第九十九話 そぞろ歩きを はじめよう
泥棒市初日の土曜、フランクと俺が交代で子供たちの芝居に張りつく。講師陣も二日間完全休養、泥棒市を冷やかして歩く予定だ。
「コモン、何をしているんだ?」
子供たちのため教室の鍵を開け、プレゼンスの世話を終えて戻る途中の路地裏で発泡酒販売機の下を覗き込んでいると訝しげな声が聞こえた。聞き覚えがあるので渋々早朝の日課、小銭捜索を中断する。『薄暮』のディードと、度々顔を合わせる中年の巡回騎士という組み合わせだ。
「はぁ……おはよっす、珍しいコンビっすね。警備担当っすか」
土と木屑を払いながら立ち上がる。私服っぽい軽装に剣だけを帯びた二人は泥棒市の警戒に動員されたんだろう。巡回騎士が一度頷いたあと、時間を貰えるかというので、表通りに出て、町会が所々に設置した休憩用テントの喫茶スペースに腰かける。
「ガキどもの警備のことですかね。俺かフランクが張りつくし、町会の若いのも気にかけてくれてるから、問題ないっすよ」
準備は色々手伝ったが、土日二日間は子供たちの手助けをするなという役員会決定が下りている。自分たちで集めた金で場所代を払い、芝居の内容も練習も、準備の手順も自分たちで話し合い、売り物の小物もたくさん作った。ミュージカルの投げ銭と手作り小物の売上で儲けが出るかは怪しいが、セルマお気に入りの『あい』の鞭というやつか。魔女三人はみな苦労人だから、現実と現世が甘くないことを実地体験させるつもりだろう。ニルは見張りの俺とフランクに、教室からの備品運び出しや撤収作業にも手を貸すなと厳命している。張り付くのは大人と揉め事が起きたときの用心のためだけだ。
「いや。娘さんにも訊いたのだが、学術調査の話だ。古巣の筋から内々に打診があった」
A級パーティーで団長は元騎士団長、メンツは腕も良識も家柄も文句なし。公募とはいえ、一流どころにはきちんと声がかかる仕組みなのか。
「イレーヌの叔母さんの親御さんあたりっすか?」
『薄暮』若手のホープ、シグルドの嫁イレーヌの叔母はディードと面識のある騎士団長の娘だったはず。だが違った。
「同期が退団後、外務調整庁に勤めており、手紙が届いた。推薦枠で参加せぬかと。有難い話ではあるのだが……」
巡回騎士がディードの話を引き取り、屈託の理由を説明した。
「ストコフスキの娘はまだ三歳だ。貴方から聞いた話もあり、私は勧めていない」
この巡回騎士はレガートの護送に立ち会い、身内がフィアレスで消えたこともあって関心を持っており、俺にエイプの話を訊ねたこともある。下らぬ用件に何度か手も貸してくれた。騎士にしては融通と気配りが利くし、所帯持ちだったはずだ。ディードが女房と娘を大切にしていることは有名だから、調査の危険度を確かめたいのだろう。
「……一応、内密の話で頼んます。転生さんや神族の方々が参加するって話は確定っぽいし、皇国もリキ入れて動員かけてるみたいだし。規模も戦力も十二分っしょ」
自分で決めろというニュアンスを籠め突っ放した言い方をしたが意図は正しく伝わったらしく、うむ、とディードは顎を引くと自分を納得させるように頷いた。
「決めた。シュトラウゼ、迷宮開拓も竜討伐も冒険者の仕事だ。質的な差はあれど、仕事の一環に過ぎん。心遣いに感謝する」
危険は普段と変わらないというわけだ。巡回騎士は心持ち視線を下に向け、こちらも小刻みに何度か顎を揺らす。ディードはもう一つ話があるといったが、急ぎではないというので、近いうちにと断り席を立つ。他所からの出展者も来ているし、そろそろ張り付いていないといかん時間だ。
◇◇◇
プロの出店者には古物商免許所持者も多く、営業開始前に互いの品物を売り買いすることもある。朝早い時間を狙ってうろつき横から口を出し、安値で稀覯品や珍品を手に入れニタニタほくそ笑むのが趣味人だが、今日明日は時間を作れない。巡回騎士詰所には町会の『巡回係』腕章をつけた質屋のイギーと防具店のエギザクタの顔が見えた。路地を出たすぐ先の右側が71番のはず。2ブース分を示す紐と杭が舗装路に張られ、椅子が数脚、板に描いた背景の絵が何枚か置いてある。板の裏でゴソゴソ音がする。
「おっはようさん。野良猫か、野良鼠か?」
箱から小物を出していたダグリアが顔を出した。
「のらじゃないよ。オジサン、手伝ってくれるの?」
「ケケケ。先生たちに言われてんだろ。俺はおまえらがお客さんを突っついたり引っかいたり、噛みついたりしねえか見張るだけだからな」
ぼくそんなことしないよーとダグリアは唇を尖らせ、向こうから荷物を運んでくる子供たちに「早くー!」と手を振った。正門を開け放った『空を見つめるもの』から、年嵩の連中が椅子や卓、年少組は小道具や箱をゾロゾロ運んでくる。頭数は……みな揃っている。
サブロク板六枚を使った背景は大作だ。無表情の少女を胸に抱く女神スワンソンが左隅に、少年の飛行艇は右上に描かれ、音符や文字の抽象的な舞踊、薪を背負う老人、岩礁地帯を昇る裸の子供、煉瓦造りの四階建てアパート……森や林に湖、太陽と月と星空も同居しているが、大半は『鉛の飛行船のぼうけん』九巻分の表紙を真似たものだが、第七巻『存在の冒険』の表紙だけは描かれていなかった。
「斬新な図柄だ」
感心して呟いたのだが、二人で大きい箱を運んできたエリスとジークの耳には皮肉かイチャモンに聞こえたらしい。箱を置くと小走りにやってきて蔦腕でチョップを繰り出した。エリスは加減してくれてるが、ジークは掛け声とともに助走の勢いをのせ本気の一撃を浴びせてきた。
「「ドリアードツイントルネードッ!」」
そういう必殺技のある魔映画には覚えがないなぁ。
「まてまて、降参だ降参。褒めたんだぞ、いい出来じゃねえか」
ジークリットは初対面のころから遠慮がない。
「オジサンがほめるわけないでしょ。描くの大変だったんだよ」
「そうだよ、塗るのたいへんだったの」
板人形の入った縦長の箱をヤーンが置いた。板の両面にキャラを描いただけの単純なヤツだが、首や手足を動かせる凝ったのもいくつかある。持ち手の丸棒がニョキニョキ出ていて、でかい串焼きの叩き売りみたいだ。
「おじさん、あそこ、あたしが描いたの」
カラフルな音符と文字を指す。ヤーンもすでに俺より字が上手い。闇司祭マニア期を経過し、いまは文字のイラスト化がマイブーム、講師の渡した教科書やプリントの余白にいたずら書きをし、そのたびに宿題を追加されている。さて俺とダベってるとヒヨってサボってると判断される風潮があり、ノヴァリスと一緒に椅子を並べていたロウルズが年少組を叱った。
「ヤーン、ジーク、急ぎなよ! 椅子も全然足りないんだぞ」
口の達者なジークが「もう、女の子はいっぱい運んだ」と言い返したが、背景の周囲に紙の造花を飾っているレノアが「ジーク!」と一声かけただけで舌をペロと出し、ヤーンの手をとると教室にすっ飛んで行った。
「ははは……レノア、嫌われてんな」
「ジークとアンジェはああ言わないとダメですもん。男の子は素直だけど」
レノアが声をかけりゃカイアン、アズール、ギュスターブなんかはニコニコして仕事にかかる。「男の子は素直」なんて単純な仕掛けにもホイホイ食いつくカリャーマダボハゼみいな連中だ。ニブータさんの逆で、姉萌えの素質があるかもしれんな。
「ロウルズが言ってもダメか」
「ぜんぜん。注意しにいってしばらくすると、なぜかロウルズが謝ってるんですよ」
それはヒドい。人形操作の演者が隠れる場所を卓を並べて作りはじめたロウルズが反論するが歯切れが悪い。そういや、こいつもレノア陣営に降っていたか。
「女子は先生たちの真似するし、言い返すのも大人げないし……」
「ボキャブラリーが貧困なだけでしょ」
バッサリやられ抵抗を諦めた。足元を隠す紙を貼っているノヴァリスがクスクス笑っている。そのうち、コーラス隊用の鳴り物の箱を漁っていたテトラとアンジェが焦った調子で騒ぎだした。
「タンバリンがない! ゆうべダグリアが使ってたから……」
「レノア、ギコギコ板も入ってないのよ!」
取りに行けと言われ走っていった先で、俺の貸した魔楽器用アンプを運んでくるダグリアとセディと鉢合わせし、言い合いになる。こういう騒ぎを見ているとウズウズしてくる。愉快さがこみあげ、なんか口出ししたくなる。信頼して全て任せるというのは立派な教育方針だ。そうあるべきだと俺も思う。ただ、この賑やかさをさらに引っ掻き回したいという気分も否定できない。魔女どもはみな、こういうことに関しては忍耐強いんだろう。男と女の違いかもしれん。
大通りに沿った横長の場所なので、ふだん竜車道になる舗装路に椅子を並べ、歩道側に背景を立てその前に芝居用のスペース、コーラス隊は右側の布をかけた木箱の上、左には売り物を置いた卓を並べた。木工細工の筆立てや木の食器、迷宮の雑魚魔物の殻や甲羅を散りばめた巾着袋と小物入れ、馬や野兎のぬいぐるみ、炎魔法実技で焼いたシッポ焼風ブローチなど。値段は0.1メリから0.3メリが中心、かさばるのは0.5メリほど。妥当な値付けだろう。
「ロウルズ、周りにご挨拶しなきゃ。来て」
レノアとロウルズは右隣で陶磁器を並べている女性、左隣の女性用装身具を売る男に挨拶したあと、通りを挟んだ向かいの屋台にも向かった。野菜と果物を混ぜて絞った健康ジュースを作っている商業ギルドの若い奴には俺も挨拶代わりに手を振った。
