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異世界端役の惨憺たる日々  作者: 小物爺
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第五十六話 竪琴の失墜と微かなる残光

撮影を終えたばかりで傷だらけのコモノに、突然小さな姿が駆け寄って抱き着いた。肩を震わせ泣きじゃくるのがライアだと気づき、あたし達も慌てて駆け寄った。アレクが、アレクが……と啜り泣き続けるライアの肩に手を置くコモノの顔はいつも程度に陰鬱だった。アレックスさんに何があったのだという疑問は、皆の想像を超える終幕を迎えることになったのだが。


コモノはあたし達に目くばせし、小声で伝えた。


「済まねえ。ちょっと……いや、しばらく出てくる」


「手伝えることは? あんたが嫌がろうが関係ない」


「役立つものは何でも使うべきだよ。小悪党なんだからさ」


「……いや、もう終わっちまったことだ。ブレイド家の家名が剥奪されてアレックスが馘になった。それだけだ」


淡々と語られた爆弾発言を消化するには数秒かかった……何があったの?


「『そういうもん』なんだよ。数日で帰れるか分からねえ。頼むぜ」


両手で顔を覆い泣きじゃくるライアを支えながら足早に通用口に向かったコモノが戻るには、二週間以上の日数を要することになった。


◇◇◇◇


撮影直後の酷い格好でライアと一緒に長距離竜車に揺られたわけだが、周囲の視線が気にならなかったのは神経質な俺としては滅多にないことであり、少しは褒めていただきたいものである。代々不器用な家系なのだ、あの家は。高潔を貫いた結果がこれである。小声で何で、とアレク、しか言わずに泣き続けるライアの体温を半身に感じながら、俺はといえばこれまた珍しいことに人様の将来設計なんぞを乏しい脳ミソをフル回転させて考えていた。


住まいは最悪確保、アレックスの仕事は何か見つかるのか、問題はライアの学業……アレックスが残しておきたいだろう代々の肖像画だけは置き場所を確保しなきゃならん。津波の如く注がれるであろう侮蔑や憐憫というヤツへの対応はちょっと面白そうだ。醜聞にまみれた没落母娘との単独会見はいくら、手記は一枚いくらというプラカードを持って営業に回る自分を想像する。


宵の入り、半ばライアを抱きかかえるようにして、宿舎四階の二人の部屋に向かう。ちょうどドアが開き、文官と思しき男が二人、事務的な対応には納めきれない苦渋を滲み出させた表情で出てきた。アレックスが騎士服で戸口に立ち、騎士礼はとらずに丁寧に頭を下げる。男たちは西階段に向かって足早に歩き去る。律儀に見送り戸を閉めようとしたあたりでアレックスが気づいた。付き合いが長くなければ分からぬほど微妙に首をかしげる。


「どうした? 一緒だったか」


「邪魔していいか?」


「週末までは私たちの部屋だ。構わん」


また無言で泣き始めるライアを任せ、さっさと居間に入り一瞥する。作り付けの収納部に入っている品々の分量、ライアの私物、俺が天井裏に放り込んだ代々の肖像画……あとどの程度か。竜車と荷車のサイズは……。


「コモ。教えて。ライアは納得できないよ。分かりたくない」


涙の跡だらけの顔を突然あげてライアが俺に噛みついた。ライアが今後のことを話してるわけじゃないことは分かっている。なぜ母が冤罪を晴らさずに不名誉極まりない幕引きを甘受したのか、善悪二元論で生きている若者には理解できるはずがない。さて、困ったな。


「アレックス、何か飲む物をくれねえか。とりあえずライア、座ってくれ。アレックスからどこまで聞いてるんだ」


不条理な哀しみよりも怒りの方がマシであろう。こんな怖い顔のライアは見た覚えがない。ゲイルの葬儀を終えた直後のアレックスといい勝負、さすが母と娘だ。


「全部」


……アレックスのことだ、検査院の表向きの責任者、第二皇子様の人となりなんぞ一言も話してないだろう。ブレイド家が何に生き何に殉じてきたのかを淡々と語った程度か。


「そうか。ブレイド家がこういう終わり方をするのは間違ってると思ってるんだな?」


「あたりまえ! なんでお金を盗んだことにされて、なんでそんな出鱈目、文句言わず受け入れて、騎士資格を剥奪されて、お家も奪われて……コモは悔しくないの? 怒ってないの?」


