48(月)
声を出せない苦しさのあまり、飛び起きた。目を見開き、息を切らしながら宙をみつめる。
その視線をふらりと落とすと、ラキスは前のめりにベッドに倒れこんでいった。実際に全力で走り回ったあとのように、疲れ切っていたのだ。
いま起きたばかりの布団の上に横たわり、胸元を押さえてあえぐ。だが、あえぎながら脳裏に思い描いていたのは、みていた夢のことではなかった。
こんな夢の引き金になった事件、その事件の実行犯である男の顔が浮かび上がり、ますます息が詰まりそうになる。激しい負の感情が噴き出してきて止められない。
その感情は、こう言っていた。
──殺してやる。自分がしたのと同じような目にあってみれば、奴にだってわかるだろう。斬られた女が、どんな気持ちだったのか。
なんの罪もない女の腹を切り裂いて、満足げに笑った男。おれの中にまでその手をのばし、悪夢をかき回した男。
そんな男が平然とした顔で、エセルの……エセルのとなりに──。
のどが詰まって激しく咳き込んだため、回復がいっそう遅れた。
ようやく呼吸が落ち着いてからも、起き上がる気持ちになれず、虚脱したようにしばらく横たわっていた。
やがて、彼はのろのろと身体を起こした。
どうせすぐには眠れそうもないし、汗をかいてしまった身体で布団に入り直すのも、気がすすまない。少し戸外の風にあたって、気分を変えたほうがいいと思ったのだ。
音をたてないように注意しながら、部屋を出る。ほとんど手探りで居間を横切り、扉をみつけて外に出た。
皓々と明るい満月が、前庭を銀色に照らしていた。暗い場所をみつめ続けていた目には、強すぎると思えるほどだ。
月明かりの下で、ぼんやりとたたずみながら、ラキスは夢の名残りを忘れようとした。
ああいう夢は少年時代に何度もみたし、問いかける自分がいるのもいつものことだった。
だが成長して剣士となり、実際に人々を救っているのだと実感できるようになってからは、しだいに見る回数が減っていった。
克服したのだ、自分の力で。そう思っていた。
ふたたび見るようになったのは、あの悲惨な事件を目撃してからだ。王城に戻ってきてから、似たような悪夢に何度うなされただろう。
やっと解放されたと思っていたのに……心底うんざりしたが、ありがたいことに、夢はある日を境にぱったりと遠のいた。
おだやかな春の日差しみたいな声で、金色の髪の姫君がこう言った日に。
──悪夢をみること自体は、悪いことではないんですって。
ふたり並んですわった木陰。
あたたかな茶色の瞳を見開いて、お姫様が顔をのぞきこむ。
──エルフの卵には悪夢払いの力があるの。
その日のことを思い出して、ラキスはふっと表情をなごませた。
エルフの孵化をあんなに喜んで……きっと孵化の場面を見るのは、はじめてだったんだろう。
いきいきした横顔があまりにきれいだったから、途中からはエルフではなく、彼女の顔ばかりをみつめてしまった。
出会ったときもそうだった。
南の塔の窓をあけて、身を乗り出してきた彼女の姿に、思わずみとれた。
姫君だと知っていたからではない。あのときはまだ、身分も名前もわからなかったのだ。
夜着のままで髪も乱れ、逃げ場をなくして青ざめていた、ひとりの娘。
それなのに、射し染める朝陽を一身に浴びて、まるで彼女自身が光り輝いているように見えた──。
ラキスは、実際に光を見たかのように目を細めたが、その目はしばらくすると伏せられた。
かすかに浮かんだほほえみが消え、苦しげな表情がそれにとってかわる。胸の奥で呟いた。
どうしてあんなにきれいなんだろう。
清らかすぎて、あれではとても近づけない。
おれなんかがそばにいたら、きっとめちゃめちゃに壊してしまう。
彼女の笑顔を思い出すのもつらくなってきて、ラキスはため息をつくと、その幻影を頭から追い払った。
するとかわりに、愛娘のことを語っている、もうひとりの声が聞こえてきた。
──そなたが川に落ちたあと、あの陽気な子が何日も部屋にこもり続けて、泣いて泣いて……。
勝手に城から出たことで、きっとまた泣かせてしまっただろうとラキスは思った。情の深い姫君だから、いまも泣いているかもしれない。
申し訳ないが、でも仕方ない。あそこに居続けることは、どうしてもできなかったのだ。
月明かりの庭に視線を向けて、ラキスは腰かけられそうな場所をさがした。ひどい疲れを感じていたので、どこかにすわって休みたかった。
何度もうなされたことがあるとはいえ、今日ほど生々しい夢をみたのははじめてだと、彼は考えた。つかまれた感触や水の音、匂いさえも感じとれるようだった。
やはり、ここの土地が悪いのかもしれない。きっと瘴気が心にまで作用したのだ。
そういえば、このあいだ村人たちが集まっていたとき、誰かが言っていた気がする。
森の中でエルフの卵をみつけたが、めずらしいことにそれが黒っぽい光に包まれていた。孵化が近い雰囲気だったが、黒い卵なんて、いままでお目にかかったことがないと。
