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そうは言っても、彼が村人たちに伝えられるのは、ごく限られた一部の事実に過ぎなかった。
たとえば自己紹介にあたっては、流れ者の剣士であることと、天馬で森の上を飛んだこと──この二点だけであっさりとすませた。こんなところで、実は数刻前まで王城にいました、などと言うわけにはいかない。
天馬と聞いて目を丸くしたものの、人々はとくにその点を追及しようとはしなかった。それ以外のことへの関心が大きすぎて、語り手の身の上にまで気がまわらなかったのかもしれない。
その最大の関心事である殺人の動機についても、彼はまた真実を伝えることができなかった。身内同然の人々が聞くには、あまりにも酷な内容だったからだ。
いったい、どんな顔をして彼らに語ればいいというのだろう。
加害者たちがカーヤを襲った目的が、彼女自身ではなく、身ごもっているその胎児にあったなんて。胎児を取り出して調べるために、母体の腹部を斬ったなんて。
調べたかったその理由が──胎児がインキュバスであるかどうかを、確認するためだったなんて。
この真相をドーミエ男爵の口から聞かされたとき、ラキスは、怒りのあまり倒れるのではないかと思うほどの打撃を受けた。
人を斬るのに、そんな理由があるだろうか。
魔物への憎しみが高じて、みさかいもなく凶行に及んだというなら、まだわかる。だが、加害者がほしかったのは母体の命ではない。
彼らにとってカーヤの命は、魔物であるインキュバスのそれよりも、はるかに軽かったのだ。
ラキスがなぜ、凶行を目撃し、その後ドーミエ男爵に会うことになったのか──その経緯は以下のとおりである。
ドニー夫婦が森に入ったひと月ほど前というのは、ラキスがインキュバスの内部から解放されて、王城に戻り、十日ほどたったころに当たっている。
当初は消耗しきっていた体力が、ようやく回復して、そろそろ働き始めてもいいかと思っていた時期だ。
そんなとき、王城からマリスタークに書簡を届けるという伝令の役目を頼まれた。
リドも舞い戻ってきたことだし、伝令くらいなら肩慣らしもふくめてちょうどいい。彼は引き受け、ほんの短い旅のつもりで王城をあとにした。
マリスタークへの書簡というのは、いま考えれば領主会の案内状だったにちがいない。
そんなものを自分が運んだなんてずいぶん皮肉な話だが、依頼してきた廷臣に、深い考えはなかったはずだ。単に、川を簡単に越えることのできる天馬を、伝令の馬として使いたかっただけだろう。
リドなら、川向こうのドーミエに足をのばすことも、楽にできたからだ。
廷臣はドーミエの領主と旧知の仲で、私的な手紙を届けたいと希望していた。それで、マリスタークの帰りに寄り道をしてほしいという依頼を、あわせて持ってきたのだった。
承諾した彼は、何ごともなくマリスタークまで飛ぶと、家令のレブンと面会して伝令の役目をはたした。それから、レントール川を越え、言われたとおりドーミエの森の上を横切っていこうとした。
おおやけの仕事ではなかったし、向かい風でもあったため、飛行速度はいつもよりかなり遅かった。森の上だから、人目を気にして高く飛ぶような気づかいもいらない。
木立の梢ぎりぎりの高度だったため、眼下の景色がたいへんよく見えた。
馬がつながれていると思ったすぐあとに、ぽっかりと空き地がひらけて、そこに少数の男たちが集まっているのも確認できた。
木こりの集まりには見えないが、森番が見回りでもしているのだろうか……そう思いながら通り過ぎてしまえばよかったものを、わざわざ停止までしてのぞきこんだのは、剣士の勘としか言いようがない。
不穏な気配、流血の予感を感じとる勘だ。
そして、めったにはずれることのないその勘は、このときも完璧に正しかった。
空き地のきわにそびえる大木、その太い枝にぶらさげられているのは、ひとりの女性だった。両手首を縛った紐が、そのまま枝にくくりつけられている。
足が地に着く程度の高さだが、その足に力はまったく入っていない。がっくりと首をうなだれて、気を失っているようだ。
ヴィーヴルに似た黒い翼、胸までかぶさる乱れ髪、そしてあきらかに身ごもっているとわかる身体……。
ラキスの脳裏を、不愉快きわまりない言葉がよぎった。吊り下げられた妊婦を、幾人かの男が囲んでいる。そんな状況を見て思いつく言葉といえば、ただひとつしか見当たらない。
だが、その考えはまちがっていた。暴漢どもは、乱暴目的で取り囲んでいたわけではなかったのだ。
彼が助けに降りようとした直前に、黒髪を長く背中に垂らした男が、ふらりと前に進み出た。そして手にしていた剣で、止めるまもなく女性の下腹部を斬り裂いた。
大量の返り血が男の下半身をしとどに濡らしたが、男は下がることなくそれを受け止めた。剣を捨て、両手をのばしてさらに受け止めた。
それから、ふと視線をあげて上空を仰ぎ見た。
と、そのとき突然、リドが動いた。
眼下で繰り広げられた光景は、天馬の目にも、とんでもなく不快なものとして映ったらしい。
そして、気に食わないものを見たときの聖獣の行き先は決まっている。<星の道>だ。
この<星の道>だが、ラキスがそこを通ったことは、リドとの長いつきあいの中でもほんの二、三回しかなかった。
道の存在が広く知られているということは、過去にもそこを通った人間たちが複数いることをしめしている。昔語りに出てくることも多い。
乗り手とともに道に入った天馬の背中が、出てきたときにはからっぽだった、などというありがたくない伝承もあり……そこで何が起きたかは誰にもわかっていない。
わかっているのは、道が本来、聖獣のみのものであって、人が入るべき場所ではないということだ。リドもおそらくそれを知っているから、めったに利用しないのだろうが……。
しかし、このときは例外だったにちがいない。リドの逃げかたは、まさに問答無用のすばやさだった。
ラキスは叫ぶひまもなく、天馬とともに星空の中に叩きこまれ、そして叫ぶひまもなく、突然地上に叩き出された。
飛び出した場所が人通りのまったくない街はずれだったのは、幸いなことだったのだろう。いくら<星の道>が知られた存在だとはいえ、何もない空間から人馬が飛び出してくれば、どれだけ見物人が集まるか知れたものではない。
先ほどの光景が幻だったかのように、おだやかで平和な街並み。曲がり角に立つ道しるべに、テッサと書かれているのが読みとれる。
リドはなんとドーミエを通り越し、馬で行けば半日以上かかるテッサの街まで飛んだのだ。
このあと、ラキスがどうしたかといえば……彼はふたたびドーミエに戻り、領主に面会を求めた。
一晩はテッサで宿をとらざるをえなかったため、到着は翌日の朝になってしまったが、何もせずに王城に帰ることなどできなかった。
なんとしても、ドーミエ男爵に目撃した事件を伝えなければ。
幸いにも、男爵あてにあずかった手紙を持っていたため、彼は非常にすんなりと領主館に入ることができた。
そして男爵本人と面会し、暴漢たちが前日のうちに捕えられ、収監されたという話を聞かされたのだった。