腕時計を見ると8時半を回っている。一般ブースは9時から営業開始だ。子供たちの芝居は歌も入れて40分ほど、午前に1回、午後と夕方に1回ずつの予定で、合間は物販の店番のみ。年長組を頭に四班作り、店番を交代して他のブースを眺めに行く。ノボリ旗やチラシで営業して回りたいという要望は講師に却下されている。配ったチラシがポイ捨てされた場合の苦情とゴミ拾いが面倒だしな。
着替えを済ませるため全員教室に戻った。最初は10時30分からだが、客が集まってくれるかどうか……ライアとピエタ、ニルセルがやってきた。
「コモ?」
「衣装替えに行ったとこだ。特にドタバタはしなかったし、ちゃんと挨拶も済ませてた。でも、仕切りはレノアの手柄だな。いなかったら……ロウルズは小娘どもにナメられてる」
ライアは苦笑し、ニルが男子の情けなさを大仰に嘆いた。
「手本を示せる男性が皆無だから……」
「仕方ねえよ。どうする、客として最初の回を見てくか?」
四人は視線を交わしたが、明日のラストを見るとセルマが決めた。
「他の連中は?」
「アレクと師匠は『ウーティス』に行った。フランクは後輩のブースに寄ってから来る」
テルス石材店の番頭格として、石工の後輩を可愛がっているからな。リフォーム相談所を出し、簡単そうならすぐ出向くサービスをやるそうだ。
「ラブコ、先日お会いした聖教会の方の聖衣装即売、すぐ始まるのよね。夕べも申し上げたはず、部屋着にするだけですわ。居候の服飾の自由はセラム居候憲章でも保障されておりますのよ、アンセルマ社長、そうでございましたよね?」
「モーチのローンよ。23条と111条に書いてあったと思うわ」
居候憲章は初耳だ。ライアが目を細めピエタに警告した。
「今日は偵察だけ。明日の朝一番にも行って、欲しい服が残ってたら安い古着の奥に押し込んでおく。勝負は明日の終了刻限10分前」
ジミ子仕込みの賢い買い物術だ。安物買って銭失うのが道楽の白エルフ二名の抗議は黙殺され、まずは聖教会小聖堂で行われる混声合唱を聴きにいくという。切り替えの早いセルマは隣の陶器屋の店先に動物をかたどった小さな調味料入れを見つけ、さっそくしゃがみこんだ。
「お魚にかわいいクマミミがついてるわ! おばさん、タヌキ蛇はないかしら?」
みんなで隣の店先に座り込み、装飾品の店も冷やかした後、揃って聖教会に向かっていった。
◇◇◇
ルツリザのおさがりを着たのはエリス、ヤーン、テトラ、プーシェ、ダグリア、カイアン、ギュスターブ。歌のエース格アンジェは精霊役で人形操作をしながら劇中歌を歌う。効果音用のサンプラーはアズール、伴奏用はロウルズとエリスが分担。貸し出したのは周囲に迷惑かけない程度の音量には都合のいい60魔WのローレライCuvie60だ。
三列に並べられた椅子の後ろの隅に腰かけた。客はいないものの、コーラス隊の派手な衣装を目にして、女三人組や老夫婦が立ち止まり眺めている。ロウルズがサンプラーのスイッチを押した。憂鬱に立ちこめた雲の後ろから薄明がわずかに照らし、薄っぺらい梯子を地に伸ばそうとする。突如、空は満天の星で視界を覆いつくすほど輝き、気がつけば性急にまたたいている。チキチチッチッチ/ッチッチッチッチ、チキチー、チキチー。チキチチッチッチ/ッチッチッチッチ、チキチー、チキチー。
ギコギコ板と空缶の小太鼓がユニゾンを奏でる。ガガガガッガッガ/ッガッガッガッガ、ガガガッ、ガガガッ。ガガガガッガッガ/ッガッガッガッガ、ガガガッ、ガガガッ。木箱の上に立つコーラスの7人が足踏みして追随する。ダダダダッダッダ/ッダッダッダッダ、ダダダッ、ダダダッ。顧みられぬ寂寥と栄誉の6/4拍子。ブレイク直後、イントロダクション『空を見つめるもの』が始まった。
◆◆◆
空を見つめるもの 全てを見つめるもの
ここだけがおまえの世界、他のどの世界も手に入れられない
おまえの生からあらゆる驚嘆の悦楽は奪われてしまい
ぎらつく双眸を 未知の星に注ぐ
大地を象り創りあげた生き物たち
かれらの治めた時代は終わろうとしている
いのちはまた いのちを滅ぼすの?
また別のどこかで児戯を繰り返すだけだって わかってるの?
たぶん 蜥蜴がしっぽを切り落とすみたいに
生き物とこの星の 仲良し遊びは終わってしまう
永劫の虚空しか残さなかったからといって
この種族を裁いてはいけないんだ
神様が死すべき生き物をおつくりになったからといって
神様を裁いたりするだろうか?
それで今 蜥蜴が尾を切り落とすように
大地と人の共生は終わりを告げるのだ
個の生から ただ一つの生へと至る
旅が終わったと思ってはいけない
船がどんなに堅固であろうとも
大海は慈悲を持たないのだから
おまえは存在の大海で それでも生きのびようと あがくのかい?
古の子供たち 言う事をお聞き
おまえのはなむけに贈る 我が惜別の辞を
哀しいかな おまえの想いは星々に向けられている
我々には至り得て 決しておまえには辿り着けぬ場所に
空を見つめるもの 全てを見つめるものよ。
これはおまえひとりの運命 でもこの運命は おまえだけのものなのだよ。
◆◆◆
まばらな拍手の後、三人組と老夫婦が座ってくれ、途中から見ていた巡回中のイギーが俺に会釈し隣に浅く腰かけた。ロウルズがナレーションを始める。飛行船が森の切れ目に不時着し、飛行服の少年の人形が姿を現し、主役のレノアの独り語りが始まる。
おう、見てるぞ。頑張れなんて言わん。見てるぞ、ガキどもよ。
◇◇◇
第二巻のエピソードの順番をいれかえ、屋敷勤めの親切な死霊女性に助けられる『Livin' Deadin' Maid』、少年が台所で岩檸檬搾りに苦労する『Lemonade Song』を歌い、『七月、八月、九月』のあとの山場、洞窟で蛞蝓を倒した後に現れる変幻自在の空白鯨から村を守る決戦の場面に『Morphing Dick』を持ってきてパーカッションの連打で表現した。老夫婦は済まなそうに途中で席を立ったが、女三人組とイギーの他に子供連れの夫婦者が座り、最後まで見て、小物も覗いてくれた。エリスとギュスターブの懸命のセールスが功を奏し、巾着袋と木の食器、夫婦者は野兎のぬいぐるみも買ってくれた。出だし好調と思うが、満席を期待していた子供たちはやや落胆気味。メンタル虚弱でテンションの下がりやすい年少組に年長組が明るく声をかける。水色の布で髪を覆ったアズールが来た。咽喉音のあとで首を傾げる。
「効果音のタイミングか。よかったぞ、鯨の闘いの雷とか」
ほんと?と唇を動かすので「あったりまえだ」と言ってやると表情を綻ばせた。テトラがクッキー缶の太鼓とギコギコ板を俺の膝に置いた。
「ケケケおじさん、これ持ってて。ごはん行ってくる」
半分ずつ交代で教室に戻り昼休憩だ。木箱に入れておきゃいいのに、みな鳴り物を俺に預けにくる。
「プレゼンスが生きてるか確認しといてくれよ」
カイアンに頼むと朝の様子を教えてくれた。
「またやってたよ、クルクルクルクル」
プレゼンスのクアドラブルは着地を含め完成の域に達したが、野兎が楽々五回転をこなすことに刺激されたようだ。暇を見つけて練習し、クアドラブルアクセルの成功率が3割ほどになっている。
昼食組が去り、子供たちは売り物を手に「手作り小物とぬいぐるみでーす」「熱くても食べやすい木のスプーンいかがですか」と老若男女に声をかけるが、昼時だから簡単には足を止めてくれない。健康志向を反映し客足好調な真向かいのジューススタンドをギュスターブが恨めし気に見ている。
大通りの連中を観察してみると、今回の売れ筋は顔の上半分を隠す面と獣人カチューシャのようで、子供や若いのがつけて歩いていく。風に乗り、南のほうからかすかに歓声と拍手が届く。例の大道芸人だろう。役場のスピーカーが割れた音で迷子のお知らせをしつこく流している。
◇◇◇
昼食を終えた連中と店番が交代したが、フランクは後輩の指導に手こずっているのか現れず、事務所関係者も通らない。そろそろ化粧室が恋しいタイミングでリースとブライトンの姿が見え、呼びとめて手を合わせた。
「どうしました」
「膀胱が緊急事態だ、決壊が近い、頼む、すぐ戻る」
教室の化粧室まで内股気味に走り、用を済ませ出てきたらプレゼンスに睨まれたので、手を洗ってから戻った。輜重課主任は衛生観念にもうるさく、先日はよく遊びに来る野兎用トイレを馬小屋の隣に作らされた。
「巡回だとシンドいだろ。たまにはサボれないのか?」
「ケイウンさんに尾を丸裸に毟られちゃいますよ……」
尾だけで済むか自信ないですけどとリースがボヤき、ブライトンも確かにと渋い顔になりネコミミを愛おしげに撫でた。世話役さんの天下はあと何年続くんだろう。
「デレハラだな、そりゃ」
「いや、俺たちゃ尾やネコミミあるから助かってるほうかも。イギーがサボったら、手か足を一本引っこ抜かれるんじゃねえかな」
「違えねえ。それが平等な扱いってもんだよな」
午前中ここに座り込んでたことは内緒にしておいてやろう。
「合唱隊、どうだった?」
「非番の職員と信者がけっこう来て。若い娘は聖教会の衣装借りられて喜んでましたよ」
「ほほう……『薄暮』のクマンさんが困ってるらしいから、そいつら連れてってやれよ。型遅れの聖衣装の叩き売りやらされてるってよ」
