10(リデルライナの私室)
「妹のしつけがなっていなくて……」
そう語りかけるセレスティーナ姫の声はふるえていた。笑いをかみ殺しているのだ。
「こんなにべたべたしたものを、人の頭にふりかけるなんてね。どう? 少しはましになってきたかしら?」
「はい。あの……もうけっこうです、セレナ様。自分で……」
「遠慮しなくてもいいわ」
ラキスは、第二王女であるセレスティーナ姫みずからの手で、濡れた髪をふいてもらうという栄誉に浴していた。
彼が浅く腰かけている長椅子のそばには、花模様の彩色でふちどられた小さなテーブルがあり、水を張ったたらいがのっている。亜麻布を握るセレナ姫の白い手が、先ほどから彼の頭とたらいの間を往復していた。
ふたりを見守っているのは、第一王女であるリデルライナ姫だ。彼女は、テーブルをはさんだ向こうにある背もたれの高い椅子にすわっていた。
ここはリデル姫の私室であり、ラキスはセレナ姫につれられて、木立からここまでやってきたのだった。
「着替えも持ってこさせましょうか」
リデル姫が提案した。
「とんでもありません」
ラキスは即答すると、ふかれている最中の前髪の下から、国中でもっとも高貴な位置にいる姉妹の姿をそっと見やった。
つねにないほど近い場所にいるセレスティーナは、雪の肌に青空のような瞳の姫君だった。念入りにととのえられた金の巻き毛が、肩先から胸にふんわりとおちている。
ドレスのかたちはエセルのものと同様に清楚だったが、胸当ての部分は淡紅色で、縫い取られているのはバラの花びらだ。彼女は、レントリアよりひとまわり国土の大きい隣国であるメイデンシャイムの第一王子と、すでに婚約を交わしていた。
いっぽう、姉のリデルライナも、やはり雪原を思わせる肌と青い瞳の持ち主だった。その瞳は、光を抱きこむ清流のような明るく澄んだ水色で、まっすぐな長い髪は砂金のように、優美な背中を流れている。
品のいい茶系の胸当ての上で格子模様を織りなしているのは、金茶色の細いリボン。彼女はカザルスのアルヴァン卿との婚儀を待つ身であり、そして──いずれはアデライーダ陛下のあとをとって即位する、レントリアの次期女王だった。
レントリア王室は国民からたいへん慕われ、三姉妹は親しみをこめてリデル様、セレナ様、エセル様と呼ばれていた。
ところがエセル様は、自分が姉たちと並び称されることが、どうしても納得できずにいるらしい。決まり文句はいつも「お姉様がたにくらべれば、わたしなんて」だったのだから。
ゆるやかに波打つ金髪は、本人によれば「中途半端に癖があって、色も少しかげっている」、瞳は「ありふれた茶色でつまらない」。
肌の色も姉たちのように透きとおっていない──これは乗馬の時間を縮めればすぐに改善するだろうし、客観的に見てのエセルシータ姫は、白と金で構成された十分に美しい姫君である。
それなのに妙なコンプレックスを抱き続けているのは、ひとえに、くらべる人物が悪いとしかいいようがなかった。
次期女王である上の姉と、次期隣国王妃である二番目の姉、そして現女王である母。この三人に対抗できるような女性が国中にいるはずもなく、唯一、可能性があるとすれば、それはほかでもないエセルシータ自身なのだ。
ただ、そのコンプレックスが、実はエセルの魅力をさらにきわだたせているともいえるのだった。陽気な末姫があわせもっている、どこかふしぎな陰影は、どうやら本人には不本意な場所からにじみ出たものであるらしい。
「でも、あなたも悪くてよ、ラキス。あんなことを言われたら、エセルがおこるのも無理ないわ」
セレスティーナが、姫君にしてはおおざっぱな動作でごしごしと髪をこすりながら言った。
「わたくし、立ち聞きするつもりはまったくなかったのだけど、聞こえてしまったからには質問しなくてはね。どうしてあんなことを言ったの?」
