27(絵画館)
一見ただの大邸宅に見えた建物が、絵画館と呼ばれている意味は、玄関ホールに入ってみるとすぐに確認できた。
正面の壁面に、普通の貴族ならこの絵は選ばないだろうと思われるような作品が、いきなり飾られている。市井派の画家として有名なファルミの絵で、にぎやかな朝の市場の情景をあざやかに切り取った一枚だ。
朝市につどう、いまにも動き出しそうな生命力に満ちた民たち。売り手と買い手のやりとりまでが聞こえてきそうな逸品だったが、こういう作品を飾りたがるのは商館などがほとんどで、個人宅に飾られることはまずないといっていい。
出迎えてくれたのはロッテンクロックという名の館長で、年齢は初老の一歩手前といったところだった。
彼はこの絵画館の発起人であると同時に、みずからも画家であるのだという。自己紹介通り、もし画家でなければ問題になりそうな風体だ。
ずるずると丈が長く年期の入った上着は絵の具だらけで、奇抜なまだら模様になっている。やはり絵の具だらけなうえに、大きく型崩れしたフェルト帽。帽子からはみ出た髪はくしゃくしゃで、王族を出迎えるにふさわしい格好とはお世辞にもいいがたい。
だが鼻の上にのせた小さな眼鏡には愛嬌があり、レンズの奥の瞳には朝市の民さながらに、いきいきした輝きがあふれていた。
そしてこの人物は、とにかくたいへんおしゃべりだった。
彼はまず、王室の姫の訪問がいかに名誉なことであるかをまくしたて、続いて間近に見た姫の魅力について、言葉をおしまず力説した。
それから次期伯爵に向けて、満面の笑みをたたえながら言い切った。
「コンラート様、こんなにかわいらしいおかたを奥方様にお迎えできるなんて、本当にお幸せでございますな! しかも絵画がお好きとくれば、もうほかに望むことなど何もありませんて! このロッテンクロックも、おふたりのために全精力をかたむけまして仕事に励む所存でございます」
「いや、奥方様と決まったわけでは」
コンラートが言いかけたが、館長は話すのに忙しかったため、まったく聞く耳をもっていなかった。
「姫様! 姫様もすばらしくていらっしゃいますが、こちらのマリスターク次期伯爵も、またすばらしいお人ですぞ。何しろ芸術が何たるかを、よくわかっていらっしゃる。コンラート様が説得してくださったからこそ、伯爵も私財を投じて名画の数々を買い取り、館を買い取る決意をなさったのです。いまではすっかりここに魅了されて、金に糸目はつけぬから好きなようにやるがよいと」
渋い顔で口をはさんだのはレブンだった。
「そこまではおっしゃっていない」
「おや、そうでしたかね?」
「オルマンド家をあなたの財布と勘違いしないでいただきたいですね。そもそも絵の具ひとつとっても、どれほど高価だと思っているのですか? その服と帽子についている顔料だけでも金額にすれば」
顔料だらけの館長は、ひたいを押さえておおげさに嘆いた。
「レブン殿が優秀な家令なのは存じていますよ。しかし、いま少し芸術にも心をひらかれるとよろしいのに。算盤ばかりかかえていては、葡萄酒もおちおち味わえないではありませんか」
わたしは算盤を味わうだけで十分です、と、レブンがうなった。館長の嘆きは深まった。
「なんとまあ無粋なことを! 一度落馬でもして、池に落ちてみたらどうですかな。コンラート様のように開眼できるかもしれませんぞ」
「そのあたりになさいませ、ロッテンクロック殿」
忍耐強く黙りこんでいた侍女のリタが、氷のような声で割り込んだ。
そして、若いふたりの大切な時間が、無駄なおしゃべりのおかげでどんどん減っていることを、きびしく指摘した。
「これは大変な失礼を」
ロッテンクロックは飛び上がった。
「ではリタ殿、若くない者どうし、さっそくあちらの部屋へ参りましょう。もちろんレブン殿もお早く」