「ああ、見た見た。リースのカミさんにどうだって、スゲエ色のを見せてくれたよ。免罪符の余りもつけるって」
もはや手段を選ばず在庫を捌く気だ。
「あんなの買ってったら家に入れてもらえねえや……コモっさん、包丁砥げます?」
情けないけど下手だ。一定の角度を保ったまま力を込めるのが難しい。草刈鎌なんて絶対無理。砥ぐ前より切れなくなることもあるのはアナログ世代として恥ずかしい。
「セルマや堅物でも俺より遥かにマシだ。ブライトン、包丁砥ぎは日課だろ?」
「それがよ、午前だけで300本だよ……手が足りなくてさ」
無料なので主婦が押し掛けたという。切れない包丁はどの家にも数本はあるし。
「尾も使えよ」
「それこそデレハラだぜ」
笑っているうちに南の路地からフランクが出てきた。ずいぶんゆっくり歩いてやがる。ブースを眺めているのかと思ったら、後ろから『ウーティス』のグヤトン親爺の禿頭が見えた。オルディネとかいう母子も一緒だ。相変わらず苦虫を噛みつぶした表情の親爺さんは、武骨な杖を放り出すように椅子に投げ出すと、ドカリと座り膝と腿をさすりだした。母子はその前に並んで座り、俺に小さく目礼。『鉛の飛行船のぼうけん』チケットを子供が握っている。招待客はスプーンかフォークを一本貰えることになっているのだ。
「ちわっす。ご無沙汰っす」
しらばっくれて声をかけると、親父さんの口内で苦虫が繁殖したのか、更に渋い顔になったが、子供が多いので怒鳴るのは思いとどまってくれ、俺を睨み吐き捨てた。
「ガキと病み上がりが雑踏歩き回るとか、危なっかしくてしょうがねえ……」
堅物とメリッサが二人に声をかけ、親爺さんが渋々ついてきたということか。このあたりまで出てくるのは実際珍しい。いい傾向である。
「そうっすね」
俺の後ろにしゃがみこんだフランクが囁いた。
「オヤジさん、よかったね」
「堅物とジミ子の手柄だな……後輩の出店、もういいのか?」
「あっちはダイジョブそう。漆喰直すの頼まれて一緒に行ったんだけど、モンダイナイね。午前はどうだった?」
「客が五、六人でチビが落ち込んでた。昼過ぎの方が人は増えるだろ」
「じゃ、三時まで交代。いってらっしゃーい」
伸びをして立ち上がる。午後の公演に向け気合を入れ直す子供たちを横目に俺は散策にでかけた。
◇◇◇
大通りの両脇には筵やシート、小型タープを張った出展者がズラリと並び、午後になって人手も増えてきた。野太い声に呼び止められると『薄暮』の武装僧侶クマンさんが青いシートの上に胡坐をかき、聖教会で売れ残った型遅れの女物を並べて……いや、ぶちまけている。聖教会を破門された破戒僧が盗品を捌いてるようにしか見えん。
「一つ買ってけよ。尼僧部に押しつけられて、明日までに売り切らねえとマズイんだ」
「ケケケ、災難っすね。どうせ古着や売れ残りの聖衣装ばっかでしょ、手に取りたくなるディスプレイを考えないと、女は見向きもしないっすよ」
強面がシートにドカリと座り込み、周囲は雑然と積まれた衣料の山。暇な婆さんでも覗くのを躊躇うだろう。巡回の腕章をつけているから、ディード同様に過激派警戒も担当しているようだ。
「神の御心のままに、とばかりも言ってられねえか。頼んどいたのに竪琴娘と友達がまだ来てねえし」
「明日の閉店間際に来て値切るかもしれませんぜ。せめて見ばえいいのはハンガー使って、後ろの塀に引っ掛けたらどうっすか? 市場の若い娘達が寄るかもしんねえし」
そうだ、思い出したぞ。聖デーモン喫茶。
「異端審問展の無料入場券、もう余ってないっすか?」
「あれか。俺の分はみんなやっちまったけど……神罰課と天界折衝部なら余らせてるかもしれないな。合唱聴くついでにアローマにでも聞いてみろよ。ただし総選挙後の月曜からだぜ」
日付までは確認してなかったが、それまでは無事生きていたいもんだ。聖教会の小聖堂に足を運ぶ。パイプオルガンをバックにハイティーンの連中が『聖母は何でもご存知だ』を聖歌風に歌うのは聴きたい。ライアは詞に感心していたが、あれは商売女にいれこんだあげく金が尽き、相手にされなくなった若僧の嘆き節と解釈するほうが王道なので、ピエタが歌詞に首を捻ったのは当然である。聖堂を覗くと誰もおらず、オルガン奏者の練習音だけがいい感じに響いている。Ⅳ―Ⅲm―Ⅱm7―ⅠM7の繰り返しに古典的装飾が施されると、聖歌に聴こえてくるのは不思議だ。ライアの解釈が正しいかもしれんな。堕落放蕩課のネームプレートをつけた若い司祭が通ったので、クマンさんの名を出して聞いてみた。
「神の御心のままに。来月の無料券は完パケ御礼です。ですが神はいつも貴方を見ています、恩寵として30%引の入場券がほらここに。聖デーモン喫茶のドリンクと軽食にも割引が適用されるのは、神の威光が世を隅々まで照らす証左です」
切れかけた魔光灯がチカチカして薄暗い聖堂の廊下で、司祭は三割引の入場券を恭しく取り出した。神の威光は廊下にまでは及ばんのだな。
「もちろん偉大なる神は我々に試練もお与えくださいます。この恩寵は畏れ多いことに、今月の常設展示入場券への寄進を惜しまぬ敬虔でイケてる子羊にのみ与えられる聖餐です。貴方は試練に立ち向かう勇気をお持ちですか? 神の門戸は万人に開かれ、聖喫茶従業員の接客用法衣の裾は前月比で30%短くなるでしょう」
売れ残りの常設展入場券を出して重ねた。抱き合わせかよ……でも神の試練と言われてはやむをえず、3メリ寄進してチケットを手に入れた。今月末までの常設展示は暗殺者ギルドの提供した『諜報の歴史』という小規模な資料展だ。市を冷やかしたいのも山々だが、大枚投じたチケットを無駄にするのも腹立たしく、眺めることにした。元護衛騎士の某堅物から未知の知識を滔々と披露され、見下す視線で射抜かれる苦痛は一回でも減らしたい。少しくらい覚えておこうと読むことにする。
▽▽▽
諜報の概念は文明発祥とほぼ同時期に誕生したという説が流布している。世界最古の商売として王、売笑婦と並びスパイが挙がるのはご存じだろう。情報が金になる、情報を握るものが世界を制すという真理をそんな古代に見抜いていたのは驚嘆に値する。
多諜活動(二重スパイ、三重スパイ、五重諜、六重諜……と無限に続くアレのことだ)の定義が通常の知性では理解困難なほど複雑化したあたりから、諜報活動の質が変化した。諜報員が全力で集めたデータから漏れた情報にこそ高価値の情報が含まれている筈だというバリュースパム理論の普及とともに、一流諜報員は真に役立たない、高度な多層分析を行っても無意味しか見いだせない情報を集め本国へ報告することに躍起になった。
多層分析ってのはテキストの下部構造を下へ下へと読み取ることで発信者も気づいていない真理に到達する技術だ。母親が冷魔庫のドアに貼り付けた「おかあさんはびよういんにいってきます」というメモを見て泣き出す子供は病院と美容院を勘違いしただけだが、夫が妻に残す「今日は遅くなる」というメモの下部構造はどれだけ掘り下げても意味深さが残る。これは多層分析が可能なわけで、諜報員にとっては価値の低い情報となる。各国諜報部のエースは「最大積載量450キログロム」「公国長靴協会 型式確認適合品」「今から30分以内のお申し込みで送料無料」といった類の無意味情報を集め本国のポスト構造分析課に送り続けた。中世の王家書庫が例外なく地下に作られているのは、膨大な報告を保管する書庫を拡大するには地下へ掘り下げる以外方法がなかったためだという。
魔科学と魔晶工学の発達でデータ蓄積の問題は解決したが、今度は情報臨界質量限界という物理的な壁にぶちあたった。情報の価値を問わず、俺の部屋程度の容積に43の8192乗ヤメンカバイト以上の情報が詰め込まれると、情報の質に関わらず情報臨界質量を超えた情報子が情報融合を起こし、閃光花火ほどの火花とともに数個の情報量子だけ残して消えちまうのだ。
情報臨界質量の問題を克服するヒントになったのは、負の情報質量を持つ反情報量子の存在を予言したジムカーナ=クラーク男爵の諜報修士学位論文『風俗営業許可局での仕事の怠け方』だった。彼は近所の悪ガキに飴玉を与え懐柔し、半数に成人向け書籍を、残りには高等数学の教科書を渡して一斉に朗読させる実験を続け、有害情報と有益情報には次の関係があることを示し、情報量子ミーニオンに対応する反情報量子をデマトロンと命名することで、特殊諜報情報理論への第一歩を踏み出した。
【E=MC2:エロティックな情報は、数学的情報と子供の総数の二乗の積と等価である】
膨大な量の有益な情報がたった一語の猥語と等価であることは、有害・無益な情報には記録時に示されるデータ量を遥かに上回る膨大なデマトロンが含まれ、情報質量の大半を打ち消して見かけ上の均衡を保っていることの証拠だと考えたのだ。子供に読ませた書物の半分が、無届曖昧宿の取り締まりで風俗営業許可局が押収した没収品であったことが問題視され、諜報学会は懐疑的見解を示したが、クラークは特殊諜報情報理論の一般化を推し進め、7年後にはサラリーマン幾何学で構築した諜報場の理論を軸とする一般諜報情報理論を完成させた。宇宙の約97%がデマトロンで構成されているという彼の予測は28年後、牛乳瓶の底に残った最後の一滴を啜ろうとして、誤って瓶の底を太陽に向け覗いてしまったエマニエル=フィッティパルディ博士が、突然視界が暗黒に閉ざされた原因を太陽デマトロンによる光情報子の吸収合併に拠るものと報告し、追試のため牛乳瓶底観測法を用いて太陽観測を行った諜報学者の視界が同様に暗黒化したことで間接的に証明されたことになった。科学の進歩は多くの献身的な科学者の犠牲の上に成り立つことを痛感するが、発泡酒や醸造酒の瓶を使わなかった理由の記載はなく、失明した科学者の氏名一覧と『小さなおともだちは まねしないでね 聖教会母神懇親会』という子供向けの聖注意書きしか見当たらなかった。