エセルもラキスもまったく気づかなかったのだが、セレナ姫はあのとき、ごく近い場所まで散策にきていたのだった。ふたりが教練場にいると思い込んでいたため、ニレの木立で出会うとは予想しなかったのだという。
「どうしてって……わたしは当然のことを申し上げたまでです。姫君のご縁談を、はぐれ剣士風情がお止めできるわけないでしょう」
セレナは、布を持った手をおろすと、しげしげと彼の顔をのぞきこんだ。
「いつも思うのだけど……あなたって、ちゃんとていねいなもの言いができるのに、エセルに対してだけは完全に庶民的な言葉づかいのままなのね」
「……やはり、ご不快ですよね」
返答に困りながらラキスは言った。
最初に塔に入ったとき、彼は短時間でかたをつけて出て行くつもりでいたし、当然、契約をしているわけでもなかった。何よりも当時、王族というものにまったく興味がなかった。
国外に出たらレントリアとは縁を切る予定だったので、礼をとることさえうっとうしくて、ついぞんざいな口をきいたのである。
「実は何度か言葉をあらためようとはしたのですが」
「エセルがそれに反対したのかしら。あの子が言いそうなことは想像がつくわ」
「想像?」
「ええ、こんなふうに。──敬語なんかつかったら、もうあなたとは一生おしゃべりなんかしないんだから」
まさにそっくり同じ口調、同じ台詞を、ラキスは末姫の口からじかに聞かされた。
お姫様は、ご立腹だった。はぐれ剣士にふさわしく敬語をつかいたいという、ごくまっとうな彼の申し出は、姫の心をひどく傷つけたらしい。
彼は思いつきもしていなかったが、姫君は呼び捨てにされることを「特別扱い」として大事にしていたらしいのである。
使いおえた布をたらいの中に戻しながら、セレスティーナはころころと笑った。
「まったくあの子ときたら十八にもなって……わたくしたちも子どもの頃、そうやってよくあの子におどされたものよ。でもね、わたくしもあなたの話しかた、ふしぎと嫌ではないの。というより、本当はいまでもラキス様とお呼びしたいくらいだわ。ご本人の希望をくんでとりやめてはいるけれど、あなたがわたくしたちを救ってくださった勇者様であることに、なんの変わりもないんですもの」
「いえ、その件はもう……」
「これもいつも思うのだけど、あなたって少し謙遜の度が過ぎているわね。もっと自信をもっていいのよ。ちゃんと鏡を見たことがあって? わたくし、殿方の評価にはちょっとうるさいけれど、あなたは十分合格点に達していると思うわ」
「は?」
「窓から入ってきたときの姿を、自分でも見ることができればよかったのにね。後光がさして、本当にくらくらするほどすてきだったのに」
「それは逆光だから……」
「ほら、度が過ぎる。勇者様に呼び捨てにされる気分って、どんなものなのかしら。わたくしも、実は少しあこがれていたりするの。そうだわ、いまやってみてくださる?」
「はい?」
「いいじゃないの。エセルもいないし、侍女たちもさがっているし」
「いえ、あの」
「わたくしは婚約中の身だけれど、楽しい機会は逃すものではないと思っているの。エセルにはないしょにしておくから、その点は安心してちょうだいね。もしあの子がここにいたら、自分の貴重な特権をうばう気なのかと怒り出すにきまっているけれど、幸いいまはいないんだもの、気にすることはないわ。さあどうぞ、遠慮なく思い切り」
「少しは黙れよ、セレナ」
「…………」
セレスティーナ姫は、何やら感動にうちふるえながら黙りこんだ。それから、ドレスの胸元と同じようなバラ色に染まった顔で、口をひらいた。
「も、もう一度……」
「いいかげんになさい、セレナ、はしたない」
リデルライナ姫が、ちがう意味でうちふるえながら言うと、ラキスのほうに向き直った。
「妹のしつけがなっていなくて……」