17(マリスターク)
馬車は、よく踏み固められて整備された道を快調に走っていた。
両側に広がる葡萄畑は、まだ殺風景な裸木の列だが、近くに寄ればたくさんの新芽が見えるにちがいない。
葡萄の木は、収穫がおわった年明け以降、幹とほんの少しの短い枝を残して全部剪定されてしまう。だからいまは、木よりもかたわらの棒杭のほうが、背が高くて目立っている状態だ。
杭は、曲がりながら伸びる枝を結わえつけておくために、一本一本の木の根元に打ちこまれている。このおかげで、春に伸び出す新しい枝々は、ぶつかりあわずに成長することができるのだ。
マリスタークは、レントリアでも有数の葡萄の産地で、醸造される葡萄酒の質のよさも有名だった。
都では、いつも首を長くして出荷の時期を待っているが、国内だけでなくメイデンシャイムやエシアなどの隣国でも、毎年多くの買い付けがある。
陸路ではむずかしい大量の樽の運搬も、レントール川に接しているマリスタークなら、船で容易にできるのだ。
そういうわけで、この地はレントリアにとって、産業を支える大事な要所のひとつとなっていた。
いま走っているのは田舎道ではあるのだが、都とマリスタークをつなぐ主道でもあった。
丸一日かけて大きな街道を進み、街道沿いの宿に泊まったあと、今朝から横道にそれてさらに南下している。旅をはばむ風雨もなく、春らしいあたたかな天候で、まさに旅日和といったところだ。
──縁談ではありませんよ。ただの視察です。
クッションのきいた座席にもたれながら、エセルは女王である母の言葉を思い返した。晩餐会がおわったのち、青ざめている娘に苦笑しながら、母はやさしく言ったのだった。
──そのまま婚儀になど入ったりしないから安心なさい。向こうにもちゃんと釘をさしておきますからね。マリスタークにはしばらく足を向けていなかったので、そろそろ誰かをやらねばと思っていたのです。いい機会だから、じっくり絵画も見せてもらって見聞をひろげておいで。
領主会は毎年、王城でひらかれているが、王城の者たちも手分けして地方におもむいては、現地の様子を確認し意志の疎通をはかっていた。
廷臣たちはもちろん、女王自身も行幸をいとわず、姿絵でしか王族を見たことのない民たちとの交流を深めようとしている。そして最近では、リデル姫やセレナ姫も、それぞれ個別にその役目をになうようになっていた。
だがエセル自身は、いままでひとりだけで城を離れたことはない。母や姉たちといっしょに地方をまわったことはあるのだが、王族ひとりで動くのはこれがはじめてだ。
つまり王家の代表、女王の名代──わたしがこの公務で何かの失敗をしたら、王族みんなが恥をかいてしまう──。
エセルシータ姫はそう考えて緊張し、はじめのうちは、見聞をひろめるというより視野をひろげることしか考えられなかった。
視野というのはあがっていると狭くなるので、たとえばすみのほうで敬礼している者などがいても、まったく目にはいってこない。会釈してあげれば、さぞ喜ぶにちがいないのに……。
とりあえずマリスタークについての知識をさらいはしたが、付け焼刃の勉強がちゃんと身についたかどうか、こころもとなかった。何しろ、晩餐会から一日おいた早朝には出立するというあわただしさだったのだ。
行くと決まっているのだから、伯爵たちの帰郷に同行してしまったほうが、警備の面でも準備の面でも楽になる。そう言われればたしかにそうだったし、伯爵からの要望も積極的だった。
そんな事情で、気を張りながら馬車にのりこんだエセルだったが、一日過ぎると気分もずいぶん落ち着いてきた。もともと旅に出るのが好きな性分だったし、長く馬車にゆられても苦にならない体質だったのだ。
それに伯爵一行も、休憩で顔をあわせるたびにあれこれと声をかけて、姫君を気づかってくれる。とくにコンラートの、適度に距離感を保った気配りは、つい警戒心をいだいてしまいがちなエセルにとってありがたかった。