後に情報量子加速器が実用化され、クラークがデマトロンと呼んだ反情報量子が非情報量子、無情報量子、未情報量子、不情報量子、否情報量子の5種であったことが判明するが、反情報で情報臨界質量を相殺する技術の開発が進み、情報蓄積問題は一応の解決をみたことになった。
近代に入り、情報量子のみならず、5種の反情報量子も実はただ一種の原情報子、イミトロンから構成されているはずだという恐るべき統一情報子予測が諜報学会を震撼させた。当時4歳8か月だったアキレタ=ヴァルツィは、これも仮想粒子である時間子ティミオンが衝突した結果、情報量子が反情報量子に変化することを豊富な実例を挙げて説明した。若いころ夢中で書き殴った自己チート冒険譚が10年もすると黒歴史となり、最愛の彼女の誕生日という超有意情報が四半世紀後には夫の頭痛の種にしかならぬ激有害情報となり、有望な若手公務員が尼僧パブで羽目を外した際に撮られた無邪気で微笑ましい魔写真が十数年後に国政選挙に立候補する頃には立派な恐喝材料になり、娘時代に大枚はたいて夢中で買い集めたリャルカ系イケメン細マッチョスターの団扇やキーホルダーが現在では質草にもならない等々、素人にも首肯できる実例の数々は学会のウルサ方をも沈黙させたという。諜報活動で集めた大量の情報の価値が、時間経過で不規則に変動する理由をこれ以上うまく説明できる仮説がなかったのだ。
ヴァルツィは反情報量子が情報量子に転移する条件を見つけ、各国諜報部の記録庫に残る膨大な反情報量子を情報量子に変換し在庫一掃セールで売っ払い、諜報員や暗殺者の遺族年金として運用しようという崇高な理想を抱いていたが、観測手段がようやく牛乳瓶底観測法から水コップ観測法に進化したばかりの諜報界には検証手段が存在しなかった。
同時期、魔大陸の暗殺界では、五種の魔力暗殺手段「焼き殺す」「刺し殺す」「絞め殺す」「呪い殺す」「褒め殺す」を完璧に記述する統一暗殺魔力理論の構築を目指す流れが主流で、なかでも「褒め殺し」を司る魔量子について議論が盛んだった。褒めるという行為はプラスのストロークゆえに光魔法量子ピッカロンで構成される。だが褒めた対象が恥ずかしさのあまり悶え死ぬからには、実はピッカロンでなく闇魔法量子ダークオンの作用した結果ではないかと考える者が多かったのだ。当時は魔大陸連合各国が議会制を導入した直後で政争が盛んであり、暗殺手段では「褒め殺し」が順調に売上を伸ばしていた。暗殺者ギルドはギルド員の魔力料金を大手企業に払っており、神族系株主の牛耳る企業が光魔法契約を独占しているため、割高な従量制プランでの契約を強いられていた。だが「褒め殺し」がダークオンの作用結果なら、万人の生活を支える明るい闇魔法普及のため光魔法契約より平均25%安く、定額プランも豊富に取り揃えているダークエルフ系魔力企業に乗り換え大幅なコスト削減も可能になる。ギルドは光魔法企業と事前交渉に入ったが、契約に「世紀途中での解約には妥当な根拠を示すこと」という一文があったため難航した。ちょうどそのころヴァルツィのイミトロン仮説が魔大陸に伝わった。暗殺用魔力や魔量子を情報量子論と統一し、全てが統一情報子イミトロンの亜流であると証明すれば、魔力料金の未支払分を全て踏み倒したうえで、暗殺諜報界がイミトロンの流通管理を独占することも可能になる。ヴァルツィはイミトロンの発見が両派の課題を解決することを強調し、紆余曲折の末、両者は協力してイミトロン仮説の検証にあたることになった。
彼らは極圏にあった撲殺用氷山の養殖場の一つを転用し、巨大氷山下に四次元壺型魔導汎量子加速器を設置すると、まず情報量子と5種の反情報量子に加速持久走をやらせてみた。質量を持つ情報量子は光速に近づくにつれ体重が増加するためタイムが伸び悩んだが、5種の反情報量子は加速につれて給水所に立ち止まる回数が増え、中にはスポンサー名が観察しやすいようゼッケンを直してから走り出すものも現れたが、なぜかタイムの向上が顕著だった。
主任研究員タチウオ=ヌーヴォーラリーは、給水所で一息入れている反情報量子は、反情報量子と情報量子の二種の状態を併せ持つ『情報の重ね合わせ』状態になった後、沿道からティミオンの声援や野次を受け、発奮と同時に走り続ける意義を見出し情報量子としての自覚に目覚めるという『ティミオン声援説』を唱えた。確かにこの説でゼッケンを直す理由は完璧に説明がつくが『情報の重ね合わせ』状態が即ちイミトロン、原情報子の集合体としての統一情報子であるいう推論には批判が相次いだ。諜報学界の最も嫌う情報は「明日は雨か、雨が降らないかのどちらかだ」「いやー久しぶり、同窓会? 懐かしいな、いいねいいね、17日? 仕事だけど都合つきそうなら途中からでも参加するんで場所と会費教えてよ……はいはい、わかった、楽しみだな、万一行けなかったら申し訳ない、勘弁して」といった類のトートロジーであり『情報の重ね合わせ』状態はデマトロンの亜種に過ぎないと結論付ける諜報学者が大半だったのだ。
ヌーヴォーラリーは批判を受けて全レース結果を精査し沈思黙考した。価値のある情報量子は足が遅いゆえティミオンの声援が少なく、せいぜい「頑張れ」「完走に意義がある」といった凡庸で散発的なおざなりの声援しかもらえないため、原情報子に変化するためのティミオンエネルギーを受けられないように見える。いっぽう反情報量子は「このペースだ」「三位とのタイム差は15秒」「国のおかあさんが見てるぞ」「積み重ねてきた練習を信じろ」「次の下りで二度目のスパートだ」「トップはおまえの後輩だろ、悔しくないのか」「おまえの量子人生の集大成を結果で示すんだ」等々、聞きたくないほどの熱量で満ち満ちた声援として無数のティミオンを受け取ると考えられる。給水所でクールダウンした反情報量子が『重ね合わせ状態』である原情報子のまま走り出さない理由は「そこで棄権しちゃいなよ」という類の声援が無いためだと考えたヌーヴォーラリーは、汎量子加速器に改良を加え、給水所のみで構成されたコースで再試合を実施し、反情報量子がコースを外れ試合放棄した三例の観測に成功し、遂にイミトロン観測に成功したと発表したが、学界からは罵詈雑言のみがぶつけられた。観測された三回が、単に尿意に耐えられず加速器の物陰で用を足している可能性をヌーヴォーラリーが意図的に排除していたためだ。
けっきょく現在に至るまで結論は出ていないものの、理論諜報工学ではモデル構築が容易なことを理由にイミトロン仮説、場合によってはティミオン分布の濃度解析を利用するそうで、これらの研究では量子研究の進んでいる魔大陸が先行しており、皇国の諜報能力が高い理由だという。なおヌーヴォーラリーは副次的な発見として、反情報量子のほうが情報量子よりも遥かに速いタイムを叩き出したことが『悪事千里を走る』という諺の根拠だと発表したため研究所を馘になり、デマトロンを諜報合金キャラクター化した超諜報量子デマゴーグの紙芝居を作り、諜報戦への子供の意識を喚起しようとしたが、デマゴーグが善か悪か判然としない量子的振る舞いをするばかりなので勧善懲悪を好む子供には不評で全く売れず、現在デマゴーグの外箱と説明書付き美品は好事家向けオークションで500メリ以上で取引されるという。これは有益な情報だとメモした。泥棒市で探そう。
現代国家の情報戦は伝統占術による予測に加え、精霊応用型不可視魔導ドローンを展開するビッグデータ蓄積、魔量子コンピュータによる超光速分析と行動予測等のデジタル魔導技術がスタンダードになった。結果が行動より早く手に入る時間遡行型の諜報は残念ながら転生者に独占されており、パレアス諜報界が並行世界なみの諜報手段を持つのは困難だという。デマトロン偏重期の名残で諜報活動には依然として人材を登用しているが、これはヒューマン/ノンヒューマンエラーとして一定の割合生じる、デマトロンのティミオン衝突によるイミトロン転換を期待しているだけに過ぎない。魔大陸各国ではデジタル諜報戦に大部分の予算を投じる都合上、諜報活動は主に任官初年度の士官候補生や国家公務員が物見遊山を兼ね担当させられるという。なるほどピエタの事情だけは良く分かったが、それ以外何も分からなかったというのが正直な感想だ。
△△△
◇◇◇
細かい文字を読み過ぎてこめかみが痛い。3時前なのに気づき慌てて戻る。ラストは3時半からだ。
「おお……ドンヨリしてんな。客足が低調か?」
巨人に訊いてみた。
「招待券渡した子がけっこう来てくれたんだよ、全部で22人になったの」
凄い。初ライブは3人だったな、俺。
「じゃ、受けなかったのか」
