アルトサクソフォニストと精
神原香織は緊張していた。
--次は、わたしの出番。
前の演奏者は高音域の音程精度が悪く、そのイメージを引き継がないよう頭を振る。
悪い音、あっちいけ。神原はじぶんの音だけを心のなかで懸命に手繰り寄せ続けた。
『国際サクソフォン・ソロコンテスト、ジュニアの部、エントリーナンバー22番、神原香織さんで、リュエフ作〈シャンソンとパスピエーーサクソフォンとピアノのための〉です』
神原は『人』という文字を三回、手のひらに書き込んで飲んだ。実際はなにも飲み込んでいないはずなのに、なにかが喉に当たったような気がしたが、気にしていられる場合ではなかった。
ピアノ演奏者である大月台地と一瞬だけ目を合わせ、ステージ中央に向かって歩き出す。
シーリングライトとサイドスポットライトによって前明かりのステージとなっていた。眩しい分だけ、観客の顔が見えなくていい。
大月はピアノへ、神原はピアノ前へと別れる。
静止し、会場から物音が消え去り、ふたりは、宇宙が始まる前のまだ音さえ生まれていなかった瞬間を感じた。
〈シャンソンとパスピエ〉は、神原がアルトサックスを始めたころに教えてもらった楽曲だった。
神原が愛したのは、第二音目。会場全体をやさしく包み込んでゆく音の拡がりを感じることができる。右手のレからファにかけてのどこまでも伸びてゆきそうな音の心地がたまらない。アルトサックスの音色に宿るやさしい生命を届けるのにふさわしい箇所だと思っていた。
リュエフの楽曲には難しいものが多く、世界的なサックスコンテストの課題曲にもなる。神原は音大に通う親戚から楽譜をもらい〈ソナタ〉を練習したことがあった。しかし第二章で低音の当たらないところがあったり、第三章の最後に待ち受ける難所でことごとくミスをしたり、あまりいい思い出はない。
それに比べて〈シャンソンとパスピエ〉は初心者向けの易しい楽譜でありながら、演奏者の腕次第で、アルトサックスの魅力を伝えながら奏くことができる。旋律的で、美しくて、アルトサックスというものを聞いてもらうための楽曲だと理解していた。
神原は、今日、じぶんがだれよりもアルトサックスを愛しているんだということを見せるため、あえてこの楽曲を選んだ。
伴奏者に昔からの親友である大月を選んだのも、この楽曲に必要なのはピアノ伴奏ではなく、ともに音楽を深めることのできる相手だからだった。
演奏が始まり、第二音目が鳴る。
穏やかで、しっとりとしているテーマが、優雅なビブラートとともに奥へ奥へと鳴り響く。
神原は、会場がスゥーっと惹き込まれてゆくのを感じた。
杉並ポセイドンホールは比較的できたばかりのホールだが、ステージの床材にはアコースティック•レゾナンス•エンハンスメント技術が使用されており、使い込んだ木のやわらかい響きが出るようになっている。
使用されている木材は、北米のスプルース材と北欧の樺材で、それぞれ角度をつけて堆積するように組まれている。このホールにしかない響きを感じることができる。神原はそれが非常に嬉しかった。
『床材も楽器だ』
神原を指導する先生がいつも口にすることばだった。このホールで初めて演奏してから、神原もそのことばの意味が理解できるようになった。
楽譜が穏やかなシャンソンからポップなパスピエに移ろうとしたとき、神原は喉に違和感を覚えた。演奏自体に支障はなかったが、サックスの音色が曇り、ベルの部分からブルーグレーの煙が生じる。
経験したことのないアクシデントに驚きながらも、プレイし続けていると、煙は次第に輪郭を手に入れ、大きな姿として神原の前方上に現れた。
演奏が止み、シャンソンの穏やかさは、掃除機に吸い込まれた塵のように、またたく間に回収されてしまった。
「すまない、天才サクソフォニスト。演奏が終わってから出ようと思っていたのだが、あまりに素晴らしい実演だった。とどまっていることができなかった」
煙の巨人は、じぶんがサクソフォンの精だと自己紹介した。
「……サックスの精?」
「サックスの歴史を起源から司る精だ」
「精が、なんで私の……?」
「君が急に飲み込むから。この話は長い、とにかく吹き続けなければ」
奏かなければ、吹かなければ……でも、もう遅い。
演奏を止めてしまったら大減点を免れることはできない。だいいち、神原の自負がそれを許さなかった。
「あ、あなたが精なら、ほら、願い事的なやつ、あるんでしょう」
ピアノの大月が、割り込むようにして希望した。
精が出てきたら、出した主人の願いを叶えてやる、それが世の道理というものだと信じられていた。神原もハッと振り返って煙の巨人を見上げた。
もし願い事がひとつだけだったパターンと、みっつイケるパターンを瞬時に場合分けし、なにを言うかすぐに決め出した。
世界一のサクソフォニストになることと、サックスに困らないだけの財産と、きっと魅力的なライバル。それさえあれば、神原はだれよりも幸せだった。
もしひとつの場合は……? 神原はほんのわずかな、瞬間という瞬間に、あらゆる選択肢を裁きにかけた。
当然あるはずの、絶対の権利を、叶えてやろうという気持ちで溢れかえっていた。シャンソンもパスピエも、レからファの動きも、長く優雅に伸びる第ニ音目も、あたまのなかから抜け落ちていた。
神原は全身全霊をかけて願い事を言う、それだけの心構えをした。
「願い事的なやつ? なんだそれは?」
巨人は怪訝な表情を露骨に見せ、完全に話が通じていないと言わんばかりに固まった。
願い事的なやつはなく、神原•大月ペアは失格となった。
その後、巨人はどこかへ消えてゆき、なにも残らない後味の悪いソロコンテストとして、神原の黒歴史に刻み込まれた。