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若者は背嚢から地面に落下し、軽いうめき声をたてながら悪態をついた。
「リド! 何すんだよ、この駄馬!」
それから身体を起こそうと前を向いたが、そのあとの表情は立ちつくしている姫君とまったく同じものだった。目を疑うように彼女をみつめ、あわてふためいて上を見上げる。
だが、天馬は回れ右をして向きを変え、なんと空中の穴にふたたび首を突っ込んでいるところだった。
「待てよ、リド、おいていくな!」
声もむなしく、あっというまに翼が宙に吸い込まれ、胴体が吸い込まれて、たなびく白い尻尾が消えた。
乗り手は、聖獣を相手に遠慮なくののしったあと、視線を下げて呟いた。
「エセル……」
「ラキス」
エセルは思わず走り寄り、立ち上がろうとする彼に手を差し出した。
「ラキス、あなたどうして」
そのとき、みつめあうふたりの間に、きびしい誰何の声が割って入った。
「何者だ。城門から入るという最低の礼儀も知らないのか」
次期伯爵が、怒りを抑えかねた表情でにらんでいる。当然の反応だ。
あわてたエセルは、コンラートとラキスを交互に見ながら釈明しようとした。
「この人はあやしい者ではありませんわ。わたしの知り合いです。ラキス、マリスターク伯爵のご嫡男でいらっしゃるコンラート殿よ。あなたもご挨拶を……」
エセルはふいに声を呑み込んだ。いままで感じたこともないような強烈な気配が、ラキスから吹きつけてきたのを感じたのだ。
想像すらしたことのなかった、ただならぬ気配──それは殺気という名で呼ばれていた。
思わず見上げた彼の横顔は、蒼白だった。立ち上がったところで動きを止めて、まばたきもせずに次期伯爵をみつめている。
食いしばった歯の間から、うめくような呟きがもれた。
「マリスタークの者だったのか。この──」
次に彼が言った言葉を、エセルは聞きとることができなかった。
いや、聞きとりはしたが、意味をとることができなかった。姫がこれまで生きてきた世界には、けして存在しない言葉だったからである。
彼はこう言ったのだった。
この──殺人鬼。
だが続いて彼が見せた行動は、彼にこそ、その言葉がふさわしいと思えるようなものだった。腰の長剣を引き抜くや否や、止める間もない勢いで次期伯爵に向かって突進したのだ。
予測不可能な行動に、エセルはもちろんコンラートもまったく対処できなかった。呆然と立ったまま、降り下ろされてくる剣先をなす術もなく見上げる。
そのとき。
宙を切る矢のような素早さで次期伯爵とラキスの間に飛び込み、白刃を跳ね上げた男がいた。
護衛兵のディーだった。
剣こそ取り落とさなかったものの、ラキスがぎょっとしたように、大きく身体をひいた。だが、すぐにその倍の勢いをつけて、ふたたび剣を振り上げた。
「どけ!」
剣戟の音が鋭く響き、二本の剣が陽光に輝きながら激しく打ち合った。
二本とも太刀筋がまったく見えないほどの速さだ。ふたりの位置がめまぐるしく入れかわるが、それすらもよく捉えられない。
ラキスの切っ先がディーの長髪をかすめた。だが、かすめた剣はその直後、ひときわ高い音とともに宙を舞った。ディーの剣に、はじき飛ばされたのだ。
すくみあがりながら見ていたエセルが、息を呑む。剣を持つラキスが相手におくれをとったところを、彼女が見たのは、はじめてだった。
一分の隙もなく剣をかまえながら、きびしい声でディーが命じた。
「誰に頼まれての狼藉だ。膝をついて答えろ!」
ラキスは動きを止めたが、従うどころかまったく逆の動作に出た。飛ばされた剣には見向きもせず、次期伯爵に向かう右手には、短剣が握られている。
護衛兵は、コンラートの肩を抱えながら飛びのいた。次の瞬間、別の声が高々と響いて短剣の動きを封じた。
「侵入者、包囲!」
もうひとりの護衛であるレマだった。
もちろん、いまはひとりではない。彼女の引き連れてきた衛兵たちが、庭園で剣を振りまわす不埒者を、たちまちのうちに取り囲む。
不埒者が凶器を離さず、またも動く様子を見せたため、取り囲む輪が一気にせばまる。
「姫様の前で殺生はよせ!」
コンラートが叫んだ。
冷静な口調でディーが応じた。
「承知。捕縛します」
武装した衛兵たちがいっせいに動いた。
エセルが、なんとかラキスに近寄ろうとしながら悲鳴をあげた。
「待って。これは何かの間違いよ。話を聞いてあげて」
かばわれた侵入者を含め、誰一人として姫の声に耳を貸す者はいなかった。
ラキスは勝ち目がまったくないにもかかわらず、包囲に抵抗しながら動き、業を煮やした護衛兵たちがあらたな体勢をとりはじめる。殺生以外のことならしてもいいだろうと判断したのだ。
と、その刹那──。
ふいに、そこにいた一同の頭上に影がさした。影は複数あり、やはり複数の、鳥のはばたきに似た異様な音が急速に近づいた。
上を見上げたエセルは、今日一日の間にいったい何度、予測不能なものを見なければならないのかと思わずにはいられなかった。
頭上を飛んでいたのは、三人の男たちだった。背中に蝙蝠そっくりの大きな翼を持ち、荒々しくはばたきながらラキスめがけて降りてくる。
黒い塊のような不吉な姿に、衛兵たちの輪が思わずひろがった。異形の男たちのうちの一人が、輪の中心に突っ立っている若者に手をのばすと、その背にあった背嚢をいきなりもぎとり放り投げた。
そして、空いた背中に抱きつくようにして自分の両腕をまわし、彼の身体を宙に抱え上げた。
男はたちまち上空まではばたき上がり、ほかの二人もすぐあとに続く。護衛たちが剣をかまえ直したところですでに遅く、そもそも剣など届くはずもない。
黒い一団は、誰に邪魔されることもなく庭園の上を飛び、みるみるうちに城壁を越えて一同の視界から消え去っていった。