「魔映画みたいなアクションシーンが少なかったからねー……中盤の歌で飽きた子たちが屋台にいっちゃったり、戻ってきてお菓子食べてお喋りしたり……お芝居終わってないのに、他のを見にいくから景品と換えてくれって子がいてさー、チケットと引き換え始めなきゃならなくって、見てた子もどんどんそっちに集まっちゃって……最後まで見たのは、親爺さんたち入れて8人」
チビ組は終わった後、客の子の数名と口論になりかけ、さすがに巨人が止めたという。魔女どもの期待した洗礼の一つだ。奴らに敬意を払い、手出し口出しはしない。手作り小物はまだ数多く残っており、馬のぬいぐるみも見える。あと少し待ってくれとフランクの肩を叩き、そのブサイク馬を買ってやろうと硬貨を差し出したらエリスに断られた。
「売れれば良し、売れ残ったら買うってアレックス先生がいってたんです」
先約ありでした。コーラスの数名がブースの外に出て、竪琴カラーの横断幕を持った。眼を留めた大人にすかさず営業をかければいいんだが、それがなかなかできない。これもまた、経験というやつである。
4時半近くに公演終了。聖教会でコーラスを歌った娘たちをエキザクタが連れてきて、そこそこ楽しんでくれたのは収穫だ。子供よりも年配客と若い連中をターゲットにしたほうがよさそうな気がする。18名も座ったら十分成功だと思うんだが、子供は貪欲だ。レノアとエリスが片づけのあと反省会をやると言ったら数名がウンザリ顔になっている。途中からジューススタンドの近くに立って眺めていたアレックスがこちらに来た。子供たちがアレックスを取り囲み「先生……」「頑張ったけど」「まだぼくの、売れてない」などとこぼしたが「ヒトナナヒトゴウに完全撤収ではないか?」といわれ渋々離れ、ノロノロと片づけを始めた。
「メリッサが一緒じゃなかったのか」
「タリナに確保され、夕刻から臨時動員されている」
全体に去年を上回る活況で、『巨人』亭は有卦に入った出店者でごった返しそうだ。
「撮影所には足を運んだか」
週末も撮影は続いている。オッサン世代は自宅にいても邪魔にされるから仕事場のほうがマシというのはペンタクスさんの科白だ。
「忘れてたな……なんか問題、ありそうか」
「差し入れを届けない貴方を薄情者と呼んでいたな」
なら問題ねえや。警備も今のところ問題なし。酔客の喧嘩や混雑の中での痴漢騒ぎ、万引き、売り物に盗品が見つかり連行されるといった類はトラブルに入らない。いちばん心配していたのはルツルザご夫婦のお忍びだったが、今日は誰も姿を見なかった。変装が巧みになったのか、アレックスが釘をさした効果か、選挙で忙しいというのは本当のことなのか。
◇◇◇
そこら中ごった返しているので晩飯は家で喰う。ニルセルも泊りなので部屋割りで悩んだが、堅物が一階に戻り、ジミ部屋でニルセル雑魚寝というパターン。結局一番広くて片付いているフラ部屋で本日の収穫を披露しあうことになる。以前古着で懲りたニルセルは雑貨漁りをしてきたようで、相変わらずひどい品々が揃っている。靴底が45度傾斜した冬山登山用ハイヒール、ラッカーマ塗の発泡酒販促用バッジ、ローラースケートにもなる1024進法算盤、『海これ』フィギュア用の展示ケース……持たなくて済む便利な浮遊精霊内蔵パラソルはニルが開いた途端、窓から逃げていった。横に20個の穴が開いた薄べったい木の小箱は新品のように見えるので訊ねた。
「こりゃ何だ?」
「手足の爪を一度に切れる便利爪切りよ。フランク、さっそく試してみて」
前屈柔軟体操の格好で両手と両足指を箱に突っ込むと、ニルが箱の蓋に飛び乗った。ガシャンという音、グワと叫んだフランクがあわてて手足を抜くと……全員で縫合を手伝うことに。
「危険物が多数混じってるな、端役ハウスと教室には置くなよ」
メリッサは冬用巻きスカートにウサミミ毛糸帽、魔写真を挟むアルバムを合わせて1メリで買ってきた。相変わらず堅実なセレクトだ。ピエタはお目付け役のライアが張り付いていたためか古着は見送り小さなアクセサリーばかり買ったそうだが、小さな袋からまあ、出てくる出てくる。
「これは海溝多肢族の好む硫珊瑚のチップネイル、こちらは矮胴種の方々が腰に巻く帯留め、浅黄系魔人が玄関に飾る夏柊の葉をかたどった髪留め……」
非人類系の風習を調べただけあって、ガラクタの中から種族系アクセサリーを選び手に入れたようだ。警備に駆り出された堅物とライアは収穫無し。
明日午前の部には子供たちの親兄弟が集まるはず。でも義理で集まった身内がどれだけ褒めてくれても素直には喜べない年頃だ。午後が勝負どころだな。戦利品で盛り上がってる連中を追い出し、明日に備えて床に毛布を敷き横になる。午前中はシーズ農協祭りの演芸コーナーに客演せねばならんのだ。恒例化しそうで面倒ではあるものの、タナトスさんに泣きつかれちゃ断れない。
◇◇◇
竜車を二本乗り継ぎ8時にシーズ到着。竜車場で目隠しされても辿り着ける程度に歩き慣れてしまった道を、農協事務所横の広場に向かう。衣装に小道具に、エリスに頭を下げ貰ってきたクッキーの箱も持ってきた。味、品質ともに問題はないが、非人類の子供が売るのをいいことに、食ったあとで腹が痛い、食中毒だ、歯が欠けたと因縁をつける手合いが来る可能性もある。そこでこちらの祭りに提供し、銅貨一枚以上おいくらでも結構ですと張り紙を出して小銭に換えようという作戦だ。農協の年配者たちが準備をしている姿が見えてきたので大声で呼びかける。
「どうもー、おはようっす!」
カリャーマで毎集水曜、農産物即売をやってもらっている縁もあり、顔見知りもボチボチいる。クッキーの件を頼むと、一人が穀物倉庫の奥に声をかけてくれ、作物の入った大きい袋の入れ替えを手伝っていたタナトスさんが出てきた。
「朝早くから本当にすみません。あちらでも御用があるのに、申し訳ない」
俺とタナトスさんの小芝居は10時半から20分ほど。二人で女装し、視聴率のよかった『服飾探偵』第3回を真面目にやるという無謀な試みで勝負する。前回俺が女役をやる羽目になったため、今回は死なばもろとも!と俺が押し切った。真剣にやることほど滑稽なことはないという真理を頼りに、扮装以外はド真面目に演じる約束だ。俺がユーニスさん、タナトスさんにはゲスト出演だったジェイケイさん役を頼んだ。暇さえあれば「ちょーうける」「ま!?」「きも」「かーわいーいーーー!?」といった謎のイマドキ言葉を発している女学生である。父親が若者言葉を真剣に連発するのを見るのは、もう少しで思春期のユーニスちゃんには辛かろうが、リハでは容赦ない駄目だしとアクセントの修正を手伝ってくれた。俺が演じる女史の居丈高な態度は、身近に同類項が豊富にいるおかげで割と簡単に仕上がったが。
女役には化粧と鬘が必須だ。セルマに化粧箱を借りようとしたが断られ、折れたクレパスと滑り止め用の白い打ち粉をフランクから貰い、撮影所の小道具からエキストラ用の女性用鬘も借りてきている。俺がピンク、タナトスさんはセルマの瞳みたいに鮮やかなライトグリーンだ。
「タナトスさん、急ぎましょ、着替えて化粧してリハ」
「え、化粧は最後にしません? 汗もかきそうだし……」
「駄目っすよ、それはリアリティ派の俳優としてイカンですよ」
「科白は憶えましたけど、あのアクセントで叫ぶと嫌な汗がドーッと滲み出して……」
ふんぎりの悪い転生者の説得に、これ以上ない応援が現れた。奥さんとウラヌスちゃんだ。
「おとうさん、まじめにやって。早くきがえて」
倉庫の小部屋で着替えて出てくるだけで、農協の人たちが失笑した。
「はい、すわって。おかあさん、くみちょうさんを。おとうさん、息とめて」
打ち粉をこれでもかと顔にぶちまけ、力いっぱいなすりつけ、青で眼の周囲と眉、黒で睫毛を描き、唇に赤クレヨンをグリグリしたあと、頬に渦巻模様を描いた。俺と奥さんはあまりの惨状に準備を中断せざるを得ない。今のうちに慣れないといかんのだが。
「くく……クク……ククク……」
奥さんは自分の化粧品まで持参してまともに、丁寧にやってくれたが、終わって鏡を見る前にタナトスさんと顔を合わせたら、小屋裏の化粧室に直行したから確認は断念。ファンデーションの甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。匂いだけなら一級の美人かも。
◇◇◇
サスペンスの『服飾探偵』はスピード感を重視しており、場面転換が通常の倍以上ある。被害者の部屋にいた二人が次のカットで巡回騎士詰所、五秒後に聞き込みで訪れた花屋という具合だ。セットも背景もないので、場末の芸人がオープニングテーマに使う三弦琴のチャカリコチャカリコという出囃子を魔晶に録音し、場面転換ごとに鳴らして二人で両手を上に上げクルクル回る古典的手法でお茶を濁すことにした。
出番となり出ていっただけで筵に座ったお客さんがのけぞった。つかみは上々。役名は俺がコモニス、あちらはターニー。まず長いタイトスカートの深いスリットから白のストッキングを履いた脚を露出させ、半身に構え肩を前に出し、唇に人差指をあて首を傾げる。俺の考えるコケティッシュなポーズの限界だ。死体を調べる芝居をしてから顔をあげ、吹き出したいのを堪えながらターニーに向かい裏声で呼びかける。
「真珠の首飾りに茶色の小瓶イヤリング…… おかしいわターニー、ポラモリアとグランミレー様式のアクセサリーを同時に身に着ける淑女なんて、いるはずない!」
