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その日は、それ以上特別なことは何もおこらず、エセルはひたすら休息をとって過ごした。
夜になると、滋養がつく牡蠣にバターをおとしたグリルや、甘いデザートのカスタードが、食卓にのぼった。どちらもふだんの夕食ではあまり出ないものだったから、姫君に力をつけるため、厨房の料理人たちが考えてくれたのだろう。
そうした心配りに気がつかないほど、自分が動揺しているわけではないのだと思うと、エセルは幾分ほっとした。ただ、食べる量がふだんの半分程度になってしまったのは、いたしかたないことだった。
翌日になっても、食欲はあまり回復しなかったが、午前中は視察旅行の報告などでけっこうあわただしく、気分がまぎれた。
マリスタークを見聞した様子を書記官に書きとってもらっていると、整然としていた城内や街並みの雰囲気がしだいにくわしく思い出されてくる。
なんだか、やけに遠い記憶のように感じたが、まだほんの二、三日しかたっていないのだ。
宮廷画家たちが、絵画館の話を聞くためにやってきて、こちらの記憶も、よみがえってくると気分がなごむものだった。
画家たちは目を輝かせて話に聞き入り、作品群について食いつくように質問してくる。やはり実際に誰かが行って、勉強してきたほうがいいということになり、今度は誰が行くかでにぎやかな言い合いがはじまった。
公務にまつわることが午前中で一段落してしまったため、午後になると、いよいよ現実に向きあわざるをえない時間がやってきた。
女王陛下からあたえられた猶予は、今日一日だけ。明日の朝には、何らかの回答をしなければならないのだ。
期間は短く、選択肢もほとんどないといっていい。ただ、すべてを拒否する権利まで、取り上げられているわけではなさそうだ。
エセルは私室に戻ると、やわらかなクッションを抱きかかえるようにしながら、長椅子に腰をおろした。
婚姻について、マリスターク次期伯爵について考えなければいけないのはわかっていたが、考えようとすればするほど、心がそこから逃げてしまう。
そして逃げた先には、きのう女王の口から聞いたコルカムという地名があった。
以前、廷臣たちの会話を聞くともなく聞いていたときに、その名を耳にしたことがある。話題になっていたのは魔物、そして魔性の血が入った人々への反感が強い土地のことだったのだが、その例としてあげられていたのが、コルカムだったような気がした。
もし自分の記憶違いでないのなら──と、彼女は胸を痛めながら考えた。
そんな場所で育ったなんて、ずいぶん大変だっただろう。
川から拾い上げてくれたという養父母が生きていたときは、まだよかったかもしれない。でも、亡くなったあとはどういう暮らしをしてきたのか。
まだ八歳の子どもが、身寄りもなくそんなところに取り残されて……どんなにつらく悲しい気持ちで過ごしたことだろう──。
ラキスに会いたい。会って話を聞きたいと、切実にエセルは思った。
いままで訊かずに過ごしてきた昔の話も、思い切ってたずねてみたい。
今回おこした事件についても、彼の口から直接、理由を教えてもらいたい。何を間違えてしまったのかを、きちんと聞きたい。
そしてもちろん、いま自分がおかれている状況についても、声をあげて訴えたかった。
どうしよう、わたし結婚させられてしまう。どうすればいいの。こんなときに、あなたいったい、どこに行ってしまったの?
