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そこでふたりは少し歩き、よりかかれそうな木の根元を選ぶと、並んで腰をおろした。
ひろがる芝生のあちらこちらでは、白い花弁と金色の芯のヒナギクが、春の訪れを象徴するように咲き乱れている。
「レモンなんてよく手に入ったな」とラキスが言い、「南から来た船が持ってきてくれたの」とエセルが答えた。都の東を流れるレントールの大河には、交易船もたびたび行き交っていて、異国の品々を運んでくれる。
エセルは栓をはずした壺をラキスに手渡した。グラスを持ってこなかったが、注ぎ口の細い壺は直接口をつけても楽に飲むことができる。受け取った彼は、ひとくち飲むとにっこり笑った。
「おいしい」
「でしょう? しぼりたてなの。わたしも作るのを手伝ったのよ」
「へえ、だから香りがするんだ」
「香り?」
「髪から」
エセルはしばらくのあいだ、味わいながら飲んでいる彼のとなりで、南の商人たちのことを話してきかせた。浅黒い肌と陽気な声の人々は、都であるパスティナーシュの商人たちにくらべると豪放な感じがただよっていて面白い。彼らが城の執事たちと話しているところに、エセルも途中まで同席していた。
そのときに聞いたよもやま話をいろいろと語っていたのだが、ふと気づくと、ラキスの返事が聞こえなくなっていた。見ると、木の幹にもたれて目を閉じている。眠ってしまったらしい。
最近とくに、彼だけがこうしてまどろむことがふえていたので、意外ではなかった。最初に彼が寝てしまったときは、自分の話がよほど退屈だったのかと思い、軽いショックを覚えたものだ。世間知らずの姫の話など、経験豊富な剣士にとっては、いちいちうなずくようなものではないのかと。
だが数日前、やはりこういう場面が訪れたときに、討伐隊の役付き──たしか先ほどのカシム副長──が通りかかってこう言ったのだ。
──あきれるほど気がゆるんでますな。お守りすべき姫様のおそばで居眠りとは。
──気がゆるむ?
──たるみきっている。まったく嘆かわしいことです。
気がゆるむって、安心してるってことよね……そのときの会話を思い出しながら、エセルは考えた。そして、なんともいえない充足感がわきあがってくるのを感じた。
彼女の思うところによれば、ラキスという若者が一番必要としているのは、たぶん「安心」という感覚なのだった。根源的な部分でいつも緊張している人だから、ほっとできることが、彼にはとても大切だという気がする。
そして、わたしはいま、彼にとって必要で大切な時間をあたえることができている──。
そんな思いをかみしめながら、エセルは自分の位置を少しずらして、眠っている彼の顔をのぞきこんでみた。
かたちのいい眉と細い鼻梁。長めの前髪がそこに落ちて、ととのった顔立ちにかすかな影をつくりだしている。起きているときの彼は、どことなく張りつめて大人びた雰囲気をまとっているのだが、こうして寝顔を見ていると、まるで感じやすい年頃の少年みたいだ。
じっとみつめるには都合がよかったため、最近のエセルは、まどろみの時間にひそかな楽しみを見出していた。
けれど、今日だけはそんなことをしている暇はないのだと、彼女は突然思い出した。
たまたまエルフの卵をみつけたために、順序が変わってしまったが、彼のもとに向かった大きな理由は、別にある。聞いてもらいたい話があったのだ。わざわざ飲みものまで持ってきたのは、腰をおろしてじっくりと話をするためだった。
「……ラキス」
せっかくまどろんでいるところを起こすのは忍びなかったが、エセルはそっと肩にふれながら声をかけてみた。
彼はすぐに気がつき、わずかに身体を動かした。
「あ、ごめん、つい」
まばたきしながら呟くと、まぶしいものをみつけたように姫君の顔を見る。
「いいのよ。でも、近頃とても眠そうね。教練場のお仕事で疲れているの?」
「そんなことないよ。楽な仕事だ」
「体調がよくない?」
「いや。ただ最近ちょっと夢見が悪くて、眠りが浅いから……そのぶん昼間眠くなるのかな」
「悪い夢をみるの?」
エセルは、あたたかみのある茶色の瞳を見開いた。
