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 邸宅の中は、どの部屋も本当に絵画ばかりだった。

 家具も装飾品もほとんどすべて取り払われて、大きく空いた壁面に、名画の数々が配置されている。

 広々とした居間だけでなく、執務室や寝室だった場所も、鑑賞に訪れる人たちのために解放されていた。


 この館は、かつては名のある貴族が使っていたらしいのだが、跡取りがいなかったため、ずっと空き家の状態になっていた。それをオルマンド家が買い取り、絵画館としてあらたによみがえらせたのだという。


 絵画は貴族の間ではよく普及している美術品で、王城にもたくさん所蔵品がある。もちろん聖堂や礼拝堂でも、なくてはならない大切なものだ。

 けれど、ただ絵を見るためだけにひらかれた施設というのはとてもめずらしい。この型破りな発案がロッテンクロックのものだというのは、納得できる話だった。


 そんな思いつきに共鳴して出資を決めたというのだから、次期伯爵の心がいかに絵画に傾倒しているかよくわかる。ところどころで解説をくわえてくれる彼とともに、エセルは一階を楽しみながら見てまわると、二階に続く階段に向かった。


「聖画は二階に集めてあるのです。なかなか壮観ですよ」

 階段の前でいったん足をとめて、コンラートが言った。

 それから、よくみがかれた木板の階段をのぼりはじめたが、そのときさりげなく姫君の手をとった。


 といっても、階段での紳士的なふるまいとしては普通だったため、エセルが何か感じたということはなかった。

 ただそのふるまいが、のぼりおわっても続いたときは、礼をのべて辞退したほうがいいのだろうかと考えた。

 きっといいにちがいない……彼に他意がないのだとしても、一応念のために……。


 エセルは口をひらきかけたが、実際に発声したのは、それとはまったく別の言葉だった。ちょうどそのとき足を踏み入れた二階の部屋が、あまりにもすばらしかったので、呟かずにはいられなかったのだ。


「まあ、なんてみごとな……よくこんなに集めましたね」


 その部屋に飾られていたのは、すべて聖母子を描いた聖画だった。

 舞踏室にでもなっていた場所なのか、一階の広間と同じくらい広々とした空間だったが、その壁面いっぱいに聖母子像が並んでいる。


 慈愛に満ちた表情の聖母と、その腕にいだかれた幼な子──聖画の分野でも特に人気が高く、目にする機会も多い構図だが、ひとところにこれほど集まっているのを見るのは、はじめてだ。


「北部だけでなく、南部のほうの絵もありますよ」

 エセルの感嘆にうなずきながら、コンラートが静かに言葉を返した。


「館長が絵のありかを全部書き記していたので、それに沿って探す作業は思ったよりも楽だったようです。それに最近では、寄進してくださるかたも多くなりました。自宅で保管するのは案外気をつかいますからね」


 最近はやりの油絵はともかくとして、顔料と卵黄を混ぜた年代物のテンペラ画は劣化が激しいのだと、彼は説明した。画面がかびたり湾曲したりしてしまったものも、ここでは修復したうえで展示しているのだという。


 そんな修復の例を話したあと、彼は低い声でささやいた。

「しかし、この場にあっては解説など不要でしょうね……。わたしにおかまいなく、どうぞ姫様のお好きな絵からごらんになってください」


 彼がエセルから手を離して距離をとったので、彼女もうなずき、心ひかれるままに好きな絵の前で立ち止まることにした。

 彼の言うとおり、巨匠たちの描く聖母子の前にたたずむと、どんな言葉も不要になってしまう気がする。

 ヤーコフはもちろん、複製でしか見たことのなかったアリーシャの聖母、ボーゼの幼な子……天地の啓示を受けとめて絵筆にのせる、天啓派と呼ばれる画家たちの作品の美しさを、言葉で語ることなどできはしない。


 構図や色彩を説明することなら、いくらでもできるのだった。

 たいていの聖母子は画面の中央か少し上部に描かれていて、雲の上に立っていることもあればすわった姿勢でいることもある。いくらか高くなった壇上や、玉座とおぼしき場所にいることも多い。


