38(馬車)
馬車はたしかに、来たときと同じ道を走っているはずだと、エセルは思った。
おだやかに晴れた空の下で咲きほこっている、林檎や梨の白い花。薄紅の桜も、桜によく似たアーモンドの花も、変わらず枝いっぱいにあふれている。
同じ風景が、気持ちしだいでこんなにもちがって見えるなんて……。
いまのエセルシータ姫の目には、すべてのものが色あせ、輝きをなくして映る。野辺をいろどるたんぽぽの道も、まるで一晩でしおれてしまったかのようだ。
まぶしい車窓から顔をそむけ、自分の膝に視線をおとして、エセルはもう何度目になるかわからない問いを、心の内でくりかえした。
──あの人、今頃どこで何をしているんだろう。どんな気持ちでいるんだろう。どうやって夜を過ごしたんだろう。
食べるものはちゃんとある? 痛い思いをしていない? どうして……。
どうして、あんな無茶なことをしたの?
きのうマリスターク城の庭園で起きた騒動は、ひとりの怪我人を出すこともなく、とりあえずはおさまっていた。
あのあと、エセルは城内に戻って休憩をとり、夜は晩餐会にのぞみ、姫のために用意された最高級の寝室で、予定どおり二泊目の夜を迎えた。
すぐに王城に戻るという案もなかったわけではない。リタなどは、侵入者が襲ってくるような場所に姫様をお泊めするわけにはいかない、いますぐ都に帰らなければ、と騒ぎ立てた。
けれど、出発するにはいささか時刻が遅すぎる。たいして進まないうちに夕暮れになってしまうし、宿の手配もすぐにはできない。
それで結局、翌日の早朝を待ってから帰ることにしたのである。
マリスターク伯爵の意気消沈ぶりは、見ているこちらが気の毒になってしまうほどのものだった。彼は人のよさそうな顔をゆがめながら、平身低頭で自分たちの警備がいたらなかったことを謝罪した。
恋人たちの時間を演出したいがために、警備を手薄にしたことを、死ぬほど後悔しているらしい。
だが、どんなにきびしい警備だったとしても、空中の穴から侵入者があらわれるのを食い止めるのは、むずかしかっただろう。
次期伯爵であるコンラートの謝罪は、父よりさらに心のこもったものだった。
父の場合、その謝罪には女王陛下への謝罪が多分にふくまれている気配があった。もちろんエセルは女王の名代なのだから、それがまちがっているというわけではない。
けれど、コンラートの謝罪は、エセル姫にこわい思いをさせてしまったという、ただそれだけの気持ちから発せられているもののようだった。
だが実際に命の危険にさらされたのは、彼のほうだ。エセルにはまったく被害がなかったのだから、彼がそこまで責任を感じる必要はない。
エセルは彼に、どうか気に病むことのないようにと熱心に伝えた。コンラートは同意しなかったものの、感動したようだった。
「姫様のお心の広さには救われますが……」
それから、ふいに思い出したらしく、ひとりごとのように呟いた。
「あの侵入者はもしかして……王城の庭で姫様に言い寄って、姫様を困らせていた若者? そうか、だからここまで追ってきて、嫉妬のあまりわたしを……」
エセルにつきそっていたリタが、この言葉に飛びついた。
リタは、南の塔で魔物に追いつめられたときにいっしょだった侍女ではないのだが、いままで、勇者様には特別な敬意を払っていた。だが、コンラートの台詞は、そんな彼女さえ深く納得させるものだったのだ。
そう、誰がどう考えても、それしか理由が見当たらない。ラキスという若者が、品行方正な次期伯爵を襲わなければならない理由──。
エセルは、この説をどうにかして否定しようとしたが、無駄な努力におわった。
嫉妬に目がくらんだ、もと勇者。これが、かつての勇者様にあたえられた新しい呼び名だ。
「……エセル様」
となりにすわるリタから、そっと声をかけられて、エセルは顔をあげた。
王室の第三王女をひとめ見ようと、街道沿いに人々が並んでいる。そういう場面がきたら教えてくれるよう、リタに頼んでおいたのだ。
忠実に声をかけてくれる侍女のおかげで、ずっとうつむいていても、手を振る機会はのがさずにここまで進んできている。
車窓のカーテンをひいてしまえば、少しは気楽な気分になれたかもしれない。けれどエセルはそうしたくなかったし、そうするべきでもないと思っていた。
地方の人々にとって、絵姿ではない王族の姿を見るのは、一生に一度のことかもしれないのだ。
行くときの倍の警備がついていたので、ものものしい雰囲気になっているのが残念だったが、しっかり顔を見せてあげなければ……。
花のような笑みをうかべてエセルシータ姫が手を振ると、沿道の老若男女が、みな笑い返しながら頭をさげた。子どもたちがうれしそうに、大きく手を振っている。
民たちが見守る中を、馬車はかろやかに走り去り、やがて人が誰もいない木立の間の道に入った。姫君は力を抜くと、ふたたび視線を膝におとして、考えこんだ。
嫉妬に目がくらんで……そんなことがあるかしら。
よりによってあのラキスに。よい相手なら結婚すればいいと、本気で考えていたみたいだったあの人に。
いいえ、あの人は嫉妬なんかであんなに取り乱す人じゃない。それにあれは、そんな生やさしい感情なんかじゃなかった。
でも……嫉妬って生やさしいかしら?
もし、やきもちを焼いたのだとしたら……わたしを追いかけてきてくれたのだとしたら──ちょっとうれしいけれど……。
エセル姫は、自分の考えにはっとすると、大あわてで首を横に振った。
いえ、うれしくない。本当にそうだったとしても、そんなの全然うれしくない。
エセルの脳裏に、リドとともにあらわれたときの彼の姿がよみがえる。
旅の格好をしていた。そして、自分が庭園に飛び出したことに、芯から驚いていた様子だった。追いかけてきたのならあんなに驚くはずがない、やっぱりあれは、リドが勝手に場所を選んだだけなのだ。
じゃあ、どうして旅支度をしていたの? どこに行くつもりだったの?
王城を出てきたのだと、エセルは思った。ひとりで行ってしまうつもりだったのだ。
わたしに黙って。わたしのいない間に──。
エセルの胸を、するどい痛みが刺しつらぬいた。涙がこぼれそうになったが、泣いている場合でないことはわかっていた。
なぜなら、そんなことよりずっと重要な事実が横たわっていたからである。
わからないことだらけの騒動の中で、ただひとつ確実にわかっている事実。
それは、今後レントリアの国中に、ラキスの手配書が出回るということだ。マリスターク次期伯爵を殺害しようとした、罪人として。
殺害するつもりはなかったなどという言い訳は通じないだろう。あれだけ派手に衛兵たちとやりあったのだ。
つかまってしまったら、どんな運命が待っているのか。死罪……でも未遂に終わったのだから、幽閉……? あんなに自由に空を飛んでいた人が?
エセルは耐えきれずに小さくうめくと、両手で顔をおおった。
そのまましばらく動かず、馬車が揺れるままに身体をまかせて、長いこと目を閉じていた。
──しばらくして、ふたたびリタの呼ぶ声が聞こえた。
「エセル様……」
エセルは顔をあげ、反射的に窓の外に向けて手を振ろうとした。
その手をリタがやさしく押さえ、痛ましげな声でささやいた。
「都に着きましたわ。もうすぐお城ですよ」
窓の外を眺めると、王都パステナーシュの美しい街並み、そして小高い丘の上にそびえたつ王城の南の塔が、春の日差しをあびて薄紅色に照り映えているのが見えた。