また大きな瞳が潤み始めた。茶を卓上にのせたアレックスが背後から腕を回し……左手にはめた鍋つかみで頬をさすり始めた。


「ライア、座ろう……コモを責めるのは正しくない。私の決めたことだ」


ふっと力が抜けるように椅子に腰を落としたライアの両肩に手をおいたまま、顔を覆うライアの右手を鍋つかみの腹で撫でる。ふう。参ったな……。


◇◇◇


コモノが公都に向かって3日後、『優しき巨人』亭の報道で今回の真実の一部を知ることになった。もちろん真実というものが人の数だけあるのだという理屈は分かっている。ボク達にはどうでもよい、正統な真実というものなんだろう。


『……検査院は今回の使途不明金問題に関係した職員を処分することを進言し、公国人事省は即日複数の職員に対し、懲戒解雇を含む重い処分を実施すると発表しました。関係者には護衛騎士階級も含まれ……』


あらゆることがあり得るのだという想像力が重要だ、とコモノはよく言っているけど、公金を横領するアレックスさんを想像するのは無理だ。だれかがボクの墓参りをする情景を思い浮かべるのといい勝負だと思う。


「メリッサ達も何も聞いてなかったんですよね?」


「あいつが喋るはずないでしょ。青天の霹靂よ」


「敢えて言えばさ、あの人がこんな不名誉に甘んじたあたりに、あのバカの臭いを感じるじゃない」


「それにしても、だよ。コモノが何を言ってもアレックスさんが受け入れるとは思えない状況だよ? ただの冤罪じゃないと思うよ」


「流石ですフランク。私が言うのも何ですが、闇や暗黒という気配がありますね。アレックスさんがそれを受け入れてしまう深い理由があるはずです」


「……実家に連絡とってみるわ。情報があるかもしれないし……とにかく腹が立つ。しばらくニルと撮りの日が重なるから、何か分かったらフランクに伝えといて。じゃあ」


夕方からの撮影があるニルとセルマが撮影所に向かい、ボク達も帰ることにした。そうだ。


「メリッサ。ライアの通っている学校みたいなところ、この近くにもあるの?」


「えーと……2つあるけど一つはあまり評判良くないわ。シーズにあるほうは……土魔法科があったかしら? 明日ホールの若い子たちに聞いてみる」


◇◇◇


夜の撮りに来ていたタナトスさんに声をかけられた。撮影班からコモノが面倒事を抱えた件を漠然と聞いたらしい。ライアとアレックスさんのことは知らなかったそうなので手短に。


「……道理で。そうかもしれないと思ってました。私に何か手伝えそうなことがありますかね?」


もちろん、と言って全て任せたいところだが、問題は事情のほう。わたしの実家経由でも大した内容は分からないだろう。騎士が公金を横領したという裏にある何か、でもそれは野次馬根性に過ぎないし、分かったところでもはや覆しようのない決定事項にも思える。タナトスさんに頼んで無双してもらう? バカバカしいわ。


「……ただのゴシップ趣味です。でも何があったのかは正直知りたいんです。あの馬鹿はどうせ何も言わないし。何か耳に入ったら教えてください」


「そういうのはゴシップ趣味とは言わないと思いますけどね……」


そうなのかな。人の不幸の裏をほじくり返す。やはり嫌な気分よね……。


◇◇◇


公都からは連絡のひとつもなし。10日ほど経った晩、メリッサがうちに来いという。タナトスさんが来るというのでニルと一緒にすっ飛んでいった。酒を一瓶買おうとしてニルに窘められたのは内緒にしよう。


「……とんでもない話でしたよ。まず初めに、今回の幕引き以上の方法を私は思いつきませんでした。関わった人々は全て、良かれと思って行動し、その結果がこうなった。不愉快でしょうが、アレクサンドラ=ブレイドさんの件は些末事だと判断するしかないのです。少々長くなりますよ」


ヒト族、魔人や怪物、そして転生者。今の世はそれなりにバランスを見出し、危うい綻びや解れができても何とかしのいでいるように見える。


「この世界の法則を司る微粒子には二種、私の世界にも知られていた素粒子というものと、この世界に存在する魔粒子の二つです。あらゆる魔法や一般的超常現象が魔粒子に媒介されているのは皆さんご存知ですね?」


頷く。


「さらにもう一つ。私たち転生者の能力は双方の粒子に限定されない転生子という第三の素粒子と関係があるだろうと推定されています。転生者の中でこれを突き詰めて研究している者がいないため詳細は不明ですが、存在自体は立証できるそうです」


