13(次期伯爵)
木漏れ日の中から歩み出てきた人は、仕立てのいい葡萄色の上着を身につけて、貴族らしい風貌だった。
しゃがみこんでいるエセルに手を貸そうと思ったらしく、ひかえめながらも迷いなく近づいてくる。
「だ……大丈夫ですわ」
エセルはあわてて立ち上がり、乱れていた金髪を肩のうしろにはらった。
恥ずかしい、取り乱したところを見られてしまった──動揺しながら顔をあげると、漆黒の瞳が微笑した。
「よかった」
大人にふさわしい落ち着きをただよわせて、とても礼儀正しい物腰だ。
「どなた……?」
すると彼は居住まいをただし、自分の名がコンラート・オルマンドであること、マリスタークから来た者であることを名乗った。
ではこのかたが、マリスターク伯爵のご長男……エセルも思わず背筋をのばす。
「遠くからお疲れ様でした。もうお着きになったのね。夕方くらいと聞いていたのですけれど」
「馬たちががんばってくれたようですよ。ただ少し早く着き過ぎてしまいました。どうしようかと思っていたところ、セレスティーナ様が庭内を案内してくださったのです」
「お姉様が?」
「先ほどまでごいっしょでした。わたしがこちらに来てしまいましたので、いまごろはたぶん、あの若者といらっしゃるのではないかと」
エセルは今度こそ赤面した。
「見ていらしたのね……」
「申し訳ありません」
あくまで礼儀正しく、次期伯爵が言う。
「声までは聞こえませんでしたが……彼はずいぶん、姫様のお怒りをかってしまったようですね。ご友人ですか?」
「友人なんかではありませんわ。単なる知り合いです」
必要以上に力をこめて、エセルは言った。
「それにおこってなんかいません。ただ、あまりに相手の頭が固いので、甘いものでもそそげば少しはやわらかくなるかと思ったのです」
コンラートが、びっくりしたように目を見開いた。
「たしかに多少はべたべたしますけど、水でもかぶればすぐに落ちますわ。でもあの……お見苦しいところを……お見せしてしまって──」
途中からしとやかな口調に変更したが、すでに遅かった。次期伯爵は二の句が告げないように黙りこんでいる。
返事もせずに目を伏せてうつむき、苦労して何かをこらえているようだ。
やがて彼は、片手で口をおおいながら吹き出すと、くつくつ笑いはじめた。
エセルシータ姫は、またもや自分が珍獣への道に近づいたのではないかと思って、暗澹とした。
セレナ姫が、おそらく完璧な接待をしていた直後だというのに、なんという違いだろう。次期伯爵も、さぞやあきれはてたにちがいない。
だが、顔をあげたコンラートの瞳には、おだやかなやさしさだけが満ちていた。
「ご無礼を……姫様があまりにおかわいらしいので、つい」
「い、いえ。どうぞ気になさらないで」
「──ありがとうございます」
「いえ」
「お礼を申し上げたのは、いまわたしに光をくださったことに対してです。こんなふうに笑ったのは本当に久しぶりだ──笑い方など忘れてしまったかと思っていましたが」
「……何かおつらいことでも?」
エセルは遠慮がちにたずねた。
インキュバスを求めて、丘の森をただひとりさまよっていたとき。偶然出会った少年が笑った瞬間に、光が見えたような気がしたのを思い出したのだ。
ティノといっしょに笑いあっただけで、凍えていた心がたしかにぬくもりを取り戻した。
けれど、コンラートはあっさりした口調で答えた。
「たいしたことではありません。実は仕事をこなすのが大変で、最近いささかまいっているのです」
彼によると、マリスターク伯爵は隠居の意向をしめしていて、嫡男に家督をゆずる心づもりをしているという。それでこの一年は、伯爵の仕事を受け継ぐべく、日々努力しているそうだ。
もちろん以前から手伝ってはいたのだが、若気のいたりで離れていた時期もあり、そのつけをただいま必死に払っている最中らしい。
マリスタークの領内は広く、しなければならないことは山ほどある。荘園ごとの面積や人数を把握し、生産物や家畜の状況を確認し、収入や支出を管理し……。だが領民たちのためにも、年老いてきた父のためにも、跡継ぎの自分が気を抜くわけにはいかない。
「立派な心がけだと思いますわ」
エセルは感心して、素直に賞賛した。頭の固い知り合いとのやりとりで、心がすさんだあとだったため、こういう堅実な話は本当にほっとするものだった。
彼は少し照れたように口をとじると、あたりを見回しながら話題を変えた。
「それにしても、伝え聞いていたとおりすばらしい庭ですね。木々も芝生も手入れがよくゆきとどいて」
「園丁たちが、それは一生懸命働いてくれるんです」
エセルも視線を転じてうなずく。
「花壇のほうはごらんになりました? 木だけでなく、お花もすばらしいんですよ」
「どちらですか?」
こちらです、と、自然に案内するかたちになり、エセルは彼と並んで歩きはじめた。四季の花々について談笑をかわしながら、ゆっくりと進んでいく。
──このかたと、あまり親しくなってはいけないんじゃないかしら。
歩きながら、ふとエセルは気がついた。
だが、いまさら距離をとるのはおかしいし、そんな失礼なことができるはずもない。それに自分はいま、姉にかわって接待をしている最中なのだ。
接待しながら別の人のことを考えるのも、失礼きわまりない話だったので、エセルは賓客に気持ちを集中することにした。
木立を離れると、さえぎるもののなくなった春の日差しが、やわらかくふたりの上にふりそそいだ。