最近カリャーマに来ることが増え、近所の子供にも知られている。
「オウマさんにお水あげていい?」
「この草、食べる?」
市場外れのいつもの問屋倉庫の軒下に連れて行くと、市場の連中の子供が数名寄って来た。
「どれだ? ……ああ、この花のついたのはお腹壊すかもな。そっちの長いのは食べるかな」
温厚なプレゼンスはとにかく聞き分けがいい。首を下げて子供の顔の前で、青草をおずおずと噛みとってムシャムシャやってくれた。
「食べてくれたー!」
「お水も!」
子供が帰ってから明日の手順を説明する。俺より賢いという評価はあながち間違ってないと思うんだ。手書きの地図を見せながら通過地点を読み上げる。
「西まで行ってから高速竜車道の下を通ってニュマドの四辻、3時間ってとこかな?」
ブルルンと同意の声。
「ニュマドバイパスでファムシティ……二回は休憩したいだろ?」
蹄の音が一度。ほほう、頑張るね。
「きつければ言えよ。おまえが体壊したら何にもならねえぞ。そんで16号を一本道だ……済まねえが向こうで泊まりだ。野宿も考える」
こちらを見て首を傾げる。見つめ返す。ああ、そういうことね。
「俺の心配はしなさんな」
納得したのだろう、冷たい土をものともせずゴロリと横になった。
「待て待て……藁束とムシロがあるからよ、ちょっと待てよ……」
プレゼンスの寝床を整えて戻り、『優しき巨人』店内へ。明日の準備は終わっているので飯食って寝るだけだ。ライアが芋のサラダを食べながら尋ねた。
「コモ、どこに泊まる?」
「明日の晩か……輸送ギルドのターミナルで相談してみるわ。地竜小屋の近くとか」
治安は問題ないから場所さえあればどうにでもなる。念のために携帯食、岩塩もある。水場を探せば何も困らない。
「ボクが行った公会堂の近くでしょ?」
フランクが二年前に参加した不死属性互助会の会場の近くに納品するのだ。
「おお。お前は日帰りできたけど、流石に荷運びじゃそうはいかねえよ」
「荷馬車はそのまま空荷で帰ってくるの? ちょっと勿体ないわね」
堅実なメリッサの言う通り、帰りも荷運びすりゃ儲けも倍になるが。
「本職じゃねえんだし、手配で手間かけさせても悪いしな。一種の横紙破りのバイトだし」
あくまで知人の伝手で受けた個人のバイトだから黙認されるだけの話だ。
「乗馬の訓練を怠った報いだ。あの子の早駆けなら帰路は3時間もかからんのに」
乗れればね。俺はプレゼンスにすらまともに乗れない。落ちる度に済まなそうな目で俺を見るプレゼンスの視線に耐えられず、馬を自在に操ることはとっくに諦めている。
「おみやげヨロシクねー」
「オーノギロの豚もブランドなのよ」
「鶏卵生産量が多いって聞いた」
冗談じゃない、全て拒否。貴重な臨時収入を減らす気はないのだ。
◇◇◇
朝日の下、小型馬車には俺が見上げる程度まで荷が積まれ、しっかり縄もかけてあった。試しにプレゼンスを繋いで歩かせる。……俺が乗っても、小走り程度の速度ならいけるかもしれん。
「伝票がこれ。馬車は置いてきても構わねえよ」
先日の男と、輸送ギルドの初老職員に見送られて出発。西への道は路面も良く問題なし、朝の混雑はあったものの、ニュマドの四辻には予定より早く着いた。プレゼンスと馬車を置いたまま飯を食うのは躊躇われたので、携帯食を齧る。
ファムシティに向かう幹線道の中途、休憩後しばらくして左の車軸からキーキー音が発生した。こういう時は早めの対処が肝心だ。止めて斜め下から眺めると……車軸受けを留めるボルトの一本が緩んでいる。締めてみたが……どうやら効いていない。ネジ山がアウトなのだろう。他の三本は今のところ異常なしだが……プレゼンスに報告。
「今日中に着けばいい。のんびり行こうぜ」
カポカポペースに変更。竜車や四頭立ての馬車に次々追い抜かれるが気にしない。それにしても幹線道路の砂埃の凄いこと、洗濯物を外に干すのは躊躇われる。洗濯屋が繁盛しそうだな。
16号線に入ってまもなく、突然プレゼンスが妙な止まり方をして俺を振り返った。左後ろを眺めている。飛び降りて車軸を見ると……明らかに左後輪が傾いでいた。車軸受けは……アウトだ。ダメなボルトの隣のヤツもユルユルになり、もう少し走っていたら完全に車軸が外れているところだ。摩擦で重くなったのを敏感に察知したプレゼンスのお手柄だが……どうする?
