5
エセルに手をひかれるままに、ラキスはゆるやかな丘をくだっていった。
姫君は、木立ちのあるほうをめざして、急ぎ足で進んでいく。走り出さずにいるのは、片手でしっかり抱え持った飲みものの壺を気にしているからだろう。
ラキスはこれまで、いろいろな階層の雇い主と契約をかわしながら、各地を渡り歩いてきた。貴族や富豪に雇われることも多く、お嬢様、奥方様と呼ばれる女性たちと接することも珍しくなかった。だが、そうした女性たちが全力で走っている姿は、ただの一度も見たことがない。
だからある日、王城の園庭でレントリアの末姫を見たときには、思わず我が目を疑った。迷い込んだ野うさぎを追いかけて、ドレスの裾を両手でからげながら疾走している。
なんという珍しい光景だろう。しかも、城の人々が誰も驚いていないなんて。
もちろん、そんな姫だからこそ──ひとりで城を抜け出して山登りするという無謀な真似ができたのだろうが……。
実はラキスは、あのときのことを、かすかな記憶の断片としてしか覚えていない。
はっきりした認識があるのは、魔物の頭上で魔法剣を突き立てたところまでだ。
青灰色の沼地にいたのは、なんとなく覚えているような気がする。そばにエセルがいたのもわかる気がするし、自分を呼んでくれたその声も、ぼんやりと胸に残っている。
彼女の腕をつかんだときの感覚も……全部忘れてしまったというわけではない。
けれどそれらは、あいまいな夢のまた夢であるように、現実感のない記憶だ。目覚めたときには王城のベッドの上にいて、エセルの心配そうな顔がすぐ前にあり、こちらはまぎれもない現実だった。
「子どもたちを放りだして、悪いことしたわ」
振り向かずに進みながら、エセルがはずんだ息のあいだから言った。
「あとでおわびしなくちゃね。みんながっかりしちゃったかしら? バルがうまくやってくれているといいけど」
ラキスは気もそぞろだったので、返事をすることができなかった。というのも、前を行く姫君の長い髪が大きくなびいて、彼の身体にかかってくるのである。
はちみつ色のつややかな髪から、柑橘系のさわやかな香りがただよってくる。彼の手首をつかんでいる姫君の手は、ほっそりしてあたたかく、そちらも気にかかった。
そういえば、以前ふたりで天馬に乗ったことがあり、その密着度といったらかなりのものだったが……ただ、あのときは、落馬でもしたらレントリアの一大事だと気を張っていたし、エセルのほうも緊張していた。寒さと毛皮のマントのせいで、感覚が麻痺していた部分もある。
だがいまは春、気候はゆるみ、身体も心もゆるんで、あのころよりはずいぶん開放的だ。
いくら末姫とはいえ、王族が庶民の男性の手を気安く握りしめるなんて、やめたほうがいいのではないかとラキスは思った。
カシム副長が気絶してくれて、案外よかったかもしれない。こんな様子を見られたりしたら、またいちだんと風あたりがきつくなる。
副長だけではない。飾らず恐れず兵士たちの中に入ってくるエセルは、討伐隊のあこがれの的だった。
勇者様の待遇を捨てるにあたり、一番困ったのが、実はこの点に関してだ。親密になっていくふたりを、いままで周囲が見守っていてくれたのは、ひとえに彼が勇者様だったからである。
討伐隊の面々などはとくに、一介のはぐれ剣士が姫のそば近くにいる状況を、許しがたく感じているらしい。悪気でそう感じるのではなく、男としては非常に自然な心の動きなのだろう。
「エセル、手を……」
無駄と思いながらも、ラキスは一応言ってみた。
「なあに?」
「離してくれても、ちゃんと歩ける」
「それがどうしたの? もうすぐ着くわ、あそこよ」
前方には、若葉で彩られた木立が近づいている。ますます強く手首を握りしめながら、姫君は足をはやめた。
ふたりが到着したのは、木立に入ってすぐのところにある、太いニレの木のそばだった。
うすくやわらかな新葉を通して、明るい木漏れ日がおりてくる。灰褐色の幹は葉と対照的にごつごつと固く、根元近くが大きく割れて洞ができていた。
立ち止まってじっとそれをみつめたエセルは、急に慎重な様子になって、ゆっくりとその中をのぞきこんだ。
ふしぎに思いながら、ラキスもそれにあわせて視線を向けた。細く短い小枝と枯れ草をくみあわせてつくった、小鳥の巣のようなものがあるのが見えた。
けれど、もちろんそれは、小鳥の巣ではなかった。
小鳥の卵にくらべるとひとまわり大きい、エルフの卵が三つ、ひっそりとその中におさまっていた。