ターニーは感心なさそうに緑の髪をクルクル指先に巻きつけながら投げやりに応じる。
「ま? まじうけるんですけどー」
膝上まである黒ストッキング、短いスカートの裾をあざとくいじるタナトスさんの渾身の演技に客を持っていかれた。爆笑の中、ちょっと悔しいので気合を入れ芝居を続けたが、タナトスさんの受け方には到底及ばない。「ちょっちー、たぁちゃん教えてほしいんですけどー?」と両手を腰の後ろで組み、斜め下から覗き込まれたところで俺もふき出してしまい、あとはまともな科白の応酬ができなくなった。最後の出囃子で「また来週もみてねー」と手を振りながら引っ込む。化粧と扮装で受けたので芝居の不出来は忘れることにしよう。
「お疲れっす……諦めて年中行事にする覚悟決めたほうがいいっすね。来年はフランクにもスカート履かせましょ」
タナトスさんは撮影より疲れましたといって椅子から立ち上がれない。鬘を外すと短めに刈った髪から汗が額にドドーと流れ落ちてきた。俺が何度も経験している「いやーな汗」だろう。
「濡れタオル、ありますぜ」
小部屋の棚の籠からタオルを渡す。顔を擦るとタオルに刷られたシーズ農協のロゴがみるみる白くなり見えなくなる。浅黒い俺の顔に奥さんがどれだけファンデーションを使ってくれたのか良く分かる。
「はぁ、ようやく汗が引いてきた……事務所組は泥棒市ですか?」
「ええ、珍しく二日とも完全休養でして。タナトスさんは明日も?」
演芸は今日だけだが、明日も農協祭りで多忙らしい。泥棒市の日程と重なったのは、総選挙の影響だ。どこの自治体もイベントをずらし来週の土日を空けている
「綱引きの審判と、漁協との相撲大会と、子供たちのフィールドボールの応援だったかな……そちらは総選挙が終わっても落ち着けない感じですか?」
「またぞろ余計な仕事増やしちまいまして。どうっすかね、来夏までは厳しいかな」
エイプにタスクにフィアレスに、堅物の偽装懲戒解雇の事情までタナトスさんは知っているので、フィアレス調査隊の件でうちに声がかかったことも教える。
「宙賊勇者のレイジさん、タナトスさんと仲いいんでしたっけ。参加してくれるって話っす」
「それも初耳ですね。あまり連絡会に出てこないんし」
「もとはお医者さんでしたっけ。空中戦艦とかで来るんすかね……」
するとタナトスさんは、タオルで顔を拭ったせいで赤青斑になった物凄い顔で、紹介するから一度会っておきますか、と言った。
「え……うーん……俺が勝手に暴走してるようなことになるとマズイし、あちらさんに迷惑かかっちゃ、なおマズイっすね」
「ああ……奥さんの古巣の方々ですね、それもそうですか……」
むしろタナトスさんが参加してくれたら心強いんですけど、と半ば本気で言ってみたが、夏前も農繁期ですしね、とやんわり断られた。非常に残念だ。
◇◇◇
休日だが渋滞には巻きこまれず、一時すぎにカリャーマ南竜車場に帰りついた。すぐ左で大道芸人がパフォーマンス中、こりゃ金がとれる。三階家の高さに達するかという一輪車の上でスプーンを口に咥え、客の投げる生卵を次から次へと受ける若者、猫獣人の子をお手玉みたいに次から次へと宙に投げる巨漢、火吹き男はフライパンで焼いたパンケーキを売り、女座長は倒立して足の指に挟んだ八本のナイフを全て的に命中させている。芸の合間にお捻りが飛ぶ。飛ぶ。
大したもんだと感心し大通りを北に歩くと、子供たちのミュージカルは午後の部の中盤あたりだった。客は10人ほどか。
「戻った。すぐ変わるか?」
「まだダイジョーブ。散歩してきていいよー」
「午前はどうだったんだ」
「マンインオンレイ。立ち見も出たよ」
身内が大勢来たんだろうが、立ち見まで出たなら大盛況ではないか。
「そのわりにテンション低いな」
声はよく出てるようだが、どこか作業感というのか、決められたことを懸命にやってるだけの印象がある。
「ウーン……ニルとセルマがお芝居の責任っていうハナシをしてたからねー。オカネ稼ぐのはラクじゃないって話もでてたしー……」
一生懸命である。熱意は十分、練習も努力もした、では人は称賛してくれるのか。感動してくれるのか。投じた努力に見合う報酬として評価が与えられるか。俺の経験では否、だった。
だから自分が、自分だけは楽しくなきゃイカン。歓びを分け与えられる境地とか波動とかは、その延長にあるとしか思えない。見る者聴く者を否応なしに動かしちまう力ってのは、その時忽然と現れる。ぼくはここにいる、こんなふうにいるんだ。あんただって、おまえだっているんだぜ。こんなふうにも、なれるかもしれない、きみが、あなたが……。
子供たちは本職じゃない。今、子供たちが懸命にやっていることは『正しい』。だが迷いや揺らぎ、不満を抱えているんだろう。今が楽しいという自分を自覚して、その確信に従っているようには見えない。俺にはそれが残念で、少しばかり悔しい。
交替前に飲み物でも買おうと大通りを北に歩いていくとほどなく、骨董品を並べた一角で品定めをしている魔女三人組を見つけた。
「ガラクタはもうやめとけよ。クマンさんの古着をあとで覗いてやってくれ」
紡績工場から出てきたらしい古い糸撚機をクルクル回しながら、ニルが振り返らずに応じた。
「小悪党、あちらから来たの?」
「ああ」
「そう……収穫は、あった?」
市に出物があったかどうかという話じゃなさそうだ。
「……ねえな。現世には『頑張る』だけじゃ、どうしようもねえこともあるしな」
濃い赤のタヌミミ帽にアップにした髪を乱暴に押し込んでいるセルマの白い項がピクリと揺れ、これもこちらを振り返らず、背中で応じた。
「オジサン。過大評価を受けたコト、ある?」
過大評価? 世辞や社交辞令ならともかくも、記憶にはない。
「ねえな。器や身の丈ってのを正確に評価してもらってると思ってるが」
「家族がイッパイ来てね、上手だった、頑張った、よかったって言ってくれたんですって。オジサンだったら喜べる?」
正にソイツだ。身贔屓ゆえの評価を脳内で割引くと同時に、その称賛を胸張って受けられるようにもなりたい。家族親族友人じゃなく、できれば全く知らない連中から。上手くやらなきゃと肩に力が入る。返事をしないでいると、セルマはチラと俺を見上げてから続けた。
「前に『若い連中の無限の可能性を信じる』って言ったわよね。わたしたちも同じよ。自分の見つめる『空』を、あの子たちに自分の力で見つけてほしいの。自ら見出そうとする意志を持たぬものに精霊は囁かないわ」
酷なようだが、間違っちゃいない。俺が口を出す問題じゃない。メリッサが深い緑のガラス器を空に翳し、気泡を確認しながら、おどけた風に言う。
「都合よく励ましてくれるヤツが現れると思ったら大マチガイ。自分で決めたことの結果が自分に降りかかるのはショーガナイ。嫌ならツベコベブツクサ言わず、やるしかナイ」
「正論だな」
出店を冷やかす気にもならぬまま北までプラプラ歩き、30分ほどでブースに戻る。子供たちはおらず、フランクが「休憩中 最終回15:30~」という手書きの札を人形芝居の舞台においたところだった。ここの座席を休憩場代わりに使い、ダベったり飲み食いしている数名の中に、見覚えある大柄な男を見つけ、見ぬ振りもできず近づいた。
「客待ちかい、引越屋のオッサン」
「ああ、旦那さん、ご無沙汰っす。甥がいろいろ面倒かけてるみたいでスンマセンね」
草臥れた革ベストに御者用ズボン、ドタ靴という冴えない姿で現れる偉丈夫は現公王の弟君、内務卿様である。変装のつもりか、アイマスクみたいな木彫りの面とウサミミカチューシャをつけている。周囲には巡回係の青腕章が数人座り、向こうの串焼き屋台前からはオッカナイ雰囲気のハシバミ光線が俺……ではなくオッサンを睨みつけている。アレックスも知らされてなかったらしい。とりあえず隣に座り、伸びをした。
「うー……いえいえ、こちらこそ。甥っ子夫婦に来るんじゃねえって伝えてたから安心してたけど、あんたとはね……忙しいんだろ、何か用事で?」
オッサンは首を振り、ウサミミがピョコピョコ動いた。
「マジに、本気で休みもぎ取って来たっす。忙しいどころの話じゃないんすよ。体使うほうがナンボか楽か……神経戦ってのは疲れが澱むんすよね。泥棒市の話、甥っ子が教えてくれたっす。ラウメン食って大道芸や無邪気な芝居見て、息抜きでもしてこいと小遣いまでくれたっすよ。掛け値なし、今日は何も仕事しないっす」
どうだか、と思うものの、疑えばこっちが疲れる。奥義、思考放棄発動。舞台下手の手作り小物の箱から売れ残りのスプーンを持ってきて、図々しく押しつけた。
「買ったら勘定をあの箱に入れといてくれ」
オッサンは数本を手に取って眺め、一番削りの荒い一本をチョッキのポケットに仕舞うと、ピカピカ光る小さい硬貨を親指ではじき、見事に売上を入れる箱に命中させた。
「旦那さん、相変わらずご活躍っすか?」
「俺から一番遠い単語を使わないでほしいな」
「あんれ、甥っ子が言ってたっすよ。魔晶端末と動画全盛のこの時代に、有線通信機売って魔導品業界に殴り込みかけるって。その攻撃的姿勢、スゴイっす」
「何言ってんだよ。あんなもん、遊び半分の道楽商売だ。早晩行き詰まるのもミエミエだしな」
「そこっすよソコ。スケールの大きい話なんてポーンと忘れて、道楽半分に打ち込むほうがナンボかマシっすよ。甥っ子も嫁も、汁麺屋台や魔映画鑑賞に時間使ってくれりゃ、こっちもどれだけラクができるかと言いたいんすけどね」