二本とも力を籠めて引っ張ると抜けた。どちらも見て分かるほどに曲がっている。現地まで持てばいい。暫し悩んだ挙句、近くの岩でボルトを殴り真っすぐに近づけ、車軸受けの穴に携帯食の空き缶の薄板を詰め、釘みたいにボルトを打ちつけた。馬車の下に潜り込み思いっきり岩で打ち付ける間、いきなり車軸が外れて下敷きになる恐怖と戦う。
手で力一杯引っ張る程度では動かなくなったので、プレゼンスを数歩歩かせる。ギーギーいう音が不快だが、さほど摩擦は大きくないようだ。油は……肉の缶詰があったので開けて、気休めに白い脂肪分をなすりつけた。
今は午後二時過ぎ、四分の三は来ている。あと三時間、日のあるうちに着けばいい。俺は降りて左車輪の傍を歩き、プレゼンスにもゆっくり歩いてもらうことにした。ギーギーがキーキーになったり、ゴキンという異音が聞こえる度に止まり、肉の脂肪を足したり岩で殴ったりする。騙しだましの手段が尽き、何度目か分からない小休止を取ったのは五時過ぎ、そろそろ暗くなる頃合だった。あと1時間持てばと思うんだが、いつ壊れてもおかしくない。
散々悩んだ俺は荷を固定している縄を全て解き、荷台に上がった。荷重の大きい左後輪の負担を減らせば少しはマシになるだろうというサル知恵だ。木箱はとにかく重い。大の男が二人がかりでヨロヨロ運ぶほど、紙というのは書物と並び馬鹿にならない重量物なのだ。全体の荷のうち三分の二を前輪の上に、残りは右後輪の側にたっぷり積み、左には平積み一列だけに。30分かかった。
「……はあ……お待たせ。ちょっと様子を見て動いてくれ」
声をかけるとプレゼンスは少し前脚を踏ん張り数歩歩いた。異音は消え、ぎこちなさもない。他の車輪も大丈夫。こちらを振り返り首を縦に振る。どうやらいけそうだ。
「よっしゃ……それじゃ行きますか」
轍跡の多い路面を避けながら進んだので時間はかかったが面倒も起きず、6時過ぎに何とか到着。業者に遅れた詫びをいい、馬車の件を相談すると預かってくれることになった。よくあることだという。弁償させられる心配もないというので胸を撫でおろした。荷下ろしは人手が多く楽だった。
◇◇◇
「ひゃー……お疲れ。お前の気配りのおかげで助かった」
距離も重さもプレゼンスには大したことなく、むしろカポカポ歩きでストレスがたまったかもしれん。埃を巻き上げながら俺たちを抜いていく地竜や馬車を恨めしそうに眺めていたのは「まだ負けないぞ」という年寄り馬の矜持だったんだろう。
「さて、どこに泊まるか……いけねえ、聞くの忘れてたわ……野宿かな」
明かりの多い方に向かってみる。オーノギロの竜車場はカリャーマの三倍はあろうという広さだ。商店やでかい建物も多く、帰宅を急ぐ人出もかなりのもの。プレゼンスだけどこかに繋いで俺が安宿に転がり込むというのは不義理だよな、でも疲れたな……カポカポ歩いていたプレゼンスが突然止まり、周囲の喧騒を一瞬静まり返らせるように一声高く嘶いた。
「なんだ、どうした? どっか痛むか?」
だがプレゼンスの視線は竜車場の中央にある噴水と、その周囲に集まっている雑多な人々の群れに据えられていた。待ち合わせの定番場所なのか、老若男女人類非人類さまざま……小柄な細身のヤツがこちらに向かってくる。毛糸帽にマフラー、厚手の革ジャケット、細身のパンツにゴツイ革ブーツ、鞄……少年か? だが僅かに覗く漆黒の髪と、不機嫌を隠さぬ漆黒の瞳に気づいた。
「……あれ? おまえ、どうしたんだ?」
ニルはスタスタと近寄り、プレゼンスの鼻先と首筋を数度撫で、腹の横に立つ俺を蹴飛ばすついでにヒラリとプレゼンスに跨った。左手に提げていた鞄を俺に投げる……お、重いぞ。
「いったい何時間待たせれば気が済むの? さっさと乗りなさい巨人亭の夕食程度では勘弁しませんよ2時間半で走り切りますよ貴方のお土産はドコ? そのお肉を落としでもしたら魔楽器を全て灰にしてやるわ。早く乗りなさいノロマな小悪党!」