けれど、心がほぐれた一番の理由は、やはりあたりにひろがる風景のすばらしさだろう。
一年中でレントリアがもっとも美しい季節。林檎や梨の白い花は、いまが盛りと咲きほこり、薄紅色の桜、桜によく似たアーモンドの花もあふれるばかり。
葡萄の木々が育っていなくても、木と木の間には数え切れないほどのたんぽぽの道ができて、畑をまぶしくいろどっている。
そうして車窓の景色を楽しむうちに二日目の時間も過ぎて、一行は無事、オルマンド家の領主館に到着したのだった。
領主館は、畑と街のちょうど境界線に位置し、城と呼んでさしつかえないほどの威容ある姿でそびえたっていた。
建物南側が王城のものとそっくりの塔になっているのも印象的だ。
地方によっては、邸宅を大きくしただけの領主館もめずらしくなかったから、この規模はマリスタークとオルマンド家双方の、力と歴史を感じさせる。
だが、見上げるように天井の高い玄関ホールに足を踏み入れてみれば、そこは、いかつさや重厚さより優美さを強く感じさせる空間だった。
太い支柱には細い円柱が寄り添うように組み合わされて、線の美しさを際立たせているし、アーチ型の窓枠も階段の手すりも、丸くけずられたりこまかい彫刻がほどこされたりしている。
角や面をむき出しにしないことで、厚みと重みを少なく見せているのだ。
内装も品のよさに満ちあふれ、王城や都の大聖堂によく似た雰囲気をたたえていて、エセルの目にも親しみ深いものだった。
おそらく女王陛下の住まいを模して造られ、長年それに磨きをかけてきたのだろう。この城の歴代城主たちが、王家と友好的な関係を結んできたあかしだ。
出迎えに並ぶ人々の間からあらわれたマリスターク伯爵夫人も、その建物にふさわしく貴族的かつ上品な女性だった。
「なんという、すばらしい春でしょう。姫様を我が城にお迎えできるなんて、身にあまる喜びですわ。早馬の知らせをうけたときは、春の夢かと思ったほどですのよ」
夫人は頬を紅潮させながら、夫そっくりの人のよい笑顔で歓迎をあらわした。
婚約と勘違いしているのではないかと思うほどだったが、エセルが用意していた口上をつつがなく述べると、息子の話を持ち出すことなく、すぐに客室に案内してくれた。
エセルは、ほっとした。広い客室には、すでに給仕たちが控えていて、はちみつを添えた紅茶をふるまってくれた。干し葡萄がたっぷり入った焼き菓子や、しょうがの砂糖漬けなどもある。
つれてきた侍従や侍女たちもいっしょに味わうことができたのが、またうれしい心づかいだった。
お茶を飲みおえ、オルマンド家の者たちがさがってしまうと、エセルたちもそれぞれの場所で休息をとることにした。
侍女たちは控えの間で休み、エセルは天蓋の垂れ布を半分だけあけて、ベッドに腰をおろした。
いくら馬車の旅が好きとはいえ、さすがに二日間すわり続けていたので、腰や背中が痛い。座席の振動が、いまだに身体に残っているような気がする。
思い切って横になり、広いベッドに勢いよく手足を投げ出した。深呼吸して目をあげると、天井部分に描かれた板絵が目にはいった。
こんなところまできれいに装飾されているのかと、エセルは感心した。葡萄の葉とつるの曲線模様が、浅緑のやわらかな色合いで描かれて、心をなごませてくれる。
いいところだわ、と、エセルは素直に思った。
車窓から見た荘園の様子は気持ちのいいものだったし、伯爵一家も、みんなすてきなかたがただ。わたし、マリスタークがとても好きになるかもしれない……。
なごんできた気持ちのままに横になっていると、しだいに手足があたたまって眠気がはいあがってくる。
それと同時に、ひとつの思いが、あたたかい湯の中のあぶくのように意識にうかびあがってきた。
──わたしったら、ラキスに何も言わないまま、こんなところまで来てしまった……。