「じゃあ、ちょうどよかったわ。エルフの卵には悪夢払いの力があるのよ。いいときにみつけることができたわね」
そう?と、はじめて聞くようにラキスが返してきたので、エセルは深くうなずいた。
「都ではそう言われているわ。悪夢をみること自体は、悪いことではないんですって。心にたまっているものを吐き出す作用があるらしいの。でも、目を覚ましたときに悲しいのは嫌でしょう?」
卵には、悲しい夢の残り香を払いのけてくれる力がある。卵を見るだけで、その力をわけあたえてもらえる──パステナーシュの子どもならよく知っている、おとぎ話のような通説を、エセルは都から遠く離れた地で育った若者に話してきかせた。
それから少し態度をあらためて、今日の本題に入った。
「ところでラキス、お願いがあるの」
「何?」
「正式に教官として契約してもらえないかしら。さっきの様子を見ても、子どもたちにとても慕われているし、ぴったりだと思うわ」
それに、こうしていっしょにいられるような時間の余裕もある仕事だし……と思ったが、それは口には出さなかった。ラキスは何を急に、と言いたげな目で彼女を見返した。
「でも、次の教官候補はもう決まってるって聞いたけど。急な不幸があってすぐに着任できないから、そのあいだだけの代理だと」
「そ……そうなの? じゃあ教官でなくてもいいわ。とにかくきちんと職を持ってほしいの。じゃないとわたし」
「わたし?」
「別の人と婚約しなきゃいけないかもしれないわ」
「…………」
ラキスが反応しなかったので、彼女はさらに続けた。
「わたしはもう十八で、実を言うと去年の秋くらいから、いくつかの縁談が来てはいたの。インキュバスの騒ぎでそれどころではなくなって、そのあともすっかり立ち消えた状態になっていたのだけど……」
婚約者の名乗りをあげている名家はいくつかあり、初秋のころには各家について検討したり調査したり協議したり……そういう作業が、女王陛下と側近たちのあいだでじょじょに進められていた。
エセルもそれは知っていたが、当時はまだ他人事としか感じられずにいたし、そんな作業はもう再開などしないだろうと、すっかり思いこんでいた。
ところが、春の訪れとともに、それが蒸し返されていたらしい。
考えてみれば姉のリデルライナ姫がアルヴァン卿と婚約したのは十八才のとき。そして母であるアデライーダ女王がエルランス殿下と婚姻の儀をとりおこなったのも、やはり十八才のときなのである。
「それでね、候補のうちのおひとりが、今日にもこのお城にいらっしゃる予定なのよ。もちろん縁談のためではなく、例年通り領主としての報告会が目的なのだけど……でも今年はそれだけですむとは思えないわ。領地のマリスタークでも、すでに領民がわたしの訪問を待ち望んでいるとかで」
「マリスターク?」
ラキスが軽く目をみはって彼女を見た。手応えを感じたエセルは、力をこめて身を乗り出した。
「そう、マリスターク。おだやかで住みやすいところらしいわね。でも、もちろんわたしはお会いするつもりはないのよ。だってそんなことをしたら」
「会わないのか?」
少し驚いたような顔のままで、ラキスが訊いた。
「なんで?」
「なんでって……もしお会いして、とてもいいかただったりしたら困るでしょう」
「会ってみるくらい、いいんじゃないの?」
何をのんきに言っているのだろう、この人は。エセルは憤然として説明をはじめた。
「あのね。ふつうの家ではどうだか知らないけれど、王家の娘が殿方とお会いして、しかもお相手がすてきなかただったりしたら、簡単にお断りするわけにはいかないのよ。すでに調査がすんでいる以上、そうそう変な人物が選ばれているわけはないし、いいかたであればあるほど結婚しなければならない可能性が」
「じゃあ、結婚すれば?」
「え?」
「本当にいい人だったら、結婚すれば?」
「…………」
会話がとぎれた。
ややあって、エセルシータ姫は立ち上がった。そして、かたわらにおいてあった壺を手に取ると、まだたくさん残っている中身を、おごそかに若者の頭上にそそぎ落とした。
そののち、姫君としてたいへんふさわしい態度で、からになった壺を彼に向かって投げつけた。
それから決然と歩き出し、その場をあとにした。