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もしこれが実戦だったら、おれの人生もここまでだ。
少年たちの山から抜け出そうともがきながら、ラキスは考えた。
かりにもステラ・フィデリスのコレギウムで学んだ者が、チビたちに踏みつぶされておわるとは。
どんなささいな失敗にも理由がある──鬼のように恐ろしかった教官の怒鳴り声が、ふいに耳の奥でよみがえった。失敗を無駄にするな、原因を考えろ、今度同じヘマをしたら落第だ。
こんな何もない芝生でころんだところを教官が見たら、どんなに激怒することか……。
ありがたくない思いに浸っていると、現実の声が耳元で叫んだ。
「先生、寝ないでよ。剣の続き、はじめよう」
「そうだな。でも先生ってのはやめてくれ。名前で呼ぶよう何度も言って……」
「ラキス様」
「様っていうのもやめろって」
「さっさと起きてよ。次の順番、ぼくなんだ」
下敷きになっていた指導者がようやく起き上がると、そばかすを鼻にちらした少年は、勇んで彼と向き合った。
すでに木剣を手にして、かまえている。十歳にしては隙がなく、しっかり芯の通った構えだ。
この子はトビーという名で、父親は以前、都の有力な貿易商だった。
ところが少し前に、綿花か何かの輸入をこころみて失敗し、いまでは借金をかかえて没落貴族のような状態になっているらしい。
トビーによれば、今年の誕生日には、父が本物の剣を買ってくれることになっていたという。だが前々からの口約束をはたそうとする大人は誰もおらず、誕生日はむなしく過ぎ去ってしまった。
とはいえ、宿舎で学び続けられるだけでもありがたいんだと、少年は先日まじめな顔で言っていた。勇者様から剣を教えてもらえるなんて、ぼくはすごく運がいいんだと。
そんなわけで、自分になついてくる少年に、ラキスもなんとなく目をかけるようになっていた。それが素質のある子だとなれば、なおさらだ。
さっきも、自分がころびさえしなければ、手ぬぐいをとっていたのはこの子だったにちがいないと、ラキスは気づいていた。
「振り遅れてる」
打ちかかってくる剣をはじきあげながら、彼は熱心な生徒に声をかけた。
「おれの顔を見るな。全体を見るんだ。じゃないと速く反応できない」
「はいっ」
言われたとおりに視野をひろげたトビーが、ラキスの木剣をきちんと打ち返す。そしてそのあと、急に思いついたのか、うれしげにせがんできた。
「先生、号令かけて。あれ、あのかっこいいの」
まわりで見ていた少年たちも、いっせいに色めき出す。誰かが元気な声をあげた。
「フラーマ!」
「やってやって。ぼくたちも聞きたい」
「でも、あれは……」
ラキスは動きをとめてためらった。
「いいじゃない。いま、バルさんしか見てないよ」
柵のほうを見やると、隊の中でも一番話しやすい若手であるバルが、分厚い肩をすくめている。さぞやあきれていることだろう。
討伐隊にいたときの自分は、たぶん隙のない冷静な剣士として知られていたはずだと、ラキスは思った。それは隊に限ったことではなく、世間を渡り歩いていくにあたって、彼が自然につくりだしている態度でもあった。
長くはいっしょにいられない身の上なのだから、いつ離れてもいいように距離をとっておくべきなのだ。
ところが、どうしたわけか子どもたちといると、そういう距離がとけ消えてしまう。もしかすると自分は、自分で思っている以上に隙の多い男なのかもしれない。
いま子どもたちがせがんでいるのは、コレギウムの授業で剣を振るときに、よく使われていた号令だった。
使い手たちにはおなじみの声なのだが、討伐隊からの評判はあまりよろしくない。「炎の使い手」であることを自慢しているように聞こえるらしいのだ。
多人数が息を合わせるための言葉なので、ふだんラキスが使用する機会はまずないといってよかった。しかし鍛錬の途中、はずみでつい、一度だけ口にしてしまった。
子どもにはたいへん喜ばれたが、誰かに聞かれるとやっかいだから、一度限りにしていたのだが……。
まあ、たまには言ってみてもいいか。そんなふうに思ったのは、先ほど久々に教官のことなどを思い出したからだろう。それに、手ぬぐいを戦利品にできなかったトビーの頼みでもある。
「ちょっとだけだぞ」
言うと、皆はわっと喜び、それから急に静まりかえった。
ラキスが表情を消して呼吸をととのえ、剣をかまえ直したからだ。剣の切っ先が、ゆっくりと上がる。発声した。
「サンクタ・フラーマ」
空気がぴんと張りつめ、あたりの温度が下がったような気がした。低い声だったにもかかわらず、ひとことで、遊びと本気を入れかえるような威力があった。
発声直後に振り下ろされてきた剣を、トビーが必死で打ち返す。木と木が打ちあう乾いた音が、高く響いた。
「ルークス」
ふたたびラキスの剣が向かってくる。なんとか受けたトビーの顔が、にわかに緊張した。伝わってきた感触に、はっとするような重みを感じたからだ。
「テネブラエ」
今度はもっと重い。剣を落としそうになったが、次に打つのはトビーの番だ。柄を握りなおしてかまえた瞬間に、ラキスの声が飛んできた。
「カエルム」
突き動かされるように腕を振る。
ぐっと勢いがました少年の剣を受け止めながら、ラキスは思わず笑みをもらした。いい手応えだ。先ほどまでの剣より、ずっといい。コレギウムでも、この号令がかかるとみんな見違えるように本気になった。
「テラ」
たとえ子ども相手でも、真剣勝負と無関係でも、ふざけながらこの号令を発することはできない。
口に出すごとに頭が冴える。視界が晴れる。感覚がとぎすまされて、剣に必要なこと以外、何ひとつ考えられなくなっていく。
身体に叩きこまれた経験というのは、こんなふうに血となり肉となるものなのか──。
「サンクタ・ウィータ!」
パアン、と乾いた音がひときわ響いて、少年の手から木剣が飛んだ。
別の怒鳴り声が割り込んだのは、その直後のことだった。
「やめい。やめやめ!」