オッサンはルツリザ夫婦を嫌ってるわけじゃないが、急進的な方策で軋轢が生まれてるのを心配してる。公王襲名後の面倒事を予測しているのかもしれん。
「『高貴な身分には義務が伴う』っていうから、そりゃ無理だろ」
「いえいえ、無理が通れば道理も常識も引っ込むっすよ。もっとも、それはそれで頭痛の種っすけどね。旦那さん、あっちに亡命すんの手伝ってくれやせん?」
ぎょっとしてオッサンを見たが呑気にマスクの位置を直している。地獄耳ならぬ竪琴耳にも聞こえたらしく、ハシバミ光線がマスクを焦がし、鼻の上から微かに煙が上がっている。
「あっちっち……奥さんぜんぜん丸くなんないっすね。まあ冗談半分っすけど」
「半分でも本気なら大騒ぎだ」
「そうっすねー、私人としては二もなく三もなく行っちまってもいいと思うんすよ。色々出張多いから言葉は何とかなるし、変わった食い物にも慣れてるし。ただ若いのとか下の連中っすね、こいつらほっぽり出して逃げ出したら、もっと面倒なことになると思うんすよ」
公王選まで2年弱、領主層や貴族院ではルッツ君と第一皇子が拮抗しており、大勢は歴史的背景もあって大きくは変わらない。民議院の非人類枠はルッツ君が押さえるだろう。人類枠が問題で、地方領主層と保守派が第一皇子、都会領主と比例代表はルッツ派という状況が崩れるのかどうか。
「難しい話を下々に聞かせない、低能庶民に優しい政治ってできないもんかね……」
「情報公開の時代っすよ旦那さん。あっし世代はポピュリズムってのも苦手だけど、効果あるなら使うしかないっす。その点、甥たちは抜け目ないっすから……旦那さん、息抜きになんないっすよ、こんな話。頭カラッポにして愉快になれることないっすか? マジに」
「じゃ、御者さんに貸し一つな」
「お嬢さん達の引っ越しなら喜んで来るっすよ」
その話まで知ってんのか。俺は堅物の視線を遮るよう上着の左前身頃を僅かに開き、内ポケットから『楽しい異端審問展』割引券をのぞかせた。
「何すかそれ。聖教会とか拷問とか、仕事の延長じゃ……おおっ!?」
ちらりと内ポケットから聖ゴーモンちゃんが現れた途端、目の色が変わった。
「声がデケェよ。ちびっこ向けチケットでこの露出、期待できるだろ。来月からだぜ」
「んんんんー……相変わらずいい仕事するっすね、聖教会……」
オッサンはさっきのよりでかい硬貨を俺の胸ポケットに突っ込むと素早くチケットを尻ポケットに仕舞った。こりゃかなり儲かったぞ。
◇◇◇
最終公演が終わった。客は入れ替わり立ちかわり、最後まで見たのは事務所関係者を除くと14名、大健闘だと思うのだが、期待外れのアトモスフィアが濃厚に立ち込めている。片づけを始める気も起きず、仲の良い者同士椅子に腰かけ、飲み物を飲んだり喋ったりしているが、あの煌めくような輝きには程遠い。御者や警護の連中は目立たぬように席を立ち、ニルセルメリが子供たちの間を回り声をかけている。ライアとピエタが手作り小物の売れ残りを吟味している。
「馬は売れ残らなかったみてえだ。残念だな」
椅子に座ったままのアレックスに声をかけると、子供たちを眺めながら、抑えた声音で言った。
「……私の知る小鬼に伝えよ。小鬼とは人が嫌がる些細な悪戯を嬉々として行い、酷い目に遭わされる愚かな存在だ」
小鬼の定義くらい分かっとるわい。
「まっすぐ騎士の伝言てのは、何だ?」
「何とかせよ、と伝えよ。ニルヴァーナやセルマの言い分も、メリッサの主義も承知している。節度ある不干渉は……『正しい』と判断せねばならぬ。だが。『正しさ』に拘泥せず、過った道を、間違えたまま進む小鬼は、あの『正しさ』を眺め、自らに縁なきことと諦め、看過するだけか? 違うだろう。小鬼は秩序を乱し、正しさを憎み、理不尽な腹立ちを抱え、遂には場をかき乱す。その先に待つ仕置きなど拘泥せず、衝動と欲望に従い、自分勝手に孤独な愚者の祭りを開く。あの小鬼はどこに行った?」
それだけ言うと堅物は「卿をお送りする」と立ち上がり巡回の腕章を直し、御者のオッサンの後を追った。片づけモードになりきれない連中が、ジークとアンジェを筆頭に、あぁあぁあと言いながら俺の周囲に座り、脚をブラブラさせる。腕時計を見ると4時40分。日曜日は5時半が撤収刻限だ。
「終わったな、どっか不完全燃焼って顔だが」
「……リハーサルのほうが、おもしろかった」
「人形動かしながらだときゅうくつだし、魔法つかえないし」
ダグリアとギュスターブは、毎回同じであきちゃったといっている。エリスと話していたレノアがこちらを向き二人に文句を言った。
「お金稼いでるんだから当たり前よ。校長先生にも言われてたでしょ」
お金を貰うからにはプロ、その通り。正しい。小物もかなり売れて結果も出せた。
「でもさ……なんかさ……」
ヤーンが俺の脚を蹴飛ばす。チビ組はなにか納得していない。
「思ったほどは楽しくなかったか……」
唇を尖らせ頬を膨らませつつ、ふんぎり悪く頷いた。
「あとは片付けやって、反省会だけか」
時計を再び見る。4時45分。
「そっか。……レノア、残り時間がまだ残ってるよな。どうだ、その時間だけブース出店の権利、俺に譲らないか? お前さんたちは勝手に片づけしようが、売れ残り売ろうが、構わんから」
決めた。立ち上がり、オッサンから貰った硬貨をレノアに渡す。シッポナコンビのヤーンとギュスターブ、ジークとダグリアがニヤニヤ笑い、立ち上がってついてきた。
「何かやるの?」
「さあて、知らんな。片づけなんか俺は関係ねえし……フランク、暇か」
「なにー?」
「魔動力ケーブルの太いヤツ、教室の空き部屋においてあるだろ。アレ引っ張ってここまで持ってきて、その後機材の運搬手伝ってくれ」
口出しせず静観していた魔女どもに怒鳴る。
「騒がしくなるぞ、今からここは俺のブースだ。『いやになったら、いつでもでてけ』」
メリッサが肩を竦め、セルマとニルはツーンとそっぽを向いたが動かない。ライアは慌ててポケットから耳栓を出し、エルフの耳には合わないのを知ると、ピエタに遮音魔法をかけるようメリッサに頼みはじめた。
◇◇◇
家に戻り、部屋の床下から滅多に使えず埃を被っているマホシャルとツヴァイリバーブを引っ張り出した。マホシャルのヘッドはトランス側が重たいから横抱きにしても傾くんだよな……玄関先にデュアルを運んでいくと、両肩にマホシャルのヘッドとキャビをのせ、通行人に詫びながら身軽に歩いていくフランクの背が見えた。助かった、片付けも手伝ってくれ。
キャスター付のツヴァイの上にエフェクターを山積みにして、ブース脇の歩道までガラガラ押していく。100魔Wマホシャルと85魔Wのツヴァイ、両方鳴らしてヴォイスはローレライからだ。エフェクトの結線にちょいと手間がかかる。ドラキャスからオートワウ、オーバードライブとトレモロを通した後パンポットペダルで二系統に振り分け、30秒ホールドできるサンプラーと空間系の後にツヴァイリバーブ、マホシャルの手前にはディストーションとアナログエコーとリバーブ。踏み間違えると崩壊するが、それも一興だ。
ドラキャスを首から提げ弦を撫でるだけで、尻を蹴っ飛ばされるみたいな圧力が背中から襲う。バキン!という風圧で子供たちがびっくりし、両手を耳に当てつつも何が起きるか期待してくれているのか。オールドマホシャルは300人規模の大きなハコでもボリューム1.5より上げるなと説教される嫌われ者、銀パネのツヴァイは静かに鳴らすこともできるが、ブライトSWを入れりゃ耳垢が踊り出すこと請け合いの金切り声を上げる。何にするか……芝居のエンディングだった『そぞろ歩きを はじめよう』でいこう。ノイズゲートなんか使わねえからサーというノイズが一帯に立ちこめている。フランクを片手で拝み、マイクに喋る。
「巡回係が文句言いに来たら、なんとか5分は押さえてくれんか。コーダまではやりてえ。耳栓は三つずつしておけ、できれば鼻の孔にも」
「アハハ、忘れちゃったー。でも、リョーカーイ」
さて、小鬼は小鬼の義務を果たそう。竪琴の加護とやらには俺も逆らえん。子供たちは片付けなんてせず椅子に座り、耳に指をつっこむ準備も万端だ。事務所関係者はメリッサの周囲に集まり、事情の分からないピエタ以外は諦め顔をしている。トレモロを浅めにかけ、パンポットペダルの踵を一杯に踏みツヴァイだけ鳴らし、フェイザーを踏めば準備OK。サンプラーを踏むと同時に頭から演奏開始だ。Ⅰ―Ⅳの気怠く歪んだコードストロークに宙吊り四度をテンションとして入れる、ありがちな前奏。こういう刻みは喧噪の中に溶け込み、気づいたら遠くで鳴っているという加減が宜しい。おや案外静か、という顔がちらほら見える。四小節やってホールド、リピート。唸り始めよう。
▼▼▼
葉が一つ残らず枯れ落ちて もう行く時だってわかったんだ。
みんなありがとう。本当によくしてくれて、感謝しきれないくらいさ。
でも今 ぼくの行くべき時が来た。
ぼくの辿る道を 秋の月が照らしてるんだ。
▲▲▲▲
パンポットを一杯に踏めばマホシャルだけ鳴らせる。四小節のループをバックにオブリを弾く。エコーを踏み、ボリューム奏法で分散和音的フレーズをいくつか重ね、ゴチャゴチャする手前まで音像を紡ぎあげる。
▼▼▼