……何だ? 苦労してニルの後ろによじ登り鞄を肩に担ぐ。途端にプレゼンスは並足からギャロップ、通常速度に。俺はプレゼンスの尻に手を置き体を浮かせ、振り落とされるのを防ぎながら尻の痛みを軽減するという難事業に取り組む羽目になった。大声で闇エルフに叫ぶ。
「お、おい! どうしておまえはここに居たんだ? どういう塩梅だ?」
あっという間に16号の合流地点に、ニルは「ハイ!」とプレゼンスに声をかけ、プレゼンスは更に速度を上げ混雑する主要道に飛び込んだ。こ、怖い。老眼で鳥目の傾向もある俺、いい加減暗くなった主要道の道幅をいっぱいに使って、先行する大型竜車や馬車をこれ見よがしにぶち抜いていく状況が恐ろしく、砂埃もひどいので目を瞑りたい。痛い。ニルが腹立ちまぎれの大声でようやく返事をしてくれた。
「姉上から頼まれたのですよ、断れるわけがないでしょ! セルマが来ようとしたのでそれでいいわと思えばメリッサが止めるし、アレックスは無言だし……この貸しは高いわよ泣き虫小悪党!」
後傾姿勢で振り落とされないように腕を必死で突っ張っている。ニルの肩や腰に手を回す? そんな暴挙、だれが挑むんだよ。闇エルフの暗視能力と動体視力は壮絶、プレゼンスは楽し気に宵闇の中をジグザグに疾走する。いつかアーレアで見たペガサスの空中浮遊術も使っているらしく、時々振動がピタリと止まるが直後に蹄鉄音が甲高く響く、プレゼンスが暴走馬と化している。
「いや……とにかくもう少し速度を落としてくれ!」
「バカ言わないで頂戴! 一秒でも早く、こんな醜態を晒す屈辱を終えたいの私は! 次からはアレックスに頼みなさいよ! 二度と御免よ闇の威光に賭けて」
アレックスが飛ばすときも知っているんだが、比較にならない荒っぽさ。
◇◇◇
あんなに難儀した16号線を48分で走破、水飲み場でプレゼンスを休ませる。俺は腕がつり気持ち悪く眼も痛いお尻が痙攣しそう。肉の入った鞄を腹に載せて路上に大の字になっている。ニルは涼しい顔で革の上着のポケットから小ぶりのフラスクを出して一口呷り……おい!
「……飲酒運転は即時免停……いや危険運転か?」
するとニルはフン! という顔で俺の顔の上で一瞬フラスクを逆さまにした。うっぷ……と思ったら柑橘類の果汁の香り。
「……それにしても優秀な子ですね……アレックスが全幅の信頼を寄せるに値するわ。羨ましい……子供はいないのかしら?」
プレゼンスを種馬に貸してくれという話はあったんだろうがな……俺はよく知らん。
「公都の厩舎に聞かないと分からねえな……アレックスがこいつの代で終わりにすると決めたし」
馬を維持するにはそれなりの金がいる。荷馬や農耕馬ではなく、軍馬なんだ。
「……らしいお話ね、私たちには分かりかねる感覚だけど……それにしても、です。なぜ貴方は馬くらい乗れないの? 曹長といえば立派な下士官でしょ? 怠けたの? 全ての馬にそっぽを向かれたの? 怪しい宗教コモノ教の教義?」
「大層な言い草だな……正味のところ、軍じゃその機会は皆無。戦後何度か挑戦したが……誰かが手綱を引く馬に跨れれば御の字なのはご存知の通りだ」
はぁー、と額に手をあて大仰な溜息。
「さっき聞けなかったが……特に用事もねえのに、わざわざか? それだったら……」
一応礼を言おうとしたのだが、またフラスクから果汁をかけられた。
「非合理的行動しかとらない暗愚の輩と一緒にしないで頂戴。午前の撮りを終えてから竜車でこちらに来て、オーノギロのケーブル局に挨拶をしてきたの。私も来年からは、無能な営業担当しかいない零細プロに所属することになるのです、勤勉と書いてダークエルフと読ませる時代がもうすぐ訪れるはず」
『セルメルのから騒ぎ』の売り込みか……。
「あんなモンが受け入れられるとは思わんかった。今でも信じられん」
「ニッチな市場は常に存在するのよ。デシジョンとアクションは軍でも商売でも不可欠なのです」
「俺はおもに斥候と雑務担当だったんでな……士官様が全て決めてくださるわけよ」