返事がかえってくるはずもなく、なんの解決策も思いつかないままに夜を迎えた。
そもそも解決策などというものは、存在しないにちがいないというあきらめが、ぼんやりと心をおおいはじめる。
女王陛下が望んでいるのは、姫の心を半魔の若者から離したいという、ただ一点のみなのだ。その思いが揺らぐことなどみじんもありそうにないし、婚儀さえも、そのための手段として選ばれているのだった。
そんな理由で結婚するなんて、相手であるコンラート殿に失礼ではないだろうかと、エセルは必死に考えてみた。そう、普通に考えれば失礼きわまりない話のはずだ。
でも……もしも婚儀の目的をコンラートが知ったとしても、彼なら受け入れてくれるような気がする。それでもかまわないと、言ってくれるような気がする……。
カーテンをひかれた窓辺で考え込んでいると、ふっと部屋の明かりが暗くなった。侍女たちが、寝室の天井から吊られているランプの灯を消しはじめたのだ。
ランプがひとつ消えるごとに、壁際やテーブルにおかれたろうそくたての灯が、逆にやわらかな存在感を見せはじめる。
リデルライナ姫の静かな声が聞こえてきた。
「下の明かりは、まだつけておいていいわ。エセルと少し話をしたいの」
リデルは、部分的に結っていた髪をすべて解き、夜着に着がえてベッドに腰をおろしていた。
母であるアデライーダの雰囲気に、ますます似てきたと言われている彼女だが、力を抜いた姿には、まだみずみずしい少女の気配が残っている。
絹の夜着は、胸のすぐ下を軽く絞ってひだをつけ、あとはまっすぐにくるぶしまで落とした、着心地のいいものだ。エセルとセレナも同様のものに着がえて、就寝の準備をすませていた。
三姉妹はそれぞれに私室をもっているのだが、寝るときだけは同じ大寝室で、天蓋つきの三つのベッドを並べている。別々の寝室を望めばかなえられるにちがいないが、就寝前のおだやかなおしゃべりは、彼女たちの大切なひとときだ。
とはいえ、今夜ばかりは、おだやかな会話というわけにはいかないようだった。
「少しは考えがまとまって?」
リデルライナが、うつむきがちの妹にやさしく話しかけた。妹姫が首を振ると、彼女は同情するようにうなずいた。
「そうね。一日というのは、あまりにも短すぎるわね」
セレスティーナが、彼女の持ち味であるさっぱりとした口調を存分に生かして、口をひらいた。
「短いほうが、正しく決断できるということもあるわ。いらない考えや無駄な思いに邪魔されずにすむもの」
セレナ姫の胸の下には、少し大きめのリボンがとめられている。隣国メイデンシャイムから送られてきたリボンの束を、衣裳や小物にとめつけて楽しんでいるのだ。
簡素なつくりの夜着が、彼女の巻き毛とあいまって、はなやかな印象をかもし出していた。
「わたくしも少しは考えたのよ」
と、彼女はさっぱりした調子のまま続けた。
「それで結論づけたの。エセル、あなたやっぱり結婚したほうがいいのではなくて? コンラート殿はすてきなかたじゃないの。落ち着いて、大人の魅力があって」
エセルはぎょっとしながら、すぐ上の姉姫を見返した。さばさばした言い方には冗談のような響きがあったが、むろん冗談ではないのだろう。
返事ができず、助けを求めて一番上の姉を見やったが、この姉も同じ意見であることがすぐにわかった。
「どうして……お姉様がた、きのうはあんなに」
「たしかにね」
と呟きながら、リデルライナはため息をついた。
「わたくしたちふたりとも、あなたの相手はラキスしかいないのだと信じてきたし、いまでも、そうであればどんなにいいかと思っている。これは本心よ」
「………」
「でもね……そのいっぽうでふたりとも、彼はあなたには難しすぎるのではないかとも思っていたの。今回の事件とは無関係に、以前からそんなふうに感じていたのよ」
「難しすぎる……?」
「手にあまる、と言えばいいかしら」
エセルが意味をとれずにいると、リデルライナは聡明なまなざしを妹に向けた。そして、実は以前、セレナとふたりで彼と話し合ったことがあるのだと告げた。
「そのときの感想を正直に言うわね。──彼があなたのことを好きなのはまちがいない。ただ……こんなことを口にするのは、わたくしもつらいけれど……結婚したいとは思っていない。そんな望みをもつこと自体を、拒否しているかのようだった」
「………」
「つまりね、エセルを幸せにするのは自分だという気持ちを、彼からはまったく感じなかったの。結婚というものには、その気持ちが一番大切なのではなくて? 身分や格差というものは、その気持ちがあってこそ、乗り越えてゆけるのではないかしら」
「わ……わたしがそう思うのでは、だめなの?」
声をつまらせながら、訴えるように妹姫が言った。
「え?」
「わたしが……わたしが彼を幸せにしてあげたいと思うのではだめなの? 彼、いままでとてもつらい思いをしながら生きてきて──だからこれからは、わたしがそばにいてあげたい。荷物が重くて苦しいのなら、いっしょに持ってあげたいと……」
姉姫たちは言葉を探すように、しばらくの間、口を閉ざしていた。
ややあって、セレスティーナがゆっくりと問いかけた。
「でも……彼の荷物が、本当にあなたに持てて?」
「………」
「そして彼は、あなたの荷物を持つことができるのかしら?」
リデルライナが、妹姫の顔をそっとのぞきこむ。
さとすように語りかける声には、深い思いやりの響きがあった。
「エセル──どちらか片方が思っているだけでは、だめなのよ。両方が同じように思い合っていなければ、荷物はきっと持ち切れない。はじめはよくても、きっと長くは続かない。悪くすれば、共倒れになりかねないわ」