雨の匂いがするね、ちょっとした痛みの気配も。
どれもこれから行く道で 待ち受けてる連中なんだ。
ああ、ときどきひどくうんざりすることもあるよ。
でもわかってる。やらなきゃいけないことはたったひとつだから。
▲▲▲▲
思ったより静かで安心している関係者の顔を歪めさせる時が来た。サンプラーを切り、オートワウとオーバードライブを踏む。オートワウ史上最低の名機ドクトールQは、ハードヒットすりゃヒステリー起こした女雷神みたいに喚いてくれる。一瞬のフィードバック音で体を固くして身構えた奴がいるが、もう遅い。フルボリューム、リフの頭に合わせマイクに噛みつくように、がなる。Ramble on、そぞろ歩きを始める時だ。
▼▼▼
そぞろ歩くんだ 今がそのとき、時はいま。
ぼくの歌を歌って 世界中をめぐって ぼくのあの娘を見つけにいこう。
その日まで たとえ10年かかるとしても ぼくの道を行こう。
そぞろ歩くんだ 全てを叶える女王を見つけるまで。
そぞろ歩きみたいな旅を始めようじゃないか。
そう、今がその時、その時なんだ。
歌を歌おう。世界中を回り ぼくのあの子を探すため。
十年一日の如く 時を費やそうとも
そぞろ歩こう あらゆる夢のクイーンをつかまえるまで……。
▲▲▲
◇◇◇
一帯から関係者以外の人間が逃げ出した。遮音魔法の中にいるはずだが、メリッサの周囲にいる女どもは耳を抑え何か怒鳴りあっている。子供たちは立ち上がり、俺の唇がRamble onと動くのを読み取って一緒に喚き、飛び跳ね、ソロをきっかけにチビどもがブースの椅子の間を行進し始めた。Ⅰのパワーコードでガガガガッと足を踏み鳴らし、Ⅳ―♭Ⅲ―Ⅱ―♭Ⅶの下降フレーズに合わせ片脚で交互にケンケンパ。年長組も巻き込まれ、行進は長くなり、遂にセルマが耳を抑えたままロウルズの後ろに続き、ライア、ピエタ……20人が奇妙な宗教集団の如くブースの周りを練り歩く。キャスターを外し忘れたツヴァイリバーブまでゆっくり動き始める。足元のエフェクターも音圧と振動で小刻みに踊る。ローレライが過大入力でダウンした。生声で叫ぶ。
そぞろ歩け! 今がそのときだ、時はいまなんだ
歌い続けろ! 世界中ほっつき歩き あの子を見つけるまで
兜を被ってすっ飛んできた巡回騎士数人は、フランクが両腕に抱え込んで抑え込みつつ丁寧に詫びてくれた。逆から来た巡回係のブライトンやエギザクタ達は苦笑しているだけ。鼓膜が破れた、心臓発作で倒れたという苦情はなかったが、ケイウンさんに手足を引っこ抜かれる覚悟をして出頭すると、アハハーと笑われたあと巡回騎士詰所まで連行され、カリャーマ迷惑行為防止条例違反で罰金刑を申し渡された。手足抜かれたくらいならメリッサに頼めば治るが、12メリの罰金は痛い。マホシャルの出力管EL34も2本飛んだ。レノアに渡した硬貨を取り戻せ……ないだろうな。
◇◇◇
珍しく『巨人』亭の副支配人が、出展者限定の飲み食い無料時間を設けてくれたために店はいつもにも増してごった返している。店内はもちろん、外の円テーブルも一杯なので、家からテーブルを持ち出して店の前に置いた。カウンターに置かれた食物や発泡酒のサーバーまでたどり着くだけで一苦労だ。9時の時報が小さく聞こえた。
◆◆◆
“9時の公国ニュースです。この時間の主なトピックです”
【公国総選挙 貴族院拮抗 民議院で中道左派支持を伸ばす】
【解禁党候補に公国選挙法違反の疑い 事務所を捜索】
【ベルトラン内戦に知性連合 調停案を提示か】
【公銀景気短観 不透明感拭えず】
【夕方 公国各地で浮遊体の目撃 相次ぐ】
◆◆◆
「コモ!!」
アレックスの切迫し張りつめた叫びに驚き、榛色の視線がまっすぐ視ている魔晶スクリーンに目をやった。選挙の動向、国際政治、経済……最後のテロップの意味が理解できるまでには時間がかかった。
◆◆◆
“ご覧のニュースを中心に、予定を延長し11時25分までお送りします。11時15分から放送予定の民議院アガルタ・パンゲア選挙区立候補者の経歴と政見は25分から、30分から放送予定の『政治討論会 改憲論議の行く末』は60分の予定を1分に縮めてお送りします。では最初のニュースです”
“民間の調査機関が全国25000人余りの公国公民・準公民に実施した世論調査によると、貴族院候補の支持率においては、貿易完全自由化に反対する保守派領主層の支持を背景に内政重視派の『公国の大地党』が43.7%と盛り返し『共和公国党』と拮抗しています。民議院では中道左派の『新立憲公国党』が特に人類枠でポイントを伸ばし、『宥和の風』を上回る34%の支持を集めています。ジェノベーゼ第一皇子は本日午後、王宮広報部を通し『貴族院の動向を注視している』とのコメントを発表しました。ルチアノ第二皇子については御用邸広報課からの公式発表は出ていません。なおブレインボクス内務卿は記者の質問に対し『公国民の方々から、汎知性主義に様々なご意見が寄せられている現状を歓迎している』と答えるにとどまりました……”
“次のニュースです。今回初めて選挙区候補を擁立した解禁党の選挙対策事務所が支持者に興奮剤ペプシンの入った発泡飲料を配布していたことがわかり、……”
“内戦の続くベルトランで、ベルトラン戦時政府外報部は、反政府蜥蜴族組織『鉄の鱗』に占拠されていた第二の都市シュレックを奪還したと発表し……”
”
“公国銀行総裁は先月より堅調に推移している国内需要と設備投資気運を顧み、来週の公国東証券取引所の動向次第で、予定されていた公定歩合引き下げを見送る可能性に言及した公銀幹部の談話を否定する発表を行った財務省の次官筋を昨日批判した農政局局長関係者のコメントに対する抗議を……”
◆◆◆
俺とアレックスの異変に気付いた連中がスクリーンを不審そうに眺めた。セルマが揚げた芋の切れ端を俺に投げつけて訊ねた。
「騒音オジサン、どうした……」
「黙っててくれ。すぐ分かる」
ここまで斬りつけるような声を出したことはなく、セルマは驚いたように口を閉じ、賑やかな店頭の一角だけに緊張と沈黙が垂れこめた。待ちわびたテロップが出た。意味が理解されると、アレックスと俺が受けた衝撃と硬直が、再び静かにテーブルの周囲を侵食した。
◆◆◆
“今日夕方、公国各地で球体上の物体を目撃したという通報が、聖教会騎士団支局や巡回騎士詰所、公国放送各支局に複数寄せられました。こちらはシセンタロップ州ネクトリ市上空で目撃された物体を視聴者が撮影し、サキュバチューブにアップした映像です”
俺とニルは見た。マンションのベランダから撮ったらしい、ピンボケで不規則に揺れる映像の中で、白日夢のように鈍色に、ぼんやりと映し出された空に浮かぶ球体を。若い男たちの愉快そうな喋りは途中でフェードアウトし、アナウンサーが続けた。
“目撃者の話では、物体は予告なく出現し、音や発光現象等も確認されず、数分で予兆なく瞬時に消えたそうです。球体の表面色は映像のように、鉛色に似た半光沢色に見えたということです”
“複数の情報を取りまとめたところ、現象は国内七地区で午後5時前後に目撃されており、方位はまちまちですが、視野角からは3キロメルカル程度上空に浮かぶように見えた点で共通していました。どの地区の気候も安定しており、温度差や気流による大気レンズ現象とは考えられないということです。気象観測調整庁は局地的磁場の乱れによる磁気ゴースト、フラッシュモブ系魔導師による無届けパフォーマンス、微細魔物の群れ、神族互助連絡会による小規模の奇跡発現痕、転生者による新種の遊戯といった可能性を検討し問い合わせているが、真相は現在不明であるとコメントしています”
◆◆◆
◇◇◇
『閉ざされた空』が動いた。開いたのか。ニュースは終わり政見放送のテロップが出た。周囲では客が愉快そうに戦利品を自慢したり、売れ残りをぼやいて酒を奢られたりしている。特にいつもと変わらぬ日常は、手を伸ばせば届く場所に広がっている。夕方5時……『そぞろ歩き』を弾いていた。なぜ今日なのか。アレックスを見た。榛色の瞳はやはり、なぜと問いかけた。俺は首を振り、候補者の経歴が映るスクリーンを再び眺めた。アレックスは何も言わず席を立つと教室に向かった。プレゼンスを駆りシーズ御用邸に行くのだろう。
確実なことは一つだけだ。俺達を助けたあの子供たちが、そぞろ歩きを始めたのだ。おそらくは、赤毛の、小柄な、隊長殿を笑わせるため。それとも、または。
【Ⅰ】『Watcher of the Skies』
Peter Gabliel期のGenesisしか聴かない筆者はあのパントマイムと奇天烈衣装も愛しております。貪欲で傲慢な人類を見限った神からの優しき最後通牒といった趣の邦訳が多いのですが、轟くメロトロン、Peterの変幻自在の歌唱から受ける印象を生かしたく、好き勝手に意訳いたしました。無限の信頼とはこの詩の如く表現されうるのではないかと妄想いたします。
【Ⅱ】『Rumble on』
アンデルセン『雪の女王』のゲルダを想起させる歌詞なので合唱させてしまいました。『指輪物語』『アナ雪』とは無縁です。DVD『Celabration Day』では『For Your Life』初演が嬉しかったですが『Rumble on』の次に『The Rover』を演ってくれなかったのが残念です。
小物爺