32(ドーミエ)
マリスタークの領主館が、またたくまに遠のいていく。
白壁の塔をそなえた高く優美な建物が、風景の一部となって、どんどん後方に流れ去る。
空飛ぶ男たちは農地や林の方角を選び、収獲を待つ野菜畑とまだ育っていない葡萄畑、緑の目立ちはじめた木立が、次々と眼下にあらわれた。
もう城には引き返すことのできない距離だ。にもかかわらず、運ばれている最中の若者は、しつこくわめき続けていた。
「あんたら、いったい何なんだ。人を丸太みたいに勝手に運ぶな。城に戻ってくれ」
「落ち着かんかい、若いの」
頭上から、彼を抱えて飛んでいる男の声が聞こえてきた。
「助けてやったのに、まったくとんでもねえ態度だな」
「誰が助けてくれと頼んだ」
「動くな、飛びにくい。戻ったってつかまるだけだろ」
「そんなのどうでもいいんだよ。早くしないとエセルが」
エセルが危ない。こうしている間にも、あの狂人が姫君を手にかけているのではないかと思うと、神経が焼き切れてしまいそうだ。
「さっさと戻れ!」
「あ」
間の抜けた声がしたと思ったとたん、男の両腕がすべって身体から離れた。
耳元で突風が巻き起こり、一気に髪が逆立つ。ラキスは、両手両足をひろげてカエルよろしく落下したが、次の瞬間、もう一人の男の背中がそれを食い止めた。
真下を飛んでくれていたらしい。
夢中でその背にへばりついたのもつかのま、ふたたび間の抜けた声がした。
「あ」
翼の動きがぎこちなくなり、頼みの背中が急激に下降していく。
「だめだわ、乗っけてるとうまく飛べん」
天馬ほど両翼の間があいていないので、へばりつかれたりしたら動かせないのだ。
手をすべらせたばかりの男が上から追いつくと、若者の胴にがっしりと両腕をまわし、今度は離さないように力を込めた。そして、舞い上がって高度を安定させてからたずねた。
「少しは頭が冷えたかい?」
ほかに返答のしようもなく、ラキスは答えた。
「はい……」
その後、彼は丸太のようにおとなしくなって、空中を運ばれていった。
運ばれながら横を見ると、少し離れたところを飛んでいる三人目の男の姿が確認できた。
その背から生えている翼は、黒光りした飛膜のようで、片翼だけでも大人を楽に包みこんでしまえそうな大きさだった。蝙蝠というより、魔物であるヴィーヴルの翼と同じだと、はっきり言ってしまっていいだろう。
だが、翼の主の背格好だけをとってみると、魔性の禍々しさはどこにもなく、単なる農村の青年とまったく大差がないように見えた。
古ぼけた短いチュニックに、粗く織られたつぎはぎだらけのズボン、土にまみれた皮靴。がっちりした体格は、普段から力仕事に従事していることを感じさせる。
顔つきは険しいが凶暴というわけではなく、むしろ純朴という言葉が近い。
彼が抱え持っているのが、庭園でもぎとられた自分の背嚢であることに、ラキスは気づいた。
頭のすぐ真上では、背嚢よりかなり重くてうるさい荷物の運び手が、ぶつぶつ文句を言っていた。
「本当は、コンラート・オルマンドをとらえて村に運ぶつもりだったのによ。行ってみたらすでに乱闘になってるから驚いちまったぜ」
声からすると年配かもしれないが、きっと横にいる青年と似たりよったりの外見にちがいない。
「おかげで予定が大狂いだ。あんたが暴れたおかげで、衛兵たちがうじゃうじゃ出てきちまうしな」
「オルマンドをとらえて、どうするつもりだったんだ」
訊いてみると、すばやい答えが返ってきた。
「もちろん、なぶり殺しにするんだよ。カーヤと、生まれるはずだった赤子の仇だ。生かしてなんかおけるか」
ラキスを抱え上げているのとは別の力が、男の両腕にみなぎった。
だが物騒な台詞を吐いた男から、訓練された兵士たちの持つ油断できないような強さは感じられない。庭園に入ってきたことについても、なぜか自分を助け出してくれたことについても、計算とは無縁の場当たり的な気配がただよっている。
密着している男の衣服や肌からは、風にさえ流されないような強い炭の匂いがにじみ出ているのがわかった。
職業は炭焼きか木こり、恨みにまかせて飛び出してきた半魔の村人──おそらくドーミエの……。
そんなラキスの考えを裏付けるように、彼の眼下にいま広がっているのは、悠々としたレントール川の流れだった。
晴れていれば宝石のように青く輝く、レントールの大河のおもて。日が傾いて雲も出てきたいまは、深く沈んだ青緑色に変わっている。
船の手配も高い賃金も、長い時間も必要なく、半魔たちが川を超えていく。
向こう側に見える川岸は切り立ち、崖からはみ出すようにして森林がつながっているのが見渡せる。川をへだてたマリスタークの隣、そこはドーミエの領内だ。
二度と足を向けるものかと思った場所に、まさかこんなふうに連れて行かれるはめになるとは……。
領主館に戻ってくれないまでも、せめてドーミエにだけは行かないでほしかったが、ラキスはそれを伝えることはあきらめた。いろいろと訊きたいこともあったがあきらめた。
吊り下げられている身ではしゃべるのも一苦労だったからだ。
男たちは森の上をしばらく飛行し、木々がとぎれて集落が見えたところでようやく下降を開始した。
そして、森のきわから続く、見るからにひなびた村の端に降り立つと、運んできた若者を無造作におろした。




