30(庭園)
一行がマリスターク城に戻ってきたのは、午後になり、春の日差しがそろそろ傾きかけてきた頃だった。
絵画館のあとは街中に行き、有力な貴族たちと昼食をとりながら歓談した。それから、おもだった場所を馬車でまわり、視察の役目をはたして、無事に帰ってきたのである。
何ごともなく一日が終わることに、エセルは心底ほっとしていた。街のどこに行っても歓迎されたが、どこかで王家にふさわしくない失態をしてしまうのではないかと、緊張していたのだ。
もっともそんなことになれば、次期伯爵がきちんと補助してくれるだろうことはわかっていた。だから安心はしていたが、それでも気を抜けるほど視察に慣れていたわけではない。
コンラートも彼女同様、どこに行っても歓迎されていて、彼が街のために日頃からつくしていることがよくわかった。だから、城に到着し、最後にふたりだけで庭園を眺めながら歩いたときは、本当に名残惜しい気がしたほどだった。
二泊の予定だったので、明日にはふたたびここを離れて、馬車に揺られなければならないのだ。
「マリスタークを気に入っていただけましたか?」
コンラートが、笑顔で彼女に語りかけた。
エセルは素直にうなずいた。
「ええ、とても。本当にすてきなところですね。もう一晩、泊めていただきたいくらい」
目の前の庭園には、ほっそりと可憐な水仙の花の群落と、刈り込まれた低い灌木が、完璧に組み合わされた配置でひろがっている。エセルが、疲労も手伝ってぼんやりと花にみとれていると、コンラートの声が近づいた。
「では、泊まっていかれたらよろしいのではありませんか?」
次期伯爵がそばに近寄ったことに気づいて、エセルは彼のほうを向いた。思ったよりも、かなり近い位置だった。
「泊まっていかれたらいい。できればずっと」
「………」
「そう思っては、ご迷惑でしょうか」
「あの、わたし……」
今日一日、いろいろなことがあったが、エセルが本気で動揺したのはこれがはじめてだった。
いけない、話題を変えなければ。そう思い、必死で別の言葉をさがした。
「せ……聖母のお部屋がすばらしかったこと、必ず母にお伝えしますわ。王城でも見習わせていただきます」
コンラートはうなずいた。
「聖母子像は色彩も実に美しいですね。とくにあの青いマントは」
「あの青には、わたしも見入ってしまいましたわ」
「青は王家を象徴する色でもありますからね……晩餐会で女王陛下がお召しになっていた瑠璃の色を思い出してしまいました」
エセルも同じことを思い出していたのだが、喜んで同意するわけにはいかなかった。コンラートが、すぐに言葉を続けたからである。
「だめですね、わたしは。ただの視察だと念を押されていたのに……やはり抑えきれなくなってしまったようです」
彼は笑顔をおさめ、かわりに哀切ともいえる表情で、じっとエセルのことをみつめていた。
「姫様は言ってくださいましたね。記憶など、これからいくらでも新しくつみかさねていけるのだと」
「………」
「あれを聞いたときは本当にうれしかった。そして、願わずにはいられませんでした。つみかさねていく記憶の中心にいらっしゃるのが姫様であれば、どんなによいかと」
エセルは返答しようとしたが、何を返せばうまく切り抜けられるのかまったく思いつかなかった。次期伯爵が、さらに一歩近づいた。
「姫様。どうかわたしと──わたしとともに……」
だが、彼はその続きを言うことができなかった。
あまりにも意外な光景が目に飛びこんできたため、さすがの彼も言葉が出なかったのだ。
あぜんとして宙を見上げているコンラートを見て、エセルも振り向いた。そして庭園の上に出現しつつあるものをみつけ、やはり彼と同じようにあぜんとなった。
水仙の花が咲き乱れる庭園、その上空からいきなり現れたのは、白馬の首だった。
つややかな純白の毛並み、湖のように深い青の瞳──。
まるで空間にあいた穴から抜け出してくるように、天馬が空中から首を突き出している。
首に続いて二本の前脚が、宙を掻いて動きながら突き出した。駆けおりてくる動作にそっくりだ。
真っ白な胸が飛び出し、広げた両翼が飛び出した。あきらかにエセルシータ姫をめざして、地上に降り立とうとした。
だが降りる手前で、突然何かに気づいたように、天馬はふいに動きを止めた。
そして大きく背中を振ると、乗っていた若者の身体を振り落とした。