いきなり歩き出した館長のあとに、リタとレブンが若干よろめきながら続いた。
別室に消えた年長者たちを、エセルは目を丸くしながら見送っていた。
話には聞いていたが、想像以上に楽しい館長のようだ。彼はこれから別室でリタの苦情を聞くことになるだろうが、彼女だって絵画鑑賞を楽しみにしていたから、そう長々と言い立てたりはしないだろう。
「風変わりな男で、びっくりなさったでしょう」
かたわらにいたコンラートが、困ったように苦笑しながら話しかけてきた。
「あれで、才覚も人望もちゃんとある人物なのですがね。ここに飾られた絵のほとんどは、彼が若いころ各地を旅している間にみつけたものばかりなのです。彼を慕って才能のある人材が集まってきていますし、あれでも館長には適任なのですよ」
「風変わりと聞くと、親近感がわきますわ」
笑い返しながら、エセルも言った。
「王城ではわたしも、みんなから風変わりと言われる立場の人間ですもの」
「姫様が風変わりとは思いもしませんが……」
黒い瞳を軽くみはって、コンラートが応じる。
「しかし、それが悪い言葉だとは思いませんよ。既成の枠にとらわれないのは、一種の才能ではないでしょうか」
次期伯爵の落ち着いた声を聞きながら、エセルは先ほどロッテンクロックに言われたことを思い出した。
奥方様などという言葉を出されて困惑したが、動揺は覚えなかった。何を言われても、コンラートならうまく受け流してくれるだろうという安心感があったのだ。
「……落馬の事故は災難でしたわね」
少し迷ったあと、彼女は一歩踏み込んだ発言をしてみた。かたぶつの家令に向けて館長の投げた台詞が、二年前の次期伯爵をさしているのだとわかったからだ。
「お恥ずかしい話です」
コンラートは、エセルの発言を嫌がることもなくうなずいた。
「葡萄酒をたしなんだあとに乗馬などをして、自業自得でしたね。池に落ちなければ、右手の骨折くらいではすまないところでした」
「もう痛むことはないのですか?」
「まったくありませんよ。ただ記憶のほうは、いまでも完全とはいきませんが……」
この件については、王城を出る前に母から直接教えられていたので、エセルもおおよそのことは知っていた。
助けあげられたあとの数日間、人事不省におちいって、目覚めたときには記憶が混乱してしまっていた。幸いにも混乱はすぐに落ち着いたが、一部の記憶に欠落が出たままになっている──そんな事情も聞いていた。
ただ欠落といっても、たとえば物をおく位置や、昔の小さなことが思い出せないといった程度に過ぎず、日常生活にはなんの支障もないらしい。
それよりもまわりの皆が注目したのは、事故後のコンラートに跡取りとしての自覚が芽生え、みちがえるほどしっかりしたという事実のほうだった。
「手厚い看護をうけて、両親や家臣たちのありがたさがつくづく身にしみました」
当時を思い出したのか、しみじみした口調で彼が語った。
「それまではあってあたりまえと思っていたすべてのことが、実はたいへん恵まれた環境のたまものだったのだと、ようやく気づいたのです。その意味では、ロッテンクロックの言ったとおり開眼したのですね、きっと」
どことなくきまりが悪そうな様子の彼をみつめて、エセルもあたたかな気持ちがわきあがるのを感じた。その気持ちをそのまま唇にのせて、やさしく言葉を返した。
「お命に別条なかったことが何より大事ですわ。記憶なんて、これからいくらでも新しくつみかさねていけますもの」
ありがとうございます、と、コンラートが感謝のまなざしで答えた。
「ずっとお話していたいところですが、そろそろ絵を見なければなりませんね。ご案内しますよ」
エセルはうなずいた。それから広い邸宅内を、ふたり並んで見学しはじめた。