前庭は、低い灌木や草木ばかりで影が小さく、木のそばにおいてある桶や、納屋にしまい忘れたらしい農具などが見分けられた。荒れた部分が暗がりにまぎれて、昼間よりもむしろきれいに感じられる。
ジンクがつくった腰かけが並んでいるのをみつけて、ラキスはそちらに歩き出そうとした。
だが、実際に歩くまではいかなかった。疲労のせいで、そこまで行くのがひどく遠く感じられる。
歩くかわりに膝を折り、その場にがくんと両膝をついた。それでもたりず、両手を膝の前において上半身を支えた。
たかが悪夢をみたくらいで、こんなに消耗するなんて……。
ラキスは情けなさに舌打ちしたくなったが、しばらくはそのままの姿勢で、体力が戻ってくるのを待っていた。
しかし、その気配がいっこうにやってこなかったため、しかたなく気持ちをひきしめ、足腰に力を入れた。
それでも立てない。
なんてざまだ。最近は剣の稽古をまったくしていなかったし、討伐もせず、身体がなまりきってしまっている。
自分にあきれはてながら、さらに気合いを入れて立とうとした。
だが膝がどうしても伸びず、両手も地面についたままだった。
ラキスの胸に、はじめて動揺が走った。本気になって腰を上げようとしたが、それができなかったので、せめて両手を地面から離そうとした。
できない。
疲労のせいなどではない。掌が、地面に吸いついてしまったように動かない。膝が、土そのものにつかまれてでもいるように動かない。
動かない両手両足をがっちり押さえて、地面から瘴気が這い上がってくる。
腕を伝い足を伝い、身体に流れ込んでくる。
「やめ……」
やめろ。おれの中に入ってくるな。
叫ぼうとしたが、叫びは流れ込むものの勢いに押されて途切れた。
彼は地面に爪を立て、頭をすりつけんばかりに低くして、必死で何かに抗おうとした。
だが、無理だった。
はるかに強い魔力が全身をかけめぐり、その出どころを背中にみつけて飛び出していく。
背中側からの反転だ。
肩甲骨が大きく変形して、衣服を破った。黒い骨格が、止めようもない勢いで上に突き上がりはじめた。
骨を軋ませふるえながら、みるみるうちに、それは形態をととのえていく。
異形のもののひらく音が、耳のすぐそばで、ばさりと響く。そして。
月光の下に、一対の翼が浮かび上がる。
体液に濡れて黒い飛膜もあらわになった、ヴィーブルの大きな翼が。
……やがて、反転は止まった。
背中だけで止まったようだった。ラキスは両のこぶしを握りしめ、うずくまったままじっと動かずにいたが、しばらくすると、ゆっくり顔を上げた。
疲れ切りやつれていたが、淡々とした表情だった。
一晩のうちに二度も、こんな這いつくばったような格好で、起き上がらなければならないなんて、まったくもって納得できない──自分でもふしぎなくらい冷静に、そんな感想を抱いた。
まさしく夢にも思わなかった事態に直面して、逆に落ち着いてしまったらしい。
彼はさらに上半身を起こそうとしたが、翼の先端が地面につっかえてしまい、起きられないことに気がついた。
なんて面倒なんだ……嘆息しながら立ち上がろうとしたとき、ふと誰かの視線を感じた。
家のほうに顔を向けると、戸口の前にチャイカが突っ立ち、じっとこちらをみつめていた。幼い瞳を大きくみはって、びっくり仰天したような顔だ。
見物人がいたとは知らなかった。
「……場所をまちがえてるぞ。寝室はここじゃない」
半分うずくまったまま、ラキスは軽く声をかけた。
子どもが表情をゆるめる。自分の背中にもある黒い翼を、短い人差指でさしながら、小さく言った。
「おそろい」
どうやら、うれしいらしい。
ラキスは苦笑しながら立ち上がると、掌や膝についた泥を適当にはらった。
子どもはうっすら笑っていたが、よく見ると、頬に涙のあとが見えている。
「こわい夢でもみたのか?」
たずねてみると、うなずいて答えた。
「こわい夢、みた」
「そうか……おれもだよ」
ラキスは腰かけのほうに近づき、ふたりがけの大きさのものを選んで、そこにすわった。
背もたれのないこんな椅子なら、翼もすわる邪魔にはならない。
チャイカを見やり、こっちにおいでと誘いかけると、うれしそうに走り寄ってきた。
背丈が小さい子なので、膝にのせてあげたいところだったが、そちらのほうは翼が邪魔でできないようだ。
横にすわらせると、彼女はちょこんと頭をすり寄せてきた。すり寄せながら呟いた。
「こわい人、いた」
ラキスは少しだけ動き、チャイカがちゃんと寄りかかれるように、自分の肩の位置をずらした。そうして、ぼんやりと空を見上げた。
大きな銀色の月が、暗い夜空に冴えざえと澄んだ光を放っている。
それを眺めながら、彼もそっと呟いた。
「大丈夫だよ。あんな奴、おれが殺してやるからさ」
彼はそこに腰をおろしたまま、しばらくの間、子どもといっしょに銀の月を見上げていた。
子どもが眠ってしまうまで、動かずにいてあげるつもりだった。けれど小さな寝息が聞こえはじめたあとも、彼はずいぶん長い時間、じっとそこにすわり続けていた。




