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エセルは姫君らしい態度を保とうとしたので、走り出したりはしなかった。
だが、知らず知らずのうちに歩幅が大きくなり、しまいにはドレスをたくしあげなければ邪魔になるくらいまでの大股になった。
それでも疾走しないだけましなのだった。以前ラキスに、あきれるくらい笑われてからというもの、走るのはひかえようと決めていたのだ。
あんなに失礼な男性って見たことないわ。怒りにまかせて歩きながら、姫君は唇をかみしめた。
あのときも、人を珍獣か何かみたいにあつかったわよね。それに、部屋で竪琴の練習をしていたときに、遠慮なく笑われたことだってあった。
あの人、ふだんはまるで無表情なことが多いのに、考えてみると案外簡単によく笑う。
そう、教練場にいるときも、子どもたちといっしょに楽しそうに笑っていたし……ついさっきレモンジュースを飲んだあとも……。
エセルシータ姫は足を止めた。息が切れて進めなくなったせいもあるが、体力というより気力が尽きてしまったのだ。
こんなときに、笑顔の彼ばかりを思い出す自分がやり切れない。彼女はニレの木に手をついて身体を支え、それではたりず、ひたいを幹に押しつけた。
頭の中では、彼の言葉が反響し続けている。
じゃあ、結婚すれば?
──結婚すれば?
エセルはさらに強く唇をかんだ。泣かないようにするのが精一杯だった。
ラキス自身がほとんど記憶していない、青灰色の沼地でのできごとを、彼女ははっきりと覚えていた。
もちろん、どんなふうにあの場所にたどり着いたのか、周囲がどんな状況だったのか、そういったことを把握しているわけではない。けれど、あそこにいた男の子のことは、いまでもすぐそばにいるかのように思い出すことができる。
あの子が両親を亡くしたばかりの八才だったこともわかる。まるで崖淵ぎりぎりに立っているような目をして、エセルのことを見返してきた。
けれど、剣のかけらが砕ける直前に彼女の腕をつかんだときは、若者だった。その手の力強さも、宙に投げ出されながらみつめあったことも、抱きあったことも、忘れられるはずがない。
あのあと──しばらくのあいだ寄り添いあった状態で、ふたりは天馬の背中に身体をあずけ、空を飛んでいたのだった。
だがそのうちに、彼の体勢が急にかたむいた。あわてて支えながら顔をみると、意識を失いかけている。
リドの翼に守られている気がしたので、エセルはふしぎなくらい落ち着いていたし恐怖も感じなかった。が、このまま都まで戻るのはどう考えても不可能だ。
当惑しているときに眼下に確認できたのが、カザルスの領主館である。迷う余地もなくリドに下降してもらい、仰天して庭に飛び出してきたアルヴァンに救いを求めることにした。
馬車で王城に戻ることができたのは、アルヴァンみずから付き添ってふたりを送り届けてくれたおかげなのだ。
その間ラキスはずっと眠り続け、しっかりと目を覚ましたのは王城に戻った翌日の朝だった。自力で歩き出したのは午後になってから。早足が可能になったのは、そのまた翌日の午後のことになる。
重傷を負ったまま川に落ちた彼だったが、外傷はまったくといっていいほど見当たらなかった。インキュバスには、自分の保身のために、宿体となる肉体の傷を修復する力があるらしい。
とはいえ、何日ものあいだ魔物と同化していたうえ、ひきちぎられるように分離したわけだから、消耗の激しさは相当なものだったのだろう。
聖獣であるリドでさえ消耗したようで──ラキスの言をかりれば、うんざりしたようで──ふたりをカザルスにおろしたあと、どこかに姿を消してしまった。そして戻ってきたのは十日ほどたってからだった。
ちょうどそのころ、ラキスのほうは体力もすっかり回復し、暇をもてあましはじめていた。
そこに天馬があらわれたため、久しぶりの飛行訓練もかねて、都の西の先にあるマリスタークまで書簡を届けることになった。空飛ぶ伝令というわけだ。
ただこれは、少し時期尚早だったらしい。予定よりかなり時間がかかったうえ、帰ったあとはふたたび体調を崩し、リドも再度の休憩時間に入ってしまったのだから。
当時、彼を討伐隊に迎える方向で調整もされていたのだが、そんな様子だったので先送りになってしまい、そうしているうちに教練場の教官が退職し……。
代理教官になって半月あまり。ラキスの日常も、そばではらはらしていたエセルの日常も、ようやく落ち着き、おだやかな毎日を楽しめるようになっていたのである。
だからこそ、エセルもようやく切り出す気になれたのだった。教官として正式に契約するか……そうでなくても城内で正規の職をもってほしいということを。
なぜならそのほうが無職でいるよりも、女王陛下と話をするうえで、ほんのわずかであれ有利に働くような気がしたからだ。