それがどう関係するんだろう。ブレイド家は学者の家系なのかしら? すると突然話の内容が変わった。


「この世界、パレアスでの初の転生事例は41年12月8日のことでした」


……ニルが口を開いた。


「知性大戦の開戦日ですね。その転生者は?」


「記録がありません。名前も性別も。広範で効果的な記憶操作が行われた可能性が高いのですが、数冊の著書、というよりもメモの断片が残っています」


その転生者は偶然知性大戦に巻き込まれた中で力を自覚し、どんな世界を目指すべきか考えた結果、消極的に魔族側をサポートしたと推定されるらしい。


「公国側にも接触したのですが、当時の主流派に多かった人間至上主義の根深さに辟易したようです。ただ転生者は説得を続ける中で、自分の情報や『転生子』仮説などをある程度、双方の上層部に明かしていました」


タナトスさんはぬるくなったお茶を飲み、唇を湿らせてから続けた。


「ここからが本題です。……皆さん、『エイプの牙』というのをご存知ですか?」


顔を見合わせる。エイブってのは子豚のキャラクターだっけ?


「私も初めて聞きました。エイプとは、公国が大戦中、旧科学省で偶然開発に成功した人工知性の名称だそうです……くれぐれもご内密に。それは『空』と何らかの関連を持っていると思われています」


人工生命、ねー。ここにいるフランクみたいな感じ?


「ボクみたいな被造物ですか?」


「有機体だとは思いますが……詳細が分かりません。もとは人類界の素粒子と魔界の魔粒子、両方を構成要素に持つ生命体として開発されたそうです。魔族と大差ないように思えるんですが、公国は不利な戦況を好転させるためかなりの費用を投じていたそうです……転生者からの転生子理論が持ち込まれ、科学省はそれも人工生命体の開発に取り入れた。その結果生まれた……と言われているのがエイプです」


うーん。何なのそれ。メリッサも同様みたい。勝手に噛み砕きはじめた。


「えっと……ふつうの自然の中に働いてる力と……アタシたちが使ってる魔法系の力と……転生勇者さんが使ってる力を全部持ってる……あら? それだと結局、転生者さんと同じですよね? なんたっけ、チートっていうのかな?」


「違うんです。決定的に違うんです。人工知性と言いましたが、エイブは生命というよりも独自法則を持つ超物理現象のようです。私のいた世界、他の転生者のいた世界、あらゆる世界に共通してできる小さな穴、といったら漠然と想像できますか?」


「闇魔法や転生者のゲートみたいなものでしょうか?」


「重力牢獄ってのを読んだことあるよ」


「似た部分はありますが……単純にいいましょう。おそらく究極の『無』、それがエイプの実態だと推測されています。この世界だけが滅びる、並行世界が滅びる……そういう局地的現象ではありません。正直なところ私には想像できません。可能性の全てを持つがゆえに何も存在しないという記述でしたが、感覚的にすら……脅威、という一言では説明できません。『閉ざされた空』は、私たちが認識できる形でエイプの『影』が投影されたものだと信じる人がいるようです」


ははー……いち世界の危機ってだけじゃないわけね。スケールが大きすぎ。実感がまるで湧かないし。


「エイプは幸い機能しませんでした。『牙』と呼ばれる何かが不可欠だったのです。研究施設があったのはフィアレスという城塞でした」


ニルがハッとした顔になる。


「45年8月。私は攻略戦に参加していました。……おそらくコモノが防衛側で参戦していたのだと思います」


「……魔族の攻撃を転生者がサポートしたおかげで空前絶後の破壊が行われ、記録と施設の全てが消失し、エイプは喪われると同時に『閉ざされた空』が生まれました。現在に至るまで『空』の内部に関する情報はありません。私たちが聞いた話は最初の転生者が残した記録、および甚だ不確かな伝聞を基にしたものです。物理的な干渉が全て不可能、時空転移能力を持つ転生者がその瞬間に跳ぼうとしても入れない。並行世界観察能力でも網に引っ掛からない。全くの謎です。終戦後、占領政策にまつわる会談でこの件はパレアス全土の為政者、上層部には隈なく知らされました……この世界の方々は信頼できますね、私の世界だったらどうだったか……全ての存在の想像を超越した究極の『無』は消失し、無害と思われる残滓として残ったのが『空』と推定されましたが、『エイプの牙』という鍵が何か、それが万一残っていれば……各国の上層部はその事態を転生者達と相談し、機密扱いとしました。ここまでが背景なんです。次にアレクサンドラさんのご実家の話がでてきます」


