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それから、彼女は気を取り直すように椅子から立ち上がって、ラキスのそばに近づいてきた。
長椅子にいる彼のとなりに細腰をおろすと、スミレの香りがふわりとただよった。
「でも、セレナが最初のほうで言ったことには、わたくしも同意するわ。あなたはもっと自信をもつべきよ、ラキス。本当に、あなたがわたくしたちの勇者様であることに、何ひとつ変わりはないのだから」
「ありがたいお言葉ですが……」
ラキスとしては、当惑するしかない気分だった。
「正直に申し上げて、どうして姫様がたが、わたしのような者にこんなによくしてくださるのかわかりません。わたしは半……」
リデルライナが、白い人差指を自分の唇にそっと押しあてた。ラキスが口を閉じると、姫君はかさねて言葉をついだ。
「何ひとつ変わりはないと言ったわ」
「ですがこの国は……エルランス殿下が……」
ラキスには信じがたいことだったが、エセルはふたりの姉姫に、事実のすべてを打ち明けていた。
勇者が実は銀鱗をかかえていることも、どうやって生き永らえたのかということも、どのようにしてふたたび出会い、魔物から外に飛び出したのかということも、すべて。
姉姫たちはそれを知ったうえで彼を受け入れ、しかも女王には伝えずにいてくれている。彼女たちがどれほど妹を大事に思い、また妹がどれほど彼女たちを信頼しているか、ラキスには十分理解できていた。
ただどれだけそれを理解していても、王族が半魔を受け入れるというのは、やはり彼の理解の範囲を超えていた。
アデライーダ女王の王配であるエルランス殿下が逝去したのは、いまから十四年ほど前の話だ。獰猛なバシリスクに襲われて、不幸にも落命したのである。
まだ三十も半ばの若さ。仁徳厚く、民の心の支えであり模範であった殿下の、突然の訃報──レントリアは悲嘆に沈み、いまでもその命日は、婚儀や祭りを避ける日として人々の心に刻まれている。
ラキス自身は当時幼かったので、それがどれほどの衝撃であったのか直接的には覚えていない。ただひとつだけたしかなのは、その日を境に、女王陛下が魔物討伐の決意をいちだんと固めたということだ。
女王としても、愛する夫を魔物に奪いとられた妻としても、それは当然の決意だっただろう。
そして父を亡くした娘たちにとっても、その決意は共有されているはずだ。
「お父様のことは……もちろん忘れたことなどないわ」
リデルライナ姫が、静かにうなずいた。長椅子前の敷物に、直接腰をおろしたセレナも、やはりうなずいてみせる。
「でもそれは、あなたの価値とはなんの関係もないことでしょう。引け目を感じる必要なんて、まったくないのよ」
「しかし……」
「……わたくし、あなたには恩があるの」
長いまつげを伏せて、リデル姫が憂いを含んだ声で言った。
「あのときあなたが来てくれなければ、わたくしたちみんな、懐剣でのどを突いていた。わたくしがそうするように仕向けたから。自分の命だけでなく、皆の命までやすやすと奪いとろうとしたんだわ」
姫君は深いため息をついた。
「それが最善の方法に思えたけれど……いま思えば酔っていたのね。窓を開けるという、ほんのささいな抵抗すら、試みようともしなかったんですもの。だからラキス、あなたには一生忘れることのできない恩がある。あのとき引き止めて窓に走ってくれたエセルにも、そして──もちろんセレナ、あなたにも」
彼女は妹姫のほうを見おろした。
「こんなわたくしの指示に、よく従ってくれたわね。文句をとなえることもなく」
妹姫は、思いもかけない姉の言葉に、青い瞳をみはりながら呟いた。
「まあ、お姉様……文句なんてそんな……」
「ラキス。あなたとエセルのことで、わたくしが力になりたいと思っている気持ちを、これでわかってもらえたわね?」
急にリデルが目を上げたので、ラキスは姫君との距離の近さにたじろいだ。
彼女は顔立ちといい雰囲気といい、母であるアデライーダ女王にうりふたつだった。懺悔の時間をおえる切り替えの早さもまた、女王ゆずりなのかもしれない。
「それで、ここからは姉として言いたいのだけれど──あなたたちは勇気を出して、ふたりでお母様にお会いするべきだと思うわ。たしかにすぐに許してはいただけないでしょう。でも、まずは打ち明けてみなければ。どう考えてもそれしか道はないんですもの」
姉とともに、セレナもまた切り替わった。
「そのとおりよ、ラキス。わたくしたち、あなたがよければ同席して、いっしょにお願いしてもいいと考えているの。その点は姉妹で確認できているのよ。あとはあなたさえ覚悟を決めてもらえれば。もちろん並大抵の覚悟ではないでしょうけれど、あなたならきっと」
「……覚悟とか勇気とかいう問題ではありません」
ラキスは、やんわりした口調ながらも否定した。
「それ以前に、わたしがエセル様にふさわしいかどうかの問題です」
「ほら、また」
と、あきれたようにセレナが言った。
「悠長に謙遜している時間はないのよ。エセルからマリスタークのことは聞いたでしょう? 実はわたくし、さっき散策していたときに一人ではなかったの」
それからセレナは、自分がマリスターク領主の嫡子、つまり縁談の相手を同伴していたことを、悠長な勇者様に話してきかせた。
まさか当のエセルが、木立で別の男性といる場面に遭遇するとは思わなかったので、たいへんあせった。その後の彼女の行動には、さらにあせった。しかし嫡子は、それにひるんだ様子もなく、エセルを追いかけていってしまった。それで同伴相手をなくした自分は、髪をべたべたにした被害者を助けてあげることにした……。
「つまりね、いまごろエセルは、コンラート卿といっしょにいるのよ。案外気が合ってしまうかもしれないわ」
「よかったですね」
と、ラキスが言った。
「そのたらいの水をかぶるのはどうかしら?」
リデル姫が言った。
ラキスが立ち上がって、たらいのほうに手をのばした。リデルは動じなかったが、セレナは思わず、ここで水浴びをするのかと身構えた。
だが勇者様は、たらいを持ち上げるとごく自然にほほえんだ。
「片づけてきます。おかげさまで髪も乾きました。どうもありがとうございました」
話は終わりだということを示すために、軽く礼をしてから扉に向かう。
引き止めようと口をひらきかけた姫たちは、かける言葉がみつからずに黙り込んだ。
彼の背中に、かつてエセル姫が剣士の背中に見たものと、同じ気配をみつけたからだ。
心にもない演技をしてまで、身を引いて出て行こうとした、はぐれ剣士。闘いの末こうして王城に帰ってきても、あのとき生まれた彼の決意はいまも失われていない。
彼の中では、いまだに何も終わっていないのだ。
唯一の言葉をみつけたリデルライナが問いかけた。
「……わたくしたちに、何かできることはあって?」
ラキスはふたりの姫君に目を向け、わずかに微笑すると首を横に振った。
それから、もう一度ていねいに一礼して、部屋を出て行った。