ニルはプレゼンスの様子を眺めた。大量の湯気も収まり、十分休憩したという顔で頭を数回グルグル回した。ニルが袖を捲り上げ腕時計を見る……ありゃフランク工房の改造品だ。漆黒の希少石と虹色の鉱石をカットして組み合わせ、文字盤に散りばめたヤツ。
「ニイイチマルマル迄に『巨人』亭に到着。曹長、高級ポークの扱いをゆめゆめ疎かにせぬようになさい。さあ行きますよ遅いですよ早く端役!」
闇夜の中を先ほど同様に疾駆するプレゼンスの上で蹂躙されながら別の事を考える。おまえは無償の行為にどう報いる? 『から騒ぎ』は、毎回(結果的に)助かった第三者がセルマンドとメルセルの宿の戸口に人知れず贈り物を置いていき、それを眺めた二人が首を捻りつつ意地汚く奪い合うという結末を迎える。俺は高慢極まりない闇女様にお迎えに来て頂けるほどの無償の恩恵でも施したか? 『空』の件も『から騒ぎ』の件も自腹を切って道楽してるだけだ。ニルセルの『空』運営とご同様である。では現在、俺はこんな危険な相乗りに同乗させていただく栄誉にはふさわしくない。誰が考えてもそう思うだろう。プレゼンスの手綱を引き、一日かけてカポカポと帰れば済む話なのだ。こうしたことを大声でニルに伝えたいのだが、舌を噛みそうになるので切れ切れに叫ぶ。腹筋にも力を入れないと耐えられないので腹まで痙攣しそうだ。
「今後はー! ライアの! ……頼みなんぞ! うっちゃっておけ!」
風の音に蹄の音、追い越す荷車の喧しい車輪の音でろくろく伝わらない。切れ切れに返事が聞こえる。
「……! ……少しは! ……! 耳を傾けなさい!」
誰に? ライア? 進路の話か。
「俺は! いっさい! 口は出さねえ! 決めてるんだ!」
「……! 私たちの! 勝手でしょ! ……!」
「別に! おまえらの! 口出しを! 止めてるわけじゃねえよ!」
「機会を! ……! 逃すのは! ……でしょ!」
俺の悪口だな、どう考えても。大口開けて怒鳴るたびに砂が口に入る。先行していた大型竜車が突然蛇行し、追い抜こうとしたプレゼンスの前に現れて急制動、上半身を起こしたニルの後頭部に俺の頭が勢いよく衝突した。斜め前に向かい急加速させながらニルが振り返り、俺を憎悪の目で睨み怒鳴る。
「石頭―っ!」
「わざとじゃねえ!」
「生まれつきでしょうが! 首から上を買い替えなさい!」
前方が開けたのでまたトップスピード、ニルは再び前傾姿勢に。俺は短い両脚で逞しいプレゼンスの腹を思いっきり締め付け、背に回した両手にも力を籠める。買い替えというのはいい案だ。フランクは賛同するだろう。問題は適当な頭の売り物を未だかつて見たことがないって点だけだ。次にもし荷運びのバイトをやるとしたら、投げ売りの頭の輸送でもやらせて貰うとするか。もう少し柔らかいのがいいな。あと髪の毛がほしい。ふさふさと、までは言わんが額を隠す前髪くらいあってもいい。容貌? どうでもいいよ、目と鼻と口と耳が機能してりゃ。あー、トンガリ耳はちょっと嫌だ。ニルやセルマの同族ってのはご勘弁願いたい。異人種だからという遠慮がなくなった場合、どんな無理難題をふっかけられるか……考えるだにオソロしい。あ、馬でもいいや、プレゼンスとお揃いで。タナトス家の馬小屋に厄介になり、一日ボーッとして暮らそう。
俺がクックと笑い始めたのを、プレゼンスの首筋に齧りつくほど前傾した姿勢への嘲笑と受け取ったらしいニルが手綱から左手を離し、俺に向かって指を鳴らした。風弾らしい塊が俺の額に衝突し目から火花が出た。
きっかり21時に『巨人』亭の前に辿り着いた俺の額には計三か所の内出血痕ができていた。いつもより遅い時間にも関わらず夕飯を食っていた端役ハウスの住人および居候はニルとプレゼンスを称賛するだけで誰一人俺を労わろうとせず、土産を買っていないことを全員で非難したのだった。プレゼンスを塒に連れていく夜道、運輸業ってほんとうに大変なんだと実感する。俺には向いてない。運ぶのも、運ばれるのも。プレゼンスが慰めるように俺の頭を鼻づらで小突いた。