ようやく……


「こちらには幾つか確証が残っているので。敗戦直後の公国では戦争犯罪者の公職追放が実施されましたが……一種の出来レースでした。『エイプ』について知る者の口を閉ざさせることと『エイプの牙』についての情報を集めること。元軍の士官や護衛騎士は戦後五年間、この仕事に携わったのです」


アレックスのお父さんも、その任務に携わる一人だったわけか。


「18年前、奇妙な封書が公国騎士団長に親展で届きました。使ってあった封蝋は大戦末期にフィアレスで命を落とした部隊長の物で、たまたま騎士団長は彼女と親しかったため、不審に思いながらもそれを開けたそうです。そこには『虹色の竪琴が牙を砕いた、心配するな』とだけ書いてありました。同じ時期にアレクサンドラさんの父上、ゲイル=ブレイドが、休暇で訪問していた迷宮で事故死しています。公国はこの報告を重視し、各国や転生者に知らせました」


タナトスさんは上着の内ポケットから封筒を取り出した。


「無理をいって現物を借りてきました。皆さんには見せたかったので」


黄ばんだ紙に先ほどの一行が書かれており、私たちは息を呑んだ。キッチンの見慣れた予定記入板の右端の欄を見る。この汚い字……。


「……やはり似ているでしょう。私も何度か見てるので気づきました」


アレックスのお父さんがエイプのなんちゃらを葬りさる場にコモノが居た、ということになるのか……。


「すると……ブレイド家は究極の無から全ての世界を救った英雄の家系、ということになる……ボクはそう思うんですけど?」


「おそらくは。でもその証拠はありません。出所の怪しい手紙一通と同時期の騎士の死だけでは信憑性はありません。実際、今でもエイプの牙の残滓を探している連中はいるそうです。かなり歪んだ方向ですが」


ああ、コモノがそういう連中に張られてたときがあったわね。


「そこまでは理解できました……お茶入れなおしましょう。ニル、カップ下げて。お湯沸かし直したほうがいいかな」


メリッサが新しいのを入れる間にニルが簡潔にまとめてくれた。


「大戦中に知を超えた究極の存在が生まれたが封印されたらしい。それが『閉ざされた空』と関連するらしい。戦後、鍵となる何かを護衛騎士が命をなげうって破壊したらしい。推測ばかりのお話ですが……大きな脅威として重視するのは分かります。……それが彼女の冤罪とどう繋がるのです?」


タナトスさんは溜息をついた。


「ええ、いよいよ本題です。18年前のその手紙で全てが解決したかといえば、そうはいかなかった。特に転生者の反発が強かった。自分たちが処理したならまだしも、現地の人間が一人で片をつけたという解釈は彼らに面白くないし、信も置けない。非人類もおおむね同調し、それ以降も捜索は続いています。……もちろんそれには金がかかる。その費用は開発した公国が負担するべきだ、という理屈まで」


お金の話がやっとでてきたわ。


「一方、民主化が進んで事情を知らない世代が議会や省庁でも多数派になっています。そのため探索費用は……裏金を捻出して賄っているわけです」


……繋がった。おそらく公国の血筋の誰かがその責任者なんだ。議会や省庁内での使途不明金追及で、そんな血筋の人を俎上に載せるわけにはいかないんだろう。やはりスケープゴートだったんだ。


「お察しの通りです。アレクサンドラさんは事情を知っており、文官業務も兼任しているうえに第二皇子ご夫婦からの信認も篤い方だそうですね。ご自分から提案し、皇子夫妻を説得したという噂も聞きました」


メリッサがカップをソーサーに叩きつけた。


「そこ! 間違いない、あの屑野郎の臭いがプンプンする! ……事情は分かったけどタダじゃおかない。あの高潔な女性と健気な御嬢ちゃんに甘え過ぎてんのよ」


「いえ……おそらく逆ではないですか?」


メリッサが噛みつきそうな顔でニルを睨んだ。


「逆? あのバカがアレックスを止める努力をしたとでもいうの?」


「ええ……アレックスさんが本当に望まないことだったなら、コモノがそれを頼むとは思えません。羽目を外した時のコモノは何度殺しても飽き足らない悪党ですが、この件では……おそらく止めたと思いますよ。彼が『空』に関わる不誠実を犯すことも、私には信じられない」


フランクも頷いている。ちょっと毒されすぎ、あのバカに。


「待て待て。わたしもメリッサと同意見。アイツのズルさはみんな身に沁みて分かってるはずでしょ。じわりじわりとそういう空気を作ったんだと思う。それはちょっとした悲劇よ」