 あたりには聖母をうやまう人々やかわいらしいあま御使みつかいたちが集っているが、上半身しか描かれないときは母子だけのこともあるようだ。


 ふっくらとした幼な子は、生まれたそのままに裸の姿で、母の腕や膝の上にささえられ、安心しきった表情を見せている。

 やさしく微笑する聖母は、丈の長い緋色のドレスをその身にまとう。肩や腰をやわらかくおおっているのは、たっぷりと大きな瑠璃色のマントだ。

 まっすぐな褐色の髪は、ふんわりとマントに隠されていることもあれば、純白のベールに包まれていることもある。


 神の慈愛をあらわす緋色と、天の真実をあらわす瑠璃色、純潔をしめす白──。

 似たような構図と色彩でくりかえし描かれる聖母子が、神々しさを感じさせるほど美しいのは、いったいどうしてなのだろう。


 一階で見たばかりの市井派の作品を、エセルはふしぎな気持ちで思い返した。目の前の情景をあるがままに描きとった作品群は、いきいきと働く庶民や農民たちの姿をうつして、とても美しかった。


 貧しい衣服を着ていても、よごれた地上を背景にしていても、美しいと感じる。それは生命力の美しさにちがいないと、彼女は思っていた。

 絵の中で息づく人間たちは、自分自身の力で生きているという自信と誇りに満ちている。それが画面の外まであふれるような魅力となって、見る者の心をつかんでいるのだ。


 けれど、ここに並ぶ聖母子像からそういう誇りは感じない。描かれた人物たちが会話をしている気配を感じても、声が聞こえるような気はしない。

 そもそも、目の前にいる人物を描いたわけではないのだから、本当に実在していたかどうかもわからない。


 絵の中にあるのは静謐せいひつ……ただひたすらに静寂な時間。市井派の対極ともいえるこうした静かな作品に、これほどの魅力を感じとるのはなぜなのか。


 エセルは考えたあと、たぶんそうであろうという答えにたどりついた。

 幼な子を抱いた聖母は、きっと、命は天からあたえられたものだと信じているのだろう。

 授けられた命、いただいた命だと知っている──おそらくそれが、人々の胸を打つ美しさの源なのだ。


 まったく相反するように見える二つの考え方を、ともに魅力的だと感じるなんて、奇妙といえば奇妙な話ではあった。けれど世界というのはもしかしたら、その両方から成り立っているのかもしれないとエセルは思った。

 どちらか片方だけでなく、両方をあわせもっているのがこの世界なのかもしれないと──。


 長いあいだ足をとめてしまったことに気づき、彼女は思わず身じろぎをした。視線をめぐらせて、次期伯爵の姿をさがす。ずいぶん待たせてしまったのではないだろうか。


 だが、彼はかなり離れた場所で、エセルと同じように立ちつくし、身動きもせずに眼前の聖母子を見上げていた。

 その立ち姿には近寄りがたいほどの真剣さがあり、いまこの瞬間、彼の中から姫君の存在が一切消えているであろうことが感じられた。


 ひとりで見たかったのは、彼のほうなのかもしれない……エセルが思っていると、後ろからふいに声がかかった。


「この部屋は、コンラート様のご意向で設けたのです」


 振り向くと、眼鏡の奥で人なつこそうな瞳を光らせて、ロッテンクロックが立っていた。

「ここに来ると、いつもああして魅入られていらっしゃいますよ。よほどお好きなんでしょうな。まあその、最近はいささか魅入られすぎではありますが……」


 館長は歩み寄ると、後ろ手を組んでエセルの横に並んだ。

「ほんの少しなら姫様のおそばにいてもいいと、リタ殿からお許しをいただきまして。ほんの少しならですよ」


 彼が強調したので、エセルも笑ってしまった。それから、絵について以前から疑問に思っていたことを口に出してみた。

「うかがってもいいかしら……聖母子像は、ほとんどが赤ん坊のものばかりですよね。どうしてもっと大きな子が描かれていないんでしょうか」


 描かれてはいるのかもしれないが、あまり見た記憶がない。たしかに母の愛を表現するには赤ん坊がぴったりだが、少年や青年が母と寄り添う構図であっても、別におかしくない気がするけれど……。


「さあ……どうしてでしょう」

 エセルの問いをうけて、ロッテンクロックが呟いた。


「たとえば画家はこう思ったのかもしれませんな。生命(いのち)の尊厳は、赤ん坊のかたちをしているのだと」


 

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