話し終えて、淹れなおした紅茶を楽しんでいるタナトスさんはもう参加せず、私たちの言い合いをどちらかといえば、にこやかに眺めている。


「まあ、ボクも肩を持つ義理はないし……二人が折檻するなら止める気はないよー」


「おおなんと寛容なのでしょうフランク、分かりました貴方がそこまで言うのなら、教師役が板についてきたグータラエルフと激情家の吸血料理女が哀れな男に折檻を加えるのを少しは手伝ってもいいでしょう、むしろ積極的に」


「そういえば……母娘はこちらに来ることに?」


「嫌がるかもしれないですけどね、まあ緊急避難。もう部屋の片づけはフランクが終わらせてるし、しばらくは大丈夫でしょう」


「そうだ! タナトスさんのお宅、馬を一頭預かることってできます?」


「馬?……ああ、アレクサンドラさんの騎馬ですか」


「あれはおそらく彼女の馬ですし、家名剥奪で返上ってこともないだろうし。市場近くの乾物商の裏じゃ可哀想だし」


「大したことはできませんが……妻の両親が農耕馬を飼ってましたから」


シーズで預かってもらえたら……たまに借りられるかな。しめしめ。


「アレックスの代わりに私が躾けてやるわ。お馬さんはカシコイのよ」


「アンタに世話させたら10日でアル中の馬になる。却下ね」


「失礼ね! 牛にもビール飲ませる風習があるでしょ?」


「セルマー、それは高級食用牛の話だよー」


「密告しましょう。セルマがアレックスさんの騎馬を食べようとしていると」


本題が落着したのだから後はグダグダでいい。まもなくタナトスさんが終竜車で帰り、とりあえず小悪党が戻ってきた際にどんな罰を与えるかを相談することにした。フランクに酒を買いに行かせたニルは、あたしより悪質だと思うんだけどなー。

◇◇◇


ライアの機嫌は直っていない。公都でアレックスが別の仕事を見つけることはできないだろう。学校を続けさせようと思い、公都の別の場所に越す、ライアが寮に入る等の方法を提案したんだが本人に一蹴された。そんなのはどうでもいいことだという。強くて正しくて厳しくて優しい人はアレクの傍にいなかったのかと詰問され難渋する。俺には答える資格も権利もねえんだ。


「ライア。私にとっての名誉とは、人に守られることではない」


「アレクの名誉は、ブレイドの剣であること。でも何を守ったの?」


「全てだ」


「そのために全てを失って? おかしい」


「大したものを失ったわけではない。コモ、それを貸せ」


キッチンに立つ俺が嵌めている鍋掴みに手を伸ばした。


「これもある」


「……お祖父様のお屋敷を出たときもそう思ったの?」


不意をつかれたようだ。それは少々アレックスにも痛い話になる。


「……いや。今のライアとは比べ物にならないほど怒りに我を忘れた。公国の皇族を憎み、戦後の全ての体制を憎んだ。それは一面で正しかった」


「じゃあ、じゃあ分かるはず! ライアが何に怒ってるのか」


「ああ。分かる。……そして知っている。」


母親は娘の鼻を鍋掴みの鼻先でつついた。


「『善を行った報いとは、善を行ったというそのことだけだ』ということだ」


言葉に合わせて言い聞かせるように、リズミカルに鼻をつつく。あーあ。素手で熱い鍋の把手を我慢して掴み二人の前に出す。ふと天井裏を見上げる。ゲイル、お前さんの娘と孫がここにいるぜ。困ったことにどっちもお前そっくりだ。いや、お前の悪い所ばかり凝縮されてるような気もするが……いいな、俺の影響なんぞこれっぽっちもないことを明言しておくぞ。鍋掴みは何か、だと? お前が娘に人形の一つも買い与えなかったんだ、仕方ねえだろ。そのくらいは負けておけ。


「飯だ。勝手に食え。または食うな。俺は食う。いただきます」


また怖い顔で俺を睨んだ後、ライアが玉杓子を俺の手から乱暴に奪い取り、2人の分だけよそって置いた。


「……いただきます」


「いただきます」


パクモグゴクン。猫舌のアレックスはフー、パク、モグ、ゴクン。


「コモ。水がない」


「今はどのグラスを使ってんだ、知らねえよ」


「見れば分かる」


二人用の食器棚は小ぶりである。渋々立って眺める……一つは竪琴のイラスト、もう一つは……。無言で出して水を注ぎ、奴等の前に置く。


「おかわり」


そっぽを向いて皿だけ突き出すライアである。アレックスの使う小鬼の描かれたグラスを選んだのはどっちなのか、永遠に聞くつもりはない。


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